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千寿丸  作者: spring
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7. 天上

千寿丸は清涼殿の簀子の下で息を潜めていた。


天皇の居住する場所の床下に自分がこのようにうずくまっているなど、改めて考えると、まるで夢を見ているようだった。

清涼殿と思うと、目の前の砂さえも尊く思えてくるから不思議なものだ。日差しの下では夏が戻ったような暑さだが、手をついている土はひんやりと湿っている。


今頃、滝雄達も内裏内のどこかに隠れているはずであった。相撲節会は一年に一度、紫宸殿の南庭で天皇の御前で行われる催事である。


相撲節会の準備のために人の出入りが多く、どこも浮き立ったせわしない雰囲気で、滝雄に言わせれば「内裏に入ることなんて朝飯前」であった。

千寿丸も小舎人のふりをして難なく門を通ることができたが、平然とした顔とは裏腹に、口から心臓が出てくるかと思った。

初めて見る宮中の大きさにも度肝を抜かれた。


自分で策を練っておきながら、今頃になって、何という大それたことを考えたのだろうと言う思いが頭をかすめる。


――― でも、今更怖気づいてなどいられない


少しでも気を抜けば恐れに気持ちを乗っ取られる。


千寿丸は懐に忍ばせた笛に手を当てた。小百合の笛だ。

これが力を与えてくれるような気がして、不思議と心を落ち着けることができた。


――― すべて上手くやるのだ。この笛を再び返すためにも


笛はあかねが小百合から借りてきたから、どういうわけで小百合が笛を渡してきたのか、千寿丸は詳しくは知らない。


だが、これで作戦の合図が出しやすくなったことは確かだ。


小百合も策のことは承知と聞いた。それだけで千寿丸は嬉しかった。


自分に、小百合が大事な笛を託してくれたのだ。小百合の思いに何としても答えなければならないと思った。


その時、人々のどよめきが聞こえた。


――― 安平だ


策の通り、安平が面白い試合を見せているのだ。

その試合に人々の目が釘付けになっている間に、南庭の端の相撲人の支度をする小屋に、滝雄たちは移ったはずである。


そして、今度は大きな歓声が響き渡った。安平が怪力で相手を投げ飛ばし、華麗に勝利を見せつけたに違いない。


その声が契機となった。次の瞬間、わあっと叫び声が響き渡り、怒声や悲鳴が続いた。滝雄達が相撲部屋から飛び出して南庭を闇雲に走り回っているのだ。


騒ぎを聞きつけ、清涼殿の近くにいた近衛らが、バタバタと南庭に向かって行った。


――― よし、策の通りだ


千寿丸は周りに人がいなくなったことを確かめてから、床下から急いで這い出た。滝雄達のためにも、少しでも早くことを運ばなくてはならない。


清涼殿の東庭には歯の細い呉竹と葉の幅の広い河竹がある。目的の河竹は幸い、簀子の脇、御溝水の近くにある。千寿丸は立ちあがると素早く河竹の太いひと枝を手繰り寄せ、懐刀で切り落とした。続けて、懐に入るように一番太い部分だけを切り取り、あとは床下に投げ捨てた。


千寿丸は懐刀と竹を懐に収めるのと入れ替わり、笛を取り出した。そして思い切りその口に息を吹き込んだ。


甲高く、美しい音色が響き渡った。それが合図だった。滝雄達は次々門から内裏の外に向かって走っているだろう。


千寿丸はわざと、その場から紫宸殿の方へと歩き始めた。

案の定、たちまち数人の近衛が笛の音を聞きつけてこちらに駆けて来た。彼らは千寿丸を小舎人童としか思っていない。


「今の音は何だ」


「怪しげな音が、あちらの方から致しました」


千寿丸のような少年がまさかその主とは思いもしないのだろう。足を止めることもなく、近衛らが口早に尋ねた。


「姿はみたか」


「いいえ。音だけでございます」 


千寿丸が指すまま、近衛たちは走り去った。


自分も早く立ち去らなければならないが、どうしても様子を見たくて、千寿丸は紫宸殿の南庭の見えるところまで急いで走って行った。


そして見事なまでの大騒動が目に飛び込んできた。


怪しい者を天皇に近付けまいとする近衛らによって、十数人の男達は南庭の中をひたすら追いかけ回されていた。支度部屋にいた相撲人や雑色も外に出てきて、面白がって大声を上げる者あり、一緒になって駆けまわる者あり、と、南庭は大混乱になっている。


走り回る中で、幾人かは烏帽子を落としてしまっている。人前に頭を晒すことなど、通常あってはならないことだ。禁中を下着で歩いているようなものである。


廷臣の居並ぶ紫宸殿の方に目を向けると、天皇の御前で繰り広げられている醜態に、真っ青な顔の人もいれば、笑いを堪えている人もおり、怒りで真っ赤な顔の人がいれば、表情一つ変えていない人もいる。


それを見て、千寿丸は思った。


――― なんだ、普通の人間じゃないか


三郎丸の話と随分違う。今、目の前で見ている人々はただの生身の人間である。意外な出来事に、それぞれの反応を示しているただの人だ。


それまでどこかふわふわと雲の上を歩くような気がしていたが、急に地に足がついた心地がした。


ここは天上などではない。自分と同じ人間が動かし、人間が働く場所だ。


そうこうしているうちに、滝雄たちは次々南庭から姿を消していく。自分もそうせねばならないことを思い出し、千寿丸は踵を返した。


地面を踏みしめ、歩きだした。


心が晴れやかだった。


――― やったぞ


胸元の笛に、心の中で語りかけた。


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