6. 願い
小百合は善日寺のお堂で、一心に手を合わせていた。
――― どうか、どうか無事でありますように
悔いる気持ちの辛さは分かっていたはずなのに。また自分は悔いることをしてしまった。今となっては祈ることしかできない。
昨日の夜のことだ。
文机に向かい、小百合は筆を持ったままぼんやりとしていた。千寿丸と屋敷で会った一件から父は自由に寺に行かせてくれなくなった。元服前の少年とはいえ、勝手に呼びつけたことが気に食わなかったようである。
一歩も部屋からでることもなく、息がつまりそうだった。
静かに写経をしたいと言って小百合は女房をすべて下がらせていたが、無論写経などするつもりもなく、一人物思いにふけっていた。放っておいても頭に浮かぶのはやはり千寿丸のこと、そしてあの妙な娘のことだった。
その時、
「姫さま、姫さま」
突然、その妙な娘の声が聞こえてきたものだから、息が一瞬止まった。
空耳かと思った。しかし、
「姫さま」
となおもその声は自分を呼んでいる。外から聞こえてくるようだった。恐る恐る、小百合は妻戸をそっと押し開け、厳しい口調で誰何した。
「そこにいるのは誰」
「姫さま、あたしです。あかねです」
庭先で、黒い影がぬっと動いた。
微かな釣り灯籠の明かりの下で見えたのは、あの娘の姿であった。小百合は驚いて簀子の端に出た。
「まあ、お前、こんなところで一体何をしているの」
「あたし、どうしても姫さまに会いたくて・・・」
小百合は周りを見渡し、囁いた。
「どうやって入ったの」
「忍び込みました」
あまりに率直な返事に小百合は怒ることもできなかった。
「ごめんなさい。でもどうしても言わなくちゃいけないことがあるんです」
小百合は迷った。だが、頑固なこの少女をすんなりと追い返すことなどできないだろう。大事になって困るのはこちらの方だ。
話を聞いてやろうという気持ちではなく、単に面倒な事態にしたくないという思いから、小百合はあかねに言った。
「ここでは目立つわ。部屋にお入りなさい」
あかねはほっとした様子で頷くと、素早く簀子によじ登り、小百合の脇をすり抜けて妻戸の中へと入った。あまりのすばしっこさに、人間の子というよりは小さな動物のようだと思った。この様子なら屋敷に忍び込むのも難しくはなかっただろう。
どうしてこの子にこれほど関わらなくてはならないのだろうと思いながら、小百合は几帳の陰に座った。
「ここに座って」
指示されるままに、あかねはちょこんと小百合の正面に座った。
煌びやかな調度が珍しいのだろう。女の子らしく、螺鈿細工の施された二階棚や鏡箱、小百合の絹の衣に目が釘付けになっている。
「人がきたら困るわ。早く用件を」
鋭い口調で促すと、あかねは慌てて短すぎるように見える着物の裾を引っ張って居住まいを直し、そして深々と頭を下げた。
「あの、姫さま。姫さまの大切な、大切なものを取ってしまって、本当に、本当にごめんなさい。本当にごめんなさい」
小百合は呆れた口調で言った。
「もう笛を返したんだから、お前の願いは達せられたのでしょう?それとも許してあげる、という一言がほしいと言いに来たの?」
あかねは顔を上げると、激しく首を振った。
「違うんです、あたし、本当に、本当の気持ちで、謝りたいんです」
小百合にはあかねの考えていることがさっぱりわからなかった。何かまたややこしいことを引き起こそうとしているとしか思えなかった。
「お前は一体何が目的なの」
「あの、辛いお気持ちにさせたことを、本当にごめんなさい、って言いたいんです。心から、そう思っていることをどうしてもお伝えしたいんです」
あかねは懸命に言葉を重ねているようであったが、小百合には苛々した気持ちが募るばかりだ。小百合は吐き捨てるように言ってしまうのを止められなかった。
「もうやめて。どんなに謝ったところで、過去か変わるわけではないんだから。言いたいことはそれだけ?」
「い、いいえ」
「何か他に用があるというの?」
「・・・はい」
「何」
「あの・・・あの・・・」
そして言葉を詰まらせながら、あかねは思いがけないことを言った。
「あの、あの、笛をお貸し頂けませんか」
その一言に小百合はまた声を荒げてしまう。
「一体、何を言っているの!返したと思ったら、今度はまた貸せだなんて!」
「ごめんなさい、ごめんなさい」
あかねは小百合の剣幕に泣きそうになりながら、弁解した。
「理由があるの、今からお話します」
その後に続いたあかねの話は、小百合をさらに仰天させた。笛の袋の留め具の竹を取るために、千寿丸らが内裏に忍び込み、相撲節会でひと騒動起こすというのである。
「その話、本当なの?」
俄かには信じ難い。しかしあかねは深く頷いた。
「はい。本当です。千寿丸が策を練ってくれたんです」
そして目を瞬かせた。
「壊したあたしが悪いのに、どうしても可能な限り元に戻したいって言って・・・」
そして小百合の目を真っ直ぐ見た。
「策の時の合図に、声を上げると千寿丸は言っているんです。でも、それは危険だって、仲間は言っていて・・・何かよく通る音が出るものがないか、って思って、笛を思いついたんですけど、笛をすぐに用意できることなんてできなくて・・・でも、私、姫さまの笛を思い出したんです。それでいても立ってもいられなくって、ここに・・・」
そこであかねは慌てて言った。
「あの、謝りたいのは本当です。ずっとお姫さまにちゃんと言いたいと思って、お寺で待っていたけれど、あれからずっとお姫様の車は見かけなかったから、言えなかったんです」
「千寿丸は、知っているの?お前がここに笛をもらいに来ること」
「いいえ、知りません。姫さんに余計な心配をかけるからって、反対するに違いないから・・・」
さあ、どうだろうか、と小百合は冷ややかな気持ちであかねを見た。
落ち着いて改めて考えてみれば、笛の袋のためにそんな危険を冒すなど、馬鹿げている。
どうせ千寿丸の入れ知恵であろう。
嘘の話を作り上げて、私が『危ないことはやめて、もう許すから』なんて言うのを待っているに違いない。
――― そんな思い通りに行動するもんですか
小百合はすっと立ち上がると、棚に置かれた箱を取り、文机の上で開けた。そしてその中から笛の入った袋を取り出し、不安げな表情で見守るあかねに差し出した。
「持って行きなさい。でも明日の夕方までには必ず返してちょうだい」
あかねの顔が、パッと明るくなり、目がきらきらと輝いた。
「姫さま、ありがとうございます!ありがとうございます!」
丁寧に笛を押し戴くと、あかねは赤子でも抱くようにそっと笛を胸に抱えた。
「必ずお返しします。どうかお待ちください」
そう言うと、再び素早い動作で部屋から消えて行った。
残された小百合は、半ば呆然とその姿を見送った。
笛を受け取ったあかねの顔に、偽りの色などどこにもみえなかった。
小百合は何度も自問自答した。
――― まさか、本当なのかしら。ありえないわ
そのうち、笛を持って謝りにくるに違いない。そう思おうとした。思い込もうとした。だが、時間が経てば経つほど、千寿丸ならばやりかねないという思いが生じ始めていた。
正義感が強くて向う見ずなのは、わかっている。子供のころからそうだったし、再び会った千寿丸は更にその正確が強く現れていたではないか。
一睡もできないまま、朝を迎えた。
何も手につかず、様子がおかしいと心配した女房の日野に言った。
「すぐに使いをやってほしいの」
千寿丸を呼び出してくるようにという小百合の言葉を、日野は何度も拒んだ。
「大殿さまに知れたら、大変なことになります」
「どうしても、確認したいことがあるの。お願いよ」
小百合の強い主張にとうとう折れて、日野は使いを民部大輔の屋敷にやった。
今か今かと使いの帰りを待つ時間は、本当に長く感じた。
しかし使いの持ち帰った返事は小百合をますます焦らせた。
「千寿丸の君は、朝からお出かけでされたようで、お屋敷の方もどこにいらっしゃるかお分かりにならないようでした」
――― まさか、本当なの、千寿丸!
屋敷で静かに待つことなどできなかった。
今度は日野に、善日寺に行きたいと言った。
「でも、お殿様が」
渋る日野に、小百合は厳として言った。
「お寺に詣でるだけよ。何も悪いことはしないのに、なぜ父上に従わなければならないの」
常でない小百合の強い言葉に日野も圧倒され、車を用意してくれた。日野の気の優しさに付け込んだようで悪かったが、どうしても譲れなかった。
牛車に揺られながら、ずっと考えていた。
なぜあかねはあんなにもう亡くなった父のために必死になるのだろう。なぜ千寿丸はあんなに貧しい娘のために必死になるのだろう。なぜ安平という相撲人は、自分には関係ないことのために頑張ろうとするのだろう。なぜあかねの仲間という人達は、何の利益もないことに手を貸そうとするのだろう。あの人たちは、なぜ人のためにあそこまで必死になれるのだろう。
寺に着くと、地蔵菩薩に必死に祈った。
どんなに母が祈っても、救ってなどくれなかったのだから。そういう思いが拭えず、この寺に来てこのように心から祈ることは今までなかった。誰かのために祈ることなど、久しく忘れていた。
手を合わせ、祈りながら、自分がしたこと、言ったことが次々と思い出された。省みれば苦しくなるだけだが、こうしていると自ずと向き合わざるを得ない。
あの時、千寿丸が苦しい気持ちでいることは、伝わってきたのに。わかるなんて容易く言えないけれど、どうして何か寄りそう一言を言えなかったのだろう。どうして頑なにあかねという少女の話を聞こうとしなかったのだろう。
千寿丸にひどいことを言った。
羨ましかったのだ。
自分が無くしたものを、千寿丸は持っていた。そしてその有難さに気付いていないのも腹立たしかった。大切なものを千寿丸はちゃんと持っているのに、目を背け、捨てようとしている。
でも、間違っていた。自分だって気付いていなかった。
自分の心を閉ざして一人で生きていこうという気持ちを持つことが強く生きることだなんて、大きな勘違いだった。
強い人になりたい。人に温かい気持ちを分けられる強い人になりたい。
―――どうか、どうか、千寿丸とあかね、安平が無事でありますように。
一心に祈った。
地蔵菩薩は何も表情を見せてくれない。怒っているわけでもなし、笑っているわけでもない。自分の気持ちを、ただそのまま鏡のように返してくるようだ。
昔、毎日のように寺に詣でた母に、なぜそこまで必死に祈るのかと聞いたことがあった。すると母は言った。
「自分のために祈っているならば、こんなに必死になりま
せんよ」
母は愛おしげに小百合の髪を撫で、そして胸に引きよせて抱きしめた。
「あなたが幸せになるように、幸せに生きてくれますように」
母は辛いことが多いはずなのに、幸せに微笑んだ。
地蔵菩薩の顔に、母の顔が重なった。
―――どうか、母上、助けてください
時間も忘れ、小百合はただただ祈り続けた。




