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千寿丸  作者: spring
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5. 変化

門前で今か今かと待ちわびていたのだろう。あかねは千寿丸を見つけると大きく手を振り、跳ねるようにして走ってきた。


「千寿丸!千寿丸!」


息を切らしながら近づいてきたが、すぐに様子が普段と違うことに気がついたようだった。


「何かあったの?千寿丸?」


「いや・・・なんでもない」


実際は最悪の気分だった。だが、話せばもっと最悪の気分になる。


「それより、お前こそどうしたのだ。何かあったのか?」


あかねは興奮したように頭を上下に振った。


「千寿丸、姫様が来たの!あの車に間違いないわ!」


「本当か」


あかねの後をついていくと、確かに寺近くの小路にあの時の網代車があった。従者が手持無沙汰な様子で主人の帰りを待っている。小百合はお堂にいるに違いなかった。参詣を邪魔しないよう、二人は小百合が出てくるまで階の近くで待ち続けた。


半刻が過ぎ、扉から出てくる小百合の姿が見えた。


「あかね、来たぞ」


年寄りの女房が供をしている。小百合は頭から袿を被り、扇を顔で隠し、こちらに気がつく気配はない。


周りに人がいないことを確認してから、階を下りた小百合に向かって声をかけた。


「小百合」


その声に小百合は、はっとして振り返った。扇の端から覗く目を捉え、千寿丸はあかねの背中に手を添えて言った。


「小百合、聞いてくれ。この子があかねなんだ。どうか、笛を受け取ってやってくれ」


その声に促され、あかねは進み出ると、小百合に向かって笛の入った袋を掲げた。


「お姫様、笛をお返しします。ずっとあたしが持っていてごめんなさい。どうか・・・どうか父ちゃんが笛を盗ったことを許してください」


あかねは頭が地面に付くのではないかというほど頭を下げる。

お付き女房はあかねなど存在しないかのように、小百合を促した。


「姫様、さ、さ、早うこちらに・・・」


しかし、小百合は動かない。

女房は人が来ないかどうか気になるのか、気忙しげに辺りを見回している。

あかねは顔を上げ、続けた。


「それから・・・もうひとつ謝らなければならないんです。あたし、うっかりして袋の留め具をなくしてしまったんです。毎日探しにいったけれど、どうしても見つからなくて・・・」


あれから毎日見に行っていたのか。あれだけ探してもなかったのだから、見つかるはずないものを。

千寿丸は驚いたが、あかねならやるような気がした。

その時、何かが落ちる音がした。小百合の方を見ると、扇が手から滑り落ち、土の上に転がっていた。


「・・・返して!」


鋭い声が飛んだかと思うと、顔が露わになったことなど構わず、小百合は奪い取るようにあかねから袋を取り上げた。

それを胸のあたりで握りしめた小百合の手は震えていた。顔は驚くほど青ざめている。その目はこちらを見ているようでいて、焦点が合っていない。

女房が慌てて袿を目深に被せ直し、キッと千寿丸とあかねを睨みつけると、小百合の背中を押し、車宿の方へと連れて行こうとする。


千寿丸は小百合の反応に驚き、このまま見送るわけにもいかないと、背中に向かって言った。


「小百合、許してやってくれ。面倒なことに巻き込まれてのことなのだ。どんな留め具だったか教えてくれたら、私が必ず元の通りにするから」


小百合が足を止めた。


「・・・無理よ。清涼殿のお庭の河竹から作られたものと言うもの」


背を向けたまま掠れた声で呟くと、それ以上一言も発しないまま車宿の方へと、女房に抱きかかえるようにして去っていった。


千寿丸とあかねは微動だにせず、呆然とその後ろ姿を見送るしかなかった。


一体どれぐらいの時間が過ぎたのだろう。


二人、石灯籠の台座に座り込み、黙り込んでいた。いつしかどんよりと雲が垂れこめ、今にも雨が降りそうであった、


千寿丸は深く責任を感じていた。もしかしたら実際あかねと顔を合わせれば、小百合が許してあげようと考えを変えてくれるかもしれないと思ったのだ。手元に戻ればいいのだからとすら、言ってくれるのではないかと思っていた。しかし、結果はなんと無残なことか。


―――たかが留め具と思っていた自分が馬鹿だった。清涼殿のお庭の竹から作られたとならば、由緒あるものに違いない


思いつめた顔で俯いているあかねに、なんと声をかけてよいのかわからなかった。

千寿丸は何度も口を開いては止め、開いては止めを繰り返した後、漸く言葉を出した。


「あかね、悪かった。まさか、こんなかたちで渡すことになるとは思っていなかったのだ」


ところが、あかねが言ったのは思いがけない言葉だった。


「ううん、千寿丸は悪くない。悪いのはあたしよ」


「・・・え?」


千寿丸はあかねの顔を見た。深く何かを考えているようだった。千寿丸はあかねの次の言葉を待った。


「あたし、姫さまのお顔を見て、初めて気づいたの。この笛が姫さまにとってどんなに大切なものか、あたし考えていなかった。父ちゃんのことしか考えていなかった」


あかねは真っ直ぐ前を見据え、重ねた両手を握りしめている。


「姫さまの大切なものを奪うことがすごくいけないことって、初めて気づいたの」


そして下を向いて目を瞑り、首を左右に激しく振った。


「あたし、恥ずかしい。すごく恥ずかしい」


少しの間があった。あかねは声を絞り出すように言った。


「お父ちゃんも、だからあんなに苦しんでいたんだわ。あのお坊様のおっしゃっていたことは、きっとこういうことなんだ・・・」


千寿丸は目を見開き、ただただ驚いて、あかねの横顔を見た。


「姫さまは、大切な人を傷つけられたような顔をしたの。あたし、あのお顔が忘れられない。忘れられないの。あたし、どうして姫さまの気持ちを考えたことがなかったんだろう」


そう言って、あかねは再び俯いた。

初めて会った時も、このように横顔を見た。しかし今のあかねと、あの時のあかねは、まるで違う。


「あかね・・・」


―――小百合の表情から、本当の意味で罪の重さを知ったというのか


千寿丸は思い切り石で頭を殴られたような気持であった。


うまく笛を渡せなかったことだけを考えて失望していたことを思い、千寿丸は己の浅はかさに恥じ入った。

自分よりも幼いはずのこの少女は、何倍も大きなことを感じ取っていたようである。


千寿丸は改めて小百合の顔を思い出した。小百合の気持などよく考えたことがなかった。


大納言家の姫君として、人には羨まれるような話の主人公として生きている小百合。多くの人にかしずかれて華やかに生きているように見えていた。でも本当にそうだろうか。顔に泥をつけて一緒に遊んだ活発な少女が、母と別れ、慣れぬ屋敷に引き取られて大納言家の姫君としての立ち振る舞いを求められて、何もないはずがない。もしかしたら冷たいように思える言葉も、辛い気持の裏返しであったのかもしれない。


そう考えると、そんな中であの笛がどんなに大切なものなのか、わかる気がした。


小百合にとって、母を思い起こさせてくれる、支えとなるものなのだろう。そしてちっぽけな留め具のように見えても、それが無くなったことがどんなに辛いことか。

少し頭を働かせれば、わかることだったかもしれない。しかし自分は見えてなかったのだ。まるで見えていなかったのだ。


自分より年下のあかねが気付いたことに、あかねに言われるまで気付きもしなかった。

心から笛を直してやりたいと思った。なんとしてでも、欠けた部分を埋めてやりたいと思った。


そして自然と思うに至った。


―――父母はどういう気持ちだったのだろう


父母の気持ちを、父母の立場で考えたことなどなかった。親は親であった。どうにも揺るぎない存在であった。自分と同じように一人の人間であり、同じように傷つき、同じように惑うことがあるなんて、考えたこともなかった。

でも、さっき、父は千寿丸の言葉に傷ついたように見えた。だから千寿丸も最悪の気分になったのだ。

父にも一人の人間としての弱さがあるなどと考えたこともなかった。


―――小百合の言っていたことは、当たっているのかもしれないな


認めたくはないが、僧になりたいと思ったのは、両親に自分の辛い気持をぶつけたかったのだ。僧になれば両親も辛い気持になると、どこかではっきりと分かっていたからだ。独りよがりかもしれないが、辛かったのだ。嘘をつくのを嫌った父が、そして一番の理解者であるはずの母が、真実を隠し続けていたというのが堪らなく悲しかったのだ。だから自分が父母の子供ではないかもしれないという、受け止めきれない話を、ただ父母にぶつけるしかなかった。


何を期待していたかは自分でも説明できない。「黙っていて悪かった」という言葉が慰めになったかといえば、そうとも断言できない。


父は捨て子のことなど何も言わず、きっぱりと「そなたは私の子だ」と言った。

その時の父母の顔を今思い返せば、その気持ちがわかる気がした。

欺くつもりでもなく、取り繕うつもりでもなく、捨て子だろうと実の子供だろうと、父母にとって自分は本当の子供なのだ、と言いたかったのだろう。


自分が捨て子かどうか、そしてもし捨て子だとしたら本当の親はどういう人なのか、知りたいという気持ちに気づかないふりはできない。きっと私は事実を探し続けるだろう。その先に何があるかなどわからないし、もしかしたら何もないのかもしれない。父母を知ることが己を知ることになるような気がしているが、小百合の言う通り、分かった気になりたいだけなのかもしれない。しかし、たとえどんなにそれが意味のないことだとしても、魂が己の出自を知りたいと欲しているのは紛れもない事実だ。


父母は父母の気持ちがあり、私には私の気持ちがある。


すれ違ったり相反したりすることはあるかもしれないが、父母も一人の人間で、私も一人の人間で。

そこから始めないと永遠にすれ違ったままだろう。


千寿丸は天を仰ぎ見た。


「あかね、お前は私よりも子供だと思っていたが、お前の方がずっと大人だったよ」


あかねは不満げに首を傾げた。


「え?なに?千寿丸?何のこと?千寿丸は時々ややこしい言い方するから全然わからないわ。分かるように言って」


「言葉通りの意味だ」


「だから何を・・・」


そこに大きな声が割って入った。


「よう!二人とも、今日も元気そうだな」


目の前に、包みを持った安平が立っていた。安平の息は上がっていた。


「あれ、今日はいつもより早いんですね」


すると安平は手に持った包みを差し出した。


「ほら、あかね。握り飯だ」


「いつもありがとう」


あかねが包みを受け取ると、安平はすぐに門の方へと体を向けた。


「相撲節会が明日から始まるのでな。今日はもう帰るよ。しばらく来られないだろうから、多めに握り飯と乾飯を入れた。しっかり食えよ!」


それだけ言うと、安平は大きな体を揺らしながら急いで帰って行った。万事のんびりとした動きの安平には似つかわしくない速さだった。おそらく慌ただしい準備の合間を縫って駆け付けたのだろう。


「いま・・・明日って言った?」


「ああ」


千寿丸はあかねと顔を見合わせた。


「がんばって、って言いそびれた!」


二人は慌てて安平の後を追った。安平の宿舎は大内裏近くにある。途中まで一緒に帰ったことがあるから、千寿丸は安平の通る道がわかっている。安平はじろじろと見られるのを嫌がって、大路ではなく小路を通って帰るのだ。


辻を曲がると、路の向こうの方に安平の大きな後ろ姿が見えた。


「あっ、いたわ!」


「あかね、待て。なにか様子が変だぞ」


千寿丸は駆け寄ろうとするあかねを制し、走るのを止めて慎重に近づいた。


安平は五人の男に囲まれていた。そのうち、三人は手に大きな棒を持っている。

安平と男達は何か言葉を交わしているようであった。そして言い争っているかと思うと、男達が安平に向かって行った。


「大変だ!」


「襲われているんだわ!」


そう言いながらも、千寿丸とあかねは大丈夫だろうと思った。安平があかねを助ける時に大の男を何人も投げ飛ばすのを見ていたし、石灯籠さえ持ち上げる力を持っていることを知っているからである。むしろ近寄る方が邪魔になると思ったぐらいだった。


しかしどうも安平にその時の勢いはなかった。殴ろうとする棒や手を必死によけながら、一向に立ち向かう気配がないのである。そしてその顔は恐怖におののいていた。


「あたし、人を呼んでくる!」


異変を感じ、あかねはそう言って来た路を逆に走って行った。千寿丸は考えるより先に、安平の方へと走って行った。そして小路の端に転がっている枝を拾い、振り回し、叫びながら男達に向かっていった。策などなかった。ただただ助けなければという思いからの行動だった。


急に叫び声を上げながら走ってくる少年に、男達は少なからず驚いたようだった。

動きを止め、怒鳴った。


「お前も痛い目に合わせるぞ!」


負けじと千寿丸は声を張り上げて返した。


「乱暴な真似など、許さぬ!」


叫んだ瞬間、胸がすっとした。

その後のことは、もう夢中で千寿丸はよく憶えていない。男らに殴られたり、殴り返したり、跳びかかったり、蹴飛ばされたり、とにかく体中に痛みを感じながら、相手に向かって行った。千寿丸には長い時間のように思えたが、実際は短い時間だったかもしれない。


遂に道に転がり痛みに呻いた時、一人が慌てた様子で叫んだ。


「おいっ、見ろっ!」


男達は何かに気づいた様子だった。もう一人が叫んだ。


「もういい、行くぞ!」


その一声で、男達は一斉に逃げ出した。


「待ちやがれ!」


バラバラと、後を追いかける足音が続いた。


千寿丸は痛みを堪えながら体を起こし、横で同じく転がっている安平を見た。安平も顔をしかめて唸っている。顔を上げると、そこにあかねと大勢の男を見た。十人はいるだろうか。質素ないでたちで、役人の風情でもない。


あかねは安平と千寿丸の傍に駆け寄ると、双方を見比べて涙を浮かべながら言った。


「二人とも大丈夫?体は動く?」


確かめるように、千寿丸と安平は同時に手や足を回した。痛みはあるものの、奇跡的に大きな怪我はないようだった。

その様子を見て、あかねはほっとした様子で地面に座り込んだ。


「よかったぁ。何かあったらどうしようかと思った」


「あかね、この人たちは?」


「あたしの・・・」


あかねはそこで迷った様子を見せた。すると一人の男があかねの肩に手をそっと置いた。黄味がかった白の筒袖の着物に、茶の括袴を履いた中年の男である。


「まあ、仲間というか、家族のような者です」


そして手早く周りに指示して、安平と千寿丸を立ち上がらせた。


「さあ、怪我の手当てをしなくては。そう遠くはありませんから、私の家に来てください。狭い小屋のような家ですが」


滝雄と名乗ったその男に連れられて、千寿丸と安平は滝雄の家に行った。長く歩かずに済んで助かったが、たしかにお世辞にも広いとは言えない家であった。小さな土間に、板の間が一間あるだけの家屋である。調度も漆塗りのものなど一つもなく、白木の簡素な棚や、箱といったものが乱雑に置いてある。家全体からはどこか土臭く、湿っぽい匂いがする。そしてざっと中を見渡している間にも、方々から騒々しい生活の音が聞こえてきた。小路からさらに細い路地に入ってきたが、周りにはこのように小さな小屋がひしめき合っていた。隣の家々の音が筒抜けなのだ。


千寿丸にとってこのような庶民の家に入るのは初めてのことで、物珍しさで部屋を見回していると、隣から突然大きな物音が聞こえた。かと思えば、反対から怒鳴り声が響いてきた。耳をふさぎたくなるような言葉が漏れ聞こえるが、それらに驚いているのは自分一人のようで、平静を保つのに苦労した。


それらの音などまるで聞こえていないかのように、滝雄は千寿丸と安平を板の間の上に上がるように勧めた。そして千寿丸と安平に続き、断りもなくどんどん家に上がってくる他の男達に、滝雄は怒鳴った。


「おい、なんでお前達まで上がってくるんだ!さっさと仕事に戻れ!」


しかし意に介することなく、男達は次々板の間に座り込む。ただでさえ狭い小屋は、ますます狭くなった。板の間は耐えきれないとでも言うように、身動ぎする度にぎしぎし音を立てる。


「もう今日は終わりだ、終わり」


「日ももうすぐ暮れるさ。久しぶりに集まったんだ、皆で酒でも飲もう」


滝雄は追い返すのは諦めたらしい。ため息にも似て、短く息を吐いてから、大きな声で言った。


「まだかかあは戻らないから、飯や酒はお前らが適当に持って来い。あんまり騒ぎ過ぎるなよ」


男達は軽口を叩きながらそれぞれ外に出ていき、その間に滝雄は千寿丸と安平の手当てをした。青あざやすり傷が無数にあり、触られるたびに千寿丸は「痛っ!」と情けない声を上げた。さすがに安平は慣れているのか、一言も声を発することなく、じっと座っている、と思ったら、突然大きな体をよじり「うう、痛ぇなぁ」とうめき声を上げたのでなんだか可笑しくなった。


滝雄が水を捨てるために出ていくと、あかねは涙をぼろぼろ流しながら何度も頭を下げた。


「あたしのせいで・・・ごめんね。二人をこんな目に合わせちゃってごめんね」


「なんでお前のせいなんだ」


「きっとこの前、あたしを助けたからよ。あの男達が恨みに思ってやってきたんだわ」


「それは違う」


安平がきっぱりと否定した。


「あいつらはおいらの名を確認してきた。おいらが相撲人の安平であったから襲って来たのだ。おいらの腕を狙ってきたから、大方、私が怪我をして相撲節会に出られないようにしようとしたんだろう」


堪らず千寿丸は拳を床に叩きつけた。


「なんて卑怯な奴らだ!」


あまりの痛さに顔をしかめそうになったのは何とかこらえた。


「試合で勝てないからってあんなことをするなんて」


あかねも興奮した様子で立ちあがった。


「そうよ!なんてずるいの!」


しかし安平は首を振った。


「奴らは勘違いをしているんだ」


「勘違い?」


安平は深いため息を吐いた。


「おいらは強くなんかない。怖くてたまらないんだ」


「怖い?何が、ですか?」


「相撲だよ。人とぶつかりあって、人と投げ合うなんて、おいらにはどうも合わない。練習でも負けてばっかりだ。なのに、みんなわざとふざけて負けていると思っている。仮屋を設営するときに、おいらが一人で大きな丸太を運んだから、相撲も相当強いはずだと皆勘違いしたんだよ。でもさっきの様子を見ただろう?私は弱いんだ。弱虫なんだよ」


あかねは首を激しく左右に振った。


「そんなことない!安平さんは弱くなんかないわ。あたしを助けてくれたじゃない」


「君を助けようと思ったからさ。男達に囲まれているあかねの姿を見たら、まるで自分じゃないみたいに勇気が出たんだ。あんなこと、初めてだった」


「でも、誰も敵わないほどの力持ちでしょう?」


安平は悲しそうに首をすくめた。


「そりゃ、おいらは、岩だって牛だって持ち上げられる。でも、力はあっても怖いんだ。人と争うなんて得意じゃない。あかねは妹のような感じがして、強いふりをしていたけど・・・」


あかねは困惑した顔をしているが、千寿丸には分かる気がした。少なくとも、強がりで違う自分を見せようとした気持ちは共感できる。そしてなぜか、今まで超人的でどこか遠い存在に思われた安平がぐっと身近に感じられるようになった。


「そもそも、相撲人になることなんて引き受けなければ良かった。本当は、嫌だったんだ。でも、体が大きくて力があることでいつの間にか推薦されて、断れなくなったんだ。家族も喜んでいたから失望させたくなかったし、話を断るだけの勇気もなかったんだ」


すべてをさらけ出し、弱弱しい言葉を連ねる安平に、さすがに千寿丸も驚いた。


「明日からの試合はどうするんですか」


「できれば出たくないさ。逃げ出そうと何度も思った。でも、逃げ出すのも怖いんだ。だから明日は出るよ。きっとすぐ負けて終わるだろうけど・・・」


「・・・」


二人は何と言葉をかけてよいかわからなくなった。


食べ物や酒を手に持った男達がどやどやと戻ってきた。続いて滝雄も家に入ってきて、宴会が始まった。

皆、口々に千寿丸の奮闘ぶりを褒めそやした。


「いやあ、貴族の御子がこんなに勇気があるとは知らなかった」


「何人もの男相手に奮闘しているところを見たら、こっちまで熱くなってきちまった」


「そうでしょう、そうでしょう!千寿丸は本当にすごいんだから」


あかねはまるで自分が褒められたようにはしゃいでいる。


「あたしのことをいつも助けてくれているの。千寿丸も安平さんも、私の自慢なのよ」


千寿丸はこれほど多くの人の注目を浴びて、賞賛されたことがなく、くすぐったいような気持だった。漸く皆がそれぞれに話を始めた時、ほっとしたほどだった。


安平は急いで宿舎に戻るのを諦めたのか、疲れたと言って横になると、あっという間に寝入り、大いびきをかき始めた。よくこんなうるさいところで寝られるものだと、千寿丸とあかねは顔を見合わせて笑った。

大勢の男達が楽しめるよう、少ない酒を薄めて飲むものだから、水がめはあっという間に空になったようである。あかねはそれに気づくと、すぐに立ちあがった。千寿丸はあかねが水を汲みにいった隙を見て、滝雄に話しかけた。


「あなたはあかねの父親を御存知ですか」


「ええ、まあ、多少は知っていると言っていいでしょうかね」


口に干し魚の切れ端を放り込みながら、滝雄は曖昧に答えた。

盗賊は髭を生やし、ただ荒っぽいものだと思っていたが、滝雄はそのような想像とまるで違っていた。細身の長身で、言葉遣いも慎重だ。頭が切れるからこそ、ここは真っ直ぐいくべきだと千寿丸は判断した。


千寿丸は声を落とし、単刀直入に尋ねた。


「ではあかねの父親はどうして盗人をやめようとしたか知っていますか」


突然の質問に滝雄は杯に伸ばそうとしていた手を止め、戸惑った様子で尋ね返した。


「不思議なことをおっしゃる。どうしてそのようなことを?」


『盗人』という言葉を聞けば身構えるのも当たり前かもしれない。千寿丸は努めて落ち着いた口調で答えた。


「申し訳ありません。無用な詮索するつもりではないのです。ただ、それは私があの子と出会ったきっかけのようなものなのです。あかねは、親父は地獄に落ちるのが怖いから盗人を止めたのだろうと考えているようです。そして盗みを助長した自分のせいで親父が地獄に落ちると思っているのです。私はずっと本当のところはどうなのか、知りたいと思っていました」


すると滝雄は笑い出した。


「あの子は面白いことを言うものです。しかし、まあ、地獄に落ちるのが怖いとは・・・」


 千寿丸は真剣な顔のままで言った。


「私は昔のあなた方の事情に首を突っ込むつもりはありません。その力もありませんから。ですが、どうしても理由が気になるのです。どうしてあかねの父親が盗人をやめようと思ったのか。教えて頂けませんか。あの子の友人として、知りたいのです」


すると滝雄は笑いを収めて、首を傾げた。


「さあ、私も聞いたことがありませんが」


「そうですか」


その答えに千寿丸は落胆したが、滝雄は間の後、言葉を続けた。


「これは私の推測になりますが、私は、頭・・・あの子の父親のことですが、あの子を一人残すことが怖くなったんではないかと思います」


「どうしてそう思うのですか?」


滝雄は手に持った杯をゆっくりと口に運び、空けた。


「私たちに盗みをやめるように言い、そしてあの子の面倒をみてやってほしいと頼んだからです」


そして滝雄は手に持った空の杯を手持無沙汰に回しながら語り始めた。


「頭が盗人をする前にどういう暮らしをしていたか、詳しくは知りませんが、宮中の警護をしていたようです。ところが、思わぬことで連れ合いが死んでしまって、その辺りからどうも変わってしまった。酒ばかり飲んで、仕事も辞める破目になり、生活も行き詰まり、とうとう盗人に身を落としてしまった。私は近江から都に出て、ある貴族のお屋敷で従者をしていました。新参者には随分厳しいところでね。くさっていたところを、うまいこと頭に誘われちまった。庶民から吸い上げたものを静かに頂くだけだってね。頭は手荒な真似をして奪い取ったことは一度もなかった。強盗なんてのは下手な手合いがやることだって言って、どんな屋敷でも、それは見事に誰にも気づかれずに忍び込んだものです」


ふと滝雄は顔を上げ、周りで賑やかに飲み合う仲間たちを見まわしながら続けた。


「ある時、頭が血を吐いたことがありましてね。それからどんどん体が弱くなって、頭自身も先が長くないことを悟ったようです。私にあかねの後見を頼んだ時、『このまま死んじゃうんじゃあ、おっ母になんて言われるか分からんからな』と言って、笑いました。『会わす顔もないもなにも、地獄と浄土じゃ顔を合わすこともねぇけど、あのおっ母じゃあ、地獄までぶっ飛ばしにきかねないからな』とね。私も頭が極楽に行っていてほしいと思いますよ。頭はずっと、あの子の母親に会いたかったに違いないですから」


後見とは、あかねから聞いた話と違う。思わず非難するように問い質した。


「あの子は、寺の築地塀の脇が住まいだと言っていましたが」


「そのようなことを言っていましたか」


滝雄は笑った。


「夜は私の家で寝泊まりしています。私の家であの子を世話するつもりなのですが・・・生活が厳しいことを察して遠慮しているのか、朝になると出て行ってしまうのです。夕方になっても帰ってこないのを何度も迎えにいきました。夜に野犬にでも襲われたりしたら頭に申し訳が立たないからと頼みこんでね。あなたもおわかりになるでしょう。あのようにまだあどけない歳ですのに、自分の力で生きていきたいという気力に満ちているのです。もう少し、頼ればよいと思いますのに」


だから着物も古いとはいえ、小ざっぱりとしていたのだ。本当に身よりのない子供らは、気の毒にずっと洗われていないような、黒ずんで臭いぼろを着ている。


「私も最近、所帯を持って、子供が生まれましてね。頭の気持ちが少しわかるようになったんですよ。ふと気になるのです。自分が死んだあと、自分の子が幸せに生きていけるかどうかと。頭も最期になって、そんなことを考え始めたんでしょう。もっとも、これは私の想像ですけどね。なんと言いましょうか、結局、人は自分の思いの至る範囲でしか想像はできませんから」


そして感慨深げに言った。


「私たちは最初、今更もう元の道など戻れないし、そんな道など自分に合うものかと思いましたが、覚悟を決めて歯を食いしばっていくと、不思議なものでそれぞれに道は見えていくものです」


あかねが土間に姿を現し、手桶の中の水を水がめに注いだ。そしてまた身を翻して軽くなった手桶を持って戸口を出て行った。何気ないことだが、自分にできることを一所懸命にやろうとする姿が眩しいほどだった。おそらく同じように甲斐甲斐しく父親の面倒を見たことであろう。滝雄も同じことを思っていたようであった。


「あかねは蓮の花のような子だと頭が呟いたことがありました。泥の中でも美しく咲いている花ですから。頭も最期の最後で、大事なものに気づいたのでしょう」


あかねが最期を迎える父親にとってどんなに慰めであり、同時にどんなに気がかりであったかはわかる気がした。


「悔いたと思いますよ。自分の見せてきたものを。世には悪や不条理がたくさんありますし、それがないというのは嘘になりますが、子にはなるべく多くの美しいものを見せ、人の温かさを感じさせた方がいいに違いません。一生の有難さを存分に味わうためには、それらを愛する心こそが必要です。それがあって初めて、厳しい現実にも向き合うことができる胆力ができるでしょう」


そして滝雄は千寿丸の方に顔を向けた。


「あなたのお父上とお母上はきっと、真っ直ぐで心の温かい方なのでしょうね」


真っ直ぐ目を見据えられ、一瞬言葉を失った。

が、迷うことなどない。深く頷いた。


「ええ・・・そうです。自慢の父母です」


滝雄は微笑んだ。


「ぜひこれからもあかねのよき友人でいてくださいませんか。そうして頂ければ安心だ。あなたが友人と言ってくださったことが、これ以上ない褒美です。あの子が手本とできる、あなたのような方こそ必要なのです」


滝雄は深々と頭を下げた。慌てて千寿丸は首を振った。


「私こそあかねの心に多くを教えられたのです。手本などと偉そうなことは言えません」


そして部屋で笑いあう仲間達の顔を見た。


「私こそ安心しました。あかねが一声かけただけでこんなに大勢の人が駆けつけてくれる。あかねは一人ではないのですね」


「頭が言い置いた言葉に縛られてのことではありません。私たちは本当にあの子を大切に思っているのです。気立てのよい子です。あの子があなたのことを兄のように慕っているのはよく分かります。あなたが必要とするときは、同じようにいつでもどこであっても参上致しましょう」


「いつでも、どこでも、とは・・・まさに神出鬼没、人間業ではありませんね」


滝雄は大口を開けて笑った。


「胸を張れることではありませんが、得意なことといえばそれぐらいですから」


盗みのことを言っているのだろう。


「不思議に思われるかもしれませんが、まあ、簡単なことですよ。人が不器用なところを利用するのです。都を揺るがす大きな出来事や事件、噂話も、次の話題がでれば、すっかり関心が移ってしまうでしょう?詰まるところ、人間とは、そういうものなのですよ。善きにせよ、悪しきにせよ」


「どこかに注意を惹きつけておくということですか」


滝雄は答えの代わりに、にやりと笑みを見せた。

その時、頭の中で何かが光ったような気がした。


「必ず助けて頂けるというのは本当ですか」


 滝雄は力強く頷いた。


「元は盗人とはいえ、嘘は申しません。どこであろうと、参上しましょう」


それからの千寿丸の行動は素早かった。

ことの経緯と考え付いた策を滝雄に話すと、滝雄は二つ返事で引き受けた。

間もなく宴会はお開きになり、千寿丸は安平を揺り動かして起こし、あかねを傍に呼んだ。


「あかね、袋を元の形に近付けることができるかもしれない。よい方法を考え付いたんだ」


千寿丸は安平に事情を説明し、策への協力を頼んだ。

黙り込んだ安平の心中を推し量り、千寿丸はかばうように言った。


「なぜそこまでやる必要があるのかと思われるかもしれませんが、あかねのためだけでなく、小百合のためにどうしても可能な限り元のかたちに近付けたいのです。どうか、助けてもらえませんか。あれは、小百合の幸せな母君との生活を思い起こさせるものに違いないのです」


安平は首を振った。


「そこまでやる必要ないなんて思わないさ。おいらにはその姫君と同じぐらいの年頃の妹がいる。同じような境遇だったらと思おうと遣り切れないよ。性格は二番目の姉に似ていそうだな。意地っ張りで気も強いが、本当は傷つきやすくて、そして優しいんだ」


その姉が作ってくれたという守り袋を安平は見せてくれた。それから、次々に姉妹が作ってくれた身に付けた品々を披露する。二つや三つではない。

驚いて千寿丸は尋ねた。


「一体、あなたには何人姉妹がいるんですか」


「姉が四人、妹も四人だ。みんな働き者で気持ちの温かい、いい女子だ」


「男の兄弟は?」


「男はおいら一人だ」


 世話好きの四人の姉がこの大男を可愛がり、人懐っこい四人の妹がこの大男を慕う姿が目に浮かんだ。安平を囲み、皆にこにこしているのだろう。


「おいらが相撲を取ることで助けになるなら、頑張れる気がする。きっと、あの時と同じように勇気ができると思うんだ。任せてくれ」


あかねは不安げな表情である。


「でも、みんな本当にそんな危ないことを手伝ってくれるかしら」


少し離れた場所で黙って三人を見守っていた滝雄が、間髪いれずに言った。


「当たり前だろう。そんな面白いこと、やらないでおけるかと言うに決まっている。ましてや、お前やお頭の役に立つかもしれないんだろう?誰が断るものか」


しかしまだあかねは心配そうに顔を曇らせた。


「こっそり竹を頂くんでしょう。それは天子様のものを盗むことにはならないかしら」


「だから私がやるんだよ。これから天子様にはたっぷりお仕えするんだ、その前に御褒美として竹の小さな一枝を頂いたところで、ご勘気を蒙ることにはなるまい」


それで決まった。


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