4.迷い
今日も秋の気配が微塵も感じられない、暑い日であった。
千寿丸は少しでも日差しをさけようと、築地塀や街路樹寄りに路の端を歩こうと試みたが、陰はないに同じだった。路も人がまばらである。こんな炎天下に出かけるのはよほど急ぎの用がある人ぐらいであろう。
屋敷に戻った方が賢明に違いなかったが、それでも千寿丸は善日寺に向かっていた。家にいればまた昨日のことを母に問いただされるような気がして、一通りの習いが済むとすぐに屋敷を出たのだった。
昨日、家に帰ると母は開口一番、「何のご用だったのですか」と尋ねてきた。
千寿丸はなんと言っていいのかわからなかった。
かつて隣の屋敷にいた少女が大納言家の姫と知れば、母は驚くに違いなかった。様々に思い出話をしながら、姫の様子を聞き、そしてなぜ知り合ったのかを聞くだろう。
千寿丸は、そのいきさつも、そして小百合との口論も、到底母に説明できるものではないと思った。自分自身、起きたことが整理しきれていなかった。
母にはただ、ある者を知らないかと聞かれたが、知らない者だったからそうお答えして帰ってきた、と答えた。
母は更に、どういう者をお探しだったのですか、と聞いてきたが、よくわかりませんでした、としか言えなかった。
明らかに母は不満げであった。何かを隠していると感じたのかもしれなかった。父も、母には隠しごとはできないと笑っていたことがあった。
その嗅覚に適うはずがない。千寿丸は押し黙り、それ以上何も話さなかった。
―――説明のしようがない
寺に着き、あかねの姿を探した。見当たらなかったため、千寿丸は寺の境内に入り、楠の根元に腰を下ろした。蝉の声は相変わらずうるさいが、考えごとをするのに支障はない。
昨夜は寝不足だったおかげで考え事をする前に寝入り、熟睡したため、頭はすっきりしている。千寿丸は小百合とのやり取りを思い返していた。
御簾の中から姫君が滑り出たとき、ふわりとなんとも言いようのない良い香りがした。そしてその姫君が幼馴染だと知って、心から驚いた。目の前の化粧を施し立派な袿を身に付けた姫君と、顔に土をつけて遊んだ少女が、どうしても繋がらなかった。
その突拍子もない行動だけが、記憶を呼び起こしてくれた。確かに六つかそこらのころ、当時住んでいた屋敷の隣に、同じ年頃の女の子がいた。祖父に大層可愛がられ、可憐な顔立ちから小百合姫と呼ばれていた。
幼馴染のことをそう覚えているわけではない。一緒に遊んだこととて、そういえばそういう姫がいたな、と言われて初めて思い出したぐらいである。ぼんやりと、勝気で元気のよい姫だったような気がする。相撲に負けたことは、悔しかったからか、言われてすぐ思い出したが。
幼き日の面影を探すことは難しかった。唯一、変わっていなかったのはどこか気高いというか、気の強そうな目ぐらいだ。
だがその姫こそ、あかねの探していた相手と知り、千寿丸は嬉しかった。あの打ちひしがれた少女を、自分と幼馴染の繋がりで癒すことができるのだと思ったのだ。
しかし、自分の話は小百合の心に何一つ届くことはなかったようだ。
小百合の頑な態度がまるで理解ができなかった。五条に住んでいたことをそこまで隠す必要があるとも思えないし、あかねに何一つ同情しないことも、少しも信じてあげようと思わないことも、到底納得できない。道理に合わないとか思えない。
千寿丸は深いため息を吐いた。
曇りのない笑顔を見せていた少女も、大納言家の姫君になるとあのように冷たくなるのであろうか。
初めて足を踏み入れた貴人の邸宅には、心底驚いた。渡殿から見えたのは、自分の家の池が大きいと思っていたことが可笑しくなるぐらい、船が二、三艘は浮かびそうな規模の池であった。それも三面もあった。
一番大きな池の中央には中島がいくつかあり、それらを朱塗りの反橋や平橋が結んでいる。築山だって、本当の山のように大きかった。庭だけでない。建物はすみずみまで磨きあげられており、ちょっとした建具の手の込んだ作りや、立派な調度からも、家の権勢が感じられた。
でもなぜなのだろう。
今まであればその壮麗さに目を輝かせ、貴人の邸宅に足を踏み入れた興奮に胸が高鳴ったはずなのに、ちっともそんな喜びは感じなかった。
なんとなく、違和感を覚えたのだった。
その感覚の理由がよくわからなかったが、寺に来てはたと気付いた。寺の壊れた築地塀に寄りかかった筵が屋根代わりのあかねの家と、あれほどの贅を尽くしたお屋敷が、同じ都にあるということが、どうにも不思議な気持ちになったのだった。
そんなことを思う自分も不思議だった。考えたこともないことだった。
―――どうして
自分の見てきていた世界は随分狭かったのではないかと、初めて思った。
そしてそんなことも、自分が捨て子かもしれないことや、あかねに出会うことがなければ、思うことがなかったに違いない。
そして他にも今は考えもつかぬが、考えるべきことがあるかもあるのかもしれない。
頭が勝手にどんどん色んなことを考え始め、話し始め、まるで蝉の声に合わせて頭の中を響き渡っているようだった。段々と頭が痛くなってきた。
急に足が無性に痒くなり、叩いた。見ると蚊に刺されていた。いつの間にか随分時間が経っていたようである。日が落ち始め、蚊が出て来ているのだ。
門を出て東側の小路を見たが、あかねの姿はなかった。
―――どこかに出かけているのかもしれないな。また来よう
そう思ってから、あかねに何を言うつもりだ、と自問した。
あの姫君が持ち主に違いないと言えばあかねは喜ぶに違いない。それしか考えていなかった。しかし本当にそれでよいのか。小百合のあの反発を思うと、躊躇いがあるのも事実だ。
小百合の言い分に共感はできないにしても、無視はできないような気持ちもある。
―――どうすべきか、もう少し考えてみよう
父の言う通り、自分はよく考えずに行動しがちだ。今日あかねに会わなかったのはかえってよかったのかもしれない。
千寿丸は急いで歩き始めた。少し風が出て来ていた。
「やあ、千寿丸ではないか」
路を東に行ったところの辻で、ふいに声をかけられた。振り返った千寿丸は声の主を見て、笑顔で駆け寄った。
「兄上!」
「久しぶりだなあ。元気か」
そう言って、長光はにっと笑った。
長光が三年前に元服するまではよく遊んでもらっており、幼いころから『兄上』と呼び続けている。長光の仕事が忙しくなってから会うことは減り、顔を合わせるのは三、四カ月ぶりだ。
「また背が伸びたのではないか?段々童姿も似合わなくなってきたな。元服も近いのではないか?」
長光はそう言って、まるで子供にするかのように千寿丸の頭を撫でた。普段は子供扱いされるのが嫌な千寿丸であったが、それは全く気にならなかった。
「こんなところでどうした?」
「いえ、ぶらぶらと歩いていただけで・・・兄上は?」
「いや、ちょっと人に頼まれて、な。市に行くつもりだったのだが、偶然そなたに会えるとは思わなかった。先日、そなたは私に会いにきてくれただろう?会えずに、気になっていたのだ。何か用だったのではないか?」
伊予の話を聞いた日だ。小舎人になれない悶々とした気持ちを聞いてほしくて、訪れようとしていた。そのようなことで悩んでいたのも、ずいぶん昔のことのように思える。
千寿丸は首を振った。
「いえ、たいしたことではございません。もうすぐ市も終わる時刻では。お急ぎでございましょう」
「いやいや、私の用事こそたいしたことではないのだ。気にすることはない」
「でも、人に頼まれたと」
千寿丸が言い終える前に、慌てたように激しく長光は首を振った。
「いやいや、大した人ではない。本当に大した用ではないのだ」
千寿丸はぴんときて尋ねた。
「恋人に頼まれたのですか」
すると長光は顔を真っ赤にしながら一層激しく首を左右に振った。
「いやいや、いやいや、そういう間柄なわけではない」
そう言うと、長光は強引に千寿丸の肩を組んで、歩き始めた。
「さあ、聞きたいのはそなたの話だ。ん、すぐあそこに寺がある。境内で話すと致そう」
長光は千寿丸を寺の中へと連れていくと、いつぞやあかねと一緒に座った階に千寿丸を座らせた。
時折秋を感じさせる風が吹いてくる。
「千寿丸、何か相談したいことがあったのではないか?」
千寿丸はすぐに返事をすることができなかった。
あの時はずいぶん悩んでいるように思ったが、今思えばさほどの悩みでもなかった。本当に相談したい悩みは別のところにある。だが、それをすぐに口に出せる準備もない。自分が捨て子かもしれずそれを悩んでいるとは、まだ言う気にはとてもなれない。
長光は何も言わず、千寿丸が口を開くのを待ってくれている。
昔から長光は面倒見がよかった。一番よく遊んでもらったのは、ちょうど長光が自分の歳の頃だ。頼り甲斐が合って、六、七歳の目からは大層大人のように見えた。今、自分がその時の長光と同じ歳とは信じられなかった。
だが今の長光には更に落ち着きというか、すべを丸ごと包み込んでくれるような眼差しがある。自分も元服すれば自分を吹き飛ばしそうになる出来事も受け止められるようになるのだろうか。
「私は兄上のようになりたい」
呟きのような言葉が出た。
「強くなりたいのです」
長光は笑った。
「私のようになりたいなど、随分目標が低いではないか。私のことなど、今は大人に見えるかもしれないが、元服後はこんなものかと思うだろうよ」
「兄上は元服で自分が変わったと思われますか」
長光は首を傾げながらうそぶいた。
「うむ、酒を飲み、嫌なことを一晩だけ忘れ、馬鹿騒ぎができるようになったな」
返事ができないでいる千寿丸に、悪い、悪いと長光はまた明るく笑った。
「まじめな話をせねばならぬな」
長光は腕を組むと、考え、考え、ゆっくりと話し始めた。
「自分の人生が、自分の責任になることだろうな。元服のみですべてが一瞬にして変わるわけではないが、明確な標だ。子供のころは、自分で選べることが、圧倒的に少ないだろう?着るものも、住むところも、食べるものも、生活のいろいろなものが、与えられて生きている。考えてみれば、生まれてきたこととて、自分で選んだわけではない。親も、生きる定めも、すべて否応なく決められたことだ。幼いころはそのことをなんとも思わぬが、だんだんとその不条理に我慢がならなくなってくるものよ。すべてのしがらみから少しでも解き放たれたい、だが一人の人間として生きていけるのか自分の明日の姿も不安でならない。そんな思いで、私も鬱々とした時があった。ところがだ。元服して一人前の大人として認められると、今度はすべて自分で決められるようになる。無論、世が自分一人の世界でない以上、なんでも自由になるわけではない。自分の力ではどうしようもなくてもがくこともいくらでもある。しかし、自分の生きられる道の範疇とはいえ、一人でもがくようになるのだ。自分の責任になる。泣くも笑うも、勝つも負けるも、な。子供の方が幸せだったと思うこともある。それでも、大変だが面白い。辛いがこの上なく楽しい」
そして長光は千寿丸の目をまっすぐ見た。
「たとえ思い描くような格好のいい生き方でなくとも、不安に思っていたような形とは違う日々が見えてくる。元服は、そなたが心待ちにする価値のあるものであると思うぞ」
千寿丸は力強い言葉に圧倒されて、ただ頷いた。
「色々悩むことはあるかもしれないが、生きることは悩むことだ。他にもあるぞ。生きることは食うこと。腹が減ること。生きることは笑うこと。生きることは恥をかくこと。生きることは泣くこと。生きることは歩くこと。生きることは好きな女に袖にされること」
そこで思わず噴き出した千寿丸に、長光は微笑んだ。
「笑うのを忘れるな、千寿丸。泣きながらも笑うことで救われることもある」
肩の力がどこか抜けた気持ちがして、再び心のままに尋ねた。
「兄上は僧になりたいと思ったことはありますか」
「千寿丸、僧になりたいと思っているのか」
聞き返されて、千寿丸は口をつぐんだ。しまったと思った。もし何か答えれば、捨て子かもしれないことを話さなければならないだろうか。が、有難いことに長光はそれ以上聞かなかった。
低い声で答えた。
「あるとも」
聞いておきながら、驚いて千寿丸は長光の顔を見た。
「本当ですか」
長光はゆっくりと頷いた。
「私には弟がいたのだ。私たちは仲の良い兄弟だった」
聞いたことのない話だった。長光には姉妹しかいないと思っていた。
「しかし、私が十二歳の時、去年のようなひどい病が都を覆って、それであっという間に亡くなってしまった」
長光の顔に、深い影が差したように思った。
「その弟はまだ六つで、いつも私の後をついてきていたのだ。可愛がっていたつもりだが、私も段々危なっかしい遊びをするようになって、連れて行くのが億劫な時も増えてね。連れて行ってくれと懇願する弟を置いて遊びに行くことも多かった。そんな頃、弟は病に倒れたんだ」
静かな声だった。時間が経っても、深い悲しみが癒えることはないのだ。その切ない思いが千寿丸にもよくわかった。
「それからは何をしていても弟のことが思い出されてね。もっとしてやれることがあったのだろうと心から悔いたよ。横にいるのが当たり前だったのに、ぽっかりと穴があいたような気持だった。寝るときだって、手を伸ばせる位置に並んで休んでいたのに、そこにはもう冷たい床しかなかった。弟が病にかかったのは、もしかしたら面倒をよく見なかった自分のせいかもしれないとも思った。ずいぶん長い間ふさぎこんで、私よりも辛いはずの親にも心配をかけた。だが、段々と思うようになったのだ。辛くても悲しくても、生きていくのだ、とな。それ以外にないのだと」
長光は漸く千寿丸の方を見た。
「弟のことは今も忘れていない。忘れられるわけがない。でも、笑ったり、喜びを感じたりすることに罪悪を感じることはやめたのだ。私は一生懸命私に与えられた命を生きる、それこそが私にできる唯一のことだからだ」
「私もどうかすれば変われるのでしょうか」
「答えを急いで変わろうとする必要などない。何か一つが解決すれば問題がすべて解決されるなどと考えぬことだ。何かがあればすべて変わる、すべてうまくいく、などというのは失望の種にしかならぬ。たとえ苦しきことがあったとしても、ゆっくりと、自分で一つ一つ、飲み下しながらやっていくのだ。なあ、千寿丸。この世は意のままにならぬことは多い。意のままになると思って生きると辛い。しかし意のままにならぬことは多いと腹を括れば、なんと意のままになることの多いことかと、幸せな気持ちになる。幼き頃は想定しなかった厳しい現実もあれば、面白きことも数え切れぬほどある。まあ、これだけは憶えていてくれ。どんなに今を辛く思っても、どんなに今を楽しんでも、同じことなのだ。同じ時間なのだ。それならば、時には泣いても、その倍、笑って生きることを心掛けた方が、きっとお前も、お前の周りの大事な人々も、幸せだと思うぞ」
そして長光は表情を和らげた。
「年寄りのように説教じみた話で悪いな。歳を重ねるごとになぁ、自分の経験が少しでも役に立ってほしいと勝手な思い込みで言葉が多くなるのだ。そんなことも、歳をとってくると分かってきた。経験が増えただけで、大層な人間になったわけでもないのにな」
千寿丸は何度も首を左右に振った。
すべてがすっと頭に入ったわけではないが、長光の温かな思いは心に灯火のようなものをつけてくれた。
横からにぎやかな声がして、二人はその方を見た。それぞれ荷を持った三人の老女が、大きな声で話をしながら門をくぐっている。市からの帰りであろう。
長光が市に行こうとしていたことを思い出し、千寿丸は頭を下げた。
「兄上、申し訳ありません。お急ぎでしたのに、ずいぶんとお時間を頂いてしまいました」
「いいや、いいのだ、すぐに持って行ってやるより、待たせる方がいいくらいだ。いい男というのは、そういうものだろう?」
おどけた表情をした長光と、千寿丸は同時に笑った。
ではここで別れよう、と言って長光は立ち上がった。
「またいつでも遠慮せず会いに来いよ」
「ありがとうございます」
長光はゆったりと歩いていき、門のところで振り返ると、軽く手を上げた。千寿丸は深々と礼をした。足が蚊にたくさん刺されていることは、その時初めて気づいた。
長光が出て行った後、千寿丸も門をくぐり、長光を見送ろうとした。
砂埃を巻き上げながら市の方へと、全速力で路を走っていく長光の後ろ姿を見た。
夕暮れが近づいていたが、まだ屋敷に帰りたくない気持ちで、千寿丸も市の方へと歩いて行った。ぶらぶらと歩きながら、千寿丸は長光の言葉を思い出していた。
―――親も、生きる定めも、否応なく決められたこと、か・・・
物乞いをしているあかね。以前はただかわいそうな子とだけ思ったかもしれない。しかし、もしかしたらあかねの姿は自分の姿であったかもしれないのだ。自分もその立場であったかもしれないと思うまで、なんと人ごとであったであろう。改めてそう思う。親を亡くし、物乞いをしている子などたくさんいる。その子が悪いわけでもないのに、そういう暮らしを余儀なくされている。たとえ困窮しているわけでなくても、親に辛く当られている子供もいる。道端で大した理由とは思えないのに子供にどなり散らす親を見たことがある。子供の怯え方を見れば家では殴っているかもしれない。否応なく定められるのは、なんと酷なことだろう。
父が僧に出会う偶然がなければ、おそらく今の自分はいなかっただろう。
その事実が鋭く自分に迫ってくる心地がした。一つ違えば、あれは私だったかもしれないという強烈な現実とともに。
気持ちが、一刻、一刻、揺れ動いていた。
自分は間違いなく父の子供だと思う時もあれば、いや、どう考えても捨て子に違いないと思う時もあった。
捨て子だとすると、私の親は、一体どういう人なのだろう。善良だが貧しい人であろうか。もしかしたら盗人であったかもしれない。あるいは、もっと重い罪を犯している人かもしれない。
どんな人であれ、自分はその人の子供であることに、向き合わなくてはならない。自分の体に、その人の血が流れていることを認めるしかないのだ。
出自を知ろうとすることは、そういうことなのだ。
そう思うと、怖くもあった。自分はその人とは別人なのだと、言い切れるのだろうか。
歩きながら、また人の顔を鋭い視線で見ている自分に気づく。あの目は自分に少し似ているかもしれない、あの顔のかたちは自分にそっくりだ。そんなことを思うたびに、動悸がする。
苦しい。
―――もう考えるのは、やめよう
そう思うのに、頭の中は再び勝手に動き出す。
今度は小百合の言葉を思い出していた。
小百合の言う通り、あかねの父が同じことをして、結果としてあかねが裕福に暮らしていたとしたら、あかねが同じ心根であったとしても、あかねの言葉に心動かされたであろうか。私はあかねが可哀想だから同情し、許されるべきと思ったのだろうか。
あかね自身が盗みを行ったわけではない。それにもかかわらず、どうしてあかねと父親を引き離すことができないのだろう。なぜなのだろう。
その時、そのあかねの声が聞こえてきて、千寿丸は飛び上がった。
「やめてください!」
悲痛な叫び声だった。
一瞬、空耳かと思ったが聞き間違いなどではない。
―――あかねの声だ
千寿丸は辺りを見回し、声のした方へと走って行った。もう市はすぐそこだ。まさかここであかねの声を聞くとは思わなかったが、あかねが近くにいて、何か困った状況にあるのは間違いなかった。
予想通り、市のすぐ近くの小路の辻であかねは風采の悪い男三人に囲まれていた。
背の高い一人の男が袋からあの笛を取り出し、しげしげと眺めて言った。
「なかなかいい笛じゃないか」
あかねはその男の手から笛を取り返そうと飛び跳ねるが、そのたびに男は意地悪い表情を浮かべながらひょいと笛を高く上げる。
「返す人がいるんです、持ち主がいるんです!」
だが男は嘲るように笑った。
「白々しい嘘を言うな。誰に返すというのだ。大方、貴族から盗み取ったものだろう」
「きっと高く売れるぞ」
猫背の男が薄笑いを浮かべながら言った。
その声と同時に、背の高い男は笛を袋にしまった。
「俺が引きとろう」
「やめて!返して!返して!人から預かっている、大事なものなの!返して!」
懐にしまおうとした男に、あかねは必死に飛びかかった。しかし男はあかねをうるさそうに突き飛ばした。あかねは小路に転がり、小さなうめき声を上げた。
千寿丸は驚き、あかねに走り寄ろうとした。しかし足が止まった。
―――何と言うつもりだ
もう父の名は言いたくなかった。だが前は父の名を出したから、小百合の従者も聞いたようなものだ。ここで止めようと躍り出たところで、この男達は、自分のような一人の少年に何を躊躇うだろう。
千寿丸の足は動かなかった。手も、口も、何も動かなかった。父の名がなければ、なんと意気地なしなんだろう。
―――私は、父の背中の後ろで、気勢を上げていたに過ぎないのだ
はたとそのことに気づき、千寿丸は茫然と立ち尽くすしかなかった。
その時、妙に甲高い声が響いた。
「返してくれと言っているんだ、返してやってはどうか」
千寿丸が振り返ると、身の丈が六尺はあろうかという、縦にも横にも大きな男が股を広げて立っていた。
「な、なんだお前は」
その男のあまりの大きさに、男達はたじろいだ。
「ただの通りすがりの者だ。ほら、早く返してやってくれ」
男達を睨みつけ、大男は大股で男に迫って行った。
「早く返せ」
大男はその手を笛の方に伸ばした。
「こっ、この野郎!」
三人の男は一斉に大男に殴りかかって行った。
しかし次の瞬間、男達は次々に投げ飛ばされていた。どうしてそのようになったのか分からないほどの早業であった。ぽかんと尻もちをついた男達を見下ろしながら、大男は「これは返してもらうぞ」と言って、投げ飛ばされた拍子に道に転がった笛の袋を拾った。そしてゆっくりとあかねに近づくと、手をとってその上に袋をそっと置いた。あかねは目をまん丸にして大男を見上げている。
「くそっ!おぼえていろ!」
男達は勝ち目がないと悟ったのか、憎々しげに言葉を吐いてから走り去って行った。
大男はあかねを立ち上がらせた。
「大丈夫か。怖かったろう」
あかねは着物についた土を叩き、気丈に笑って見せた。
「ううん、大丈夫。大事な笛をなくさなくてよかった。あたしはあかね。あなたは?」
「安平だ」
「安平さん、ありがとう。本当に助かったわ」
あかねの様子を見て、安平は安どの表情を浮かべた。威圧感さえ感じる大きな体に対し、顔は穏やかで優しげである。太い眉に細い目、丸い鼻に小さな唇、なんとなく幼子の顔のようにも見えて、着物の上からもわかる立派な体つきには不釣り合いなほどだ。
「何事もなく、よかった。おいらにはあかねと同じ年頃の妹がいるんだ。他人のような気がしないよ。この草鞋も、その妹が一生懸命編んでくれたんだ」
そしてひょいとあかねの顔の大きさぐらいあるのではないかと思われる草鞋を上げて見せた。
「怪我がなくて本当によかった。どこかに行く途中だったのか?」
「うん、あたしはあっちの方に・・・」
そこであかねはこちらの方を向き、ようやく気がついたようだった。
「あら、千寿丸もいたの?」
「あ、ああ・・・」
あかねに悪気はなかっただろうが、その一言で千寿丸は心から情けない気持ちになった。
安平は二人を見比べ、「君たちは知り合いかい?」と尋ねた。
あかねと千寿丸は同時に頷いた。
「あなたは?」
年は長光と同じぐらいに見えるが、これほど立派な体つきはなかなか見ない。安平は笑った。
「こんな体だから珍しいだろう。おいらは丹波の国から来た相撲人だ。相撲節会に出るために都に出てきたんだが、たまたま今日、市を見物してきた帰りにこの子の姿を見たというわけさ」
その時、あかねが叫び声を上げた。
「どうしよう、留め具がないわ」
「留め具?」
あかねは真っ青な顔で頷いた。
「この袋に、竹で作られた留め具がついていたのよ」
千寿丸と安平はあかねの手に握られた袋を覗き込んだ。確かに本来紐の先についているはずの物がないようであった。
安平は困ったように頭を掻いた。
「これは悪いことをしたなぁ。きっとあの男らを投げ飛ばした時に、取れてしまったのかもしれない」
あかねは首を振った。
「ううん、きっとあたしがあの人達にぶつかった拍子に取れてしまったんだわ。懐から落ちる時に、何か引っかかったような感じがしたもの」
「まだ落ちているかもしれない。探してみよう」
千寿丸は言い、真っ先に道に膝をついて探し始めた。
安平も一緒に探し始めた。大男が地面に這いつくばっても細い道ではかえって狭苦しくなるばかりだったが、その優しさが有難かった。
日が暮れてよく見えなくなるまであかねは諦めなかったが、とうとう留め具は見つからなかった。
最後まで付き合ってくれた安平と別れてから、千寿丸は慰めるようにあかねに言葉をかけた。
「小さな留め具ぐらい、きっと許してくれるさ」
「そうかしら・・・」
千寿丸はあかねの気持ちを楽にさせたくて、更に言った。
「そうとも。留め具なら、私にだって作れるさ。大丈夫、小百合はきっと分かってくれるよ」
「千寿丸、小百合って誰のこと?」
まずいと思ったが、もう遅い。今更取り繕うなど器用なことは自分にできない。
「実はな、あかね・・・」
千寿丸は、あかねが探している持ち主があの姫君に間違いないこと、そしてその姫は自分の幼馴染みだが、様々な事情から公に受け取りたがりたくないことを伝えた。小百合があかねのことを信用していないことは言わなかった。言えるわけがなかった。
「じゃあ、こっそり渡せばいいのかしら」
それで小百合が受け取るかどうかはわからなかった。千寿丸はそうかもしれないな、と曖昧に頷いた。
あかねの顔を見ていると、小百合がどう考えていようと、やはりあかねから直接受け取ってやるべきだと思う気持ちになった。留め具のことが気がかりには変わりないようだったものの、持ち主がわかったことで少しだけあかねの表情が和らいだことも、千寿丸の気持ちを更に強くした。
それから千寿丸は毎日寺に赴いた。小百合が来たならば、あかねと小百合を引き合わせよう。それが自分の使命のように感じていた。
同じく、安平も毎日来るようになった。自分の妹と同じ年頃のあかねのことが気になるらしく、いつも大きな握り飯を持ってくる。
「力がでるよう、飯だけはいくらでももらえるんだ。あかねも、たんと食って力をつけろ」
そう言ってあかねがもう入らないというまで次々食べさせた。
「こんなおいしいもの、食べたことないわ」
あかねは心から感激したように何度も言う。自分を気にかけてくれていることが何より嬉しいのだろう。
「握り飯を持ってくるぐらい、なんてことはないさ」
三人で階に並んで座りながら、安平は故郷の話を色々としてくれた。山での冒険、川や滝で遊んだ話、里のお祭り。都で生まれ育った千寿丸とあかねには珍しい話しばかりであった。安平が丹後で見たという海の様子も、面白かった。まるで空のようにどこまでも水面が続き、それが絶えず岸に打ち寄せ、濃厚な潮の香りを運んでくるという。安平の話を聞いていると、その音や匂いまでもが伝わってくるようだった。
ある時、安平は石灯籠が少し土台からずれていることに気づいた。あかねの話によれば、数年前の地震によって、倒れこそしなかったが傾いてしまったらしい。すると安平はひょういと石灯籠の上部分を持ち上げ、元あった土台の中心部分へと下ろした。幼いころから力持ちでそれが評判となり相撲人に推挙されたと安平は言っていたが、常識を超えた力に千寿丸とあかねはただただ驚くほかなかった。そのくせ乱暴なところは一つもなく、蚊一匹殺すにも躊躇して追い払うだけである。本当に強い者というのは、こういうものなのかなと千寿丸は心から感心した。
小百合が寺に来ることなく、一週間が過ぎた。
僧も、見つかっていなかった。正直なところ、自分でも探す気があるのかわからなくなっていた。積極的に人に尋ねるでもなく、ただ寺に行き、そのあたりで僧の姿を探すだけの毎日である。それ以上、踏み出すことができなかった。
朝から涼しく、昼になっても暑さが増すこともなく、一気に秋めいた日であった。いつものように千寿丸は寺へ行くために自室を出ようとしていた。
すると、簀子に出たところで父と鉢合わせになった。この時間に父が屋敷にいることも珍しければ、東の対に来ることも珍しかった。
父は千寿丸の顔を見るなり、口を開いた。
「千寿丸。毎日出かけているそうだがどこへ行っているのだ」
―――それを言いに来たのか
父は立ちはだかるように立ち、重々しい口調で言った。
「参内する日も決まったぞ。ふらふらしていないで勉強に身を入れろ」
千寿丸は憮然たる表情で答えた。
「その話はお断りいただきたいと申し上げたはずです」
「まだそんなことを言っているのか」
父は苛立った様子で怒鳴った。
「いい加減にしろ、千寿丸!きちんと将来を見据えて行動しろと言っているのだ」
―――寺のことも、僧のことも、なかったことにするのか
何も気付かなかったふりをしろと、命令されていることと同じだ。
気がつけば言葉が出ていた。
「もう放っておいてください。私は父上の人形ではありません」
「なんだと?」
もはや留めることはできなかった。
耐えきれなくなった思いがはちきれ、千寿丸は叫んだ。
「父上は私を・・・私をずっとだましてきたではないですか!」
はっとして父の顔を見た。
動揺している様子がはっきりと見て取れた。いや、その一言では表現できないような、驚きと、悲しみ、混乱と、いろんなものが混ざった表情だ。こんな父の顔をみたことがなかった。
言ってやったという気持ちの良さなど微塵も感じなかった。そのような父の顔を見たことに千寿丸自身も動揺していた。
千寿丸は父の横をすり抜け、屋敷を飛び出して行った。




