3.再会
小百合は几帳の隙間から、父の顔を冷静に観察していた。
父が部屋に来ており、几帳を隔てて対面していた。父親とはいえそれが当たり前のことなのだった。声だけは直接交わすのだが、父とは何度会っても心安く話すことができない。機嫌のよい時も、悪い時も、父の眉間には深い皺がある。それがたいそう気難しい人に見せていたし、実際、気難しい人だった。
暑さで苛々しているようで、扇をせわしなくあおぎ続けている。
「和歌はだいぶ覚えたかね」
小百合は慎ましく答えた。
「努めております」
古今和歌集を覚えることは、貴族の女性のたしなみとして必要不可欠のものである。秀作から和歌の技を学ぶだけではなく、その知識を前提として一部を引用して和歌を作ることも多い。小百合も幼い頃より多少は諳んじていたが、父に求められたのはそれらをすべて暗記することであった。和歌に、習字に琴。やるべきことはそれこそ山のようにあった。
「手習いも順調に進んでいると聞いた。今更手習いかと思うかもしれないが、美しい手蹟はなにより大切なものだ。御母上から良く教えてもらっていたようだが、育ちからだろうか、どうしても少し力強すぎるところがある。それさえ良くなれば、なかなか悪くないから精進するように」
よくもまあ、好き勝手言うものだと思いながら、小百合は細い声で返事をした。
「はい」
「どれ、最近のものをひとつ見せてもらおう」
父は小百合の返事など待つことなく、二階棚に置いていた文箱からいくつかの紙を勝手に取り出した。小百合はそこに何を書いたかを思い出し、慌てた。
君が植ゑしひとむらすすき虫の音の繁き野辺ともなりにけるかな
世の中は何か常なる飛鳥川昨日の淵ぞ今日は瀬になる
ぬるがうちに見るをのみやは夢といはん儚き世をも現とは見ず
書き散らされた和歌を見て、父は明らかに不機嫌になった。思った通りの反応であった。
「このような寂しげな歌ばかり書くのはおやめなさい」
そう言って父は手に持っていた紙をくしゃくしゃと丸めてしまった。
いつも父はこうであった。
この広大なお屋敷に連れて来られ、初めて面会した時も、自分のこれまでの宮中での活躍を滔々と語ってみせた。父の素晴らしさを理解し、その娘にふさわしい教養を身につけるようにという意味であったのだろうか。しかし父との感動的な再会を期待していた小百合は、ただただ戸惑うばかりであった。小百合の今までの暮らしについては一言も聞かなかった。十二年間、小百合が母と二人でどう生きてきたかなど、興味はなかったのだろう。
父はいつもそうだった。小百合の思いなど取るに足らないものだと思っているのかもしれないし、小百合にも考えがあるということなどすら思いつかないのかもしれない。
「人の心を捉える歌をお書きなさい。かの三条殿の姫は・・・」
お決まりの話が始まった。父が若かりし頃、すべてにおいて優れ、入内を望まれながらも若くして亡くなった姫君。いかに素晴らしい姫君であったかを幾度となく引き合いに出す。青春時代に幾度か文のやり取りをした相手を、今も忘れられないだけであろう。もはや父の想像上の、理想の姫君なのだ。
そして次の話は古今和歌集に移った。父が古今和歌集について、昔はこのように優れた歌が多かった、それに対して今は、というのもおかしかった。どうしてこう昔のものをやたらに有難がるのか不思議だ。結局、慣れ親しんだもの、評価が定まったものだから心地よく素晴らしく感じるのだろう。何でも新しいものを否定すれば自分の正しさが揺らぐことはないと思っている。
深いため息をつきそうになるのを、小百合はなんとか我慢した。
小百合の様子など気に留める様子もなく、父は語り続ける。
父は歌の道に秀でていると言われているそうだが、どうして心を歌う人が人の心をわかろうとしないのか、まったく理解ができなかった。結局、歌の技術さえ優れていればその真の中身など問われないのだろうか。上辺の美しさだけを喜んでいるのだとしたら、なんと虚しいことか。そのようなもののために努める意味など見出せない。
―――こんなことになるなんて、思っていなかった
今の道を選んだことを、何度後悔しただろう。
父が未知の存在だった頃、生きている父に会えないことは、小百合にとって心に空いた穴のようなものだった。父に会えるということ、そして少しでも母の暮らしを楽にしたいという思いから、この屋敷に来た。そうであるにもかかわらず、今となってはたとえ困窮しようとも、母と共に暮らしていた方がどんなに幸せであったかと思う。
しかしもう遅い。母はもうこの世にはいないのだ。
母がますます不憫に思えた。このような父を、別れてもいつまでも大切な婿君として心に抱いていた母が、可哀想でならなかった。父に対する恨み事など一つも聞いたことがなかった。小百合にとって父は一人きりなのに、父には別の妻や子供がいた。屋敷には正妻である北の方がいらっしゃって、初めて会ったとき、「この人をこれからは母と思うように」と言われた。北の方はなかなか屋敷の暮らしに馴染めない小百合に心配りをしてくださった。気品のある素敵な方だと思った。それでも、小百合は母が恋しく、誰よりも素晴らしい女性だと思った。
小百合は恨めしげに部屋を見渡した。高価な漆塗りの二階棚も、蒔絵の美しい鏡箱や文箱も、煌びやかな衣さえも、なんの慰めにもならなかった。
でも、今更悔いても時間は戻らない。
―――生きるために、ただ生きるのだ。心を押し殺してでも、生き抜くのだ
幾度もそう自分に言い聞かせてきた。そうしていかねば、耐えられそうになかった。
夕暮れが迫っていた。父が寝殿に戻って行ってから半刻ほどして、待っていた者の来訪を女房が伝えた。
「お呼びの方がいらっしゃいました」
暑さと父との会話の疲れで脇息にもたれていたが、その言葉を聞いて、小百合は飛び上がりそうになった。嬉しさのあまりそわそわしそうになるのを必死に抑え、努めてゆったりと言った。
「そう。では、こちらにお通しして」
「はい」
―――来たんだ!
走って迎えに行きたいぐらいの気持ちだったが、それが許されぬことはわかっている。待っている少しの時間が、とてつもなく長い時間のように思えた。
しばらくして、渡殿から衣擦れの音がすると、小百合は弾む心で笑みを抑えるのに苦労した。
女房に案内された童姿の少年が南面の庇に姿を現した。きりりと顔を引き締めている。気を緩めればすべてを見通されてしまうような気がして、思わず小百合は顔を扇で隠した。
「失礼を致します。民部大輔藤原清長の長男、千寿丸にございます」
御簾の前に進み出た千寿丸の姿を、小百合は懐かしさで胸をいっぱいにしながら見た。御簾越しであれば、視線を遠慮する必要などない。
あの時は普段着の着物であったが、大納言家に来るためであろうか、正装に近い着物を着ており、ずっと立派に見えた。髪はみずらで童姿なのは共に遊んでいたころと変わりないが、見た目はもうすっかり大人びていて、あどけない表情などどこにも見つけられなかった。
凛とした表情に、自分の顔が赤くなりそうになる。
千寿丸は深く頭を下げた。お付き女房の外記が、こちらを見た。千寿丸が元服前の少年とはいえ、直接声は聞かせず女房を介して会話する必要があった。
小百合はパチリと、扇を鳴らした。父が人払いしたのを見たことがあった。それを真似したのだった。外記は不思議そうに小百合を見た。小百合は再び扇を鳴らし、加えて目配せした。控えていた外記を含めた三人の女房は明らかに戸惑った表情であったが、頭を下げ、さらさらと静かに衣擦れの音を立てながら、退出していった。
皆が部屋から遠ざかるのを待ってから、平伏したままの千寿丸に小百合は声をかけた。
「顔をお上げください」
頭をゆっくりと起こした目の前の千寿丸は、強張った表情のままであった。御簾の中の大納言の姫君の正体を千寿丸は知るはずもないから、当然であろう。人払いまでして、何事かと思っているに違いない。
二人きりになって途端に気持ちが解き放たれて、小百合は笑いそうになる声を必死に抑え、なおも気取った声で尋ねた。
「千寿丸殿、わたしを憶えておられませんか」
戸惑った顔で千寿丸は答えた。
「私は姫君にお目通り頂いたことがありますでしょうか」
千寿丸が真面目な調子で答えるのを見て、少しからかいたくなる気持ちになった。
小百合は声を低め、重々しく言った。
「今日、不思議な娘が私の車に声をかけてきました」
途端に慌てた様子で千寿丸は首を振った。
「あの時のことでございますか。いえ、決して失礼なことをしようと思ったわけではなく・・・」
とうとう小百合は堪え切れなくなった。飛び跳ねるように立ち上がり、御簾を押し上げ、千寿丸の前に躍り出た。
「馬鹿ね、千寿丸!私を忘れたの?」
呆気にとられてあんぐりと大口を開けたまま腰を抜かした千寿丸に、小百合は勝ち誇ったように言った。
「相撲も隠れ鬼も、いつも私の方が上手だったわ。隣の屋敷に住んでいた遊び仲間のことを忘れるなんて、薄情ね」
その言葉を聞いて漸く、千寿丸が躊躇いながら尋ねてきた。
「もしかして・・・・・・・もしかして、小百合・・・?」
「そうよ。やっとわかった?」
そして少ししんみりとして言った。
「小百合、か。そう呼ばれていた頃が懐かしいわ。今の名は高子というのよ」
千寿丸は目を何度も瞬かせ、そしてようやく納得したようで口を開いた。
「小百合か・・・そうか、小百合だったか・・・いやいや、小百合なんて呼び捨てにしていけないんだな、大納言家の姫君様、だものな」
未だぼうっとした様子の千寿丸に、小百合は笑った。
「いいのよ、千寿丸は小百合の私しか知らないでしょう?」
そう言うと、千寿丸は深く頷き、まだ夢をみているように小百合の顔を見た。
「びっくりした?見違えた?」
「うん・・・びっくりした。うん、見違えた」
その言葉を聞いて小百合は満足だった。
今までの何もかもを話したい気持ちでいっぱいだった。しかし、尽きぬことのない思い出話の前に、千寿丸に頼むべきことがある。小百合は袿と袴の裾をさばいた。
「色々話したいけれど、大事な話がまずあるの。千寿丸があの子の知り合いだっていうから、助かったわ」
小百合は千寿丸の前に座り、目をまっすぐ見た。人の顔をこのように正面から見据えるのも久しぶりのことだ。
「あの子?」
「今日、お寺の門前で私の車の前に立ちはだかった子供のことよ。笛を持っていた子」
小百合は千寿丸の手を取って懇願したぐらいの気持ちだった。それはさすがに行きすぎと思い、言葉を尽くして心を伝えようとした。
「お願い、あの笛を、一日でも一刻でも早く、取り返してきて。車の中で見え難かったけど、間違いないわ。あの笛は母が祖父から譲り受けた、大事な形見の品なの」
「え、だって、あの時、身に覚えはないって・・・」
小百合はぴしゃりと言った。
「どこの者ともわからない者に、本当のことなど言えないでしょう?千寿丸が家を移ってから、祖父が亡くなって、母と一緒に五条に移ったの。でも私、里の風雅な邸に生まれ育った、ということになっているのよ。それが本当は都の下々に混じって育ったなんて。言いふらされたら大変なことだわ。あの子だって、どんな腹で言い出したかわからないもの。わかるでしょう?」
すると、千寿丸は急に真剣な表情になって、座りなおした。
「いや、あの子には事情があるんだ。そんなことをする娘ではない。あの子から直接笛を受け取って、許してあげてほしい」
千寿丸は少女の名前があかねということから始まり、なぜ笛を返そうと必死なのかを熱心に説く。
聞いているうちに、小百合はどんどん苛々した気持ちになっていった。
千寿丸が熱心な声で、「だから頼む、あの子から受け取って、父親の罪を許してやると言ってほしい」と言った時、気がつけば冷たい声が喉の奥から出ていた。
「私に何の関係があるというの?」
千寿丸は驚いた顔で小百合を見た。
「可哀想だと思わないのか」
千寿丸は可哀想に思うのが当然だという表情である。しかし小百合は自分でも戸惑うほどに腹だたしい気持で、刺々しい言葉しか思い浮かばなかった。
「盗人だったのですもの、たとえ地獄に落ちても自業自得というものよ」
「それはあかねには関係ないだろう!あかねが罪を犯したのではないのだぞ。今も築地塀の下で物乞いをしているような気の毒な子だ」
「あら、じゃあ、その娘が盗みのおかげで今は豊かに暮らしているとしたら、あなたの同情の度合いは随分違うものになるということなのかしら」
「どうしてそうなるんだ!」
千寿丸の顔にも苛立ちの表情が浮かんでいた。最初はあんなに優しげだった眼差しはもうなく、眉間にしわを寄せている。
「こちらこそ聞きたいわ。どうして、私があなたに責められなくてはならないの?物知り顔でかたちばかりの正道を説くのは、やめてよ」
間の後、固い声色に変わった千寿丸が言った。
「会ってやる気はないのか」
「当然でしょう。甘い言葉をかけるより、耳痛い言葉を与える方が、ずっと大切だわ。そんなことに人生の時間を費やすのは無駄だと、教えてあげなさいよ。この世に神も仏も、極楽も地獄もあるわけないわ」
「信心を馬鹿にするなら、どうしてあんなに熱心にお寺に通っているんだ」
「一人になりたいからよ。私にとって大切な時間なの。あの娘に邪魔されては困るわ」
「一人になりたいから?何を贅沢なことを言っているんだ。あの子はずっと一人なんだぞ。そんな子の願いぐらい、叶えてあげてもいいだろう」
どうして千寿丸にこのように責められなくてはならないのか。
私はただ懐かしい千寿丸と会って、楽しく話し、そして笛を取り返してもらいたかっただけなのだ。それなのになぜ、このような気持ちを味わわなければならないのか。
腹立ちまぎれに、小百合は扇を床に叩きつけ、一気にまくしたてた。
「どうしてその子をそんなに信用してやる必要があるというの?悪いことをしたのは向こうよ。どうであっても返してもらうのが道理でしょう。その子のために、どうして私がわざわざ会う危険をおかさなければならないの。千寿丸、うまく言って笛を取ってきてよ!大切な笛なの!すぐ手元に戻してほしいのよ!」
千寿丸は静かに答えた。
「私が勝手に笛を奪って、君に返すわけにはいかない」
こう言う調子の千寿丸に何を言っても駄目なことは、小百合もわかっている。それでも諦められなかった。
「あなたに不都合なことなどないはずよ。お礼はちゃんとするわ」
すると千寿丸は悲しそうな眼をした。
「見た目も変わったけれど、中身も変わっちゃったんだな。私の知っている小百合ではないみたいだ」
胸がぐっと痛くなった。が、小百合は唇を噛んで冷静さを保った。
―――そんなの当たり前だわ。もうあの頃の私なんて、どこにもいない。何もかもが、変わってしまったのだから
沈黙が続いた。しばらくして、千寿丸が再び口調を和らげて懇願した。
「頼むから、もう一度考え直してくれ。あの娘のためでなくて、私のためでも、やってはくれないだろうか」
その言葉に多少心は揺らいだが、こればかりはどうしても譲れない。
「おかしなことを言わないで。どうして千寿丸が盗人の娘に、そんなに一生懸命になるの」
どうしても千寿丸に気持ちを変えてほしくて、小百合はわざと嘲るように言った。
「民部大輔の息子が盗賊の娘の願いを聞き届けようと必死になるなんて、おかしいわよ」
それを聞くと、千寿丸の顔色がさっと変わった。
「父の名は関係ない!」
初めて見せる千寿丸の激しい憤りに、小百合は慌てた。
「何が関係ないのよ。関係ないことないでしょう?お父上だって、千寿丸がそんな娘に関わっていると知ったら、ずいぶん心配するに違いないわ」
余計に千寿丸は険しい顔になった。
「父は関係ないと言っているだろう!」
わけがわからなかった。
「自分の子供のことが、どうして関係ないっていうの」
千寿丸は冷笑し、低い声で言った。
「本当に関係ないんだ。私は父の子ではないのだから」
「え?」
「捨て子だったようだ。ずっと知らされずにいたが」
「それ・・・本当?」
千寿丸は頷いた。
「もしかして、盗賊になろうなんて思ってないわよね」
「そんなことは考えていない」
「それなら・・・」
千寿丸は小百合の言葉を遮り、きっぱりと言った。
「私は僧になるつもりだ」
小百合は目を丸くした。僧になるということは、生きながら現世を捨てるということ。只ならぬ決意である。
「僧に?何を言っているの?なぜ千寿丸が僧になる必要があるの?」
「私は父の実の子ではないからだ」
「どうして実の子だと、僧にならなくてはならないのよ」
千寿丸は黙り込んだ。小百合は段々腹が立ってきた。
「たとえ、実の子供でないとして、そのことの何が問題なのよ?心の通わない実の親より、心の通う育ての親の方が、何倍だって有難い存在よ。お互いが親子と思う繋がりで結ばれているならば、十分でしょう?」
しかし千寿丸は答えない。
「本当の親子だと思えばいいでしょう。たとえ捨子だったとしても、恵まれたかたちで生き続けられたことに感謝こそすれ、くさることなんて馬鹿馬鹿しいわ。現実の厳しさを承知で言っているの?そんなに感傷的でどうするつもり?もっとしっかりしなさいよ!」
それでも千寿丸は答えなかった。ますます腹が立った。
「どうして黙っているの?」
すると、ようやく千寿丸が口を開いた。
「自分が何者かわからぬ気持など、お前に分からぬものか」
拗ねたような顔に見えた。驚き呆れて、小百合は千寿丸を思い切り睨みつけてやった。
「親がわかれば自分が何者かわかるの?お父上とお母上が実の両親と思っていた頃は知っていたの?親の親は?親の親の親は?親の親の親の親は?皆、どこで何をしていた人か知っているの?親が気なるなら、とことん気にしなさいよ!教えてあげる、親が分かれば自分がわかるなんて、幻想よ!知らない方が幸せなことだってある」
千寿丸は眉間に皺を寄せたまま、横を向いてしまった。
なぜこちらの言葉に向き合おうとしてくれないのか。誰も、彼も、私の言葉を正面から受け止めてくれることがない。そんな思いが積み重なっていたのかもしれない。そのように叫ぶつもりはなかったのに、気がつけば言葉をぶつけていた。
「甘えているだけじゃない!自分のことが必要だと、言ってほしいと甘えているだけよ!受け止めてもらえるはず、って思っているから試すんだわ!馬鹿馬鹿しい!」
千寿丸は顔を上げ、叫び返した。
「何もわからぬくせに勝手なことを言うな!」
衣擦れの音が渡殿の方から聞こえた。こちらに向かってきているようだった。大声で言い合ったから、何事かと女房が慌てて来ているのだろう。
千寿丸もその音を聞き、改まった様子で頭を深く下げた。
「長居をしておりますようにて、これにて失礼いたします」
そして振り返ることなく、風のように出て行ってしまった。小百合は女房が戻る前に間一髪、再び御簾の中に入った。そして心配する女房に何事もないと言った。
それから小百合は物思いに沈んだ。
千寿丸の顔を思い出していた。軽蔑するような眼だった。そのことに、小百合は傷ついていた。でもそんな自分を認めるのも嫌だった。
―――私は間違ってなんかいない
千寿丸の話を思い返したが、到底、納得のできるようなものではなかった。盗賊の娘を許す必要などない、許すことなどできないと思った。
五条の家に移ったのは、祖父が亡くなり、次第に生活が立ち行かなくなって屋敷を売り払ったからだった。前の屋敷に比べるとたいそう狭くて、周りの家々から生活の音が聞こえてくる有様だった。母がその暮らしに馴染めぬまま泣き暮れている最中、従者が手引きをしたと思われた盗人によって、わずかばかり残していた貴重品を大方盗まれてしまった。盗まれたものの中には、母が大事にしていた祖父の形見の笛もあった。信じていた従者に裏切られて、母はますます心弱くなったようだった。
そんな折、父から娘を引き取りたいという申し出があった。母はもちろん手元に置いておきたかっただろうが、娘の将来のためには、ここで共に暮らすよりも大納言家に引き取られるのが娘の幸せと考えたのだ。小百合とて、その母の気持ちは痛いほどわかっていた。わかっていたから、父の元へいったのだ。いつか、母を迎えられる日を夢見て。
母は要領よく立ちまわり、世を渡っていけるような人ではなかった。神仏に祈るばかりで、現実をどう乗り越えるかということには無頓着というか、どこか諦めているようなところがあった。何かがあれば、すぐに寺に詣でるばかりの母。でも恨み事をなにひとつ言わなかった母。もっと世に目を向けてくれればよいのにと思うこともあったが、自分にとってその母の優しい笑顔がすべてであった。
しかし、母はあっけなく昨年の流行り病に倒れ、帰らぬ人となった。流行り病のため、父は会いに行くことも許してくれず、看取ることもできなかった。母は、どんなに寂しい思いで亡くなったかと思うと、自分が許せなかった。
食事もろくに食べられなくなった小百合を見て、父は小百合が寺に詣でるのを許してくれるようになった。五条の家からさほど離れていない、母がよく通っていた小さな寺である。
目立たぬよう、いつもわずかな供だけを連れて行っていた。祈りたかったわけではない。仏の前のその時だけが、唯一、一人になれる時間であり、母のことを誰にも妨げられず思い出すことができた。そして何度も思った。どうして私は母と別れてしまったのだろう、と。私が一緒だったならば、流行り病に負けることもなかったもしれない。
父のことも心の奥底で許すことができなかった。どうして母を一人にしたのだろう。なぜ最後まで母を愛してくれなかったのだろう。
五条の家で盗みを手引きした従者や盗人のことも恨んだ。ますます困窮することがなければ、母は私を手放そうとは思わなかったかもしれない。
千寿丸から盗人の娘の話を聞いた時、それらの耐えがたい苦しい感情が一気にわき起こった。
絶対に、許すことなどできないのだ。
もう日も暮れかけているというのに、庭からまた蝉の音が騒がしく鳴り響いている。暑さも蝉の音も大嫌いだ。去年の夏、母が亡くなった時の気持ちを思い起こさせる。
―――何もかも、嫌いだ
すべてを捨てて、一人で生きていけたらどんなにいいか。だが、そんなことができるはずもない。一人飛び出して生きていけるような世の中ではない。世の厳しさは、嫌というほど身に染みて理解している。
「大殿さまがおいでになります」
女房の声に、我に返った。
千寿丸を呼びつけたことを聞いたのだろうか。何を言われるかはわかる気がして、気分が重くなった。
渡殿の方から、いつものように床板を荒々しく踏みならしながら歩いてくる足音を聞いた。
小百合は居住まいを正した。
今までも、何度もくじけそうになる心を奮い立たせてきた。
―――強くならなくちゃ。私は、一人で生きていかなければならないのだから
どんなに大勢に囲まれようと、いつも一人なのだ。
父が部屋に入ってきた。奮い立たせたはずの気持ちが折れそうになるほど、怖い顔をしている。
しかし、ふと千寿丸の必死な顔を思い出し、笑いそうになった。
下々の者など、正直者などいない、少しでも隙を見せれば悪さをするような者どもだと考えているような父である。物乞いの娘のために必死になっている千寿丸の言葉を聞いたら、卒倒したに違いない。
どこか心の端が温かくなった。




