2.あかね
翌日、千寿丸は昼頃に屋敷を出た。
手掛かりは父が僧に出会った寺しかない。千寿丸は伊予から五条辺りにあると聞いた、善日寺に向かった。
昼間の日差しは、まだ真夏のように暑かった。屋敷のある三条から五条に向かって大路を南に歩くと、真正面から日が顔をじりじりと照らしてくる。更に白い築地塀までもが眩しく感じられ、少し歩いただけで汗が吹き出し、千寿丸は何度も汗をぬぐいながら路を急いだ。急げば体は熱くなるが、日差しが痛いほどであったので少しでも早く寺に着きたかった。
しかし一心に足早に歩いているようでありながら、千寿丸ははたと無意識に行き交う人々の姿を確認している自分に気づいた。目、眉、鼻、口、顔の輪郭、体つき。自分に少しでも似ているところがないか、探しているのだった。今までこんな思いを持って往来を歩くことなどなかった。きちんとした身なりで貴族の邸に仕えていると見える人もいれば、今にも崩れそうなぼろぼろの布を纏った人もいる。どの人も、もしかしたら自分の親の可能性がある。自分の足元がたとえようもなく揺らいでいるような心地がした。
もし自分が父母の子だということが明らかにならなければ、ずっとこのような思いを持って生きていかなければならないのだ。いっそはっきりと似た人が見つかれば、このような不安な気持ちからも解放される。そういう気持ちにさえなり、焦燥感に駆られながら周りを見渡しながら歩いた。
あの人の目は少し自分に似ているかもしれない。あの人の口元は、自分と同じだ。そんなことを思うたびに、父母の子だという望みがどんどん薄れていくような心地がした。
―――やはり私は捨て子であったのかもしれない
異様な雰囲気を醸し出していたに違いなかった。千寿丸の視線に対し、気味悪そうな顔をする人もいれば、睨みつけてくる人もいた。
いつもならばさほど気にならない距離がたいそう長いように思え、寺の場所がすぐに分からなければ出なおそうと思ったほどだった。しかし有難いことに、目的の寺は難なく見つかった。門前で大勢の人々が足を止め、人垣ができていたからである。
何事かと見物人の間に入ってみると、寺の門の脇で一人の少女が一台の網代車に近づこうとし、従者に退けられているところであった。顔や背丈から推測するに、鶴丸より少し年長の、十、十一歳、といったところであろう。しかしその顔つきは真剣そのものである。
少女の叫びに近い声が響き渡った。
「お願い!お車の中の姫さんにお話しさせて!」
「無礼者!近寄るな!」
制止も聞かず近寄ろうとする少女を、従者は躊躇いなく乱暴に突き飛ばした。少女は悲鳴を上げて大路に転がった。もわっと、砂埃が待った。炎天下にさらされた土は、さぞ熱いに違いなかった。元より古びた少女の着物は、土埃にまみれて見るも無残だ。それでも少女はめげることなく、すぐに起き上ると再び車に向かって叫んだ。
「大事な話なの!お願い!お願い!」
「近づくな!本当に痛い目にあうぞ」
従者は腕を上げて少女に凄み、少女は一瞬たじろいだ。しかしなお少女は車に近づこうとした。見物をしている大人は十人以上いたが、誰もかれも止めるわけでもなく、どちらの加勢をするわけでもなく、一体どうなることかと固唾を飲んで成り行きを見ているだけである。
千寿丸は、いても立ってもいられなくなった。
「お待ちください!」
考えるより先に、そう声を上げ、人の輪の中から飛び出していた。父に『正義を重んじるのはよいが、無鉄砲な行動が多すぎる。もう子供ではないのだから、よくよく考えて行動するように』としつこいほど言われていたことはそれから思い出した。だが、父とて同じ性分、きっと同じように行動しただろう。
従者は千寿丸を睨みつけた。
「そなたは誰だ。一緒に邪魔立てをするなら、ただではおかぬぞ」
千寿丸はぐっと胸を張った。
「私は民部大輔藤原清長の長男、千寿丸と申します」
途端にその従者はすぐに態度を改め、丁寧な物言いになった。
「この者を御存じですか」
「知り合いというほどではありませぬが、顔を見知っております」
まったくの嘘である。
「見るに、この者はなにやら事情がある様子。どうか少しでもお聞き届け頂けませんでしょうか」
従者はどうするべきか、迷ったようである。
少女はその隙をつくように女車の後ろに駆け寄った。従者と千寿丸は同時にあっと声を上げた。少女は大事そうに胸に抱いていたものを差し出した。笛であった。
「お姫さま。これに見覚えは、ございませんか。お姫さまが、このあたりのお屋敷に、お住まいの頃に、盗まれたはずのもの、で、ございます」
畏まった様子で、たどたどしくも何とか言い終え、少女は祈るような顔で答えを待っている。しかし中からの反応はなにもない。当然であった。高貴な女性は人前で声を出したりしないものである。何もかも、お付きの者を介して行うのだった。
少女を再び退けると、従者は車の横の覗き窓の近くに寄り、何やら中にお伺いを立てているようであった。よく見れば、車の簾の下からは華やかな装束の重ね色が見えている。姫君とお付きの女房のものだろう。目立たない地味な網代車だが、中に乗っている人はかなりの身分のようだ。
従者はその貴人の意向を確認すると、少女に冷たく告げた。
「その笛にもそのような場所も身に覚えがない、と仰せだ」
その言葉を聞き、少女は激しく頭を左右に振った。
「いいえ、いいえ!そんなはず・・・」
「さあ、行った、行った!」
少女と共に見物人を蹴散らすように、従者は声を張った。
網代車が動き出すのと同時に、遠巻きに見物していた人々も何ごともなかったように立ち去って行った。門前に残ったのは、ただ少女と千寿丸だけであった。
「おい、お前」
少女は笛を握りしめたまま、呆けた顔で網代車の行った方向を見つめたままである。
「聞こえないのか。おい」
網代車がはるか向こうの辻を曲がって見えなくなって初めて、少女は千寿丸の方を向いた。
「あ・・・」
少女は頭を下げ、小さな声で礼を述べた。
「助けてくれて、ありがとう。あたし、もう夢中で・・・」
そう言ってから、千寿丸が貴族の子息であることに思いが至ったのだろう。はっとしてぎこちなく言いなおした。
「あの、その、あたしをたすけてくれて・・・たすけてくだすって、ありがとう、ございました」
「敬う言葉など必要ない」
千寿丸は短く言った。自分とてこの少女と立場はそう違いないのだ。
少女は少し迷ってから、自分にはその方が話しやすいと判断したらしく、元の口調で遠慮がちに尋ねた。
「あたしたち、どこかで会ったこと、あったのかなぁ。あたしのこと、見知っているって言っていたよね」
「あんなのは方便だ」
「方便?」
「物事を円滑に進めるための方法さ」
その説明はかえって少女を混乱させたようである。千寿丸はくどくど説明するのは止めた。
「お前の名は?」
「あかね」
「そうか。私の名は千寿丸だ。こうしてもう知り合いになったのだ。順番が逆だがよいだろう」
あかねは間のあと、白い歯を見せて笑った。
「それもそうね」
歳の割に大人びた口のきき方をする。あかねが笑ったのにつられて思わず千寿丸も笑った。が、なごんでいる場合ではないことに気づき、脅かすように怖い顔を作った。
「一体、何があったのだ。あのような真似、下手すれば怪我をするところだぞ。お前の親はどこにいるのだ」
途端にあかねの顔が険しくなった。
「親はいない」
そして絞り出すように小さな声で続けた。
「父ちゃんは春に死んじゃった」
悪いことを聞いたと思いながら、千寿丸は更に尋ねた。
「では母君は」
「あたしを産んだ母ちゃんはあたしが物心つく前に死んじゃった。あとから来た母ちゃんは、父ちゃんが病で寝込み始めたら逃げちゃった」
こうなると、もう千寿丸は何と言葉を続けていいか分からなかった。
道の真ん中でそれ以上尋ねるのも憚られて、千寿丸はあかねを伴って寺の中へと入っていった。
門の中は二十歩もあれば端から端まで歩けるぐらいの広さしかなかった。正面にお堂があるだけで、他に建物らしいものはない。お堂の前に石灯篭が一据。お堂の両脇に大人の背丈ほどの松やら楓やらが乱雑に植えられている。そして大人でも幹にぐるりと腕を回すことが難しそうな、大きな楠が入ってすぐ左手にあり、築地塀の一部はその生命力旺盛な根によって今にも崩されそうだ。木陰は涼しげだったが、蝉の声があまりに騒々しいのでお堂の方に行くことにした。小さなお堂は手入れが行き届いている感じもなく、手の込んだ装飾もなく、質素な寺であった。人影のない境内であかねをお堂の南面の階に座らせ、千寿丸は横に腰掛けた。寺の屋根がうまく日差しを遮ってくれるのが有難かった。
「聞かれたくないことを聞くつもりはないが、差し支えないようであれば、どういうわけがあるのか、話してくれないか」
あかねは不思議そうに千寿丸の顔を見た。
「どうして千寿丸はそんなに親切なの。他の人は皆、あたしのことなんて見えないかのように通り過ぎていくのに・・・」
黒々とした小さな目にじっと真っ直ぐ見つめられ、千寿丸は何とも居心地の悪い気がして、わざとぶっきらぼうに答えた。
「親切なわけではない。聞かずにはいられない性分なのだ。九百九十九人が通り過ぎたとしても、一人ぐらいこういう変わり者もいるのだと思えばよい」
「うん、それもそうね」
あかねは素直に頷き、話し始めた。
「どこから言えばいいのかな・・・」
そしてさらりと言った。
「あのね、あたしの父ちゃんは盗人だったの」
いきなりそのような言葉が出てくるとは思わなかった。
態度にこそ出さなかったが、千寿丸は驚いて一瞬身を固くした。そしてそのように身構えた自分にもまた驚いた。今まで接した事のないものに出会った恐れだった。こんな少女でも、自分にとっては未知の存在なのだ。
あかねは千寿丸の驚きに気づくこともなく、曇った顔で階の下の方を見つめながら続けた。
「ずっと盗人の頭をしていたんだけど、去年の夏ごろから胸の病になって、段々体が弱くなっていったんだ。あたし、どうしても治ってほしくて、毎日このお寺にお参りしたの。父ちゃんは最初くだらないことするなって怒ったけど、段々とね、体の調子のよい時に一緒に来てくれるようになったの。あたし、うれしかったぁ」
あかねはその時のことを思い出しているような表情を一瞬見せた。本当に幸せな時間だったのだろう。
それから急に声を落とした。
「あのね、父ちゃんね、このお寺にお参りしてからは、盗人をしていたことを随分悔やんでいたみたい」
また少しの間があってから、あかねは一段と小さな声で言った。
「あたし、盗みが悪いことなんて考えたこともなかった。だって、小さい頃から父ちゃんは盗人で、それでおまんまを食べていたんだもの。父ちゃんが上手く盗んで銭をたっぷり持って帰ってきたときなんか、手を叩いて喜んだわ。それにね、逃げた母ちゃんはいつも怒っていて好きになれなかったけど、そういう時は機嫌がよくてお腹いっぱい食べさせてくれたの。あたし、父ちゃんに頑張ってもっと盗ってきてね、って毎日のように言っていた」
あかねは時々、考え込みながら話す。
「お寺に通うようになってからなの。罪をつくった人が地獄に落ちるってことを知ったのは。盗みも罪なんだ、悪いことなんだ、って知って、びっくりした」
千寿丸はどう相槌を打ったらよいかもわからず、ただあかねの次の言葉を待った。千寿丸は幼い頃から善悪を厳しく教えられてきた。それとはあまりに対極にある話であった。
「父ちゃんが死んでから、ある時、このお寺でお坊様を見かけたの。優しいお顔の坊様だった。あたしでも話しかけられそうな気がして、思いきって『盗人は地獄に行くって本当?』と聞いたの。そしたら、お坊様は少し考えてから、『そういうこともあるかもしれぬな』と言ったの」
そう言うと、あかねは膝を胸のあたりに抱え込み、顔をうずめた。しばらくそのままで固まっていた。そしてそのあと、まるで千寿丸などいないかのように、独り言を呟いた。
「きっと父ちゃんも、そのことを知って死ぬのが怖かったんだわ。だからあんなに盗みをしたことを悔いていたんだわ。地獄に落ちるって、わかったから。父ちゃん、地獄に落ちるって・・・」
声が震えていた。
千寿丸は何と言っていいのかわからなかった。話はあかねの行動に一向に結びつかないが、あかねの話は千寿丸が受け止められる以上の重さを持っているようだった。
長い沈黙のあと、千寿丸は何か言わねばならないと思い、思い切って口を開いた。
「お前がそんなに思いつめることはないだろう。お前が盗みを働いたわけでもなし」
千寿丸が慰めるつもりで言った言葉に、あかねは強く反発した。
「ううん、一番悪いのはあたしなの。あたしが何にも考えなかったから、父ちゃんにもっと盗ませるようなことをしたから、だから父ちゃんは地獄に落ちてしまったの。あたしのせいなのよ」
自分でも大層つまらぬことを言ったように思った。うろたえ、千寿丸は再びただ言葉を出した。
「そんな、地獄に落ちたと決まったわけではないだろう」
「千寿丸、お坊様のおっしゃったことが嘘だと言うの?」
千寿丸は困った。
あかねのように、純粋に地獄を恐ろしいと思う歳ではない。だが、その存在を否定することもできない。死んでからでなければあるかないか、分からないのだ。
あかねは千寿丸の答えを待つことなく、再び話し始めた。
「あたし、だから手元にあるものだけでも、持ち主に返そうと決めたの。少しでも、父ちゃんの罪が軽くなるように・・・」
千寿丸は大いに驚き、目を見開いて隣の少女の横顔を見つめた。
「お前、まさかそれであんな向う見ずなことをしたのか」
あかねは小さく頷いた。
「盗んだものは、足がつかないようにすぐ売り払っていたんだけど、これだけは売らなかったみたいなの。父ちゃんが時々、床下に隠していたこの笛を眺めていたのを、覚えているわ」
―――父親の罪を少しでも軽くしようと、あんなことを
その行動を馬鹿げたことなどと笑うことはできなかった。
「しかし、なぜその笛があの車の姫君のものだとわかったのだ」
「盗んだ場所は父ちゃんの盗人仲間に聞いたわ。五条のあたりの家にしては、いいものが置かれていたから記憶に残っていたみたい」
千寿丸の顔が途端に険しくなったことに気づき、あかねは慌てて弁解した。
「違うわ、今はもう盗人じゃないのよ。父ちゃんが死ぬ前に、仲間が皆、まっとうな仕事だけをして生きていくように言ったから」
「そうなのか」
「うん、中には聞く耳持たない人もいたみたいだけど、父ちゃんとの古い付き合いの仲間はほとんど止めた。今はもう盗人はしていないわ」
あかねは再びうつむいた。
「父ちゃん、仲間を大事に思っていたから・・・きっと地獄に落ちないように、って思ったんだろうな」
あかねには悪いが、千寿丸は怪しんだ。盗賊までやっていた輩が、本当に地獄を恐れ、仲間も地獄に落ちることを憐れんで盗賊を止めるように諭すなど、想像がつかない。どうしてそのような行動に至ったのか、知りたいと思ったが、あかねにはこれが真実なのだろう。それだけ今も父親の存在が大きいのだ。
千寿丸は尋ねずにはいられなかった。
「なぜそんなにも亡くなった父のことを思うのだ」
「あたしも、不思議なの。どうして、生きていた頃、あんなにも父ちゃんのことを考えなかったのか」
そして膝の上に置いた手をぎゅっと握りしめた。
「父ちゃんが死んでからは、毎日思うの。父ちゃんが毎日どんな風だったかを、どうにか思い出そうとしているの」
また酷なことを聞いてしまったようだった。千寿丸は少しでもあかねの気持ちを他にそらしたくて、笛を見せてくれと頼んだ。
あかねは懐に入れていた笛を取り出し、千寿丸に見せた。艶々と黒光りするその体に、口や手をつける部分の穴につけられた朱が際立ち、凛とした美しさがある。かなり古く、大切にされてきた笛であろうことは容易に想像できる。
「もうその家に人は住んでいなかったけど、色々と聞いて回って、ようやく、その家に住んでいた女の人がこの寺に時折詣でているらしいってことがわかったの。今はとても偉いお方のお屋敷に住んでいるらしい、って。それで、それからずっと待っていたら、今日あの車を見て、きっと中のお姫様に違いないって思ったの。あんな立派な車、この寺で普段は見ないもの」
千寿丸は黙ってあかねの言うことを聞いていた。
あの従者のあしらい方をみれば、あかねがそれだけの情報を得ることがどんなに大変だったかもわかる。一所懸命に尋ね歩く子供にまともに取り合った人などそうはいなかっただろう。
「ああ、やっと返せると思ったのに・・・あの人が持ち主じゃないとしたら、どうしたらいいんだろう。これから手がかりをどうやって探したらいいんだろう」
思い詰めたようにあかねは目を固く瞑り、笛を胸に抱きしめた。
その姿があまりに切なくて、あかねが不憫でならなかった。
あかねが出会った僧は、この少女がこんなにも苦しんでいることを知っているのだろうか。たとえ教えで盗みが地獄に落ちるような罪だとして、今更、あかねにそれを教えて何になろうか。笛を、持ち主に返すのはいいことだとしても、自分のせいで父親が地獄に落ちたと自分を責め続けるのはあまりにかわいそうだ。
自分がどう言葉を連ねてもあかねの強い思いを溶かすことはできそうにない。ならば、その僧に言葉を撤回してもらいたいと思った。そうせねばならないと思った。このまま知らぬ振りなどできない。
もとより僧を探しているのだ。一人増えたとて、大した違いはない。
千寿丸はあかねの顔をのぞき込んだ。
「あかね、お前が話を聞いた僧はどんな僧だった?この寺でよく見かけるのか?」
あかねは首を振った。
「ううん、それ以来、一度も会ったことないわ」
「どんな僧だった?特徴は何かないか?」
「どんなって言われても・・・お坊さんだったことしか・・・」
そして何かを思い出したようだった。
「ああ、そういえば、左頬にあざのようなのがあったわ」
その一言に、心の臓が、飛び出たかと思った。
まさか、と思いながら尋ねた。
「年の頃は?」
「わからない。大人の人だった」
千寿丸は聞き方を変えた。
「では、お兄さん、おじさん、おじいさん、であればどれか」
「えっと、千寿丸よりも少し年上のお兄さんという感じかな・・・」
伊予の言う僧は若かったというから、今は中年だろう。単なる偶然の、別人か。
「そういう痣がある僧はほかに見かけなかったか」
「ううん、その時だけ」
探している僧はこのあたりにはいないのか。
落胆と同時に少し安堵している自分に戸惑いながら、千寿丸はあかねに尋ねた。
「あかね、お前の住まいはどこだ?」
あかねは今座っている場所を指さした。
「ここ」
「ここ?」
「うん、このお寺の東の築地塀の、端のあたりにいつもいるの」
はっとしてあかねの顔を見た。都は、築地塀の下で筵を庇にして日差しや雨露をしのいでいる物乞いに溢れている。あかねもその一人なのだ。寺の脇であれば、情けをかけてくれる人も多いのかもしれないし、仏様への供物をもらう機会もあるのかもしれなかった。
子供ながらそんな暮らしを余儀なくされているあかねが心底気の毒で、心が痛んだ。
「なんか困ったことあれば、私の家・・・私の住んでいる屋敷に来いよ」
「うん、大丈夫。千寿丸、助けてくれてありがとう」
帰り際に笑顔で手を振ってくれたことに、心が救われた。
屋敷に戻ると、門のところで従者が千寿丸を待ち構えていた。帰ったらすぐに北の対に来るようにと、母が言っているという。昨日の話の続きでもしようというのか。煩わしさを感じながら、千寿丸は北の対に向かった。
ところが行ってみると母が青い顔で出迎えたので驚いた。何か悪いことが起きたのかと身構えた。
「千寿丸、大納言家の姫君からのお使いがいらっしゃっているのです。あなたにすぐに屋敷に来てほしいと」
一瞬、母が何を言っているのか飲み込めなかった。
「誰のお使いと?」
「大納言家の姫君です」
「私に、ですか」
聞き返す千寿丸に母は不安げな表情を見せた。
「ええ。なぜあなたをお呼びなのでしょう」
「私にもわかりません」
本当にわからなかった。大納言家の姫君が自分を呼ぶ理由など、頭の中をどう引っ掻き回しても思い浮かばない。
「本当に心あたりはないのですか」
問い詰めるような口調になった母が鬱陶しくなり、千寿丸はぶっきらぼうに答えた。
「心当たりも何も、大納言家に姫君がいることも知りませんでした」
「まあ」
母には意外な返事であったらしい。
「大納言の姫君といえば、ずっと別れて里の方でお育ちだったのが、二年ほど前に父君に引き取られたそうですよ。鄙でお過ごしであられたにもかかわらず、お父上に似て和歌にも秀でて、美しく、すばらしい姫君と聞きました。裳儀が行われた時の様子を、私もある方から聞きましたけど・・・」
それから母は大納言家の姫君について知っている限りのことを話し始めた。
女同士のつながりというのはすさまじいものだ。殆ど外を出歩くことのない母が、一体どうしたわけでこれほどのことを知っているのか、考えただけで恐ろしい。父が母の前で時折言葉を飲み込んでいるのがわかる気がした。
いつまでも続きそうな話を、千寿丸は遮った。
「母上、急いで参上しなければならないと思うのですが」
それで母の口はようやく止まった。
「まあ、まあ。そうでしたね。八瀬に言って新調した着物を出させておきましたから、それにきちんと着替えていくのですよ」
「わかりました」
寝殿を出て行く千寿丸の背中に、母はまだ心配げに言った。
「失礼のないようにするのですよ」
「わかっています」
母から逃れるように、千寿丸は東の対へと急いだ。




