1.秘密
満月が空にぽっかりと浮かんだ、穏やかな夜であった。庭中から虫の音が聞こえてくる。
暑さの盛りも峠を越したようで、風が少しは涼しさを運んでくれるようになった。
暦の上では秋になってもその気配さえなく、空気がとまったように感じられた都は、漸く息を吹き返した。身分の上下なく、微かでも秋の情緒を楽しもうという浮き立った雰囲気に満ちている。
しかし千寿丸はそのような季節の移り変わりなど気にも留めず、足早に東の対から寝殿に向かった。父に呼ばれたのだった。
「千寿丸にございます」
千寿丸は簀子の端に控え、頭を下げた。父母は並んでくつろぎ、月明かりの庭の景色を楽しんでいるようであった。
三年前に新しく住み始めた屋敷の庭には大きな池がある。その大きな鏡のような水面には満月が美しく写し出され、風が吹けばさざなみで妖しげに揺らいだ。築山や草木も趣向を凝らし配されたこの庭は父母の自慢であり、二人は時間があればいつも仲良く眺めている。
「父上、お呼びと伺いました」
子供の頃は何にも気にせず父と母の元に駆け寄っていたが、もうそのような歳でもなかた。父は千寿丸を見ると、満足げに頷いた。
「千寿丸」
父の扇がひらひらと指し示すのに従い、千寿丸は膝を進め、父母の目前に座りなおした。庭に面した格子はすべて開け放たれて、時折吹く風に几帳が微かに揺れている。
「なにやらそなたの気色が芳しくないと聞いた」
ちらりと母を見やると、父の言葉に微かに頷き、大仰なほどに心配そうな顔でこちらを見ている。ふくよかでいつも微笑んでいる母には不釣り合いな表情だ。
「なに、心配するな。父とてそなたの気持ちが分かっていないわけではない」
逆にいつもは厳しい顔つきだけを見せようとする父が、この時は得意げに、にんまりと笑って続けた。
「そなたももう十四歳。そろそろ宮中の様子を見てもよい頃だと思っている」
どうだ、と言わんばかりの父の顔である。千寿丸が飛び上がって喜ぶことを期待していたに違いない。
―――私が宮中に
固い表情のままの千寿に対し、父は不機嫌な時の癖で眉間にしわを寄せて扇を乱暴に叩いた。
「千寿丸、どうした。嬉しくないのか。お仕えが叶うのだぞ」
「色々なご都合で、急なことですけれど、早ければ来月の中ごろには上がることになるようですよ」
母が言い添えたが、今の自分に喜べるはずがなかった。
「あれだけ望んでいたではないか」
父は不満げに唸ってから、それでも黙り込んだままの千寿丸に、諦めたように投げやりに言った。
「まあ、よい。話は進めておくから、心づもりしておけよ」
間の後、父は声を荒げた。
「返事をせぬか、千寿丸!」
千寿丸はすっと身を引き、低頭して答えた。
「せっかくのお話でございますが、辞退させて頂きたいと存じます」
父の眉が上がった。
「何だと?」
千寿丸は顔を上げると、深く息を吸い込み、覚悟を決めて言った。
「私は僧になりたいと思っております」
自分でも意外なほど落ち着いた声であった。
千寿丸の思ってもいない返答に、母は驚きのあまり「まあ!」と言ったきり言葉を失い、父の顔は怒りで真っ赤になった。
「馬鹿げたことを申すな!」
怒鳴る父に対し、千寿丸は静かに答えた。
「心に決めたことです」
「なにゆえだ」
父は脇息を乱暴に押しのけ、千寿丸を問い詰めた。
「質問に答えろ!なぜ僧になりたいのかと聞いている」
父の鋭い視線に、千寿丸はたじろいだ。目を合わせれば負けてしまいそうな気がして、思わず俯いた。
「一体、何が不満なのだ」
「不満など・・・」
「ではなぜ僧になどなりたいと言い出すのだ」
千寿丸は言葉を探した。どこからどう言っていいのか、分からなかった。父はますます苛立った様子で声を張り上げた。
「千寿丸!父に説明できないと申すのか!」
『父』
その言葉を聞いた途端、千寿丸は弾かれたように顔を上げた。
「では申し上げます!」
父母の目を見据えた。
「私は、父上と母上の子ではないからでございます!」
一瞬の静寂があった。そして父が低い声で言った。
「どういう意味だ」
再び千寿丸は俯き、父の顔を見ずに言葉を吐いた。
「そのままの意味です。私は、僧に抱かれていた捨て子なのでございましょう」
「どこでそれを聞いた」
答えない千寿丸に対し、父は小さな声で呟いた。
「捨て子などと・・・」
そして今度はいつものように響き渡るような大声で断言した。
「そなたは私たちの子に相違ない」
千寿丸は信じることができなかった。
「証拠はございますか」
「何度も言わせるな、そなたは私たちの子だ!」
しかし、千寿丸は全く反対のことを思った。
―――僧のことを否定をなさらなかった。やはり、伊予の話は本当だったのだ
言葉も続かず、言いようのない緊張が部屋を包んでいた。父母とこのようなことは今までになかった。その張りつめた静けさを、従者の吉男の呑気な声が無遠慮に破った。
「失礼いたします。殿、お車の準備が整いました」
「そうであったな」
最近仕え始めたばかりの吉男は万事間が悪く、父はそれを叱責してばかりなのだが今回は何も咎めなかった。さりげない様子で、父は立ちあがった。
「前尾張守の宴に呼ばれているのだ。行ってくる」
千寿丸には逃げようとしているように見えた。
「お気をつけていってらっしゃいませ」
大股で車宿りの方へと去って行く父を東の妻戸のところまで見送り、母は振り返った。
千寿丸は何かを言われる前に、早口に「失礼致します」と言い、頭を下げた。立ち上がり、母の真横を通った。自分を見る母の目線は下からだった。背がまた伸びたことに気付き、妙に母が小さく見えた。
「千寿丸」
呼びとめた母の顔を、千寿丸は見ることができなかった。
「疲れていますので、もう休ませて頂きます」
言い捨てるようにして、千寿丸は渡殿の方へと走っていった。
東の対へ戻ると、弟の鶴丸が妹の千代の手を引っ張りながら千寿丸の元へ駆け寄ってきた。鶴丸は七歳とはいえ、三つ離れた妹の面倒を一生懸命見ているつもりで、どこでも千代を一緒に連れて行く。千代もそれを喜んで、たいそうお転婆に育っている。二人は興奮したように飛び跳ねながら、叫んだ。
「兄上!千代が庭で鈴虫を捕まえたよ!」
「捕まえたの!私、捕まえたの!」
困り顔の乳母が後から追いかけてくる。
「まだ寝ていなかったのか。早野を困らせてはいけないぞ」
そう諭すように言っても全く効き目はないのはわかっていた。
「兄上、抱っこ、抱っこ!」
体に纏わりついてきた小さな四つの手を、千寿丸はそっと剥がした。
「もう眠いのだ。また今度にしよう」
いつものように二人をいっぺんに抱え、その場をぐるぐると回ってくれると期待していたのだろう。鶴丸と千代は千寿丸の静かな声に戸惑った表情を見せ、そのまま千寿丸が背を向けて歩いて行くのを大人しく見送った。
憂いなどなく遊んでやれたらどんなにいいか。なんとも言いようのない切ない気持で胸がいっぱいになった。
―――しかし私は本当の兄ではないのだ
鶴丸と千代が生まれた日を、それぞれ千寿丸はよく憶えている。どんなに嬉しく、兄となったことが晴れがましかったことか。鶴丸は最近漢籍の勉強を始め、それを教えてやるのが自分の役目のように感じ、自分の勉強さえ面白くなってきたところだった。千代は日に日に驚くほど口が達者になり、おしゃまな様子が可愛くてしかたがなかった。
まさか二人と血がつながっていないことなど、考えたこともなかった。
だが自分が捨て子とわかった今は、すべてが変わってしまった。住み慣れた屋敷さえ、急にすべてがよそよそしく感じられた。
部屋に戻ると、いつも使っている文机や、大切にしている物が入っている唐櫃が目に入った。それらも自分のものではなく、まるで借り物のような気がしてくる。
千寿丸は乱暴に着物を脱ぎ棄て、早々に寝床に入ったが、眠ることなどできなかった。
―――宮中か・・・
一週間前の自分であれば、父の言葉に跳び上がって喜んだであろう。
最も仲の良かった遊び仲間の三郎丸は、半年ほど前に小舎人としてのお仕えを始めた。元服前の一定の期間、宮中の細々とした雑用を言いつけられて働き、その中で行儀作法や宮中の年中行事、約束事を学ぶのである。仕事ぶりを得意げに報告しにきた三郎丸の姿を、千寿丸は羨望の眼差しで見た。泥のついた着物の千寿丸とは違い、三郎丸は晴れの日に着るような気取った格好をしており、雲上人と間近に会った感激を滔々と語った。『こんな人が世の中にいるのかというほどご立派な様子で本当にびっくりしたよ』『宮中は聞く以上に見事な場所だった』遊び仲間が、ずいぶんと遠いところへ先に行ってしまった気がした。
三郎丸が自慢したくてしかたがないことはわかっていた。それを羨むことも馬鹿馬鹿しいとは頭では分かっていたが、心はどうしても惹かれていった。
それから年下の子供らと遊ぶのは大層つまらないものになった。大勢の子分を引き連れて人のいない壊れた屋敷に忍び込むのはこれ以上ない楽しみであったのに、なんとも子供じみたくだらない遊びに思えるようになったのである。
宮中に行くことが決してただ誇らしいだけのことでないことは、毎日出仕する父の姿を見れば十分に理解できたが、それでも千寿丸は行きたかった。
しかし父は『お前にはまだ早い』と言うだけだった。『どうしてですか。必ずきちんとお勤め致します』と食い下がると、『考えもせずすぐに行動するくせを直すまでは危なくて行かせられるか。お前はまだ子供すぎる』と言われた。これでは元服も当分先かと気が沈んだ。
そんな折、父の乳母の伊予を見舞うことがあった。
そもそもその日は、父の従兄弟の息子、長光に会いに行ったのだった。数年前まではよく遊んでくれた兄のような存在であり、鬱々とした思いを相談しようと思ったのである。もう仕事から帰っている時間かと思ったが、あいにく長光は留守であった。
そしてその帰り道、たまたま近くに伊予の住む家があることを思い出した。伊予は長く家に仕え続け、千寿丸も幼い頃から可愛がってもらっていた。昨年体の調子を壊したため屋敷を出て娘の家に住んでおり、千寿丸も二度ほど父に伴われて見舞いに行ったことがある。会いにいけば喜ばれることはわかっている。会うはずの人に会えなかったことがなんとなく口惜しくて、寄ってみる気になった。
案の定、伊予の娘は急な来客を大喜びで迎えた。
「母はどんなに喜ぶことでしょう。どうか会ってやってくださいまし」
すぐに母屋に通された。母屋から見える庭の半分以上は畑になっていて風情はないが、素朴でどことなく温かみのある居心地のよい家だ。小奇麗に整えられた奥の部屋へと通され、千寿丸は勧められるままに伊予の枕元に座った。伊予は微かな寝息を立てて眠っていた。
「母上、千寿丸様にございますよ」
そう幾度か呼びかけられても、伊予が起きる気配はなかった。伊予の娘はすまなそうに頭を下げた。
「申し訳ございませぬ、もう寝ていることの方が多くなりまして・・・」
「いえ、よいのです。見舞いに来たのですから、顔をみることができれば十分です」
すぐに帰るのも憚られて、伊予の体の具合や季節の話などとりとめもないことを話していると、「失礼致します」と下女が部屋に入ってきた。何かを耳打ちされた伊予の娘はあからさまに顔を曇らせた。「まあ、今すぐにとおっしゃるの。困りましたね」
千寿丸は心得たように、申し出た。
「どうぞ私のことはお気になさらないでください。もうしばらく、目を覚ますのを待ってみたいと思います。何か様子がおかしいようであれば、どなたかに声をかけますので」
伊予の娘はほっとした様子で深々とお辞儀をした。
「それではお言葉に甘えまして、少し失礼を致します。すぐに戻りますゆえ」
「いえ、お構いなく」
部屋に一人きりになってから、千寿丸は改めて伊予の顔をじっと見つめた。伊予の娘の前でまじまじと見るのは無遠慮に思えたのである。
伊予の皺の刻まれた顔は唇も乾いて頬に赤味もなく、穏やかに目を閉じて幸せそうに微笑んでいる。吐息がなければ、まるで永遠の眠りについているようでもあった。
その目が突然ぱちりと開いたので、千寿丸は仰天した。
「伊予、大丈夫か」
寝ていただけのことで、大丈夫に違いないのだが、千寿丸には一瞬、死んだ伊予が息を吹き返したように思えたのである。そのような千寿丸の驚きなど知るよしもなく、伊予は顔をくしゃくしゃにし、満面の笑みで千寿丸の目を見た。
「あら、あら、清長様。まあ、まあ、なんと有難きこと」
清長とは父の名である。起きようとする伊予を押しとどめながら、千寿丸は慌てて否定した。
「伊予、父ではないぞ」
「あら、あら、おかしなことを。ええ、ええ、伊予は、もう乳は出ませんよ」
ますます千寿丸は困惑して必死に否定した。
「おい、しっかりしろ、伊予。父ではない、千寿丸だ」
伊予は千寿丸の手を借りて体を起こすと、目を細めて千寿丸を愛おしそうに見つめ、かすれた声で答えた。
「ええ、ええ、清長様はしっかりしたお子でございます。伊予は清長さまの童姿が本当に好きですわ。私のためにまたそのお姿を見せに来てくださったのですね」
千寿丸は途方に暮れた。どういうわけか、伊予は自分のことを父と思っているらしい。
来たことを心底後悔した。どう対処したらよいかもわからず、千寿丸は同じ言葉を繰り返した。
「父ではない、千寿丸だ」
有難いことに今度はようやく名が聞こえたようである。伊予は頷き、一層、嬉しそうに笑った。
「ええ、ええ、千寿丸様のことでございますね」
千寿丸という言葉は聞こえたが、目の前にいるのが本人とは分かっていないようである。どう言ったものかと思案していると、伊予はそのまま話し続けた。
「千寿丸様がお健やかにお育ちになられて、なんと嬉しいことでございましょうか。ええ、ほんに、一度はお亡くなりになったものと嘆き悲しんだことが嘘のようで。ええ、ええ、地蔵菩薩様のご加護で生き返られたと清長様に伺ったときは、どういうわけだろうと怪しんだものですが、今となっては己の浅はかさを笑うばかりでございます。ええ、ええ、いつも清長様は正しくていらっしゃいますから・・・」
―――生き返った?なんのことだ
思いがけないことを聞き、動悸が速くなるのを感じた。何か触れてはいけないものに触れたような感覚だった。尋ねることを止められなかった。
「伊予」
「ええ、ええ、このように不思議なことが世にあるとはと」
「伊予、しっかりしろ。生き返ったとはなんのことか」
伊予の話は行ったり来たり、とんだり戻ったり、なかなか要領を得ぬものであったが、千寿丸が漸く理解に至ったのは、俄かには信じられない話であった。
―――まさか
「長らくお待たせを致しまして申し訳ございません」
伊予の娘の声で、千寿丸は、はっと我に返った。
伊予はいつの間にか座ったまま再び寝入ったようで、うつらうつらと船を漕いでいる。背中を丸めたその姿はひどく小さく見える。
千寿丸の表情から何かあったことを読み取ったのであろう、伊予の娘は頭を下げた。
「これはこれは。誠に申し訳ございませぬ。何か母がおかしなことを申しましたでしょうか。何分、現と夢とが区別ついていない状態にございますゆえ・・・何かお気に触ることを申し上げたとしましたら、どうか年寄りの戯言としてご放念くださいませ」
「いえ、なんでもありません」
辛うじてそう答えるのがやっとであった。
しかし戯言にしては伊予の話は具体的過ぎた。
―――まさか、まさかそんなことが
千寿丸は、それから伊予の話を何度も頭の中で組み立てなおした。伊予の話は断片的ではあったが、繋げてみれば筋が通っていた。
十四年前、父が待ち望んだ子は生まれて間もなく息を引き取った。幼くして亡くなった子供は、成人と同じように手厚く葬ることはしないのが習わしである。この世に繋がりが薄いまま神に返し、早く生まれ変わることを願ってのことである。簡素な布に包み、鳥辺野の墓地に置かせた。しかし父はどうにも気になり、その日のうちに下男に再び見に行かせた。ところが置いたはずの場所にもうその子の亡骸はなかった。それを聞くと父は落ち着きをなくし、伊予が止めるのも聞かずに外へ一人で出て行った。その先は伊予が父から聞いた話となる。
父は鳥辺野に向かおうとしていた。そこにもうわが子の亡骸がないことは知っている。でも、どうにも向かわずにはいられなかった。そしてその途中、小さな寺の横を通った。ふいに読経の声が耳に入り、誘われるように寺の中へと入って行った。しかし寺の中は閑散として、人影もなかった。法会が行われている様子もない。あの読経は何であったのだろうかと思いながら、踵を返した。と、背後に気配を感じ振り返った。いつの間にか、そこに一人の若い僧が立っていた。歳の頃は二十歳代と見え、父の視線はその左頬にある黒ずんだ痣のような染みに注がれた。すると突然、僧の腕の中から赤子の泣き声が響き渡った。驚いて見ると、僧の腕の中に、小さな生まれたてのような赤子がいた。父は飛び上がり、その赤子の顔を見つめた。
「どうかされましたか」
「亡くした子供によく似ているのです。本当によく似ているのです」
「左様でございますか。それでは、これも何かの縁かもしれませぬ」
僧は、胸に抱いていた赤子を父の腕に渡した。少しでも動けば壊れそうな気がして、父はそっと赤子を受け取り、息を止めて顔を見た。見れば見るほど、亡くした子に良く似ている気がした。
「あの、お坊様、この子は一体どこで・・・」
しかし顔を上げた時にはもう、その僧はどこにもいなかった。
父が赤子を抱いて帰って来た時、伊予はもちろんのこと、皆が仰天した。父は興奮した様子で次第を語り、この子は私の子だと宣言した。母も驚きながらもその話を受け入れ、父と同じくその赤子を亡くした子であるとして育てることにしたのだという。伊予も、そのうちそう思うようになった。死んだ子供が生き返る、そんな不思議なことがこの世にはあるのだ、と。清長様を可哀想に思い、仏様がお慈悲をかけてくださったのだ、と。
そんなはずはないと千寿丸は思った。
一度死んだ子が生き返るはずがない。亡くなった子供は可哀想に犬にでも連れていかれたのだろう。
もしかしたら伊予の話は出らためであるかもしれないとも思っていた。そうであって欲しかった。寺のことも、僧のことも、伊予の作り話だと。
だが父の口ぶりから伊予の話が本当であることが分かった以上、結論は一つだった。
―――私は、捨て子であったのだ。哀れに思い、拾った僧から、父に託されたのだ。
今までなぜ私はこの世に生まれてきたのだろうと思ったことがある。それは寝る前にふと思う素朴な疑問であった。しかし、まさかこんな答えが待っていようとは、思いもしなかった。
父は厳しくとも正義感が強くて、情が厚くて、まっすぐな人だ。そんな父だから、亡くした子供のことを諦めきれず、僧から受け取った赤子を自身の子として育てたのだろう。母も、いつもは「まあ」とばかり言っているが、いざとなると強くて優しい。そんな母だから、たとえ赤子が自分の産んだ子供でないと思ったとしても、父の心を汲みとり、自分の子供として大事に育てていこうと思ったのだろう。
はっきりと口には出さなくとも、心から尊敬する両親だった。しかし、自分はその父母の子供ではなかったのだ。二人の子などと胸を張って生きてきたのは、なんとおこがましいことだったろう。人に父と似たところ、母に似たところを言われて喜んだことも今となっては幻のようだ。お前は亡くなったひい爺さんに一番良くて似ていると父に言われたこともあった。その言葉を無邪気に受け取っていた自分が口惜しい。
父母は、私に亡くした子供の面影を必死に見ようとしながら育ててきたのではないか。そして一時の悲しみに駆られて引きとったことを、時々に後悔していたのではないか。
そう思うと、胸が締め付けられるように苦しくなった。
弟と妹がそれぞれ生まれたときなど、どう思ったのだろう。長子が捨て子であることを悔やんだりはしなかっただろうか。
もしかしたら、私は亡くなった子の身代わりとなり、父母の心を癒すために生まれただけなのかもしれない。そうであるならば、もう弟妹が生まれた以上、役目は終わった。実の親には捨てられたのだから、他に行く宛などもない。
―――どんなに止められても、僧になろう
このまま知らぬ顔をして父母の子として生きていくなど、分不相応というものだ。潔く世を捨てることが自分にふさわしい道だ。そう思えば思うほど、幼い頃からの出来事が次々に思い出された。小さなことも、大きなことも、笑ったり泣いたり、どんなに幸せだったことだろう。
まだ鶴丸ぐらいの年頃、父は酔うと千寿丸を抱き上げ、顔に髭をぞりぞりと押しつけてきた。笑いながら叫び声を上げ、身をよじったものだ。
十歳の頃に、大路で犬をいじめている少年を見かけたことがあった。自分より図体の大きな相手と取っ組みあいのけんかをし、新調したばかりの着物をぼろぼろにして帰った。怒られると思ったが、母は何も言わずに傷の手当てをし、父は「よくやった」と言って頭を撫でてくれた。
父が狼狽した姿は見たことがなかったが、昨年病に鶴丸が倒れた時、父はただ蒼白の顔で「大変だ、大変だ」と騒ぐだけで、何ひとつ役に立つことをしなかった。流行り病で病人が多いためになかなか来ない祈祷師を呼びつけ、滋養にいいものや薬を手配し、すべてを取り仕切ったのは母であった。そのためか、無事に弟が回復してから、今まで何事にも万事控えめであった母の言葉の重みが増している。
ふと、さきほど自分を呼びとめた時の母の顔が浮かんだ。母はなんと言おうとしたのだろう。そして厳とした父の言葉が低く頭の中に響いた。
『そなたは私たちの子に相違ない』
―――もしあの言葉が本当だったとしたら?
父は嘘をつくことを極端に嫌がった。宮廷に生きる人としては不器用に違いないが、それが父であった。
とすれば、もしかしたら私は本当に父母の子供の可能性も否定できないのではないか。
父の様子から考えると、これ以上父母を問いつめてもおそらく無駄だ。
―――私がどこで捨てられていたか、といったことだけでも分かれば・・・あるいは、その僧がもしかしたら何か他のことを知っているかもしれない
もしかすると本当に生き返って、布ごと犬に咥えられて攫われそうなところを、僧に助けられたのかもしれない。息を吹き返して泣いているところを見つけて助けてくれた人がいて、連れていくこともできずに困って、寺の僧に託したのかもしれない。父の心が変わる前にと、僧はすぐに姿を消したのだろう。
本当の子供である可能性を信じたい。
真実を受け入れず、僧の存在に一縷の望みを託そうとする自分は、滑稽にも思えた。それでも、僧を探してみよう。
そう心に決めた時、ようやく眠りについた。烏の鳴き声が聞こえ、空は白み始めているようであった。