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春風の憧憬

作者: 逸軌 恵

 暖かな春の日差しの中を土手の上に寝ころんでいると、遠くから学校のチャイムが柔らかな風に乗って流れてきます。草のにおいと風のにおいがなんだか懐かしくて、子供の頃、思い出せないくらい遠い昔に、きっとこんな風に春風の中で寝ころんでいたときのことを思い出します。午後の日差しがきらきらと降り注いで、その一粒一粒が手を伸ばせば届きそうです。

 外の空気を思い切り吸い込むのは本当に久しぶりのことでした。大学院への進学に失敗して留年を繰り返すうち、仲の良かった友人とのつきあいも最近では全く途絶えてしまい、家に閉じこもりがちな生活が続いていました。かつて途方もない夢や理想をともに語り合った彼らは、すっかり現実の中で大人の考え方を身につけてしまっているのです。あてもなく夢の中をさまよい続けた僕だけが、すっかり取り残されていたのでした。ここ一年ほど、ただでさえ日用品の買い出しくらいしか外に出ることがなかった僕でしたが、半月ほど前にとてもショックなことがあって以来、病人のようにすっかりふさぎ込んでしまっていたのです。

 僕はさっきからずっと、あの人のことを考えていました。それは僕が小学校3年生に上がり立ての時分、もう思い出すのもやっとのことで、あの頃の思い出は、実はほとんど空想でつなぎ合わされているのかもしれません。


 僕はいつも学校から一人で帰りました。体が弱くて外で遊ぶことが嫌いだった僕は、ただ一人でぼんやりしていることが多かったのです。通学路は決まっていたのですが、誰も通らない横道へそれて帰るのがいつもの習慣でした。住宅地の中にはまだ小さな畑や雑木林が点在していて、子供心にも季節の移ろいを感じることができました。僕は道の片隅に咲く名も知らない草花や、雨上がりの午後に畑から沸き上がる土のにおいが好きでした。そして、そうしたものに漠然と季節を感じながら、頭の中では全く別のことを考えながら歩くのが好きでした。

 僕はその日もきっと、なにかとりとめもない空想に飲み込まれたまま、お気に入りの帰り道を歩いていたに違いありません。そしてふと気づくと、白いベランダのある例の大きな家の前に来ていました。 僕は高いフェンスに両手をかけ、大きな庭をのぞき込みます。するといつものあの、夢のような世界が広がるのでした。一面の芝生の真ん中には小さな池があって、細い噴水が午後の日差しの中で眩しく風に揺れています。庭のむこうにはまるでおとぎ話に出てくるような白いベランダが、風にそよぐ白樺の枝に見え隠れしています。そして多分、その奥から聞こえてくるのでしょう。軽やかなピアノの音が広い庭の中を舞い始めました。なめらかな旋律は風ととけあい、瑞々しい芽吹き立ての白樺の新緑や噴水のプリズムと戯れました。それはまるで出来過ぎた映像詩のように、現実感のない無機的な美しさに包まれていました。僕はしばらく間、身動きひとつせずにフェンスにはりついていました。そうしていると、まるで自分が美しい風景の一部にとけ込んでいけるような気がしたのです。

 この美しい庭はおそらく二年生の秋に見つけたものですが、それ以来僕のお気に入りの場所になっていました。特に三年生に進級した四月に入ってからは、まばゆいばかりの芝生の青さにひかれて毎日ここを通るようになっていました。

 聞こえてくるピアノはいつも同じではありませんでしたが、幼い僕の耳に区別できるのはほんの三、四曲だったと思います。その中で、一つだけ僕の大好きな曲がありました。いいえ、最初から好きだったわけではありません。初めて耳にしたときはむしろ、言いようのない恐怖感におそわれました。軽やかでありながらどこか底知れない憂いを帯びたその旋律は、背中に電気が走るような起伏をいくつも持っていました。しかし、それほどの恐怖感を抱かせた旋律を僕はいつしか口ずさむようになり、寄り道の目的もそのメロディーを聴くためになっていました。雨上がりの土曜日、ぼくはいつものように回り道をして、あの大きな庭を目指していました。新芽が光る雑木林の間の小道を抜け、ところどころぽつぽつと菜の花の咲くキャベツ畑の脇を通り過ぎました。春風のそよぐ水色の空の中を、真っ白なチョウチョウが花びらのように舞っていました。

 家の前に着くと、ピアノの音は止んでいました。ただ、フェンスのずっと奥に、真っ赤な屋根が雨上がりの日差しに輝いているだけでした。細い噴水が風に揺れる様子に気を取られていた僕は、後ろに誰かが立っていることに気づきませんでした。

「ねえ、きみ」

 その声は不意に僕の真上から降りてきました。気の小さい僕はあんまりびっくりして、振り向きざまに転んでしまうところでした。その僕の両肩を抱いて支えてくれたのは、白いふんわりしたセーターを着た女の人でした。

「きみ、いつもそこに立っているでしょう」

 彼女は中腰で僕の両肩に手をかけたまま、穏やかに話しかけてきました。僕はただすっかり仰天してしまって、優しく微笑んでいるらしい彼女に目を合わせることさえできませんでした。

「僕・・・」

 そのとき自分がなにを言ったのか、全く覚えていません。ただ、毎日他人の家をのぞき込んでいるところを見られていた気まずさから、僕は泣き出してしまったのでした。

 彼女はおもむろに僕の腕を引っ張って、庭の中に招き入れました。入り口にこしらえてあるツルバラのアーチをくぐると、そこは絨毯のように整然と手入れをされた眩しい芝生の上でした。低い植え込みの根元で昼寝をしていた白い仔犬がころころと飛び出してきて、僕たちの足下にじゃれつきました。彼女はそれをしなやかな細い腕で優しく制しながら、僕を大きな玄関へ導き入れました。木目の美しい長い廊下はよく磨かれているらしく、鈍く光りながら家の奥へ続いていました。吹き抜けを見上げると、明かり取りの窓から美しい光線が、帯のように差し込んでいるのが見えました。

 彼女は玄関を上がり、僕にも中へ入るように勧めました。僕はおおいにためらいながら、おずおずと靴を脱ぎました。玄関まで着いてきた仔犬が靴脱ぎから上がれずに、キャンキャン見上げました。吹き抜けの階段をふわふわと上がっていった長いスカートは、壁に小さな風景画がかかっている突き当たりの角を曲がって、南向きの明るい部屋へ入っていきました。そこは例の大きな白いベランダのある部屋で、毛足の長い真っ白な絨毯が敷かれていました。十畳ほどの大きさのその部屋は彼女のものらしく、淡いベージュのベッドの上に桃色の大きな羊のぬいぐるみが置かれていました。

「わたし、いつもここで君を見てたの」

 彼女はそう言いながら、窓際の壁に押しつけられたアップライトピアノの椅子へ腰掛けました。水色のレースのカーテンが引かれた窓からは、僕が毎日へばりついていた庭のフェンスが丸見えでした。僕は改めてものすごく気まずくなり、下を向いてしまいました。彼女は立ち上がって窓を開け放つと、またピアノの前に座りました。雨上がりの優しい風が、甘い土のにおいを運んで来ました。窓から差し込む逆光の中で、風になびく彼女の髪が金色の細やかな光線を放ちました。

「わたしね、音楽の先生になりたいの」

 不意にあの人の白い指先が、鍵盤の上を滑るようにメロディーを奏で始めました。それは表の小道で何度も耳にした聞き覚えのある旋律でしたが、僕のお気に入りの、あの曲ではありませんでした。幼い僕は、ピアノの音が複雑ないくつもの響きが重なり合ってできていることを知りました。鍵盤の上を滑る真っ白い長い指を見ていた僕は顔を上げ、黙々とピアノを弾き続けるあの人の横顔を見つめました。そして、子供心にもその美しさにはっとしてしまいました。目が合ってしまうことを恐れて始終顔を背けていた僕は、このとき初めてあの人の顔をまともに見ることができたのです。

 無心にピアノを弾き続けるあの人は、まるで激しい感情をどこかに置き忘れてしまったかのように、穏やかな表情をしていました。僕はあの人のとがったあごが細い首の上で静かにリズムをとる様子を、ただうっとりと眺めていました。風に揺れるレースのカーテン越しに差し込む日差しが、まるでピアノに合わせるかのようにきらきらと揺れていました。

 椅子に腰掛けたあのひとは、ちょうど僕の身長と釣り合う高さでした。真っ白なセーターに包まれたその肩に、僕はあごを乗せてしまいたい衝動にかられ、とたんに気恥ずかしくてたまらなくなりました。そんな気持ちを悟られたのではないかと、僕はおずおずと彼女の横顔をのぞき込みました。不意にピアノの演奏が止まり、あの人の白い顔が肩越しに振り返りました。その優しげに澄んだ瞳に僕はただどぎまぎと慌ててしまって、その場を取り繕う言葉を懸命に探しました。

「ええと・・・」

 苦し紛れに僕は口を開きました。しかし、次に続ける言葉がみつかりませんでした。ピアノの演奏を誉めようと思っても、どう言っていいかわかりません。また、そんなことを言うのは生意気で子供らしくないのではないかとも考えました。演奏を終えたあの人の笑顔は僕の言葉を待っています。

 僕は大人と話すとき、こんな気まずい沈黙にせかされて、必死で言葉を探す子供でした。そしていつも、心にもない思いつきを言って一層気まずくなってしまうのでした。

「あの曲を弾いて」

 僕はきっと、絞り出すように言ったのだと思います。でも、そのときの僕には、例のお気に入りのメロディーが聴きたいなどという気持ちはこれっぽっちもなかったに違いありません。人見知りが激しい僕は、いきなり他人の家に招き入れられたというだけで、すっかり緊張しきっていました。その上、テレビの中にしかいないような美しい人に見つめれれて、ませた僕が冷静でいられるはずはありませんでした。僕はただ、逃げ出したりせずにその場にいるということが本当に精一杯で、自分の口から出る無意識の出任せをどうすることもできなかったのです。そして、そうしたその場しのぎの出任せは、僕を一層不安定でぎこちない精神状態に追い込みました。

「あの曲って」

「その、いつものあの・・・」

 僕はうまく説明することができませんでした。

「どんな曲なの」

 僕の顔をのぞき込んだ彼女から、僕は反射的に目をそらしました。

 彼女はふっと寂しそうにピアノに向き直りました。

「やっぱり君もおんなじね」

 静かな曲を弾き始めた彼女がぽつりと言いました。

「誰も私と目を合わせようとしないの」

 その言葉が僕には理解できませんでした。しかし、彼女を傷つけてしまったのだという確かな罪悪感が、ずっしりとしたピアノの残響音のように心の奥深くにこだまし続けました。

 

数日後、僕は学校帰りにまたあの庭の前に来ていました。西に傾き始めた日差しの中で、噴水が穏やかに揺れています。今日はあの人のピアノの音は聞こえません。

「誰も私と目を合わせようとしないの」

 あの人の不可解な言葉が、そしてピアノを弾き続ける寂しそうな横顔が不意によみがえりました。僕はなんだか底なしに悲しい気持ちになって、庭を離れました。

 その辺り一帯は緩やかにうねる丘陵地帯で、雑木林を切り開いてならした土地に大きな家々が建ち始めていました。南を向いた高台の途中にあるあの人の家も、そんななかの一つでした。僕は高台を緩やかに蛇行しながら下りて行く道を歩き始めました。家からどんどん遠ざかることはわかっていましたが、そんなことはどうでもいい気がしました。

 住宅地をはずれ、いつしか舗装のとぎれた道は、柔らかな若葉をつけた雑木林の間をくねくねと続きました。木漏れ陽が道に落とす網の目のような模様を踏みしめて、僕は歩き始めました。雑木林の間から見え隠れする西に傾いた太陽が夕暮れの近いことを予感させ、いつになく遠くへ来てしまった僕を不安にさせました。

 もう少し歩いたら引き返そう、そう思って西に大きく蛇行したその次の瞬間、僕は雑木林を抜けていました。僕の正面には、傾きかけたオレンジ色の太陽がありました。そこは左右に大きく開けた原っぱで、シロツメクサの花が一面に咲いていました。風の吹き渡る大地に無造作にちりばめられた花々は、西に傾いた太陽の逆光の中で金色に燃えていました。そしてその遙か彼方に、白い帽子をかぶった女の人の後ろ姿を見たのです。

 穏やかな西日に燃える春の野で、その人は水色のワンピースを風になびかせながら、野原の向こうに続く雑木林の方角を見ていました。不意に野原を駆け抜けた風が、女の人の白い帽子を飛ばしました。それをとろうと振り返ったその人は、遙か後ろにいる僕を見つけました。それは紛れもなく、あのひとでした。風に飛ばされた帽子はちょうど、僕達の真ん中に落ちました。白い帽子を挟んだ両側で、僕たちはしばらくお互いを見つめ合いました。吹き渡る風が、少し汗ばんだ僕の頬に心地よく感じられました。心臓が喉のあたりで鳴っていました。

 僕はあのひとの方を見つめたまま、落ちている帽子に歩み寄りました。あの人の瞳が穏やかに笑っています。帽子を拾い上げた僕は、その優しい瞳の中に飛び込むような気持ちで駆け出していました。彼女はその場にしゃがみ込んで僕を迎えました。僕は帽子を持ったまま彼女の胸に飛び込みました。そして、「ごめんなさい」という言葉を、理由も分からずつぶやいていました。

 風の吹き渡る夕暮れの野原で、あの人は耳を澄ましています。太陽の方角へ続く雑木林の向こうを、真っ白い大きな帽子を抱えて見つめています。

「この向こうには海があるの」

 独り言のようにあの人が言いました。

「ほら、波の音が聞こえるでしょう」

 僕には雑木林を吹き抜ける風の音しか聞こえません。

「この向こうには海があるの」

あの人がもう一度言いました。

 僕は去年の夏、両親に海へ連れて行ってもらったとき、車で何時間もかかったことを思い出しました。雑木林の向こうになにがあるのか知りませんでしたが、そんなところに海などあるはずがないことはわかりました。

 あの人は胸に真っ白な帽子を抱えたまま、目を閉じて風の音に耳を澄ませています。僕もあの人の隣に立って、その向こうに海があるという雑木林の方角を眺めました。

 僕が目を閉じた瞬間、あの人がかすかにハミングを始めました。それは、僕の好きなあのメロディーでした。 

「その曲」

 僕は目を開け、あの人を見上げました。

「僕、その曲が好きなの」

「ほんとうに」

 あの人は目を閉じたまま、口元で軽く微笑みました。

「帰ったら弾いてあげる」

 あの人は不意に僕の手を取ると、高台の方向へ歩き始めました。うねるような起伏のついた斜面に点在する家々の屋根や壁が、鮮やかな夕映えに染まっていました。

「本当にあの林の向こうには海があるの」

 帰り道で僕は尋ねました。あのひとは、黙ってうなずきました。僕は、そんなはずはないと言いそうになりましたが、あのひとがでたらめを言っているという感じはまったくしませんでした。林の向こうに海などないとわかっていながら、あの人が嘘をついているとはとても思えなかったのです。少なくともあの人には、林の向こうに本物の海が、本物以上に確かな海が感じられたに違いないのです。

「君には海が見えなかったのね」

 彼女が寂しそうに言いました。

「ううん」

 僕は慌てて答えました。

「見えたよ、海が」

「ほんとうに」

 あのひとは振り返って僕の顔をのぞき込みました。

「わたしの見えるものがみんなには見えないの。誰も信じないの」

 あの人はそういうと、住宅地へ続く坂道の途中に立ち止まって瞳を閉じました。

「ほら、波がこんなにざわめいているわ。また風が強くなったのね」

 僕は一生懸命耳を澄まして、あのひとの言う「海」を感じようとしました。けれども、僕にはなにも聞こえません。

「大人はみんな私の言うことを嘘だというの。私のことを病気だって」 

 そのときあの人の閉じた瞼から、真っ白な頬に一筋の涙がこぼれるのを見ました。僕はどうしていいかわからず、ただただうろたえていたのだと思います。あのひとの「海」は僕には見えませんでした。僕はそれを見えると言ってしまったことで、何かとんでもない重荷を背負ってしまったような気がしました。それは嘘をついたことの罪悪感ではなく、今の自分の言葉を無理矢理こじつければ、なにかあの人を追いつめているものの共犯者になってしまったような居心地の悪さでした。

 街路灯が気まぐれな時差でそこここに灯り始める頃、あのひとは歩き始めました。細やかに左右に揺れる後ろ姿がさっきよりもずっと小さく見えました。郊外の住宅地は薄紅の空の下で建物の輪郭がぼやけていました。そんな中を不思議な色に染まったワンピースが、まるでなにかに吸い寄せられるように歩いて行きます。僕はなにも言えないで、黙って後をついて行きました。

 突然あの人が立ち止まりました。正面から歩いてきた女性と鉢合わせに向かい合ったまま、あの人は身動きせずに立っていました。紅の薄暮の中で、女性の顔は見る見る引きつっていきました。あっと思ったそのとき、彼女の平手があの人の頬を打ちました。呆気にとられていた僕は、次の瞬間あの人を襲った女性のけたたましい剣幕を、ほとんど聞き取ることができませんでした。ただ、今日があの人が病院に行く日だったこと、そしてあの人がそれをすっぽかしたことを、この母親らしき女性が怒っているのだということだけはわかりました。あの人の顔は平手打ちをされたまま横を向いたきりです。母親らしき女性は恐ろしい形相で彼女をにらみつけいます。しばらくそのままで沈黙が続きました。

「わたし、海を見に行ってたの」

 横を向いたまま、あの人がぽつりと言いました。

「お前って子は、またそんなことを」

 母親らしき女性はわなわなと震え、両手であの人の細い肩をつかんで顔を近づけました。

「林の向こうには海が続いているの。きっと大人には見えないのね」

 母親らしき中年女性はあのひとの肩をつかんだまま泣き出しました。無表情のあのひとの頬にも、夕暮れに色づいた涙が静かに光っていました。

「いいかい、お前は悪い幻にとりつかれているのよ。林の向こうに海なんかないの。大きな川があって、その向こうには畑が広がっているのよ。この間一緒に見に行ったのを忘れたの。そのまた向こうには家が続いていて、海なんて、ずっとずっと遙か彼方なのよ」

 母親らしき女性の涙声が、夕闇の訪れた住宅地に空しく響いていました。

「ママ、嘘じゃないわ」

 あの人の抑揚のない声が言いました。

「だってこの子にも見えたのよ」

 ねえ、と言って 、あのひとが僕を見下ろしました。そのとき、表情の見えない彼女の顔が、とても恐ろしいものに感じられました。

「この子にも海が見えるのよ、ママ」

 夕闇のなかでそろってこちらを向いた母娘の顔に、僕は言いようのない恐怖を感じました。

「僕、知らないよ」

 それはそのとき、反射的に出た言葉でした。あるいはなにかもっと非難がましい、別のせりふを吐いていたのかもしれません。そして気がつくと、「うそつき、うそつき」と大声で叫びながら、僕は家の方角へ夢中で駆け出していたのでした。


 やがて季節は梅雨に入り、湿っぽい雨の日が続くようになっていました。あの出来事以来、僕はあのひとの家に近づくことはありませんでした。あの美しい庭のたたずまいも魅力的なピアノの旋律も、やりきれない罪悪感抜きには思い出すことができなかったのです。そしてその光景やメロディーが意識に上りそうになる瞬間を、僕はたびたび阻止せねばなりませんでした。

 なぜ僕はあのとき、あんなことを言ってしまったのでしょう。あのひとの言う「海」を、僕は見ることができませんでした。でもあのひとをうそつき呼ばわりしてしまったことは、あまりにもひどいことに思えました。たしかにあのひとの言った「海」など、現実に存在しない妄想に違いないのです。しかしそれを正直に、この上なく清らかに信じたあのひとを罪を犯した罪人のように非難してしまったことが、取り返しの付かない理不尽に思えてならなかったのです。僕は激しい自責の念に襲われました。それは些細なことに腹をたててわざと母親を困らせてしまった後の、取り返しのつかない後悔に似ていました。僕は今すぐにでもあのひとのもとへ飛んで行って、泣きながら謝りたい気持ちに何度も駆られました。

 

 ある雨降りの午後、僕は教室の窓からぼんやりと外を見ていました。花壇に植えられた沈丁花の小さな葉の一つ一つが、雨を受けて小刻みに揺れていました。前を向くと担任の女の先生が大きな声で説明しながら、黒板に分数の計算を書いています。まわりのみんなはそれを一生懸命ノートに写しています。僕は再び窓の外へ目を移しました。そのとき、中庭を挟んだ校舎の二階にある音楽室からピアノの音が聞こえてきました。雨の昼下がりに似合う物憂い調べに、生徒達の合唱が加わりました。雨の降り続く中庭の景色がなんだか、重苦しいものに思われました。そのとき僕は先生から厳しい声で名前を呼ばれて、よそ見を注意されてしまいました。慌てた僕は訳も分からず黒板をノートに写し始めました。音楽室のピアノの音は続いていました。

 下校の時刻になっても雨は止みませんでした。下駄箱で長靴に履き替えた僕は、厚い雨雲に塗り込められた空を仰ぎながら傘を開きました。昼間とは思えないほどあたりはどんよりと暗く沈んでいました。校庭の水たまりをじゃぼじゃぼ歩きながら、僕はあの日のことを思い出していました。

 海が見えると言ったあのひとに平手打ちをした母親。夕暮れを映して揺れていたあのひとの涙。そして、あのひとを罵って逃げ出していた自分。

「謝るんだ!」

 僕はたまらなくなって駆け出していました。

「謝るんだ。シロツメクサの原っぱで言ったみたいに。そう、もう一度謝るんだ」

 僕は走り続けました。住宅地を過ぎ、黄金色の小麦畑を過ぎ、青々と葉をつけた雑木林の間を駆け抜けて行きました。脱げそうに大きな長靴が泥水を跳ね上げるのも、体がずぶぬれになるのも構わずに、僕は傘を振り回すようにしながら走り続けました。

 南向きの高台にたどり着いた僕は、はっとして思わず息をのみました。自分の目の前にある光景がとても信じられませんでした。あのひとの家がなくなっていたのです。鉄条網の張られた敷地内はキャタピラの跡で平らにならされ、無惨に引き抜かれた庭木や、運び残した家の残骸と思われる建材が、そこここで雨に打たれて雫を垂らしていました。ほんのふた月足らずの間に、一体なにがあったというのでしょう。僕は傘を持つ手をだらんとさせたまま、降りしきる雨の中を鉄条網の前で呆然と立ち尽くしていました。

 その日以来、僕はその高台に二度と寄りつくことがありませんでした。

 

 雲一つない四月の空をますます高く上り詰めた太陽は、まばゆい光を一面に投げかけていました。土手の上に寝ころんだ僕は、傍らに脱いだ上着から煙草と、あの忌まわしいスナックの名前が書かれたマッチ箱を取り出しました。マッチはすごく湿っていて、どれも火がつきませんでした。やっと最後の一本が弱々しく灯ると、僕はそれを煙草に持っていきました。けばけばしい配色のマッチ箱は、この世の中でもっとも汚らわしいデザインに思われました。僕はそれを握りつぶすと、視界の外へ放り投げました。

 半月ほど前の出来事、あの忌まわしい出来事を、僕はあのひととの再開と呼びたくはありません。事実、あのとき会ったのがあのひとだったという確証はどこにもないのです。それにもし、仮にあのひとだったとしても、彼女はおそらく僕のことなどとうに忘れ去っているに違いないのです。


 その日、僕は久々にゼミの先生の研究室を訪ねました。春休みのキャンパスは閑散としていて、甘い梅の花の香りがたちこめていました。僕は卒業に必要な単位は既に取得し終えていたのですが、形式的に卒業論文を未提出としてもらうことで留年を続けていたのでした。大学院の受験が僕の留年の口実でしたが、社会に出るのを少しでも先送りにしたいというのが本音でした。しかしいつまでそうしていられるはずもなく、この宙ぶらりんな時間は、近い将来必ず終わりが来るのです。

 研究室のドアを何度ノックしても返事がないので留守かと思いましたが、在室を示す札がドアからぶら下がっていたので、思い切って開けてみました。

 ケルトの神話の研究を専門とするその人はソファでうたた寝をしていて、僕が部屋に入っていったことに気づきませんでした。

「先生」

 僕は少々遠慮して話しかけました。

 やあ、と言って、先生は驚いた様子もなく目を開きました。

「部屋を片づけていたらなんだか疲れてしまってね」

 そういえば、いつもは雑然と散らかっている部屋の中が、相変わらず混沌としている本棚以外は、あまりにも不自然に整頓されています。かつてここの主人は自分達だとばかりに研究室を占拠していた生活雑貨が、いくつかのこじんまりとした固まりにまとめられていました。

「まるで引っ越しをするみたいですね」

「ああ。本物の引っ越しだ」

 僕は何気なく言ったのですが、仰向けに天井を見たまま返事をした先生の口調は真面目でした。 

「僕もいよいよお払い箱だな」

 そう言うと、彼は大儀そうに起き上がりました。

「どういうことですか」

「大学の機構改革の話は知っているだろう。実用的な学問以外はうちの学校には必要ないんだとさ」

 新年度からカリキュラムが大幅に変更され、教養課程の段階から多くの専門科目を履修せねばならなくなるという話は知っていました。そして、それに伴って多くの人文系一般教養科目が切り捨てられるという話でした。それは本来学問の府であるべき大学を専門学校化するものだとして教授会で反発を呼びましたが、新年度から学長に就任す官僚出身の学部長に押し切られる形で断行されました。彼の専横ぶりには以前から批判があったのですが、経済産業省の役人出身の彼は文部科学省の現役官僚とも関係が深く、誰も彼を止められなかったのです。

「一応僕のゼミは語学ゼミとして残ることになるらしい。もっとも、名前は商業英語なんていう色気のないものになるがね。そうそう、君の身柄は後任の担当教官に引き渡すから安心しなさい」

「先生のゼミはうちの大学には珍しく、のんびりした雰囲気で楽しかったのに残念です」

「珍しいということはふさわしくないということさ。実はかえって追っ払われてほっとしている部分もあるんだよ。我々人文系の教員は、ここではなにかと肩身が狭いからねえ。今度引き取ってもらえるのはやや辺境だが、ここにはない文学部だ。僕は本来妖精だの魔物だの、おおよそ生産性とか経済効率とやらには関係のないものを追いかけているのが性に合っているのさ。僕のゼミ、我が『文芸経営学』の講義案内をおぼえているかい。『イギリス・アメリカの経営活動の背後にある精神風土の違いを文学作品を通じて考察する』だとよ。悩んだあげく、いい加減酔っぱらってでっち上げた迷コピーだ。相当実学に媚びたつもりだったのに、当局のお気に召さなかったらしい。まあ、やってたのは単なる幻想文学の読書会だったんだから仕方ない。いや実に、日本経済に栄光あれだ」

 先生はそう言うと、苦笑いしながらのび放題になった白髪のくせっ毛をかき上げました。

「ところで君は、来年も大学院を受けるのかい」

「え、ええ、まあ。英文学を二、三受けてみようかと・・・」

「その返事では迷ってるみたいだな。研究者なんて毎日ぶらぶらしていると思われているが、端で見ているほど気楽な稼業じゃないよ。長い間教授の使いっ走りをせにゃならんし、派閥争いはあるし、当局殿のご機嫌次第で僕のように突然おっぽり出されたりもする。競争とか根回しとか、そんなものには無縁のように見えるだろうが、実はえらくどろどろした醜い一面もあるんだ。おまけに最近は任期付の不安定なポストが増える一方とくる。案外ふつうのサラリーマンの方が呑気にしていられるかもしれないよ」

 研究室の長いアーチ型の窓から差し込む光線が、僕たちの距離をどんどん遠ざけていくように思いました。

 そもそも僕が研究者を目指そうと思ったそもそもの動機は、民間企業のような殺伐とした競争社会にはついていけまいと思ったからなのです。なんだか、自分の居場所はこの世の中に存在しないような気がしてきました。

「新しいところへ行っても頑張って下さい」

 僕はやっとそう言うと、立ち上がって頭を下げました。

「確か、ぼくの新しい連絡先のメモがあった筈なんだが」

 いまだにスマホも携帯電話も持たない先生は慌ただしく上着のポケットをいくつかかき回した後、捜し物をあきらめて言いました。

「おかしいな。まあ、後で連絡するよ」

 僕はもう一度軽く頭を下げて、あまりにも素っ気なく先生と別れました。なんだか、やりきれない気分でした。


 研究室を出た僕は、午後のキャンパスをぶらぶら歩き始めました。風のない暖かな庭には梅の香りが立ち込めていました。新芽が膨らみかけた植え込みに降り注ぐ午後の日差しが、新緑の季節への憧れをかき立てました。

 そのとき、遠い昔のあのひと、あの出来事が不意によみがえりました。今もあのひとはどこかでピアノを弾いているのでしょうか。甘い梅の香りが、幼い頃の記憶を心の奥から引き出すかのように思えました。

 表通りへ出た僕は、かつてよく通ったジャズ喫茶へ入り、薄暗い店内の懐かしいソファにどっかりと腰を下ろしました。煙草の煙でくすんだ店内に、テナーサックスの重苦しい音色が響いています。

 ここはかつて僕の仲間達のたまり場で、突然の休講や退屈な午後に顔を出せば、誰かしらに会うことができました。司法試験を目指して留年を続ける先輩や、作家や漫画家志望のちょっと個性的な連中、そして映像作家を目指していたかつての親友。店内を見渡してみても、もう彼らの姿はありません。薄汚い出で立ちの僕らはいつでも店の奥の階段の傾斜の下にある穴蔵みたいな席を占拠して、毒にも薬にもならない意味不明の精神論を闘わせては悦に入っていました。あの頃永遠に続くかに思えた僕たちの限りなく無責任な時間は、もう終わりを告げているのです。

 僕は隅っこの本棚の一番下の段から、当時好きだった少女漫画を取り出すと、ひたすら読みふけりました。すっかりすり切れたページが、時間の経過を容赦なく物語っていました。相変わらずうっとうしい僕の前髪だけがあの頃の自分の存在証明のように思えて、漫画のページをめくるおりに執拗に何度もかき上げました。

 ふと時計を見ると、既に六時近くなっています。僕は頼んだ記憶さえ定かでない冷め切ったコーヒーを飲み干すと、席を立ちました。

 金を払って店を出るとき、閉店を知らせる張り紙がドアに貼られているのに気付きました。はっとした僕はマスターになにか言おうとしてレジを振り返りましたが、すでに彼の姿はありませんでした。


 店の外に出ると、学生街はすっかり夕暮れに包まれていました。駅へ続く広い歩道を、スーツ姿の人々がせわしなく僕を追い越していきます。ふとそのうちの一人が、振り返りざまに僕の顔を見つめて立ち止まりました。僕は彼が誰なのかすぐにはわかりませんでしたが、やあ、と話しかけてきた声には確かな聞き覚えがありました。それは、かつての親友でした。  

「やあ、久しぶり」

 僕はちょっと戸惑いつつ挨拶を返しました。以前はだらしなく延ばしていた髪を短く切り揃え、ダークスーツを上品に着こなした彼の姿は別人のようでした。僕は、すぐに気づかなかったことを言い訳がましい誉め言葉で説明していました。

「元気そうでなによりだよ。それにしても、君はスーツが似合うんだな。早くも板に付いた社会人といった感じだ」

「とんでもない。なにしろ最近のご時世だから、いつ首を切られても不思議はない身分だよ」

 ある大手の証券会社に就職した彼は、僕がかつて親友と呼んでいた数少ない人物でした。僕たちが共通して持っていた「サラリーマンにはなりたくない」という漠然とした思いは、伝統的に会社員の養成学校と揶揄される僕達の大学において、かなり先鋭的なものだったと思います。僕達はそれを承知の上で異端者を標榜していたのでした。僕達を唯一結びつけていたのは、そんな頼りなく幼稚な粋がりだったかもしれません。しかし、盲目的に「大手一流企業」を目指すことの滑稽さ、さらにそれに対してほとんどだれも疑問を唱えないことの不気味さを人一倍強く感じていた自分たちのメンタリティは、他の連中よりも「知的」であるという信念を、僕達はあらゆる場面で確認し合っていたのでした。だから、映像作家を目指していた彼が突然証券会社に就職したときは、裏切られたという思いで一杯でした。

 「大人」になることを人一倍嫌がっていた彼。ことあるごとにあらゆる世の中のインチキに毒づき、サリンジャーの小説を映画化することを夢見ていた彼にとって、証券マンは少なくとも最悪の人種としてイメージされているべき筈のものでした。

「ところで、今日はなにか学校にでも用があったのかい」

 僕は自分の不自然な笑顔を不愉快に思いながらも、当たり障りのない挨拶を精一杯続けました。もはや彼に対するぎくしゃくした思いは修復不可能なものであることはわかっていました。それをおそらく承知で話しかけてきた彼を、僕はなんだか恨めしく思いました。

「ああ。実は何年も前に図書館から借りた本を夕べ発見してね。今し方返却してきたところだ」

 僕はこのこざっぱりとした典型的好青年がかつての親友であるという実感を、どうしても持てませんでした。社会に出た人間は、誰でもこんな風に正しい姿勢で空々しく会話を交わすのでしょうか。落ち着き払った彼の前で、僕はますます不安定な気分になりました。

 知っていて知らない人。顔なじみの他人。僕はたまらない不気味さと寂しさを感じずにはおれませんでした。一刻も早くこの男の前を去りたいと思いました。

 しかしそんな気持ちとは裏腹に、僕の口から出た言葉ははむしろ正反対のものでした。

「時間があったらちょっとつき合わないか。久しぶりに一緒に飲みたくなった」

 僕はおそらく、目の前にいるこの男の正体を見極めるつもりでした。

「そうだな」

 彼はジャケットの内ポケットからスマホを取り出すと、手早くスケジュールを確認しました。それから時計に目をやり、無機質な笑顔で答えました。

「明日は9時に出勤すれば間に合うし、今日中に準備することも特になさそうだ。それほど遅くならなければつき合えるよ」

 彼の仕草や言葉遣い、口調の一つ一つが僕を苛立たせました。なぜ以前のように自然に振る舞えないのかと思いました。かつてあれほど良くも悪くも人間くさかった彼は、社会人という、サラリーマンという別の人格になってしまったのでしょうか。

 僕達は学生街のはずれにある店のカウンターに並んで座りました。彼と何度この店で飲み明かしたかわかりません。生活のためというより趣味で経営しているという中年のマスターは相変わらず白髪混じりの髭を伸ばし、頭に赤いバンダナを巻いていました。僕も以前のように薄汚いジーンズを履き、洗いさらしたデニムのシャツを着ていました。すぐ脇のテーブルでは眼鏡をかけた面長の学生が学長の専横ぶりを非難しており、隣の女の子はあまり興味がなさそうに水割りをなめながら聞いています。まるで時間が止まったようなこの店で、スーツ姿で取り澄ました感じの彼は、未来からの訪問者のように見えました。 僕はマスターにビールを注文して、煙草に火をつけました。そして、軽い身のこなしで空いているテーブルから灰皿をとってくれた彼に切り出す話を懸命に探しました。

 気まずい沈黙はマスターが景気良くカウンターに置いたビールによって辛うじて救われました。僕達はグラスにビールを注ぎ合い、軽く乾杯しました。

「来年も大学院を受けるのか」

 先に話を仕掛けてきたのは彼の方でした。

「一応、そのつもりだけど」

「勉強ははかどっているのかい」

「ああ。まあ、ぼちぼちやっているさ」

 僕はグラスを口に持っていきながら、曖昧な返答が軽蔑を買っていまいかと彼の顔色をうかがいました。彼とこんなに気まずく会話を交わすときが来るとは、信じられないことでした。

「夢にしがみつくのもいいが、適当なところで妥協しないと人生に乗り遅れるよ」

 僕は、この男のなにもかもが以前とは変わってしまったことを改めて実感しました。大学のサークルで自主制作の映画を作っていた頃の彼は、おおよそ妥協という言葉には縁遠い男でした。学園祭で発表する映画のために書いたシナリオを何度も手直ししたあげく、完成が間に合わなくなることが明白になって、撮影そのものを中止してしまったこともありました。そんな完全主義的なところが、好くも悪くも彼の個性でした。学食の隅っこの喫煙席で煙草を吹かしながらノートパソコンのキーボードを打ち続ける彼を、何度か見たことがあります。徹夜続きと思しき血走った瞳でパソコンにしがみつく彼に、僕は話しかけることさえできませんでした。

 あの男と、目の前にいるこの人物とは、一体どんな関係にあるのでしょうか。この男は彼を、かつての自分自身をどんな方法で葬り去ったのでしょうか。

「君は妥協して就職したのかい」

 少し酔いの回ってきた僕は思い切って聞いてみました。

「妥協か」

 彼は煙草に火をつけると、深々と吸い込みました。

「もちろん僕には夢もあったからね。それを諦めたという意味では、きっと妥協したんだろうな」

 彼は冷静な口調で続けました。

「だがね、僕の夢はそれこそ実現困難なものだった。いつまでも挑戦する意味のないものだったんだ。いつかはきっと諦めるときが来た筈だ」

 彼はそう言うと、お通しで出されたホウレンソウの胡麻和えを箸でつまみはじめました。

「君は挑戦もしないで夢から逃げたんじゃないのか」

 僕はこの男を怒らせるのを覚悟で言いました。

「そうさ、逃げた。確かに僕は逃げた。でも、挑戦といったって方法がなかったんだ」

 彼は相変わらず静かに続けました。

「映画の撮影なんて、恐ろしく金も手間もかかる。機材は調達しなきゃならないし、キャストも揃えなけりゃならない。僕のやっていたままごとでさえどれくらい大変だったか、君も見ていただろう。あの程度のことだって時間が無尽蔵にあり、クラブの機材を自由に使える学生だったからできたことだ。卒業して社会に出た時点で、僕が夢を追いかける方法は無くなったんだ。よっぽど僕の映像に共感して金を出してくれる酔狂なスポンサーでもいれば別だがね」 

「金なんか無くたって、方法なんかあるんじゃないのか」

「例えばどんな」

 僕は答えられませんでした。実際、なんの考えもなく口から出てしまった言葉なのです。僕はただ、あまりに短期間での親友の変貌ぶりに戸惑い、自分との間に果てしない距離ができてしまった寂しさに苛立っていたのです。

「例えば映画の製作会社を受け直すとか、時分の作品を持ち込むとか。今は作品をネットで公開することだってできるじゃないか」

 彼は黙って首を横に振りました。

「映画会社が狭き門だってことくらい知っているだろう。何度受けたところで採用される見込みはない。無名の僕の作品をネットで公開したところで誰が見てくれるかわからないし、支持される保証もない。第一その間の生活は、いったい誰が保障してくれるんだい。それに、もう僕は作品を撮る情熱自体を無くしてしまった」

 彼の口調は本当に穏やかなものでした。それが現在の自分に対する自信なのか、すべてを諦めた末にたどりついた悟りの境地なのか、僕には判然としませんでした。

「確かに夢は大切なものさ。でも、古い夢にいつまでも縛られていると、手の届く幸せをすべて逃してしまう。夢と心中するなんて、つまらないことだと思うよ。結局の所、僕の夢なんて、所詮その程度のものだったということなんだろうね」

 それから、と言って彼は少し間をおき、照れるように続けました。

「実は、この秋に結婚することになった」

 僕は本当はこの男に、夢に破れた敗北者らしい卑屈な態度をとらせたかったのだと思います。そして、現実の社会がいかに殺伐としたつまらないものであるか、昔のように毒づいて欲しかったのでしょう。

 いかめしい口調で学長の批判をしていた眼鏡の学生はいつしかスマホを取り出して、隣の女の子となにかの映像を眺めながら楽しそうに笑い合っていました。

 僕はこれ以上彼に無駄な挑発を企てても、自分が惨めになるだけだということを悟りました。彼はもう、とりとめもない夢からさめた、現実の世界の住人なのです。

「君は自分の選択に納得しているようだね。昔の話ばかりしてすまなかった」

 僕は彼の空いたグラスにビールを注ぎました。ありがとう、と彼が小さな声で言った気がしました。

 どんなに夢を描いても、なりたい自分になれなくても、いつかは働いて生活を支えねばならないときが来ます。大人達にはきっとそれにうまく対処する方法があって、不本意なことでもてきぱきとこなす方便が存在するのでしょう。きっと僕のゼミの先生もそうやって、僕からみれば信じられないくらいしたたかで器用に生きているのです。そうした妥協を上手に身につけられるか、というよりも、そうした妥協を受け入れる決心ができるかどうかで、きっと世間でいう「大人」になれるかが決まるのです。僕達をどうしようもなく隔ててしまったのは、まさにこの点でした。かつてなんでも言い合うことのできた親友同士だった僕達の間には、今や大人と子供という人種の壁が立ちはだかってしまったのです。そして僕は、寂しさと恐怖心を紛らわすために八つ当たりする相手を捜す惨めな子供でした。

 僕は底なしに悲しい気持ちになり、何本目かの煙草に火を付けました。僕の空いたグラスに彼がビールを注ぎました。なぜだか涙が出ました。

 それから僕達はしばらくの間、他愛もない思い出話にふけりました。僕にとってはまだ生々しい2、3年前の出来事を、彼は本当に懐かしそうに振り返りました。そして、彼の話題の選び方から微細な言い回しに至るまでが、僕に対する悲しい気遣いに満ちていました。

 すぐ脇のテーブルのカップルは席を立ち、寄り添いながら店を出ていきました。開いた扉から、甘い香りの夜風が流れ込んできました。

「そろそろ出ようか」

 彼は時計に目をやり、勘定の明細をつかんで立ち上がりました。酔いの回った僕は、黙って彼の後に続きました。

 外にはひんやりとしたもやが立ち込めていて、タイルの敷かれた並木の歩道に点々と灯った街路灯の光が不確かにかすんでいました。

「今日は本当に久しぶりに学生気分に戻れて楽しかった。それにしても、君のように本音で話してくれる友達は本当に貴重だ。近いうちに、是非また飲みたいな」

 僕は彼におごってもらった礼を言うと、手を振って分かれました。並木道を駅の方向に歩いていく彼の後ろ姿が夜霧に消えていく様子をぼんやりと見送りながら、もう二度とあの男に会うことはないだろうと思いました。

 僕の脳裏には深夜この大学通りで泥酔して、長い髪を振り乱しながら分かれた彼女の名前をわめき続けた男の姿が焼き付いています。きっと僕はあの日のように、彼に感情をむき出しにして欲しかったのだと思います。そして、彼も僕と同じ寂しさを共有していることを確認したかったのでしょう。現実という、絶対に勝ち目のない敵に立ち向かわねばならない底知れぬ寂しさを。

 結局彼は僕にあからさまな感情を示そうとはしませんでした。あるいはすっかり現実と和解してしまった今の彼にとって、僕の存在などいかなる感情も喚起し得ないほど取るに足らないものになってしまったのかもしれません。大学院を受験する動機の曖昧さをはじめ、彼が僕の今後について詮索する材料などいくらでもあったはずです。しかし彼は僕の将来に対する見通しのなさについて、なんの非難も追求もしようとしませんでした。それが彼の優しさなのか、あるいは突き放した冷たさなのか、僕にはわかりませんでした。


 薄もやの中を僕は歩き始めました。湿気を帯びた三月の夜風は、甘い花の香りに満ちていました。そんな夜風に誘われるまま歩き続けた僕は、いつしかうらぶれた飲食店が立ち並ぶ町のはずれに来ていました。街路の傷んだ蛍光灯が思いだしたように点滅を繰り返していました。社会からの逸脱という、以前夢見た状況がこの上なく惨めに思えて僕は泣きました。

 不意に目の前のスナックの扉が開き、泥酔した客がつまずくように出てきました。半開きになった扉の前を通り過ぎようとしたそのとき、僕は店の中から流れてきたピアノの音に立ち止まりました。さっきの泥酔した客が僕にぶつかりそうになり、下品な言葉を吐きかけてよろよろと歩いていきました。そして彼は電柱の脇にうずくまり、せき込みながら嘔吐し始めました。僕は半開きになったままの店の扉から流れてくるピアノの音に、呆然と聞き入っていました。酔っぱらい達の喧噪に混じって聞こえてきたそのメロディーは、僕が幼い頃に聴いたあの旋律だったのす。

 僕は半開きになった扉を開くと、吸い込まれるように中へ入りました。入り口のすぐ脇にあるカウンターでは数人の客がママをからかっていて、太ったママは品のない笑い声を上げて大きなイヤリングを揺らしていました。店の一番奥では真っ赤なブラウスを着た髪の長い女の人が後ろ向きにピアノへ向かい、確かにあのメロディーを奏でています。紫色の薄汚れたカーペットを踏んで中へ入ると、ママは化粧の濃い目尻にしわを寄せて、いらっしゃい、と言いました。僕は店の奥でピアノを弾いている女の人の長い髪や細い背中を、まじまじとと見つめました。僕がピアノの側にある安っぽいビニール張りのソファに向かおうとすると、ママに引き留められました。

「お兄さん、そんな隅っこへ行かないでカウンターに座んなさいな」

 僕は彼女の言葉を無視して奥へ行こうとしたのですが、作業服姿の客が強引に僕の腕をつかんで隣に座らせました。

「ママがせっかくそう言ってるんだ。一緒に飲もうじゃねえか」

 僕は彼のぞんざいな言葉遣いと吐きかける酒臭い息にすっかりうんざりしてしまって、この店に入ったことを後悔しました。

「あんた見かけない顔だけど、うちは初めてだね」

 ママがいきなり僕にグラスを押しつけると、頼んでもいないビールを勢い好く注ぎ始めました。そして、やはり頼んでもいないサラミとチーズの盛り合わせを乱暴に僕の目の前に突き出しました。

「ええ。ついなんとなく入りましたが、来たのは初めてです」

 僕は居心地の悪さに、自分でもあきれるくらいぎくしゃくした返事をしました。

 僕はすぐにピアノの話を切り出すつもりでした。あのメロディーの名前さえ知ることができれば、もうこの店にはなんの用もなかったからです。しかし、既に女の人は別の曲を引き始めていました。

 僕は黙ってグラスのビールを飲み、でたらめな大きさで切られたサラミをつまみました。「あんちゃん、おとなしいんだね」

 作業服の男が話しかけてきました。

「あんた、なんの仕事してんだい」

「いえ、学生です」

 僕はなんだか社会人に見られたことが不愉快で、できるだけきっぱりと答えました。急に自分が歳をとったように感じたからです。

 作業服の男は馬鹿にしたようにふん、と鼻で笑うと、そいつはいい身分だね、と言いました。

「俺なんか、高校やめてから働いて、8年目だ」

 僕は、すっかり世間ずれしたようなこの男が自分と大差のない年齢であることに強いショックを受けました。そして、僕を完全に見下したような彼の態度に、本当に深い嫌悪を感じました。

「いつまでも親のすねばかりかじっていないで、働かなきゃ男は一人前じゃないよ」

 太ったママが僕のグラスにビールを流し込みながら威勢のいい声で言いました。作業服の男の向こうに座っている、濃い紫のセーターを着た体格のいい中年が、うん、うん、と頷く様子が、余計に僕を不快にさせました。

 社会に出ること、働くということがそれ程立派で、働いていないということがそれ程軽蔑に値することなのでしょうか。人を騙したり、弱みにつけ込んで脅したりしながらお金を稼ぐ人は、世の中にたくさんいます。僕はそんな人達よりも悪くて恥ずべき存在なのでしょうか。働くということが必ずしも世の中のためになっているのではないということについて、この人達はどう考えているのでしょう。

 僕はさっきまで一緒だった友人のことを思い出しました。彼が証券会社で具体的にどんな仕事をしているのか、全くわかりません。しかし株式にしても、売る側がいて、買う側がいて、その受給のバランスのもとに市場が成り立っているはずです。同じ銘柄の株式をあるところでは売り、あるところでは買い、そのたびに二枚舌を使い分ける彼の姿が悪夢のように浮かび上がってきました。それは僕がこれまで、半ば無意識に否定し続けてきたイメージです。

「最近は景気がいいといっても名ばかりで、就職は大変よね」

 ママの野太いハスキー声が無遠慮に言いました。

「なんなら、俺んとこへ来るか。力仕事くらいできるだろ」

 セーターの中年がカウンターの椅子から下りると、僕の後ろのテーブルへ座りました。「ほれ、腕相撲だ」

 彼はセーターの袖をまくり上げると、テーブルに肘をついて僕を見上げました。陽に焼けた太い首筋に、ごろごろした金のネックレスが光っていました。作業服の男とママが僕を冷やかすようにはやし立てました。僕はまわりじゅうから脅迫を受けたような状況を無視することができずにカウンターから下りると、彼とテーブルに向かい合いました。黒々とした太い腕が僕の貧弱な腕をつかんだ瞬間、勝負はついていました。

「だめだ。こんなんじゃ使いもんにならん」

 中年の男はそういうとげらげら笑いながらカウンターにもどりました。

「あんちゃん、俺んとこの運転手ならやれるだろう」

 作業服の男が同情した様な顔つきで言ったとき、僕はこの男を本当に憎いと思いました。

「いや、免許なんてありませんから」

 僕はわざと平然と吐き捨てました。

「免許もないんじゃ仕事はできないよ、学生さん。学校なんかやめちまって、教習所に言った方がいいよ」

 がさつなママがそう言うと、コップのビールを一気にあおりました。

「いえ、当分働くつもりなんてないんです」

「そうか、あんちゃん金持ちなんだ。親父は社長かなんかだな」

 作業服の男は僕の方に身を乗り出しました。

「俺にちょっとばかし金貸さねえか。ここんとこ、競馬がついてんだ」

「なにがここんとこだい。こないだまぐれで大穴当てただけじゃないないか」

 ママは太い指に挟んだ煙草を吸い込むと、男の顔に煙を吹きかけました。僕はこの連中のやりとりにはついていけないと、しみじみ思いました。

 店の隅の女の人は相変わらずピアノを弾き続けています。さっきから聞こえているのは古いジャズのスタンダードでした。僕は彼女の方を振り返り、細い背中や長い髪を見つめました。

「お兄さん、あの娘が気になるかい」

 ママが僕に顔を近づけて言いました。

「あの娘はちょっとばかしこれでね」

 ママはそう言うと、自分の頭の上で手のひらを開いて見せました。

「まあ、ピアノも弾けるし、器量もまあまあだからうちにおいといてやるんだけどね。いろんなとこを転々としてきたみたいだよ。もともとお嬢さん育ちらしいけど、なにがあったのかねえ」

「あんちゃん、あれは俺の女だからだめだよ」

 隣の男が酒臭い息を吐きかけてきました。

「あいつはいかがわしい店で客に乱暴されてるのを俺が3年前に助けてやった。俺は女が困ってんのを見ちゃあいられねえ質なんだ」

「なにを偉そうに。あんたがあの娘を連れてきたおかげで、店のチンピラが何度も取り返しに来たんじゃないか」

「なんだよ。結局金で片ぁついたんだからいいじゃねえか」

「そうだったね。あの娘に何年も風俗で稼がせた金でね」

「まったく。ママにはかなねえや」

 男はそう言うと、横を向いて煙草の煙を吐き出しました。

 僕はもう、いい加減この場違いな店を出ようと思いました。財布を探して上着のポケットに手を突っ込んでいると、ピアノがあのメロディーを奏で始めたのです。

 とっさに我に返った僕は居ても立ってもいられず、ピアノの女の人に駆け寄りました。

「すみません。ちょっとよろしいですか」

 僕が彼女の顔をのぞき込もうとしたとき、肩を後ろから強い力でつかまれてしまいました。

「あんちゃん、いい気になんなよ。こいつは俺の女だって言ったろ」

 作業服の男はなにかを勘違いした様子でした。上目使いの酔った眼をぎらぎらと濁らせて、僕にすごみました。

「こいつは俺が拾ってやったんだ。俺のアパートで一緒に暮らしている。手ぇ出したらぶっ殺すぞ」

 女の人の後ろ姿は淡々とピアノを弾き続けています。

「僕はこの曲が、この曲の名前を知りたいだけだ」

 男はいぶかしそうにふんと鼻を鳴らすと、女の人におい、と話しかけました。

「このあんちゃんが、その曲を知りてえんだとさ」

 演奏をやめた女の人が、静かにピアノから顔を上げました。

「音楽の名前だよ。なんてえんだ」

 女の人は男の顔を見上げると、ない、と答えました。

「ねえこたあねえだろう。どこでおぼえたんだ」

「子供の頃、自分で作ったの」

 女の人はそう言うと、続きを弾き始めました。

 僕はただ呆然としてしまって、なにも言うことができませんでした。そして、今は悪い夢を見ているのだと、ただただ自分に言い聞かせていました。

「おい、わかったか。自分でこしらえたんだとよ。そんなの嘘にきまってるがな。こいつはよく平気で嘘をつくんだ」

 僕は曖昧な意識の中で、体の一番深い底から押さえきれない怒りがこみ上げてくるのを感じました。

「まあ、いかれちまっているんだからしょうがねえ」

 男はこの上なく下品に笑って続けました。

「でもな、頭はいかれててもあっちの方は上等なもんだぜ」

 気がつくと、僕はこの男の頬を力一杯拳で殴りつけていました。

「貴様のような外道はこのひとにふさわしくない」

 唇を切った男はぺっと唾を吐いて、僕の腹に強烈な一撃を食らわせました。

「この野郎、やっぱり女にちょっかいかける気なんじゃあねえか」

 思わずうずくまった僕は、やっとのことで男の顔を見上げました。男のどんよりと血走った目が僕をにらみつけていました。しかし僕の全身を支配していたのは痛みでも恐怖でもなく、救いようもなくこみ上げてくる悲しい怒りでした。女の人の奏でるあのメロディーは、耳鳴りのように続いていました。

 僕はやっとのことで立ち上がると、渾身の力で男の脇腹を蹴り上げていました。店のママがなにかを叫びました。床に倒れた男は脇腹を押さえてうめき声を上げました。

「貴様に海が見えるか」

 僕は気がつくと、男の胸ぐらをつかんで泣きながらそんなことをわめいていました。

「言ってみやがれ。貴様に海が見えるのか」

 はたと女の人のピアノが止まりました。

 彼女が僕に振り返ったとき、僕は首根っこをつかまれて後ろへ放り出されていました。

「この野郎、気でも触れたか。いい加減にしやがれ」

 僕を投げ飛ばしたのはセーターの中年でした。

「職もねえくせに女になんぞかまうんじゃねえ」

「けんかなら表でしておくれ。まったく、なんて客だい」

 ママが金切り声で叫びました。

 そのとき起きあがってきた男がいきなり僕の顔に頭突きを食らわしました。不意をつかれた僕はふらふらとめまいがしたかと思うと、次の瞬間店の外へ蹴り出されていました。

「勘定はいらないから、二度と来るんじゃないよ」

 ママがそうわめいて、荒っぽく扉を閉めました。店の外はいつの間にか雨が降っていました。僕はしばらくそのまま薄暗い道端に倒れていたような気がします。静かな雨音が幻聴のように続いていました。


 どうやって自分のアパートに戻ったのか、僕は全く思い出せません。目を覚ますと、敷きっぱなしの布団の上に死んだようにうつぶせになっていました。どんよりとけだるい苦痛が体全体を覆い尽くし、まるで全身の血液が滞ってよどんでいるかのようでした。色あせたカーテン越しに部屋へ差し込む山吹色の光は、朝日なのか夕陽なのかわかりませんでした。やっとのことで顔を上げると、シーツのあちこちに黒ずんだ血液の染みがついていました。僕はどうにもならない脱力感にみまわれて、再びがっくりと布団に顔を落としました。鼻や頬の骨が重苦しくずきずきと痛みました。

 しばらくして気がつくと、僕は闇の中に寝ていました。それは底知れぬ深い、空虚な闇でした。関連性のないいくつもの短い夢を見ていたようで、それらが痛む頭の中で入れ替わり立ち替わり蘇っては消えてゆきました。枕元にある電気スタンドに手を伸ばしましたが、どうしてもスイッチを入れることができませんでした。もしかしたら、僕はまだこの時夢の中から抜け出していなかったのかもしれません。そしてまもなく、深い眠りの中に吸い込まれてゆきました。遠くでピアノの音がしていたような気がしました。

 再び目を開けたとき、意識ははっきりとしていました。僕はよろよろと立ち上がってカーテンを開け、外の景色を眺めました。五階の窓から見渡した町並みは白々とした夜明けの光に包まれていました。僕は湿ったベランダに降りると、手すりにもたれて人通りの少ない雨上がりの歩道を見下ろしました。ここから落ちれば死ねるだろうか。僕はぼんやりとそんなことを考えました。そして、そう考える気持ちの自然さに驚きました。

 自殺願望は以前からありました。それは例えば大学受験に失敗したり、つき合っていた女の子に振られたりしたきっかけで、時々顔を出しました。しかし、それは今になってみれば幼稚な粋がりでしかなかった気がします。可哀想な自分に自ら同情したり、死にたいと感じる自分が格好いいと感じたりするナルシズムだった気がします。しかし、今度の死にたい気持ちは以前とは違いました。思い上がった過剰な自意識をもてあそぶためではなく、生きる自信も術もない自分を責めさいなむ救われない自意識から自らを解き放つ必要から出てきた自然な感情でした。本当に僕はすっかり疲れ切っていました。

 遠くの立体交差に灯ったナトリウム灯の向こうの空が、鮮血のように赤く染まっています。僕はもう一度歩道を見下ろしたとき、そこに倒れている自分自身の姿を見たような気がしました。僕はめまいを感じて、思わず手すりにしがみつきました。

 僕はよろけるように部屋へ戻ると、本棚の上に乗っていたウィスキーの瓶を開け、口を付けて流し込みました。空っぽの胃の中に焼けるような液体が流れ込んできました。僕はウィスキーの瓶を持ったまま、再びベランダへもどりました。手すりから見下ろした景色が大きく前後に揺れるような気がしました。そのときにわかに襲ってきた吐き気に思わず口を覆い、僕はその場にしゃがみ込みました。手から放れたウィスキーの瓶が、地面で砕ける音がしました。僕はすぐに洗面所に駆け込み、洗面台にしがみついてむせるようにウィスキーをもどしました。気管に入り込んだ揮発性の液体の痛みに激しくせき込みながら、僕は最後の決断さえ出来ない自分の惨めさに泣きました。


 どのくらい時間が経ったでしょうか。ふと我に返ったときには布団の上でいつもの見慣れた天井を眺めていました。部屋の中には柔らかい朝の光があふれていました。時計を見ると朝の八時半です。僕は布団の上で体を起こし、ベランダに面した南向きの窓に下がったカーテンが静かに揺れる様子をぼんやりと眺めていました。そうしているうちになんと、僕は激しい空腹に気づきました。死のうとしているはずの人間にも食欲という自己保存の本能が働くことに、僕はたまらない滑稽をおぼえました。そして、このまま餓死してしまうのも一つの方法のように思えました。しかしそれができるほどの強靱な意志の持ち主なら、他の方法でいくらでも命を絶つことが出来るでしょう。もし僕に死ぬまで空腹に耐え得る精神力が備わっていたら、そもそもこんな敗北した人生を送っている筈などないのです。僕は立ち上がりました。そして財布を握りしめ、部屋を出ました。

 外はいつもの朝の風景で、私鉄の駅へ続く道を通勤途中の人々がせわしなく歩いています。彼らには皆決められた日常があって、そこからはみ出すことなく規則正しく生活しているのです。僕にはそれがとうてい修得できない高難度の曲芸のように思えました。一体どうやったら自分が決めたわけではない常識や考え方に縛られ、あるいは自ら適応して生きて行くことが出来るのでしょうか。

 僕は駅前にある行きつけのコンビニエンスストアに入りました。店内には耳鳴りのようなピアノの音が鳴り響いていました。僕はそれに耐えられず、さっさとカゴの中にサンドウィッチとビールを放り込んでレジへ持っていきました。バイトのような若い店員がいぶかしげに顔を覗いたのが不愉快で、僕はそそくさと店を出ました。

 駅前ではなにかのキャッチセールスと思われる男に声をかけられました。人生に対してなんの自信も持てない僕のような男は、彼らの格好の獲物に見えるのでしょう。僕は、こんな世の中で平然と生きている人間の方が、実は余程異常なのではないかと考えました。

 現実はいつでも残酷で無遠慮で理不尽で、そして鼻持ちならない偽善者のように、押しつけがましい分別を強要してふんぞり返っています。そんな腐り切ったいかれた世界に適応できないすべての人間に敗北者の烙印を押しながら。

 貴様なんか、誰も認識しなければ存在しないのも同然のくせに!

 僕はあのひとのことを考えました。あのうらぶれたスナックでピアノを弾いていたのは、本当にあのひとだったのでしょうか。もしそうだとしたら、あのひとは綺麗なうそに酔いながら、世の中から逸脱した弱者に甘んじて生きる道を選んだのでしょう。自らの意志というよりも、自己防衛の本能によって。

 僕は自殺を試みた男が食料を詰め込んだ買い物袋を下げて歩いている滑稽さに、心から苦笑しました。

下宿に戻った僕は買い物袋からサンドウィッチを取り出して、次々とビールで流し込みました。そして自分でも驚くくらいの数を平らげた後、そのまま横になりました。


 しばらくの間、なにもしない日々が続きました。毎日布団の中でうとうとと浅い眠りを続け、何度も苦しい寝返りをうちました。そして空腹に耐えられなくなると部屋を這い出してコンビニエンスストアに出かけ、食料を買ってきて食べました。何日も雨が降り続き、湿っぽいぐずついた天気が続いていました。買い物から帰って部屋へ戻ると、腐敗した臭いが鼻をつきました。部屋には食べ物の包み紙やビールの空き缶が散乱し、テーブル代わりの黒い家具調こたつの上には白いほこりが積もっていました。僕は腐臭の漂う玄関で靴を脱ぎながら、僕が死ぬときはきっとこんな臭いを放ちながら朽ちていくのだろうかと考えました。

 僕のような男は、きっと社会という人間の作りだした生態系の中で淘汰されてゆくのが順当なのでしょう。僕はもう、今後の人生を続けていく自信を完全に失っていることを確信しました。湿っぽい布団に横たわっていると、時折雨の音が聞こえてきました。そして、もう二度と起きあがるまいと決心をしました。僕はこのまま世の中に殺されるのを待つのだと、念仏のように繰り返しつぶやいていました。

 食事を絶ってから一週間が過ぎました。あるとき喉がからからに渇き、むせるように咳き込んで夜中に目を覚ましました。僕はよろけながら台所へ向かい、どんぶりに汲んだ水道水を息も継がずに飲み干しました。僕はあえぐように肩で息をし、心臓が立て続けに不整脈を打ちました。すっかり体は弱っているようでしたが、僕はなんの恐怖も感じませんでした。そして、早く楽になりたいとひたすら願いながら布団に潜り込みました。


 曖昧な意識の中でふと気づくと、耳元でピアノの音がしています。遙か彼方であのひとが水色のワンピースを風に泳がせながら野原を走っています。明るい笑い声が風に乗って、螺旋階段のように宙を舞っています。僕は彼女の後を追おうとして、なにかにつまずきました。

 そのとき僕は目を覚まし、枕元の電話が鳴っていることに気づきました。受話器を取る気力のない僕は横になったまま、留守番電話に優しい声でメッセージが入るのを聞きました。それは、故郷の母親の声でした。仕送りを口座に振り込んだこと、家のことはなにも心配しなくてもいいということ、そして、僕の健康を気遣う言葉の数々が懐かしい声で告げられました。思えばこの固定電話も、必要ないという僕を押し切って、引っ越しの日に母が勝手につけたものでした。もしスマホを落としたら連絡に困るだろうというのが理由でした。最後に母が、じゃあ元気でね、と言って受話器を置きました。録音を終えた留守番電話の信号音が、胸をえぐるようにしばらく鳴り続けました。


 僕はただひたすら傷つくことに懸命で、人生の失敗者としての自分しか見えませんでした。そしてひどい世の中の被害者であるという思いを免罪符に、僕自身が誰かを深く傷つける加害者になりうるのだということに、全く気づこうとしませんでした。自分の悲しみしかわからない僕には、僕を気遣う人の気持ちや、それを裏切ったときの彼らの痛みが想像できなかったのです。

 確かに悲しい世の中だと思います。したたかで無神経な人、悪意と欲望に満ちあふれた人、そして、そんな人たちのために純粋な気持ちを踏みにじられ、悲しい気持ち、悔しい気持ちで生き続けねばならない人で、この世の中は満ちあふれています。僕はそんな無情な世の中の一方的な被害者なのだと、自分を決めつけていました。

 でも、今の僕にそんなことが言えるのでしょうか。長い間なんの便りもなかった息子が死を決意していると知ったら、両親はどんな気持ちになるのでしょうか。

 僕は精一杯の力で立ち上がると、よろけながら台所へ行きました。それから震える両手で果物や魚の缶詰をこじ開けると、むさぼるように食べました。そしておそらく、生まれて初めて本気で泣きました。


 暖かな春の日差しの中を土手の上に寝転んでいると、遠くから学校のチャイムが柔らかな風に乗って流れてきます。草のにおいと風のにおいがなんだか懐かしくて、子供の頃、きっとこんな風に春風の中を寝転んでいたときのことを思い出します。僕はさっきからずっと、あの人のことを考えていました。

 あの頃のように無邪気で純粋な僕では、きっといつまでもいられません。どんな生き方を選ぶにせよ、僕もいつの日か要領と分別を身につけた割り切りのいい大人になっているのでしょう。

 けれどどんなに世の中が冷たくても、夢がはかなく裏切られても、人も自分も傷つけずに生きてゆく方法は、きっとどこかにあるような気がします。例え今はまだわからなくても、実在するはずのない絵空事だと大人達に笑われたとしても、多分きっとどこかに。

 雲一つない四月の空を吹き渡るそよ風が、砂浜にうち寄せるさざ波のように優しい調べを奏でていました。

作者の精神的自叙伝のような作品です。自分自身を吐露し尽くしてしまった虚脱感から、しばらくなにも書くことができませんでした。

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Twitterで明らかにヤバい人だから見にきたら滅茶苦茶読みづらい文でやっぱりそういう人なんだなと
[良い点] 胸が痛く熱くなった。この作品は、作者が人生の中で本当に流してきた魂の血で書かれていると感じました。だから描かれているのは本物の人間であり、だからこそここまで胸に迫るのだと思います。心に抱え…
[良い点] 主人公が親友の変化に寂しさを感じている部分が印象に残りました。未練がある様子ではなく、もう完全に受け入れているといった感じで、やはりそれなりに考えた上で、最終的に自分で納得した選択なんだろ…
2019/03/02 05:06 退会済み
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