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scene8

 初めて覚えた中一の頃から毎日欠かさず一回以上はこなしてきたオナニーを一週間もの間我慢していたのは、そんな気にはなれなかったからだ。静流がレイプされるまで、俺の中で性への関心に嫌悪が顔を出すことはなかった。


 チンポをしごくと、どうしても静流の顔が浮かんで、俺の手は止まる。今まで、妄想に静流が出てきて、我慢汁が垂れることはあっても、萎えるなんてことは一度もなかった。 

  

 まだ、オナニーも、それに準じる気持ちも、知らない頃に覚えた静流への想いを純粋だとするなら、欲情を覚えた今の俺の静流への想いはなんだろう。


 静流がレイプされたことで、その行為全てを嫌悪した。自分が欲情すれば、その嫌悪は自分に向かってきて、オナニーするのを我慢した。それが俺にできる嫌悪への線引きで、そうすることで、俺は違うと自分に言い聞かせていた。


 違う。違う。違う。違う。俺は静流を大切に思ってる。でも、それは。


 ――昨日、静流に壊された。


 徹夜のオナニーの後に残ったのは、途方もない快感に反比例した脱力感だった。


 罪悪感、は、なかった。








 レースのカーテンの向こう側は、いつの間にか明度の薄い靄に覆われていた。部屋の壁掛け時計は、五時四分を伝えていた。


 5:04:14。4・22。火。20.4。

 五時四分十四秒、四月二十二日、火曜日、室温20,4度。無感情なその数字の羅列を、無感情に五分ほど眺めながら、五時十分ぴったりに起き出そうと思った。


 体がだるい。頭が重い。昨夜の出来事が抜け切らない。こすり過ぎて、ふやけたチンポの感覚は曖昧だった。


 五時十分。コーヒーが、飲みたかった。










 階下に降りると、キッチンに静流が立っていた。


 制服の上にエプロンを身に着けた静流は、電子レンジの前に佇むようにして、微動だにしなかった。プリーツスカートに、紺のニーソックス。華奢な静流の脚にフィットしたそのラインに自然と目が釣られたのは、静流の制服姿を久しぶりに見るからだろうか。


 そこにいる静流に昨日の静流を重ねて、落ち着かない気持ちが胸を掠めた。昨日静流が残していった言葉は、俺の中の線引きを消して、俺を動揺させる。


 そこにいる静流に、どっちの静流を望んで、声をかけられずにいるのか分からなかった。


「信ちゃん」


 気がついたら、静流と目が合っていた。


「おはよう」


「あ……お、おはよ」


「どうしたの? まだ、五時過ぎだよ。ずいぶん早いね」


「いや……なんか、目が冴えて」


「その割には眠そうな顔だね」


 そう言って、おかしそうに笑う静流に、昨日の気配は感じなかった。意識せずにほっとしているそんな自分に、心のどこかで安堵している自分がいた。もう、昨日の出来事をなかったことになんて、出来ないのに。


「そっちこそ、病み上がりのくせに何してんだよ」


「なにって、いつも通りでしょ」


「無理してまた階段から落ちるなよ」


「……意地悪」


 じとっと俺を睨む静流の目を真正面から受け止める。数秒のにらめっこの後に、俺達はほぼ同じタイミングで吹き出した。


 そのすぐ後に、稼働していた電子レンジが終了の合図を告げる。解凍された冷凍食品を電子レンジから取り出した静流は、調理台の上に置いた三つの弁当箱の中に、それを均等に振り分けていく。


 我が家の家事の主導権は、そのほとんどを静流が握っていた。急造家族が手探りで一番しっくりくる形を追求したその結果に、異論を唱える者は誰もいない。もちろん、俺も父さんも家事には協力するし、静流には今でも気を遣う。それは、静流も同じだろう。


 静流が俺達に負い目を感じた結果の姿に、今を結び付けたくないなんて、不自然な発想だと分かってる。静流の横に本当の母親が立っていれば、この光景も自然に映るのだろうか。キッチンに立つ母親の手伝いをする娘。


 そんなありふれた幸福な光景を思ったことはあっても、想像したことは一度もない。極力、静流がキッチンに立つ時は、俺も手伝うようにはしていた。例え戦力外だろうとも。


「ねえ、信ちゃん」


 冷蔵庫から卵を三つ取り出して、片手でその殻を割ってボウルに落としながら、もう片方の手で菜箸を動かす。そんな隙のない動きを淀みなくこなしながら、静流が不意に声を出した。


 静流の後ろで何を手伝うべきか分からず突っ立っていた俺は、返事をせずに、静流の制服のシャツの上で綺麗に蝶の形に結ばれたエプロンの結び目に目を留めた。


「形だけでも、いつも通りを取り戻したいの」


 それは、俺が一度茶化して終わらせた質問の答えだろうか。静流のその答えは俺に意味も意図も教えない。昨日見た、歪んだ静流の微笑みが脳裏によぎって、俺は少し不安になった。


「私、昨日信ちゃんの部屋でココア飲んだよね」


 ゾクリ、と背筋に悪寒が走った。静流が、火にかけたフライパンの上に卵を落とした。香ばしい音と香りに、静流の声が、紛れた。


「憶えてないの」


「……え?」


 言葉はちゃんと聞き取れたのに、その意味はちゃんと汲み取れなかった。


「昨日、信ちゃんと何を話したのか全然憶えてないの。ココアの味もね、思い出せない」


 フライパンを動かしながら、静流は言葉に意味と意図を込めていく。昨日とは違う不安に、俺はどうしていいか分からず、動けなかった。


「前にもね、似たようなことがあったの。ここに来る前、おばあちゃんと住んでる時にね。っていうか、その時のことはほとんど思い出せないんだけど」


 静流の過去を俺はほとんど知らない。ただ、子供ながらに虐待の意味は理解していたつもりだったし、それが静流の身に起こっていたことも、父さんから聞いてはいた。静流から直接過去の事を聞いたことは一度もない。


「ここに来て、また再燃したのかって、不安。でも、思い出せないのは階段から落ちて頭を打ったからだって、先生に言われて、ふうん、って。納得しようとしたんだけど、昨日のことが思い出せなくて、やっぱり不安。――思い出せないのって、やっぱり、怖いし。っていうか、信ちゃんのココアの味を忘れちゃったのがちょっとショック。こっちにきてからは、こんなこと一度もなかったから」


 フライパンの上で完成したオムレツをまな板に載せて、静流はそれを三等分に切り分ける。冷蔵庫からケチャップを出して、弁当箱の中に振り分けたオムレツにかける。その間も静流は一度もこっちを振り返らなかった。


 静流が不安を訴えるのは、これが初めてだった。本当の悩み事を静流は表に出したことがない。その気配を感じても、俺から必要以上に「どうした」なんて言うこともない。立ち入り過ぎないことで、俺達はお互いに自然でいられる心地いい距離間を作ってきた。それを静流が望んでいると思ったから。


 唐突にその距離を埋めてきた静流に、昨日の出来事が重なった。静流の言う不安に、昨日の出来事が含まれているかどうか、分からない。まるで、二人の静流に静流自身が気づいてないみたいに、そして、気付き始めているみたいに。


 だとするなら、俺はどうすべきなのだろう。静流が吐露してまで訴える不安の拭い方なんて、俺にはまだ分からない。ただ、一つだけ、俺にもできることがある。


「……忘れたんなら、今から淹れてやる」


「え……」


「ちょうどコーヒー飲みたかったし、お湯沸かすだけでお手軽だし。だから言えよ」


 俺の言葉に、静流は振り返らない。俺も、蝶結びに目を落としたまま、言った。


「飲みたくなったら、今までみたいに。ココア、淹れてやるから」


 片手鍋を取り出して、コンロの前に立つ静流の横に立って、湯を沸かす。ぽこぽことお湯が沸騰した頃に、静流は呟いた。


「……ありがと」


「別に。それに、今まで聞いたことなかったし、俺。昔の静流のこととか」


「聞かないでくれたって、分かってる。ありがと、はその意味も込めたつもり」


「……」


「人ってね、表と裏があるでしょ。私、信ちゃんに私の裏側まで見てほしくない。嫌われたくないから。だから――信ちゃんにはこのままでいてほしい。ごめんね……勝手で」


「……いいよ」


 俺に寄り掛かってくる静流の肩は、やっぱり細くて、頼りなかった。でも、控え目に俺に預けてくる静流の重みは心地よくて、静流も同じように感じてくれている気がした。


 昨日と同じで、それでも、違うぬくもり。


 もう壊れてしまった世界の残骸を、どうしたら、元に戻すことができるのだろうか。かすかに卵の甘い香りのするキッチンで、本気でそんなことを考えた。それが願いであることに気付いたのは、静流の全てを知りたがっている自分にもう気付いていたからだ。


 知りたい知りたい知りたい知りたい知りたい知りたい知りたい知りたい知りたい知りたい知りたい知りたい知りたい知りたい知りたい知りたい。


 ――でも、肩に預けられたこの温もりは、失いたくなかった。


 朝靄が晴れて、朝に色が映えるまで、俺達はそのままでいた。



 









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