scene7
さっきまで聞き取れなかったはずの言葉が、まるで隙間を縫うように俺の中に入り込んできた。
冷静な目をして、嬉しいと呟かれた静流の言葉はまるでたちの悪い冗談で、浮かびあがった自嘲めいたその微笑みに、その気配がちらついた。
瞬きもできず、息を呑むことも忘れた。自分がたった今何をしてしまったのかは理解できても、たった今静流の口から吐き出された言葉はまるで理解できなかった。
言葉の意味も意図も置き去りにして、歪んだ笑みを形作る静流の口元が動く。まるで、つぎはぎだらけの現在を嘲るように歪んだ冷笑が、言葉とともに顔を出した。
「ねえ、答えてよ。訊いてるんだよ。こんな汚れた私でもいいの。ねえ。そんな狐につままれたような顔して、意味分かんない振りしてないでさ」
答えてよ。
そう言って、静流は椅子から離れてパイプベッドの上に座った。ギシ、と安っぽい音をスプリングが鳴らして、静流の重みに少しベッドが揺れた。状況が分からないまま、俺はただ怖くなって、隣に座る静流を見ることができなかった。
「知ってるんでしょ。知らない振りしてるだけだよね。それとも、私のこと好きとか言っといて認めたくないだけ? ずるいんだね、信ちゃん」
俺の傍に寄り添って、静流は俺の耳元で囁いた。
「私、レイプされたんだよ。……それでも、好き?」
世界が壊れた錯覚の中に、今の静流は含まれるのだろうか。崩壊の引き金を引いたのは俺? 静流? 初めから、なかったことになんてできなかった現実が、目の前に突きつけられていた。
解離健忘、心因性、外傷性……父さんから受けた説明、提案……納得すればどうにかなると思ったのは、静流が負った傷の大きさを吐きちがえていたからだ。忘れてた? やり直せる? そんなの信じる方がどうかしてる。
分かってる。でも、分からない。
――俺の知らない静流が、ここにいる。
「なに……言ってんだよっ……」
動揺、不安、恐怖、困惑。全部がぐちゃぐちゃになって、眩暈がした。歯を食いしばってみても、それを取り払うことができずに、ただ先走る感情に身を任せるしかなかった。
「お前なに言ってんだよっ!」
俺の肩に寄り掛かってくる静流を振り払って、俺はベッドから腰を上げた。そんな俺を、静流は座ったままで上目遣いに見つめて、首を傾げる。
その仕草も、言葉も、表情も。静流のはずなのに、静流じゃない。訳が分からない。でも、違う。
こんなの違う。違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う。
「なにって? だから、私、レイプされたんだよ。無理矢理犯されたの。私のハジメテの相手は見ず知らずの強姦魔なの。そうやってとぼけてるなら、教えてあげる。私のハジメテがどんなふうだったか――」
違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う。
「――っ!」
気がついたら、静流をベッドの上に押し倒していた。
押し倒した静流の体が、パイプベッドの上で少し弾んだ。トレーナー越しから掴んだ静流の両肩は思ったよりもずっと細くて、俺を躊躇させた。
ベッドシーツの上で乱れた静流の髪。物怖じした様子もなく、表情一つ変えずに俺を見返してくる静流の瞳。そこにある光景全部、俺の知らないものだった。
「認める?」
押し倒したまま身動きの取れないでいる俺の横を、静流の声が流れた。違う。こんなの、やっぱり違うに決まってる。全部、なにもかも、どうかしてる。
「違う。だっ……て、こんなの……お前らしくない」
俺の落とした言葉に、静流は何も言わずに静かに瞼を閉じた。そして、俺の手の中で、静流の小さな肩が小刻みに震えて――ケタケタと静流は笑った。
「違う? お前らしくない? なに言ってんの、信ちゃん。信ちゃん、こいつのことなんにも知らないくせにさ」
「え……?」
「こいつはさ。こいつは、嫌なことなんでも私に押し付けんだよ。お父さんとお母さんが死んだ時も、こっちに越してきてからババアに虐待されてた時も、レイプされた時も。嫌な思いは全部私に押し付けて、いい思い出だけ独り占め。なんなの、それ。私ってなに? ただの苦痛処理係ってか? ――ふざけんな、ふざけんな、ふざけんな、ふざけんな、ふざけんな、ふざけんな、ふざけんな、ふざけんな、ふざけんな、ふざけんな、ふざけんな、ふざけんな……一生眠ってろ、このくそ野郎……」
目を閉じたまま、静流は何かを呪うように言葉を紡いで、それを捨てた。捨てられた言葉の数だけ、静流の顔は泣き顔に変わっていく。涙は零れてこなかった。
「し、静流……」
「――なに、信ちゃん」
瞼を上げて、静流が俺を見た。目が合った。そこにあったはずの泣き顔は、無表情を作る静流に隠されて、もう見えない。
「違う……。お前……静流じゃない。違う。そうだろ」
俺のその言葉に、静流は寂しそうに微笑んだ。
「――そっか。あんたも、私を否定するんだね……」
静流から漏れだした言葉は、予期せず俺を動揺させた。不意に疼いた胸の痛みが、良心の呵責か、罪悪感かも区別がつかない。体から力が抜けて、俺は静流を抑えつけていた手を離した。掌に残ったぬくもりの余韻が消えて、残ったのは不安だけだった。
違った。別人なのに、別人じゃない。静流じゃないのに、静流だ。違うと言った俺が違う。今の静流が俺の知らない静流でも、ここにいるのは静流以外あり得なかった。
何も知ろうとせずに、静流を否定しようとしている自分に、気付いた。知るのが怖くて、目を背けている――静流の言う通り、俺は静流のことを知った気になっていただけで、その実、何も知らなくて――この五年、静流と育んできた時間全部が否定されたような気がした。でも、それは、空想でも幻想でもなくて、確かに俺の記憶に息づいている。
「……ねえ、信ちゃん」
分かったから、抗うことができなかった。俺がしたように、今度は静流が俺をベッドの上に押し倒して、馬乗りになった。
「否定なんてさせてあげない」
静流の手が、シャツの上から俺の腹に押し当てられた。まるでくすぐるように、ゆっくり、ゆっくり、シャツをなぞりながら、静流は俺の胸の上でその手を止める。俺の股関節の上に跨った静流の重みとぬくもりが、俺の理性を抑えつけて……誘う。
「ねえ。私のこと好きなんでしょ? だったら、私のこと好きにしていいよ」
違う。
「――ねえ、私のこと抱きたいんでしょ?」
違う。
「セックス。したいんでしょ?」
違う。
「ねえ。……シて。――私を……否定しないで……」
俺の上に覆いかぶさって、静流は俺の耳元で囁いた。その言葉に、静流がどんな思いを込めたのかも、意味も、願いも、その何一つ分からないまま、俺の体は男としての本能を剥きだして、静流を抱こうとしていた。
静流の口から漏れる甘い言葉は、ココアの匂いを纏わせて。静流の未成熟な体は頼りない感触と柔らかいぬくもりを押しつけて。静流の髪は俺の首筋をくすぐって。静流の吐息は俺の耳元を撫でて。
――俺を誘惑する。
理性なんて、働く余裕はなかった。俺のチンポは静流の女に反応して、ズボンの中で痛いほど勃起した。一週間もの間、処理をしていなかった性欲は、狂おしいほど静流を求めて、暴走した。
静流の肩を抱いて、俺は静流と体制を入れ替えた。静流を仰向けに寝かせて、静流に跨ったまま、上体を起こして、身に着けたシャツを脱ぎ棄てた。まだ何もしてないのに呼吸が荒くなって、心臓が壊れそうなほど早鐘を打った。もう、静流の体しか見えなかった。考えられなかった。
――震える手で、静流のトレーナーを捲るまでは。
露わになった静流の下腹部には、大きな痣が刻まれていた。青紫色に変色したその痣を目にした途端、俺は身動きが取れなくなった。
レイプの痕跡。生々しく残された、触れるだけで痛そうなその傷跡に、触れる勇気は俺にはなかった。
「――ごめん……」
そう呟いて、俺は静流の上から下りて、ベッドからも降りた。めくり上がったトレーナーを無言で直して、静流はゆっくりと体を起こした。
「……今逃げても、同じなのに」
「え……」
「言ったでしょ。否定なんてさせてあげない。あんたが私を抱くまで、私はあんたを誘惑し続けるから」
「そんなの……おかしいだろ。お願いだからさ……――正気に戻ってくれよ、静流」
「上半身裸で、そんなとこまで膨らませといて、なに言ってんの?」
そう言って、静流はクスクス笑ってから、俺の部屋を出て行った。
「じゃあ、私の誘惑に負けてセックスしたらあんたの負けね」
そう、言い残して。
その夜、静流の残り香の中で眠れぬ夜を過ごしたことは言うまでもなく。徹夜でオナニーに没頭し、妄想だけで七発発射の新記録樹立を達成して、俺は果てた。丸めたティッシュの散乱した部屋に漂う臭いの中で、朦朧とした意識に浮かんだのは、淫びに染まった静流の表情だった。
――もう、勃起はしなかった。
scene7を載せるにあたり、scene1の本文を一部修正しました。
なんか、書き始めと作風ががらっと変わってしまい、展開も暴走気味で辻褄が合わなくなったので……。すいません。まだまだ暴走します、多分。