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scene6

 静流の手の中で、マグカップからゆらゆらと湯気が立ち昇っていた。


 夜十時。こんな時間に静流が俺の部屋に訪れることは珍しかったけど、静流が俺の淹れたココアを飲みたいと言い出すのはいつものことだった。


 一週間ぶり。そう言って、マグカップを口に運ぶ静流は随分嬉しそうだったけど、俺の行う作業はいつも、インスタントの粉をマグカップに入れて沸騰させた湯を注ぐだけだ。


 一杯ごとに一袋。妙味を出そうにも獲物がお湯では、濃いか薄いかの違いしかないだろうし、第一さじ加減も適当だ。それなのに毎日風呂上がりに俺にココアを淹れるよう頼んでくる静流のこだわりは、五年も継続されるほど頑なだった。


「ココアが飲みたいんじゃなくて、信ちゃんが淹れたココアが飲みたいの」


 いつか、毎日ココアを要求してくる静流に、そんなにココアが好きなのかと聞いたら、静流はそう答えた。母さんが死ぬ前まで、毎日母さんにココアを入れてもらっていた俺としては、その気持ちは理解できたから、これももう習慣と化している。


 好きな子に「信ちゃんの淹れたココアが飲みたい」と言われれば、それが毎日だって苦にはならないけど、静流の言葉に込められた親しみが、長い年月の中でその種類を変えたかどうかは、定かじゃなかった。


 白のハーフパンツに、長袖の白のトレーナー。風呂上がりの静流からは、かすかにシャンプーの香りがした。トレーナーの袖で覆った両手でマグカップを抱くようにはさんで、静流は何度か慎重にそれを口元に運んでいた。


 無言で行われるその行為を、俺は、静流の目にかかった前髪を見つめながら見守った。勉強机の備え付けの椅子に腰をかけてから、静流は一言も言葉を発さなかった。対面のパイプベッドの上に座って、俺もマグカップを見つめる静流をなにも言わずに眺めていた。


「ねえ、信ちゃん」


 言葉とともに、肩にかかった静流の髪が揺れた。今まで伏せられていた目がゆっくりと俺に注がれる。


「私が入院してる間に、おじさんと何かあった?」


「……なんで?」


「今日、帰って来てから一度もおじさんと口利いてないから、信ちゃん」


 例えば、俺と父さんが喧嘩をすることはほとんどなかった。静流がウチに来てからは、確か一度も父さんと喧嘩をした覚えはない。別にお互いに示し合わせたわけでもなく、父さんも俺も家族としての接し方にはお互いナーバスになっていたのだと思う。


 そのことに静流が影響しているのは確かだった。でも、それが息苦しいと思ったことはないし、元々父さんは快活な性格で、物事において専らのプラス思考、俺にとっても、多分静流にとっても絵にかいたような「いいお父さん」だったから、俺としては別に衝突する理由がなかったのだ。


 ……一週間前までは。


 初めてといってもいい。父さんの存在が息苦しく思えていた。息苦しい……この感情はそう、軽蔑けいべつだ。俺は父さんを軽蔑している。何もできない俺は、自分のことを棚に上げて、大人のくせにと見て見ぬ振りを決め込む父さんを蔑んでいる。それで気は楽になんかならないのに、せめて誰かのせいにしなければ、正気でなんていられない。


 この感情は、多分、静流をレイプした奴をこの手で殺したとしても消えはしないのだろう。


 あの日の夜に、俺の中で世界は崩壊した。無人の薄暗い廊下の片隅で、ゆっくり、ゆっくり、世界は音もなく崩れて消えた。静流が知らない男にレイプされたこんな世界が、正しいわけがない。なくなって当然だ。


 それなのに、目を開けば崩壊したはずの世界はいつまでたってもここにある。静流はなにも知らずに、俺達の心配をしている。


 なんだ、これ。


 時々、本気で気が変になる……。


「――信ちゃん?」


「――まあ、隠しててもどうせばれるし、じゃあ、白状するよ」


 気が変になる。


「この顔のあざは父さんにしこたま殴られた。インフルエンザって言うのも嘘。殴られてひどい顔になって、ここ一週間外に出られなかった。父さんとは今冷戦状態」


 気が変になる。


「え……。おじさんが? ……うそ」


 気が変になる。


 困惑した静流の目から、俺は静流の膝の上に乗ったマグカップに視線を落とした。少し冷めたのだろう。マグカップからはもう、湯気は出てこなかった。


 小さく息をついて、俺は顔を上げた。


「嘘じゃない」


「ほんと、なの?」


「ほんとだよ」


「どうして……なにがあったの。だって、そんなこと――」


「別に。ちょっと部屋で缶ビール飲んでるとこを父さんに見咎められて、口論になった。……それで、まあ、のされたと」


 俺の言葉に、不安げだった静流は呆気にとられたように、目を丸くした。


「なにそれ。嘘でしょ?」


「ほんとで悪かったな、ちくしょう」


 確かにこれは本当のことだ。


「じゃあ、一度も見舞いに来なかったほんとの原因ってそれ?」


「まあ。おかげで食事もろくに喉を通らなくて、少し痩せたかもな」


 そう言って、顔をしかめて頬を撫でて見せると、静流も同じように顔をしかめた。


「いいダイエット方法。今度私も試してみる」


「無理だな。父さんは絶対静流は殴らない」


「殴られるようなこともしないよ、私は。もう……なにがあったの、信ちゃん」


「まあ、男には飲まなきゃやってられないこともあるってことで」


「それで私が納得すると思う?」


「じゃあ、反抗期」


「信ちゃん」


 まるで、悪戯いたずらした子供をたしなめるように俺を睨む静流に、俺は苦笑するしかなかった。


「悪かったよ。でも、ほんと理由は勘弁」


「どうしても?」


「どうしても」


 不満気ながらも、唇を結んだ静流がすでに許容してくれていることは分かっていた。しばらくのにらめっこの後に、静流はうんざりしたように息を吐き出した。残ったココアを一気に飲み干して、マグカップを勉強机の上に置いた静流は、両膝を伸ばして、かかとを立ててアキレス腱を伸ばしながら、上体を被せた。顔の前でぶらつく前髪の隙間から、静流は上目づかいに俺を伺う。


「もしかして、失恋とか」


「……当たらずも、遠からず」


「なにそれ」


 ――本当に唐突だった。


 静流と接していると、唐突に罪悪感が沸き上がって、俺の気はおかしくなる。一度は押しとどめたのに、たった少しの静流の言葉だけで、もうそれはブレーキが利かなくなる。


 静流が蹂躙じゅうりんされたあの日の夜、同時に俺の静流への気持ちも同じ目に遭っていた。失って心が痛むことを失恋と呼ぶなら、確かにその時、俺は静流に失恋している。


 でも、どんなに痛んでも、消えないこの気持ちのよりどころが、あの時から見つからない。まるで、成仏できない亡霊のように、押しとどめるしかないこの気持ちを胸にしまい続けていたのは、確かに静流のためだったのに――。


 もし、俺が静流に告白してしまえば、もし静流にその気がなかったら、静流がウチに居づらくなる。一人ぼっちだった静流の居場所はここしかない。少しでも、静流の居場所を奪うきっかけさえにもなりたくはなかった。傍にいられるだけで満足しようとした。


 ――でも、今は違う。


 抑えられないのか。抑えようとしないのか。


 傍にいたい。そのためなら、静流がレイプされたことも言わずにいる。だから、せめて。


 せめて、ずっと押し込めてきたこのやり場のない気持ちだけは、吐きださせてほしい。


 ああ、そうか。そうなんだ。


 ……オレハモウオカシインダ……。


「ねえ、信ちゃん。知ってるんでしょ? 一週間前、私階段から落ちてさ……記憶飛んじゃったこと。なのに、何も聞かないんだね」


 気を取り直して紡がれた静流の言葉に、俺は静流に目を留めた。静流の唇は動いているのに、その言葉は聞き取れなかった。分からない、分からない。何が正しくて、どうすべきなのか、もう全然分からない。ワケワカメ。


「なあ、静流。ずっと言いたかったんだけどさ」


 分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない分からない――。


 静流が俺を見つめている。俺の言葉を待っている。会話のタイミング、空気、なんだそれ、今どの辺、シシュエーションとか、告白のイメージ? 気持ちとか。すべてを置き去りにして、言葉が勝手に暴走して。


「ずっと、俺、静流のことが好きだった」


 思いの他、冷静に冷静な目をして静流は。


「信ちゃん。私で……いいの? ……嬉しい」


 笑った。


「――でも、こんな汚れた私で、ほんとにいいのかなぁ?」


 世界が、また、壊れ出した。







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