scene5
一週間分溜まった新着メールは全部で十件だった。高校ではまだ俺のメルアドを知るような友達はできていないし、父さんは何か用があれば専ら電話だ。中学時代の友達とも高校に上がってからは連絡を取らなくなった。心当たりは静流しかいない。
久々に開いたケータイのディスプレイに浮かぶ「新着メール10件」のメッセージを、放課後の教室でかれこれ十分ぐらい眺めていた。そこに残された静流の言葉は、入院期間中、一度も見舞いに来なかった薄情者への苦情だろうか。父さんは静流に俺のことをどう話したろう。あの日の夜の口裏合わせを結託してから、父さんとは一言も口をきいていなかった。
静流のためと父さんは言った。静流のためと俺は思った。でも、俺達は何を匿おうとしているのだろう。こんな思いをしてまで、本当は静流が俺達にそれを望まなかったら、全ては無意味なことで、俺達はただ静流を失うだけだ。じゃあ、俺達の失いたくない静流ってなんだ。
レイプされた静流と、レイプされなかった静流。そんな二択を勝手に作りだして、俺達は選ぼうとしている。後者を選ぼうとしている。それが今の静流を拒絶していることだと気づかない振りをして、静流のためと言って、静流が傍にいてほしいから、静流に本当のことを伝えるのが怖いから。
そうしなければやりきれないこのくそみたいな現実に今更気付きながら、せめて静流の笑顔だけでも傍に留めようとしている俺も、最低のくそ野郎だ。
「この世界みんなくそ喰らえ……」
投げやりに呟いた俺の言葉が世界に届くことはなく、教室窓際の隅っこで泡と消えた。選びたくもないのに、選ばないといけない。どこまで逃げても、逃げ場のない現実。あの時のあいつは、多分こんな気分だったのだろう。まるで、世界に喧嘩を売るような目つきをして、あの時のあいつは助けを求めていたのかもしれない。
そんなことに気付かずに差し出した俺の言葉は、あいつを失望させただろうか。せめて、失望する希望だけでもあいつが抱きとめていたとしても、それは何の救いにもなりはしない。
窓際から見える外の景色は、まるで隔絶された世界に見えた。グラウンドに被る夕日の赤は血色に見えるのに、その上で踊るように練習に励む野球部員はみんな、随分楽しそうだった。
窓一枚隔てたその景色が、まるで別世界の出来事に思えた。こんなくそみたいな世界で、何が楽しくて、何が嬉しくて、笑っているのか分からない。
いつまでも眺めていると、気が変になりそうで外から視線を逸らした。俺の手の中で、ケータイのディスプレイは相変わらず「新着メール10件」のメッセージを伝えていた。
まるでお構いなしだった。
家に帰って玄関を上がると、リビングから静流がひょっこり顔を出してきて「おかえり」と俺を迎え入れた。ジーパンにパーカー姿の静流は、まるでレイプされたのが嘘のようにいつもと同じだった。訳が分からず立ち尽くす俺の前で、静流は背伸びをして俺と視線の高さを合わせた。たじろぐ俺に、静流は目を少し見開いた。
「な、なに?」
この状況を打開する方法はそれしかなかった。見失った静流との距離感を確かめようと恐る恐る投げかけた俺の言葉に答えずに、静流はまるで躊躇なく俺の頬に手を当てた。
「な……なに」
「この顔、どうしたの?」
眉をひそめる静流に、眩暈を覚えた。俺の左頬に触れた静流の手のぬくもりは一週間前のあの夜の病室に俺を立ち返らせた。
俺から視線を外して、静流はさらに険しい顔をして、俺の頬を見つめて、撫でる。静流の指先がくすぐったくて、俺は思わず一歩退いて静流の手から逃れた。
「べ、別に。なんでもないよ」
「でも、痛そー」
「なんでもない。痛くもない」
「そう?」
「そうだよ。そんなことより――」
そう言って、俺は静流から目を逸らした。
考えるより先に、思うより先に、自然と言葉が表に出てきた。不安も戸惑いも何もかも、出会って数秒で取り払う静流がすごいのか、俺が単純なのかは微妙なところだ。とにかく、静流がそこにいるだけで、こんな白々しい言葉も吐き出せる俺は、最低のくそ野郎に違いない。
「――もう、平気なのか」
「うん。ごめんね、心配かけて。信ちゃんも風邪引いて大変だったんでしょ。入院中におじさんから聞いたよ。インフルエンザにかかって死にかかってるって」
「……まあ、そういうわけで見舞いに行けなかったと」
「ん。別に気にしてないからいいよ。その代わり、うつさないでよね」
「それは保障しかねるな」
そう言って笑って見せると、静流もおかしそうに微笑んだ。その時だった。
違和感が、俺の胸を掠めた。
……なんだ、これ。そんな感じで、疑問符がそっと俺の頭をよぎった。何に対しての疑問かは分からない。でも、これが罪悪感だというのは理解できた。
レイプされた静流と、レイプされなかった静流。その選択肢が今、俺の脳裏に浮かんでいる。今まで現実逃避ができたのは、静流と接しなくて済んだから。静流と接すること自体が、そのどちらかの選択を強いられることで、少しでもそのことを忘れていられたのは、そこに静流がいてくれて嬉しかったからだ。
でも、信じられなかった。今、目の前にいる静流が見ず知らずの男にレイプされたなんて、たちの悪い冗談にしか思えない。だって、静流は笑ってる。全部忘れて笑ってる。いっそ、直接静流に確かめることができれば、少しは気が紛れるのだろうか。
本気でそうしようと思わず伸ばした俺の手は、すんでのところで静流に触れることはなかった。挙動不審な俺の行動に、静流が首をかしげて俺を見つめる。一度静流の肩先で止めた手で、俺は思い直してから、頼りない静流の肩を叩いた。
「部屋戻るな」
「あ……信ちゃん」
階段の途中で静流が俺を呼び止めて、振り返る。
「ご飯。いいの?」
「……食べてきた」
「そう。ところで、大事なこと忘れてない?」
「大事なこと?」
「そう。とっても、大事なこと」
「……なんだっけ」
少し拗ねたような静流の目に急かされて、俺は考える。少し続いた沈黙に答えをつけたのは、静流だった。
「私まだ、信ちゃんにただいまって言ってないでしょ」
「ああ……うん」
「おかえりって言ってもらえないと言い出せないじゃない」
「そういうもんかな」
「そういうもんだよ」
それは、どうでもいいようなことで、大切なことだった。おかえりと言ってしまえば、その瞬間から、俺は選んだことになる。正しい答えなんて知らないまま、静流のためといって、自分が傷つかずに済む方を。必ず、俺はそっちを選ぶ。そして、今の静流を拒絶するのだ。ただ、傍にいてほしいためだけに。
「――おかえり」
俺の口から流れ出たその声は、随分ぶっきらぼうなものだった。それなのに、静流はとても大事そうに俺の言葉を受け取っていた。胸に両手を置いて、安心したように微笑んで、静流は静かに肯いて、言う。
「――ただいま」
その言葉に込めた静流の思いを図ろうとして、すぐに止めた。俺の言葉と静流の言葉の温度差なんて、図ろうとするだけ馬鹿げてる。ただ、この瞬間静流を拒絶したことを、静流だけには知ってほしくなかった。
照れくさそうに笑う静流に苦笑を返して、俺は部屋に戻った。
一週間前のあの夜から、今も悪夢が続いていることに気付かないまま――。