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scene4

 笑えるようになるまで、どれぐらいかかっただろう。


 母さんが死んでから、笑えるようになるまで――少なくとも1週間では無理だった。


 ――1週間らしい。


 検査入院を終えて、静流が家に帰ってくるまで。つまり、それまでに笑えるようにならなければならない。


 その感覚は今でも覚えている。死という概念をよく知らないその頃の俺が、母さんの死に触れて、感覚的に感じた死の意味は、随分静かなものだった。母さんの最期の二週間を俺は知らない。俺の知らない間に母さんは別人のように衰弱して、最期に見た母さんはまるで生命力を吸い尽くされた老婆みたいだった。


 眠るように、母さんは逝った。また目を覚ますために眠りにつく、そんな自然な行為に思えた。


 それから、俺が母さんの死を理解したのは、日常の中にふと母さんの気配を感じた時だ。もういないのに、確かにあった母さんの存在。それを感じた時、無性に悲しくなったことを覚えている。そして、それから少しして、同い年の女の子がウチで同居することとなった。


 そんな環境の変化に順応できるレベルがどれほどのものか知らないけど、いつの間にか笑えるようになっていた分、俺の順応力はそこそこ高いと思う。日常の辛さを非日常を取り込むことで紛らわせた結果にしても、それは十分に克服と呼べた。思春期の入口をまだうろうろしていたその頃の俺に、異性への関心があまりなかったことが成功の要因だった。


 今の俺が、あの頃のままだったら、きっとこの状況も克服できた。


 女の裸を見てチンポを勃起させることも知らず、オナニーの意味も知らず、射精の瞬間のあの心地よさも知らず、女の胸より股の方が気になることもなく、毎日せんずりに励むこともない。


 レイプの意味も知らない。


 静流が知らない男に乱暴された挙句、無理矢理股を開かされ、中出しされた意味も知らない。


 知らない、分からない、意味不明、ワケワカメ。


 ――笑えって? 


「ぶははははははははははははははは!」


 笑ってみると、案外簡単だった。








 突然、通り魔に背後から刺されるように突発的に崩壊した日常を、静流が帰ってくるまでに修繕しなければならない。つまり、明日までにだ。


 砕けたガラスの破片を一つ一つ拾いあげて、瞬間接着剤で慎重にくっつけていくようなその気の遠くなる一見無意味とも思える作業は、細心の注意を要した。


 静流がいつどこでレイプされて、レイプされてから病院に辿り着くまでの経緯を昨日父さんに聞かされた。知っておくのは家族の義務だと言って話す父さんの本音は、口裏を合わせるために俺も知っておかなければならないからだ。


 父さんの口から出た「家族」という台詞の白々しさに反吐が出た。父さんの目が本気だっただけに一層タチが悪い。犯されたのが実の姉や妹の方が、まだマシだったと本気で思う俺は、いい加減頭のネジが外れかけていた。口の中が痛くてまともなものを食べられないこの五日間、腹が減っては十秒チャージ二時間キープをうたい文句にしたゼリーを流し込む不摂生が影響しているのか。


 贅沢な流動食はやりだすとなかなか止められない。おかげで、父さんに殴られて腫れ上がった顔も口内もおおよそ完治した。その代り、目に見えて顔色が悪くなりやつれた。静流が知れば間違いなく怒りだすだろうけど、そんなことはどうでもいい。


 ――どうやら、静流はレイプされた後、身なりを整えないまま、夜の公園をまるで夢遊病者のように徘徊していたらしい。そういう場合、警察に通報するのが正しいのか、救急車を呼ぶのが正しいのか知らないけど、第一発見者の女性は、そのどちらも選ばず車で静流を病院まで連れて行ってくれた。


 その後、担当医師が静流の持っていたバッグに入っていたケータイから、父さんに連絡。あの夜、第一発見者の女性も病院に残ってくれていたらしいけど、俺が直接その人と顔を合わすことはなかった。


 その数日後、俺が酔っ払って眠っている間に、担当医師と父さん、そして、第一発見者の女性との間で交わされた密約は、全て善意の賜物だ。幸い、静流がレイプされた現場は自宅から二駅も離れた見知らぬ公園の公衆トイレの裏だった。後日、訪れた公園で父さんが静流の身につけていたカーディガンを見つけたらしい。


 あの時間、あの公園に人が通りかかることはあまりないらしく、それこそ、通るのは土地勘のない遊び帰りの女子高生ぐらいだ。目撃者はおそらくいない。


 第一発見者の女性も、良識をわきまえた大人だ。もしいたとしても、ご近所にあの夜のことが漏れる可能性はない。静流の記憶が戻らない限り、俺と父さんは何も知らない振りをしていればいいということだ。


 でも、何もなかったことにするといっても、当然静流がレイプされた事実は変わらない。その時負った傷……特に破られた処女膜を本人が自覚できるかは分からないけど、大抵の女性は初体験の後は膣内に違和感が残るらしい。当然、静流も自分の体に残された変化に気付き、不安になるだろう。


 なんでも、女性の処女膜は激しい動作によって裂けることがあるらしい。処女膜だけが損傷した場合、レイプが原因と考えるのが普通らしいけど、静流がそんなことを知っているわけがない。


 あの日の夜、君は家でうっかり足を踏み外して階段から落ちてしまったんだ。記憶喪失の原因はおそらく、その時強く頭を打ったからだろうね。その時、当たりどころが悪くて膣内の処女膜が裂けてしまったけど、心配ないよ。こういうケースはたまにあるからね。大丈夫。


 それが、静流になされた説明で、俺がこれから口裏を合わせるよう知らされた脚本だ。どんなに説得力がなかろうと、あのイケ面の医師の話術は巧みだった、女なら誰でもころっと騙される……これはただの偏見だ。でも、静流はその説明を信じたらしい。


 こんな時、頼れるあんちゃんがいれば、その脚本にどんなリアクションをしただろう。実の妹が誕生日にレイプされても、告訴に踏み切るあんちゃんは、泣けはしなかったけど共感はできた。でも、今はとてもできそうにない。


 レイプされたことが周りに知れれば、静流は死ぬほど傷つくはずだ。その上、ウチからも引き離されて、児童養護施設に入れられる。――そこに愛はあるのかい? くそ喰らえだ。


「くそ喰らえくそ喰らえくそ喰らえくそ喰らえくそ喰らえくそ喰らえくそ喰らえくそ喰らえくそ喰らえくそ喰らえくそくそくそくそくそくそくそくそ、てめえらみんなくそ喰らえ」


 あの時のあいつの言葉が脳裏をよぎる。呪文のように繰り返されて、俺の中で浮かび上がる。あの時のあいつの顔。声。匂い。全部が溶け合って、浸透する。


「私もあんたも、この世界みんなくそ喰らえ」


 あいつの吐き捨てた言葉が、誰かに届くことはあるのだろうか。


「……くそ喰らえ」


 呟いた俺の声が、誰かに届くことはない。


 明日、静流が帰ってくる。







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