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scene3

 その日の晩、部屋に散乱した空けたビール缶を父さんに見咎められ、寝起きに気絶するまで殴られた。寝ている所にバケツ一杯の水をひっかけられて目を覚ますと、父さんが俺の傍に立っていた。無精髭を生やし、やつれたその人物が父さんであることを理解したのは、二日前の晩にイケ面の医師を罵った時と同じ感じで俺を罵ってきたからだ。


「こんな時にお前は何をやってんだ!」


 問答無用でシャツの襟首を掴み上げられ、顔面に一発。徹夜続きの疲労が寝起きの体に溜まり、挙句の果てに二日酔いで割れるほど疼く頭痛に対面した直後だ。正直、抗議する気力も体力も残っておらず、無抵抗のままさらに殴られ続け、そうしているうちに俺は気を失った。








 目を覚ますと、ぼやけた視界に見慣れた天井が映った。泥沼から這いだしたように思考が粘ついて、ドロドロする……うまく表現できない。痛みとだるさが混合して、神経をなぶり侵食してくる……体が思うように動かなかった。一度瞼を下ろして、そのドロドロに身を任せてみると、案外心地のいいものなのかもしれない。


 弛緩した全身の筋肉の中で、唯一ぎちぎちと硬く引き締まるのは顔面の筋肉だった。ちろちろと口の中で舌を弄ぶと、血の味が喉を通り過ぎた。もう一度同じことを繰り返しても、カラカラに乾いたそこにはもう、唾液は湧いてこなかった。その代りにぷすんと鼻孔から錆びた鉄の臭いに似た空気が漏れた。本当に、これは俺の体なのか。何も見えないと、そんなことにすら自信が持てない。この慣れない感覚に気味の悪さを覚えるだけ目を覚ましてから、俺はもう一度瞼を上げた。


 見慣れた天井。今度は動きそうな首を少し横にずらしてみると、虚ろな顔をした父さんが虚空を見つめて、俺の傍に座り込んでいた。水浸しになった絨毯の上に寝かされたまま、毛布が体の上に掛けられていることに気付いた。もう一度父さんに視線を留めても、父さんは俺に気付かなかった。


 もう一度、天井を見つめる。そうしていると、目の奥から何かが溢れ出してきて、視界がまるで溺れてでもいるようにいびつに歪みだした。眼尻に沿って垂れていくその涙は、悲しくもないのに、しばらく勝手に流れていた。


 なんだろう。ただ気色悪かった。








 ほんの少し口をけると、顎と頬の筋肉がつりそうになった。唇の裏側に唾液が触れるだけでヒリヒリと痛みが走り、左側の奥歯の歯茎上下とも腫れ上がって気持ち悪い。


 いつの間に眠っていたのだろう。気がつくと、父さんの姿はなく、朝陽が窓際のベッドを照らしていた。時間の感覚が分からない。頭も顔も口も痛く、その上、身体からだ全体がだるくて、重い。空腹を通り越して、腹も痛かった。どうすればこんなことになるのか、考えて思い出した。


 丸二日飲まず食わずで徹夜をした三日目の昼間に、缶ビールを四本空けて、眠っている所にバケツ大の水を引っかけられて、寝起きに罵られながら、まるで人の変わった父親に気絶するまで顔面を殴られれば――いや、もっと簡単なことだった。


 どうすれば、こんなことになるのか?


 静流がレイプされれば、こんなことになるのだ。


 思い出すと、途端に起き出すのが億劫になって、何もせず寝たままぼーと天井を眺めた。しばらくそうしていると、戸口から父さんの声が聞こえた。


「起きたのか、信吾……」


 仕方なく、俺は体を起こした。








 ゴミ袋にありったけの氷を詰め込み、そこに水道水を入れた即席の氷嚢ひょうのうを腫れた頬に当てて、タオルの上から押さえた。直に零度を肌に押し付けると、痛みの上に痛みが染み込んで、やがて感覚がなくなっていく。押しつけては、離し。押しつけては、離し。それを繰り返す俺を、父さんは向かいの椅子に座って眺めていた。


 父さんから謝罪の言葉はない。俺からも謝ることはない。分かっているのだ。俺も父さんも、そうしなければどうしようもなかった。そんなことよりも、静流のことが知りたかった。


「学校、欠席の連絡しといたからな……」


 ぽつりと呟いた父さんの声が、物静かなリビングに響いた。俺は氷嚢を顔から離してから、父さんに目を留める。あの日の夜と同じYシャツとズボンを身に着けたままの父さんは、見ていて気の毒なほどくたびれていた。そんな父さんに「静流はどうなの」なんて聞くのは悪い気がしたけど、相手を気遣う余裕なんて今の俺にはなかった。


「静流はどうなの」


 言葉を口に出すと、口の中のいたるところが悲鳴を上げた。思わず顔をしかめると、父さんと目が合った。


「どうなの」


 痛みに喧嘩を売るつもりで、もう一度繰り返す。すぐに氷嚢を顔に当てて、ついでに父さんを視界から消した。


 陰鬱な沈黙が続いた。それでも、やがて父さんは言った。


「昨日、目を覚ましたよ……。憶えてなかった……」


「憶えて……なかった?」


「その時のことを、静流ちゃんは何も憶えてなかった……」


 実際にそういうケースは少なからずあるらしい。そう言って、俺に説明を始める父さんの言葉に、説得力など当然なかった。でも、解離健忘かいりけんぼうだとか心因性だとか外傷性うんぬんなどと、お経を読み上げるように無気力に話す父さんを制止する気にはなれなかった。


 つまり、静流はショックのあまり「ショックの原因」となった記憶だけを忘れてしまったということらしい。でも、俺にはこの話の辿り着く結論が見えなかった。それは、静流にとって今後の人生を左右する大きな問題で「俺」にとってもそれは深刻な問題だった。


「それで……静流はどうなるの」


 説明の間ずっと氷嚢を顔に当てていた俺は、顔の感覚が凍り付いていることに気付いてそれを離した。父さんの顔が視界に映る。普段の快活さの面影はなく、目の下にクマを作った父さんと目が合って、嫌な予感が顔を出した。嫌な予感……この期に及んで。


「そのことだけどな……」


 父さんが核心に触れる。俺はまた氷嚢を顔に押し当てて父さんを視界から隠した。


 六年前、静流は交通事故で両親を亡くして、祖母の住むこの町に移ってきた。唯一の身寄りだった祖母もその一年後には病気で亡くなり、静流はたった十歳で、一人ぼっちになった。そういう境遇の子供は本来児童養護施設に入れられるらしいけど、最終的には、静流はウチで同居することとなっていた。


 静流の祖母の死と、ウチの母親の死はほぼ同時期の出来事だった。それだけに、俺も父さんも、淋しさを埋めるなにかを求めていた。静流はどうだか分からないけど、たった一人残されたその頃の静流の失ったものは、きっと俺達よりも深く大きかったと思う。


 元々、静流の祖母は体が弱かった。そこに両親を失った女の子が同居となれば、近所の住民もいろいろと気を遣う。そんな環境で生まれた近所の結束力は、児童相談所の職員を説き伏せるまでに拡大し、気が付けば、条件付きで静流はウチで同居することが認められていた。


 正直、俺はその辺の詳しい経緯を知らない。ただ、週に一度の定期訪問を同居の条件に提示してきた市の職員は、今では月に一度しかウチに様子を見に来なくなった。そのお役所仕事を見ていると、当時父さんや近所の住人が静流を自分たちの元に引き止めた理由が分かる気がした。何より、ウチに同居することを最終的に選んだのは、静流本人だった。


 それからこの五年、俺達はうまくやってきた。これからも、うまくやれると思っていた。


「今回のことは……なかったことにする……」


 まるで決まった出来事を話すように、父さんは呟いた。


「静流ちゃんは何も憶えてない……なにもなかった……なにもなかったんだ……大丈夫……やり直せるさ……」


 このことが児童相談所に知れれば、間違いなく静流はこの家から出て行かなければならなくなる。それぐらいは俺にだって分かる。でも。


「泣き寝入りしろって、ことかよ」


 言わずにはいられなかった。


「違う。なにもなかったんだよ……」


「ふざけんなっ! 静流はレイプされたんだろ! 静流に乱暴した奴を野放しにしといて、何がなにもなかっただよ!」


 手にあった氷嚢を思わず父さんに投げつけていた。父さんの胸で弾けた氷嚢がリビングを水浸しにした。感覚を失くした顔面の痛みが、熱を帯びてぶり返してくる。口の中で血の滲む痛みには、歯を食いしばることしかできない。


「じゃあ、お前が静流ちゃんに言ってくれよ……。レイプ……されたんだって……」


 テーブルの上で父さんは頭を抱えて、そう呻いた。


破瓜はかしてた……静流ちゃん、初めてだったんだ……」


 すすり泣く父さんを前にして、俺は力なく椅子に座り込んだ。






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