scene2
翌日、いつも通り学校には行ったものの、静流のことが俺の頭から離れることはなかった。なんでもないクラスメイトの談笑や、授業中の教師のくだらないギャグにさえいちいち苛立つ不毛な時間をひたすらやり過ごして家に帰った頃には、精神的にも肉体的にも限界を迎えていた。昨日から一睡もしていないのだ。
まるで、蟻地獄の巣に突き落とされたような気分だった。逃げ出そうといくら這い出そうとしても、抜け出せない悪夢。昨夜見た穏やかな静流の寝顔が網膜に焼き付いて払えない。どうしても考えてしまうのだ。静流が昨夜、どんな目に遭ったのか――。
考える、かき消す、考える、かき消す、考えるかき消す考えるかき消す考えるかき消す考えるかき消す考えるかき消す考えるかき消す――もう、気が遠くなるほどそれを反復した。そうして何が救われるわけでもなく、忘れられるわけでもない。日常に戻れば気が楽になるような気がした俺が馬鹿だった。かといって、静流に付き添う勇気も俺にはない。
陰鬱な気分のまま、俺は自分の部屋にこもった。
――その日も、父さんは病院から帰ってこなかった。
二日連続で徹夜をするのは、これが初めての経験だった。学校に行く気力を消耗してまで記録を伸ばし続ける自分にいい加減嫌気がさした俺は、投げやりになって台所の冷蔵庫を漁った。
父さんが普段晩酌用にストックしている缶ビールは、昨日の分を含め三日分、計9本あった。仕事から帰っての、家での一番の楽しみはこれだと語る酔っぱらいの横にはいつもお酌をする静流の姿があった。
一度出来上がった父さんが調子に乗って静流に抱きついたことがあって、それからは俺も晩酌に付き合うようになった。なんだ、親子のスキンシップだろ、いやらしい目で見てんじゃないやぃヒィック、とのたまう酔っ払いに、誰が親子だ、と指摘できなかったのは、静流がうんうんなどと父さんの意見に肯いていたからだ。家族という枠組みから外れた好意をその頃から静流に寄せていた俺は、とにかく、その日以降父さんの晩酌に付き合うという形で、些細な反抗に打って出た。
その行為は、暗に静流に「異性としての好意」をアピールしたものだったけど、それで喜んだのは、お酌の相手が増えた酔っ払い一人で、それ以降毎日晩酌に顔を出すようになった俺に、静流は首を傾げるだけだった。
「ねえ、信ちゃん。私がおじさんにイヤラシイことされるって本気で心配してる?」
その質問は、長い年月で深められた確かな信頼の証しだったけど、俺にとってそれは厄介なものでしかなかった。
「逆に聞くけど、静流は嫌じゃないのか」
「ん。別に嫌じゃないよ」
「忠告しとくけどな。そういう態度は酔っぱらいをつけあがらせるだけだぞ。それに、俺達は一応、他人だろ」
俺の言葉が気に入ったのか、静流は「一応、他人」と俺の言葉を反復して。
「変な日本語」
おかしそうに笑った。
家族として温めてきた感情と、異性の女の子として寄せてしまう感情と。どちらかしか選べないとしたら、どちらを選ぶべきだったのだろう。その答えを先延ばしにして、ただ静流の笑顔を優先したことも、俺の素直な気持ちだった。
あるだけの缶ビールを全て胸に抱え、俺は階段を上がった。
「でも、私はおじさんには感謝してるし、本当のお父さんみたいに思ってる。だから、酔っ払ってても、親子って言ってもらえて嬉しかったけどな」
自分の部屋に戻る前に、隣の閉め切られた静流の部屋の前で足が止まった。
「一応、他人って。信ちゃんの言葉も、ありがたく受け取っとく」
眠気と後悔と不安とやりきれなさと。このまとまらない不安定な気持ちに、どう折り合いをつければいいのか分からない。シャツ越しに胸に浸透してくる缶ビールの冷たさが痛みに変わっても、俺は静流の部屋の前から動くことができなかった。