scene11
くだらないと分かっていながら、つい笑ってしまう。そんな笑い方だった。例えば、テレビで一発ギャグを披露するお笑い芸人にウケるみたいな、そんな気軽な行為にしか見えないのに、その光景は異質だ。
それは、笑うことがこの場にそぐわない行為なのに、静流がまるで当たり前みたいにそうしているからなのか、今の静流の存在自体がそうなのか、そんな見境も曖昧にする。
何がオカシイのか見当もつかないのに、その行為に見入ることしかできなかった。
ヒクつく静流の肩先で、つられて揺れる髪の毛先から、せわしなく伸びたり縮んだりを繰り返す両足の指先まで、ケタケタケタケタ。立てた片膝に、もう一方の脚も引き寄せて、椅子の上で体育座りに丸まって、ケタケタケタケタ。振り子みたいに丸めた体を前後に揺らしてケタケタケタケタ。ギシギシと椅子の軋む音と静流の笑い声と。まるで侵食するように俺の部屋に満ちて、それは。
初めからなかったみたいに、消えた。
「解離性なんとか……二重人格? 別の誰か……元の自分……日常生活……自己の同一性? とかなんとか、普段の自分? 主人格? ……お前、静流の交代人格なんだよ。とかなんとか。ヤバい、これ。これ、ヤバい。……すごい、ウケる」
ぶつぶつぶつぶつ、静流は舌の上で言葉を転がす。聞き取れないぐらい小さな声の塊は、やがて静流の中に納まって、静流は視線を俺に預けた。思わず避けた俺の視線は、静流の唇に引きつけられた。
「あいつが今朝言わなかった? 信ちゃんには、このままでいてほしいって。あいつが大切だったら、知らないでいることが信ちゃんにできるせめてものことだったのに。――それとも、私が気付かないとでも思った?」
静流の唇が、麻痺していた俺の感覚を無理矢理呼び起こす。
「私があいつの交代人格だ、って? それで私を否定したつもり? 私を否定したら、あいつを肯定したことになるとでも思ってる? いい加減気付こうよ。それとも、気付かない振りしてるだけ? あいつのこと調べた時点で、信ちゃんあいつの願い無視してる。私のこと待ってた時点で信ちゃん私に惹かれてる」
――でしょ? そう呟いて、静流は抱き寄せていた膝を下ろして、床を蹴った。絨毯の上をキャスターが滑って、椅子は俺のすぐそばで止まる。椅子に座ったまま、静流は俺の胸に手を当てた。
「ねえ。そんなに昨日のがよかった?」
「……そ、んなこと――」
「心臓バクバク言ってるよ。動揺してる? それとも、興奮?」
「違う……」
「ふうん。私には昨日の続きがシタくてたまらないって顔に見えるけど、違うんだ?」
「違う、って言ってるだろ。……離れろよ」
違わない。惹かれてる。昨日静流が残していった感触に。言葉に。今、目の前にいる静流に。
どうしようもなく、惹かれてる。
「だったら、私のこと突き放せば? そしたら、今日は大人しく引き下がってあげる」
胸に手を当てられただけで、全てを支配されているような気がした。目には見えない心を、無防備な心音が暴露する。まるで、それが俺の望むすべてなんだと信じるように物怖じしない静流の眼差しは、完全に狂ってて……魅惑的だった。
静流の掌の温もりが、眼差しが、俺の理性をドロドロに溶かしていく――。
「……っ、どうせ……今突き放しても、また」
「うん。信ちゃんが堕ちるまで何度でも誘ってあげる。っていうかさ――」
クスッと笑って、静流は言った。
「――それ。私を抱きたい、言いわけ?」
否定する前に、静流の唇が俺の唇を塞いだ。躊躇する俺に躊躇せず押し当てられた静流の唇は、俺から否定の言葉を取り上げた。俺の胸に置いた手をベッドの上に置き直して、キスをしたまま静流が椅子から身を乗り出す。唇に張り付いた温もりが熱に浮かされて、強く、強く、俺のものを貪ってくる。
信じられないぐらい近い距離に、静流の顔があった。
今している行為も理解できないまま、初めてのキスの気持ちよさに溺れている最中に、静流と目が合った。唇を交わらせたまま、静流の息がクスリと漏れて俺の鼻先をくすぐった。
かすかに引いたぬくもりの感触に、静流が笑いながらしていることを理解する。
この息苦しさが、キスで口を塞がれているからなのかも分からない。まるでクロールの息継ぎの仕方が分からないみたいに、とにかく苦しさに口を開くと、まるで待ち受けていたみたいに静流の舌が割り込んできた。
舌先で俺の舌をチロチロと弄んで、口腔を静流の舌が這いまわる。静流の息遣いと唾液を纏わせた舌のなめかましい感触が、俺の口内を味見するみたいに動き回った。
何を求められているのかも分からないまま、俺は応えることもできずに、長いキスが終わるまでただやり過ごすことしかできなかった。
唐突に始まったキスは、唐突に終わりを告げて、静流の温度が俺の唇から離れた。
静流の唾液で濡れた俺の唇が、外気に触れた。半口を開けたまま、我に返って、湿った上唇と下唇を恐る恐るひっつける。口の中に残った生々しい静流の感触は、余韻に変わっても、俺の唇を震わせた。
「もしかして、初めてだった?」
俺から離れて、椅子に座り直した静流が淫びに微笑む。嘲っているのか、楽しんでいるのか、自分の唇を指で撫でて静流は。
「――そんなさ。誰にでも手に取れる知識を引っ張り出して来て、私を否定することが信ちゃんのしたかったこと? 違うよね。私を否定したからって、あいつを肯定できるって、そんな消去法みたいな単純な理屈で片付けられるなんて思ってないでしょ? ほんとはさ」
耳を塞ぎたいのに、塞げないのはきっと。
「知りたいんでしょ? 私のこと。私の体も心も丸裸にして、隅々まで舐めつくしたいんでしょ? ほんとは、それを認めるのが怖いだけ」
静流の言葉に。
「ほんとは信ちゃん、私を肯定したがってる」
嘘が、なかったからだ。
「誰よりも、深く深く――知りたいんでしょ? ……いいよ」
椅子に座ったまま、静流は左脚を伸ばした。ふくらはぎにかかった縮んだニーソックスを膝の上まで引き上げて、静流は、もう一度椅子の上で両膝を抱えて「ねえ」と呟く。
「脱がせてよ、信ちゃん」
混乱することもできず、甘美な誘惑を前に俺は。
生唾を飲み込んだ。