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scene10

「どうしたの? いつも部屋にいる時は内鍵かけてるのに、今日はかけてないね」


 部屋に入ってきた静流は、後ろ手にドアを閉めながら、そう言って不敵に笑った。


「もしかして、私が来るの待ってた?」


 吐き出される言葉に、いつも俺をからかう時の親しみの面影はなかった。普段の静流なら、ノックをした後、必ず一声かけてくる。それを言うなら、そもそもこんな時間に静流が俺の部屋を訪れることもまれだった。


 始まりから覗く違和感に現実味を込めるように、扇状的な瞳が俺を捉えた。その眼差しを俺は睨むようにして見返す。あくまで、俺の物差しで込めた敵意を受け止めながら、静流は悪びれることなく、また、後ろ手に部屋の内鍵をかけた。


 カチャリと錠のかかる音が、その行為の意味を告げたような気がした。まるで俺の気持ちを掌で転がすように「ねえ」と楽しげに静流が微笑む。


「答えてよ。私が来るの待ってたの?」


 部屋の入口から動こうとせずに、言葉だけが俺との距離を縮めてくる。あくまで、この状況を俺が望んでいると認めさせようと、この先に待ち受けていることを俺が求めているのだと認めさせようと、静流は笑う。


 沈黙は肯定を意味している気がした。答えが同じでも、せめて言葉に出せば少しは否定的に聞こえるだろうか。長く交わらせた視線を逸らしてから、俺は答えた。


「うん。待ってた」


「へえ。案外あっさり認めるんだ」


「……別に。お前にいろいろ聞きたいことがあるってだけの話だよ。認めるとかどうとかの問題じゃないだろ」


 パイプベッドの上に座り直して、静流を見ないように逸らした視線は意識してそのままにしておいた。視覚の外で、静流が近づいてくる気配は思ったよりも遠かった。視線の先に映る勉強机。その脇にある椅子に腰を下ろして、静流が俺と対面する。それから、うれしい、と呟かれた言葉の意味なんて、静流の顔を伺っても分かるわけがなかった。


「――嬉しい?」


 随分怪訝な顔をしていたのだろう。俺を見て、静流はつまらなそうに言葉を返してきた。


「言っても分からないよ」


「なんだよ、それ。そんなの、言ってみなきゃ分かんないだろ」


「ふうん」


 まるでどうでもいいように息を漏らして、静流は言った。


「私を待ってたってことは、私の存在を知ってる人間がいるって証明。――だから、嬉しい」


 昨夜、俺の耳元で消えた、かすれるような静流の声が脳裏によぎった。


 ――私を……否定しないで……。


 祈りにも似たその言葉は、叶うことを望んでも期待はしていないような気がした。だからこそ、そっと俺の耳元で消えるしかなかった――なんて思うのは、俺の思い過ごしだろうか。嬉しいと言いながら、それをどうでもよさそうに語る静流の真意なんて、静流の言う通り、俺には分からなかった。


「ね。分かんないでしょ」


「まあ。でも……なんかさ」


「なんか?」


「うん。なんか」


「なんか、なによ」


「さあ。でも、なんかなんだよ。……いいから流せよ。空気読め」


「は? なにそれ。意味不明なんだけど」


「うるせえよ。ってか、そもそも意味不明なこと言ってきたのお前だろ」


「聞いてきたのはそっちでしょ」


 睨み合って、しばしの沈黙。いつもの静流ならここで吹き出してくれるはずなのに、目の前の静流は仏頂面のまま俺を見据えたままだ。分かっているはずなのに、少しだけ胸が痛んだ。俺の知ってる静流は、ここにはいない。それを思い出しても、たった今芽生えた戸惑いが和らぐことはなかった。


 ――私を……否定しないで……。


 用意していた覚悟が、揺らいだ気がした。


「――待ってたって、言ったろ。今日、学校の図書室で調べて来たんだ。……お前のこと」


 気を取り直して発した俺の言葉は、ふとすれば忘れ去りそうになる事実を思い出すためのものだった。俺がここで静流を待っていた意味。静流が俺の部屋を訪れた意味。そうすることに、中途半端な馴れ合いは含まれていない。


 俺から核心を切り出すのは、せめてもの虚勢に過ぎなかった。


「ふうん。あんたの学校の図書室に私に関する図鑑でもあるの。一度見てみたいわね。借りて来てよ」


「解離性同一性障害……二重人格について。探してみたら結構あったぞ。借りてこようか」


 喧嘩を売るつもりで突き付けた俺の言葉を、静流は無表情で受け止めた。


 テレビから流れてくる雑音が、訪れた沈黙の中で滑稽に踊った。お笑い芸人の馬鹿げた声は、馬鹿げた一発ギャグを連呼して観客の笑いを取っていた。傍に置いてあったリモコンを掴んでテレビの電源を消すと、耳に残った音の余韻が徐々に消えて、静寂に染まる。


 喧嘩を売ったはずなのに、振り上げた拳をどこに下ろせばいいのか分からなかった。ただ、じっと俺を見つめる静流は無表情のまま、俺もどうすればいいのか分からない。


「ふうん」


 重たい空気に、軽い調子な静流の声が弾んだ。


「それで、今日帰りが遅かったの。私には、友達と遊んでたって言ったのに。嘘つき」


「そっちこそ、嘘つくなよ。俺が今日嘘ついたのは、お前じゃない」


「おかしなこと言うね……信ちゃん」


 わざとらしく含みを込めて俺の名前を呼ぶ静流の瞳は冷静だった。冷静に冷静に扇情的な色を視線に纏わせて、静流は笑う。昨夜のように。


「人間は、繰り返し強い心的外傷を受けた時、自分を守るために、その心的外傷が自分とは違う「別の誰か」に起こったことだとして記憶や意識、知覚を高度に解離してしまうことがある。心的外傷を受けるたびに「別の誰か」になり代わって、それが終わると「元の自分」に戻って日常生活を続ける。

 解離が進んで、「別の誰か」になっている間の記憶や意識の喪失が顕著になって、あたかも「別の誰か」が一つの独立した人格を持っているかのようになって、自己の同一性が高度に損なわれた状態。これが解離性同一性障害」


 淡々と、本に載っていた言葉を反芻する。


「事実、解離性同一性障害の患者は「別の誰か」……「交代人格」になっている間のことを一切覚えていない事が多くて、交代人格は交代人格で「普段の自分」……「主人格」とは独立した記憶を持っている事がほとんど。このような理由から、解離性同一性障害の患者のほとんどが幼児期に何らかの虐待、特に児童虐待を受けている。そして、その多くは性的虐待だ」


 静かに俺の説明に耳を傾ける静流に、俺は。


「お前昨日俺に言っただろ。こいつは、嫌なことなんでも私に押し付けるって。両親が死んだ時も、祖母に虐待された時も、レイプされた時も。嫌な思いは全部私に押し付けるって」


 まくしたてるように、言った。


「静流が心に背負えないだけの痛みから逃げるために作りだした「別人」。それがお前なんだろ」


 昨夜の出来事を静流は憶えていなかった。だから、この瞬間も静流の記憶には残らないことを期待して、静流に隠れて、静流に突き付けていた。せめて誰も救われないそんな現実なんて否定されてしまえばいいと、それを肯定するしかない静流の気持ちも考えないで、俺はただ。


 誰からでもなく、静流を取り戻したかった。


 ――それが、始まりの引き金を引く行為だとも気付かずに。


 俺の話の途中から、静流は椅子の上で片膝を立てて胸に抱いていた。腕の中に額を押し当てて、埋めるようにした静流の顔は隠れて見えない。


 膝を立てて下着の見えるギリギリの線まで捲り上がったプリーツスカートも、立てた膝からずれ落ちて中途半端にふくらはぎにかかった伸びて縮んだニーソックスも、気にせず、静流は小さな体を椅子の上で丸めたまま、動かない。


 制服姿のまま、今日静流はまだ着替えていなかった。学校から帰って、父さんと病院に行って帰ってきたから、着替える暇がなかったのと静流は笑った。面倒臭いから、風呂に入るまで着替えないと静流は言った。部屋に戻ったまま、いつも風呂に入る時間を過ぎても静流は部屋から出なかった。


 今日、病院でのことを静流は一言も話さなかった。


「――お前、静流の交代人格なんだよ」


 どちらかを否定しなければ、どちらかを肯定できないのなら、俺は――。


 小刻みに華奢な肩を震わせて、顔を上げた静流は。


 ――昨日みたいに、ケタケタと笑い出した。









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