白雪
選ばれた恋。誘惑。最も美しい人へ。
うちの大学のテニス・サークルでは、酒宴の頻度がやけに多い印象を受けます。地味なわたしには縁のないことだと思ってはいましたが、どうやらこのサークルでは、隙を見せた女子を酔わせてお持ち帰りする事案が、過去に何度かあったそうです。彼らは立派な伝統の継承者なのでしょう。わたしがそれを知ったのは、入ってから二年目、最初の飲み会に参加したときでした。
「林檎ちゃん、もうギブ。悪かった。降参だ」
目の前の男の人、大久保謙介先輩は、もう飲めないという意思をわたしに示してきました。スピリタスとサワーのカクテルを飲ませてきたので、これを一杯やった後、彼に同じのを勧め返しました。良い酒ですね、わたしだけで飲むのは勿体無いですと、語調を強めて言うと、さしもの先輩も断れなかったようです。結局、わたしはこのカクテルを彼の倍くらい飲んだ辺りで、ようやく身体が温まってきた感触を覚えました。彼もわたしがザルだと察したようです。
ちなみに、林檎ちゃんとはわたしの名前です。フルネームは藤村林檎。以前は他人行儀に藤村さんと呼ばれていましたが、ここ最近では馴れ馴れしく林檎ちゃんと呼ばれることが多くなりました。特に異性には。あなたも、もしそう呼ぶことに抵抗が無ければ、彼らのように親しみを込めて林檎ちゃんと呼んでいただいても構いません。
「酔わせてお持ち帰りしようとしても、そうはいきませんよ。そういうのは、ちゃんとお互い素面のときにお願いします」
「林檎ちゃん、相変わらずガード固いなぁ」
彼はわたしの牽制にも怯んだ様子はありませんが、流石にこれ以上のお酒は無理な様子で、今日のところは諦めてくれそうでした。
わたしは以前から酒豪で知られていました。こういう手法で泥酔させられた子の面倒を見る仕事を買って出ていた時期もありました。
「林檎ちゃん、最近、急に綺麗になったんじゃない?」
「そうですか? 上手いこと言って、褒めても何も出ませんよ」
「いや、こう言っちゃ何だけど、前はもっと野暮ったい格好だったし、化粧っ気も無かったし……」
なるほど、以前は彼が言う通りでした。だからこそ、どうせ色恋沙汰には縁遠いと思っておりましたし、こういう良くないサークルの人たちからもノーマークであり続けるだろうと思っていました。なにしろ、可愛い子は他にごまんと居るのですから。
ところが、ここ最近は様子が変わりつつありました。わたしに対してアプローチをかける男の人が現れ始めたのです。過去にいたいけな乙女がそうされたように、そのうちわたしもお持ち帰りされてしまうのかもしれません。今では機を見て距離を置くことも視野に入れています。
「彼氏でもできた?」
「そこは安心して下さい。そういうのじゃないですから。フリーですよ」
いささかデリカシーに欠ける質問に対し、わたしは例のサワーを飲みながら、キッパリと否定しました。わたし自身が言うのも何ですが、実際、周囲から見て、以前より可愛くなったのかもしれません。わたしも化粧や服の選び方には気を遣うようになって、着実にその効果が出ているのでしょう。
「ただ、こないだの飲み会の帰り道で、すごく綺麗な子を見かけて――その子がひどく記憶に残ってるんです。それが切欠で、あの子みたいになりたいって思って」
嘘は言っていません。わたしはある日の飲み会の帰り道でとても綺麗な子に出会い、それが切欠で容貌に人一倍気を遣うようになったことは事実です。
「彼氏は居ませんけど、その子に恋をしてるのかもしれませんね」
「ハハッ、林檎ちゃんってばそういう趣味?」
「冗談ですよ。でも、綺麗になったように見えたのなら、間違いなくそれが原因です」
わたしはそう言って誤魔化しつつ、時計を確認しました。終電を逃すことを理由に三次会への参加は辞退する旨を伝えます。
あの後、わたしの代わりに誰かがお持ち帰りされたのかもしれません。以前なら、わたしはそういう毒牙にかかりそうな泥酔者を見繕って、その辺のビジネスホテルに放り込んで介抱したりしていましたが、生憎、ここ最近はそうもいかない事情がありました。
三次会までは付き合いませんでしたが、それでもこういう飲み会があった日の帰りは遅くなりがちです。以前は終電を逃しても、翌日が休日ならさほど気にかけませんでしたが、最近はそうではありません。家に置いてきた伴侶のことを思うと、帰りが遅くなればなるほど、心細さと不安がいや増すようになったからです。
「ただいま」
ある日を境に、わたしは帰宅したときには必ず「ただいま」と声をかけるようになりました。
返事はありません。実家からの仕送りと、花屋でのアルバイトを糧に一人暮らしをしているわたしには、同居人の類は居ません。ましてや、同棲中の彼氏などという色気のあるものとも、今のところは縁すらありません。
ここ最近は声をかけられるようにもなりましたが、一方でガードが固いとも言われるようになりました。周囲は生真面目な奴だとわたしを指して仰いますが、本当のところは、ただ興味が無いだけでした。
「ただいま、白雪」
今のわたしにはこの子が居ます。白雪と名付けたこの子が。彼氏ができた訳ではありませんが、恋をしていない訳ではないとは、先述の通りです。「恋をしているかも」と言ったとき、彼には冗談だと言って誤魔化しましたが、現に、わたしはこの美しい少女にひどく恋焦がれています。熱病のような、あるいは狂気のような恋でした。
顔から血の気が失せていること、首にひどい痣があることを除けば、人形のように愛らしい女の子です。わたしが棺に敷き詰めたどの花と比べても遜色なく、変わらず美しいままでした。多分、この先ずっと、白雪の美しさは損なわれないのでしょう。
彼女を拾ったのは、丁度一ヶ月ほど前の夜でした。大学のサークルの飲み会で数件のハシゴ酒をして、終電を逃すほどに帰宅が遅れました。わたしは既に友人達の間ではウワバミとして知られていましたし、その自覚もありましたが、その日はいつもの倍近く飲んでいたので、流石に酔っていたと思います。
彼女は川辺の草むらに打ち捨てられていました。慌てて駆け寄って手首を手に取ってみましたが、脈はありませんでした。体や衣服はほとんど濡れた様子はなく、溺死した訳ではなさそうでした。ただ、乱暴された痕跡があり、特に首の周りには酷い痣がありました。絞め殺されたのでしょう。肌からは血の気はすっかり引いており、表情は苦悶に歪んでいました。しかしそれでも、在りし日の美しさを十全に保っているように見えました。存命の頃はどんなに美人だったのでしょう?
一般常識的な観点で言えば、あからさまに変死体ですから、触れずに一一〇番をするか、あるいは薄情な話ではありますが、見なかったフリをするのが正解だったでしょう。ですが、わたしはこの死体をものにせずにはいられなかったのです。何故、死体を家に持ち帰ろうなどという狂気に駆られたのか? 単にお酒に酔っていたというだけではないと思います。それは選ばれた恋だったのかもしれません。あるいはこの死体は魔性のもので、わたしを誘惑していたと言われれば、余人もいくらか納得してくださるかもしれません。どちらにせよ、わたしが出会った中で、最も美しい人だったことは間違いありません。
死体を持ち帰ったわたしは、まずお風呂場に持っていって水洗いして、体のあちこちに付着した土や、男性特有の体液といった汚れを洗い落とすことにしました。
まず彼女の衣服を脱がせてみて、わたしはその見事な身体に感動しました。芸大で絵画を専攻している都合上、ヌードデッサンを描いたことは何度かありますが、ここまで見事な身体は見たことがありません。服の上から見る背格好はわたしと同じくらいですが、肌のきめの細かさ、筋肉と脂肪の理想的なバランスは、わたしなどでは及びもつきません。大勢に見せるために身体を作るモデルでさえ、こうはならないでしょう。顔の造形も素晴らしく、各パーツ一つ一つをとってみても、すっと通った鼻梁、輝きを失ってもなお綺麗な瞳、真珠のような歯――どれもこれも天性のもので、しかも完全な調和のもとにそれらは配列されていました。強姦殺人をやるような凶暴な人が、彼女の顔を殴らなかったのは幸運でした――彼女にとってか、わたしにとってかはともかくとして。ただ一つ、どれだけ身体を綺麗にし終わってもついぞ取り除けなかった、首周りの痣だけが、その完璧な美貌を損なうただ一つの瑕疵でした。
童話の白雪姫を思わせる可憐な姿を見て、彼女に白雪と名付けたのはこのときでした。彼女の本来の名前はわかりません。わたしが発見したときには、彼女の身分が証明できるものは紛失していました。鞄ごと持ち去られたのでしょう。着ていた服はどこかの女子高の制服のようでしたが、ポケットに生徒手帳は入っていませんでした。
白雪の水洗いを終え、タオルで体を拭き、表情を整え、化粧を施し、わたしの古着を着せてから、ふと思いました――どうすれば、この子はもっと綺麗になるだろう? 大学のサークル仲間から指摘があったとおり、わたしの古着を着せるとなると、彼女にはおよそ似つかわしくない野暮ったい格好になってしまいます。もっと可愛い服を着せてあげたい。わたしがファッションにおいて以前より野暮ったい格好が少なくなったのは、白雪のために服を着せる服を買い、実際に着せてみてしっくり来なかったものを使い始めたからです。
しばらくして、白雪の身体の異変に気付きました。否、起こって然るべき異変が起きていないことに気付きました――いつまで経っても、白雪の体には腐敗の兆候が全く見られなかったのです。わたしにはエンバーミングの専門的な知識も、死体を長期間保存しておけるような用意もありません。それに、今は夏場ですから、死体も腐りやすい傾向にあります。ですがその後二日、三日と経っても、白雪の姿に変化はありませんでした。死体を使ってお人形遊びに興じるわたしが言うことではありませんが、白雪はあからさまに異常でした。本当は人形なのではないか? そう思えるほどに、彼女は全く同じ姿のままでした。これは死臭を放たないことをも意味していたので、その点ではわたしにとって非常に好都合でした。
こうなると、あの童話のように、ガラスの棺のような洒落た入れ物が欲しいところですが、生憎、日曜大工で作れるような、手作りのベニヤ板の棺桶しか用意できそうもありません。これには一悶着あって、休日を利用して白雪のための棺を作るとき、釘を打つ音がうるさいという苦情が入ったので、次からはアドバイス通り木ネジを使用することにしました。この方法であれば、釘打ちほどの音は出ません。しかし金槌もけっして無駄にはならず、後々非常に重宝しました。これについては後述します。
白雪のための棺を作る作業と平行して、わたしは別の仕事にもとりかかりました。芸大に通うわたしは、以前から卒業までに大きな作品を手がけたいと思っていました。そんな折に、白雪と出会ったことには、運命的なものを感じずにはいられません。わたしは白雪を拾った翌日から、彼女をモデルに絵を描き始めました。わたしごときの実力で、彼女の美をキャンバスの上に表現できるとは思えませんが、かといってわたし以外の誰かに任せるのは言語道断ですし、死体をモデルに絵を描こうという物好きも、恐らくわたしくらいのものでしょう。これは間違いなく、わたしにしかできない事業でした。
ですが困ったことに、わたしのいくつかの服を着せて見たものの、どうもしっくり来る服がありません。どれも彼女自身の華やかさに反し、その服のみすぼらしさが際立つばかりでした。そのため彼女の絵は、長らく首から下には手をつけられずにいました。
――わたしは狂っているでしょうか? それとも、まだ酔っているのでしょうか?
ですが、白雪との生活も長くは続きませんでした。身元不明の死体を家に持ち帰り、着せ替え人形のように扱う――そんな反社会的行為が長続きする道理はありません。わたしの生活を崩したのは、奇しくもわたしと同じ犯罪者でした。
ある日、わたしが大学から帰ったとき、玄関の扉の鍵が開いていることに気付きました。空き巣に入られていたのです。あまり手際は良くないようで、ドアの近くにはピッキング・ツールの落し物がありました。
「うわあああああっ!」
奥から悲鳴が聞こえました。何があってあんな悲鳴を上げたのかは、大方の想像がつきました。彼には空き巣に入る思い切りの良さはあっても、首に痣のある変死体を見て平気でいられるような胆力はなかったようです。奇妙な巡り合せで、わたしが帰宅したとき、たまたま彼はまだ仕事中だったのです。
――白雪を見られてしまった。わたしだけの白雪を。
わたしは盗人がパニック状態にある隙を見計らって、咄嗟に日曜大工で使っていた金槌を手に取り、後ろから彼の頭を強打しました。盗人はそれきり動かなくなりましたが、起き上がってくるといけませんから、頭蓋骨の形状が変わるまで何度も頭を殴り、その死が確実になった後、頚動脈に触れて念入りに死亡確認を行ないました。びっくりするほど自然に体が動いたのを覚えています。初めてであるにも関わらず、流れるような動作で人を殺しました。
死体の処理には困りました。その辺に捨てたいところですが、死体を運び出すところを見られたらアウトです。白雪のときのような幸運が二度も続くとは思えませんし、彼の死体は白雪ほど軽くありませんから、わたしの細腕で運ぶには荷が重いです。良い処分方法が決まるまで、ひとまず部屋に置いておくことにしました。死体と寝食を共にするなど、ぞっとしない話と思うかもしれませんが、生憎、死体そのものには白雪で慣れています。
ですが、しばらくすると、わたしが殺した盗人の死体は酷い臭いを出すようになりました。夏場なので腐敗が早かったのです。体のあちこちに死斑が浮かび、内臓の雑菌等が原因で発生した腐敗ガスで浮腫んでいます。元々醜男の部類でしたが、いよいよ二目と見られぬ姿になってしまいました。見ていて楽しいものではなかったので、わたしは再び休日を利用してホームセンターに行き、白雪に用意したものと同様の木の棺桶を作り、その中に放り込みました。加えて大量の消臭剤を用意しましたが、果たしてこれで十分かは、ちょっと自信がありませんでした。
ですが空き巣の死体が酷いことになるにつれ、白雪の変わらぬ美しさに磨きがかかったように感じられました。対照的に腐敗が進行していないことから受ける錯覚だったのかもしれません。しかし、この時点で、白雪は他とは違う特別な存在なのだろうという確信はありました。なにしろ、かの小野小町ですら、九相図で描かれたように、死ねば醜く腐り果てるのですから。
皮肉なことですが、わたしが以前より綺麗になったという声が大きくなってきたのも、大体これくらいの時期でした。外出の前後にこまめにシャワーを浴びるようにして、身体に染み付いた血と死の臭いを誤魔化すための香水を欠かさないようになったことは、異性からの評価に大きな影響があったと思います。
二人目の殺人は、わたしの後輩の茉莉ちゃんでした。彼女はロリータ・ファッションを着こなせる稀有な子で、プライベートではコスプレイヤーとしての活動もしていました。
彼女とは古着を譲ってもらう代わりに、ランチを奢る約束をしていました。現地集合でも良かったのですが、お互い近所に住んでいて、事前にこちらに遊びに来るという連絡があったので、丁度良いのでついでに古着を持って来るようお願いしていました。
「いらっしゃい、茉莉ちゃん」
「こんにちは、藤村先輩。欲しがってた服を持ってきましたよ。でも、白の甘ロリの服が欲しいだなんて、どうして急に?」
「わたしがファッションに気を遣うのは、そんなに変ですか?」
本当はわたしが着るためのものではないのですが、白雪のことは伏せておきます。
「いえ、そういう訳じゃないですけど……ただ、こう言っては何ですけど、先輩にはあんまり似合わないと思いますよ」
「馬鹿にしないでください。ちゃんと着こなしてみせますから、ちょっとそこで待ってて下さい」
普段ならお茶菓子でも振る舞ってもてなすところですが、今は死体の処理で立て込んでおり、ちょっと家に上げたくはないので、玄関先で待っててもらうことにしました。
わたしが彼女からもらった白の甘ロリに着替えた後、
「お待たせしました」
「……」
わたしを見て、ぽかんと口を開けて呆けていました。
「どうかしましたか?」
「いえ、意外なくらい似合ってたから……ちょっとびっくりしました」
後輩のくせになかなか失礼な物言いですが、一方で自己評価から鑑みても、そう言われてもしょうがない部分はあると思います。なので彼女を咎めることはしませんでした。
「ところで、何か臭いません?」
「……」
わたしが殺人を決心したのは、彼女のこの言葉が原因でした。臭いに気付いたということは、通報される危険があるためです。そうなったら困ります。
「今、実家の祖母に教わったやり方で、漬物を作ってるんです。そんなに臭いますか?」
「言われてみれば、お婆ちゃんが似たのを作ってた気がしますね」
「芳香剤とかは消臭剤は、ちゃんと使っていた筈なのですが……それでも玄関先まで臭ってるなんて。もうちょっと対策が必要ですね」
それから茉莉ちゃんは帰らぬ人になりました。いざ出発の段階になったとき、わたしは左右を見て他に人が居ないのを確認して、後ろから彼女の頭を殴りました。血が飛び散りにくく、しかし脳に衝撃が行き届きやすいよう、布を巻いたハンマーを使いました。最初の一撃で気絶したところを部屋に引きずり込んで、タオルを彼女の口に押し込んでから、包丁を使ってとどめを刺しました。
茉莉ちゃんを殺してから、やってしまったと後悔しました。身元の知れぬ空き巣とは異なり、彼女はこの近くに家族と一緒に住んでいる大学生です。遅くまで帰らないとあれば、警察へ通報するでしょうし、こちらに捜査の手が及ぶのも時間の問題でしょう。そうなれば、もう白雪と一緒には居られません。それが今のわたしにとって一番好ましからざる事態でした。ですが、こうしてしまった以上、もう残された時間は限られています。
わたしは予てより進めている作品の完成を急ぐことに決めました。まずは届いた衣装を白雪に着せることから始めます。
「やっぱり、白雪には白が似合うわ」
白雪に甘ロリのドレスを着せて、この選択が間違ってはいなかったことを確信しました。ロリータ系の服は着こなすのが難しいのですが、白雪にはかえって似合っています。この服は茉莉ちゃんよりも、白雪にこそ相応しい。棺を飾る花を白で統一することに決めたのも、この服を着せたときです。
以前は彼女に似合う服が無く、彼女の絵は首から下に手をつけずにいましたが、これでわたしの作品は完成の目を見るでしょう。捕まるまでに完成させられそうで何よりでした。
ところで話は変わりますが、以前、サークルの友人に「以前より美人になった」と言われましたが、これが思った以上に危険な事態であったことが判明しました。早い話が、危うく強姦されそうになったのです。
わたしが茉莉ちゃんを殺した翌日の夜のこと、呼び鈴が鳴らされました。
「はーい、どなたですかー?」
「俺だよ俺」
「大久保先輩ですか? こんな夜遅くに何の用です?」
今度は大学のサークルの大久保先輩、以前わたしをスピリタス入りサワーで泥酔させようと目論んだ先輩が訪ねてきました。呼びかける声は一人分でしたが、除き穴から見ると、あと三人、後ろに別の先輩が控えていました。
普通の用事ではないことは、夜分遅くに女性の家を訪ねる非常識さと、のぞき穴越しに見た彼らの目から、すぐにわかりました。彼らもまた、狂気に陥っていたのでしょう。同類のことはよくわかります。狂気の由来は存じませんが、彼らからはわたしと同様、熱病にかかった人間の気配がしました。あんなサークルの伝統を受け継ぐくらいですから、大方、元からのぼせ上がっていて、それを拗らせたのでしょう。血走った目、下卑た笑みから、目的は概ね察せられました。
となると、作業の邪魔ですし、ましてやあんな人達の目に白雪を晒すのは危険ですから、ここで四人とも始末しておく必要があります。
「ちょっと待ってて下さいねー。今、立て込んでますから」
わたしはそう言って、腐敗が進んだ盗人の死体と、茉莉ちゃんの死体を玄関先まで引きずってきました。上手く行くと良いのですが……
「今開けますからねー。どうぞ」
わたしがドアを開けると、わたしにとっては慣れた、彼らにとっては恐らく慣れない映像と臭いが襲いかかりました。
「ひっ……」
賭けは成功しました。ツキはわたしに味方していたようです。腐敗が進んだ死体を見て、彼らは恐怖のあまり逃げようと背を向ける者と、腰を抜かして動けなくなる者と、半々に別れました。わたしは逃げだした人が後ろを向いた隙に後頭部を殴って気絶させました。腰を抜かして動けない方の二名に打撃を加えるのを後回しにすることを心がければ、後は簡単で、気の毒な茉莉ちゃんと同じやり方で殺すだけでした。わたしの読みどおり、彼らには殺人鬼に立ち向かってくるほどの勇気はありません。四人とも生きて帰しませんでした。
先輩たちを殺して部屋に戻ったとき、棺の中の白雪が微笑んでいる気がしました。ひょっとすると、白雪に乱暴して殺したのは、この四人のうちの誰かだったのかもしれません。もちろん、証拠は何一つありませんし、これはわたしのとりとめもない妄想に過ぎません。白雪が微笑んでいるように見えたのだって、おそらく気のせいでしょう。
最初に殺した盗人と同様、良心を痛める必要が無い相手だったのは幸いでしたが、これで死体は一気に六人に増えてしまいました。邪魔です。彼らを入れておける大きな箱が必要でした。そこでわたしは、まず死体は収納しやすいよう浴室に運び、四肢と首を切り離してバラバラにしました。白雪に死臭が移ってはいけませんから、部品は別の部屋に保管することにしました。
結局七人目、古くから付き合いのある朝倉先輩を殺すに至り、そろそろこの生活も潮時だと実感しました。
例の四人を殺した翌日、わたしは浴室での解体作業が思ったより長引いたため、作業を一度中断し、最寄りの銭湯を利用することにしました。その行きがけの道で、朝倉先輩と出会いました。
「あら、林檎ちゃんじゃない。こんな時間にどうしたの?」
「実は、家のお風呂の調子が悪くて、最寄の銭湯に行くところなんです。先輩もですか?」
「ええ」
丁度良かったので、わたしは朝倉先輩とご一緒することにしました。
朝倉先輩は花屋のアルバイトを紹介してくれた恩人でもあります。彼女は何日も大学を欠席し、アルバイトにもサークルにも顔を出さないわたしを心配してくれました。その点で、同じサークルのあの男たちとは違いました。
「ねえ、林檎ちゃん」
銭湯でご一緒したとき、朝倉先輩はわたしの体をまじまじと見ました。頭の上からつま先まで、舐め回すように見られました。同性にこんな視線を向けられるのは初めてです。かく言う朝倉先輩も、ちょっと前までは大久保先輩からアプローチをかけられていたくらいですから、茉莉ちゃんと同様、人目を引く美人です。
「……本当に、綺麗になったわね。サークルの人達からも声をかけられるようになったし」
熱のこもった視線をこちらに向けています。紅潮した頬は、湯加減のせいだけではなさそうでした。元来、彼女にそういう性癖は無かったはずですが、ひょっとすると、わたしも白雪と同様の魔性の女になりつつあったのかもしれません。
「今日、そっち行っても良い?」
これには返答を迷いました。
彼女は以前からわたしが尊敬していた先輩でしたが、残念ながら大久保先輩と同じ気配を感じました。わたしは身の危険を感じました。
「良いですけど……今夜は寝かせませんよ?」
嘘をつきました。今夜で永遠に寝かせることになりました。二人でお風呂に入った後、朝倉先輩を我が家にご招待しましたが、やっぱり理解者にはなってくれませんでした。白雪よりも先に、他の死体に関する作業現場を見られたのが間違いだったみたいです。同類のことはわかりますが、同類でない人間のこともよくわかります。死体を見た朝倉先輩は、ショックのあまり、それまでの熱病のような狂気は覚め、すっかり正気に戻っていました。部品を見たあの四人のように。
「どうしてこんなことをするの?」
今際の際、朝倉先輩はわたしにこう尋ねました。わたしは構わず、彼女の頭に金槌を振り下ろしました。そのときのことはおぼろげに覚えています。確か、彼女が白雪をひどく侮辱したので、わたしは怒りに任せて、何度も何度も彼女の頭を殴りました。ちょっとやりすぎたかなと、動かなくなった彼女を見て思いました――それくらい執拗に打撃を加えた結果、判別がつかないくらい頭部が破壊されていました。この辺りの記憶はとても鮮明なのですが、彼女に何と答えたのかだけは思い出せません。
わたしは白雪の絵を完成させた後、あらためて、今後のことについて考えました。
バラバラにされ、時の流れに負けて腐っていく死体。わたしも、いずれはああなるのでしょう。あるいは日本らしく、火葬にされるのかもしれません。世の儚さを感じずにはいられませんでしたが、それでも白雪だけは、これからも時の流れとは無縁なのでしょう。わたしはこのとき、はじめて彼女に嫉妬を覚えました。今までは嫉妬するのも畏れ多い、冒すべからざる存在と思っておりましたから、これはわたしちょっとした心境の変化だったのでしょう。
ふと、白雪が呼んでいるような気がしました。
振り返ってみれば、わたしのやったことは狂気の沙汰以外の何物でもありません。やはり白雪は恐ろしい魔性を秘めていて、わたしを誘惑して正気を奪い、恐ろしい行為に駆り立てたのかもしれません。ですが、それでもわたしにとっては選ばれた恋で、今でも白雪は最も美しい人でした。これからも、彼女のためならもっと恐ろしいことだってします。愛しの白雪がそう命じるなら――
だからわたしは、彼女の誘いに応じて棺を開け、彼女を彩っていたいくつもの花の中から、一輪のトリカブトを手に取って口づけをしたのです。
今回の連続殺人事件の被害者、及び自殺した犯人の検死を担当することになったとき、大まかに事件のあらましを聞いていたが、本当に胸の悪くなる話だった。
警察が家宅捜索に入ったとき、部屋にはおぞましい腐臭が充満していたという。臭いの元は人間の死体、それも七人という数だ。まるで死体安置所が屠殺場である。とても正気の人間が居住する空間ではない。
省スペースのためか、全身をバラバラに解体され、日曜大工で作った箱に乱雑に詰め込まれていた。どれも身元の判別が困難なほど腐敗が進行しており、その上損壊も激しい状態だった――滅多にない凄惨な事件に、ベテランの警察官も嘔吐感をこらえ切れなかった。
ここの家主である藤村林檎との連絡がつかないという理由に加え、近隣住民から異臭がするということで通報があった。事態は想像を絶する恐ろしいものだった。臭いの元は、実に七人もの腐乱死体だったのである。
一人目の犠牲者は大塚拓也だった。彼は窃盗の常習犯で逮捕歴があり、たまたま空き巣に入って、そこで金槌で撲殺されたのだと推測された。何も殺すことはないと思ったが、この男の経歴と殺されたときの状況を察するに、あまり同情する気にはなれなかった。
ところが二人目の犠牲者の神林茉莉は、藤村林檎とは友人だった。彼女は友人の家に行くと言って出かけたまま、夜遅くまで帰らないと家族から通報があったが、当初は警察もあまり真剣に取り合わなかったようだ。何日も帰らないと言われるまでは。
大久保謙介、上野昇一、高坂信彦、杉山憲勇の四名もまた、大学のサークルで藤村林檎と付き合いがあった。彼らが自宅を訪ねた際、既に殺されていた二名の死体を見てしまったがために、口封じに殺されたのだと推測される。死亡推定時刻は四人とも夜十時頃で、ほとんど差がなかった。つまり、犯人は大の男四人を相手取って、その場で皆殺しにしたのだ。この事実は犯人の途方もない凶暴性、あるいは狡猾さを示している。ただし、何故彼らが夜遅くに彼女の家を訪問したのか、その理由は引き続き調査が必要である。
七人目の犠牲者である朝倉優梨は、家主の藤村林檎の最も付き合いの長い親友であった。恐らく彼女も死体を見た口封じに殺されたのだろうが、やはり家に上げた理由は不明瞭である。訪問してきた友人を迎えるのは当たり前のことだが、部屋があの状態では話は別だ。犯人は彼女に何か思うところがあったのか、この死体だけは解体されず、ベッドの上に横たわっていた。しかしバラバラにされた他の死体と比しても、酷い有様であることには変わりなかった。時間経過による腐敗以外にも、特に顔に執拗な打撃の跡があり、首から上はまったく原型を留めていなかった。頭蓋骨の前半分がほとんど粉々になっていた。単なる口封じにしては、残忍きわまる手口である。
そして最後、一つだけ不自然なほど状態の良い、八つ目の死体が納められた棺桶があった。事件があった「死体安置所」の部屋の主、藤村林檎の死体だった。彼女だけはまるで葬儀が行なわれたかのように、その棺にはいくつもの花が敷き詰められていた。藤村林檎の死体には目立った外傷がないことや、口内に残留したトリカブトの花と葉から、服毒自殺と推定された。
一連の連続殺人事件の犯人が藤村林檎であると判明するのに、さほどの時間は要さなかった。現場には血に濡れた金槌や包丁といった凶器、解体に使用されたと思しき鋸があり、それらに残されていた指紋が林檎のものと一致したのだ。
七人の犠牲者の検死を終えるにつれ、藤村林檎の真の異常性が明らかになった。つまり彼女は、腐敗が着々と進むバラバラ死体を部屋に置いたまま、何事も無かったかのように生活していたのである。少なくとも、トリカブトで自殺するまでは。
藤村林檎の遺骸を見る。七人も殺しておいて、一人だけ棺桶で幸せそうに寝やがって。事件のおぞましさに似つかわしくない、林檎のあまりにも安らかな死に顔を見て、わたしは思わず毒づいた。何人もの人間を残酷に殺し、バラバラにした死体と数日間の生活を供にした異常殺人鬼のものとは思えない、なんとも人畜無害そうな顔だった。物理的な観点から言っても、藤村林檎の体つきは細く小柄で、とても一度に四人の男を相手取って殺害できるようには見えない。しかし、思えば名だたるシリアルキラーも、写真で見る限りではごく平凡な人間に見えることが多い。あからさまな顔つきをした狂人というのは、思いのほか少ないものであり、だからこそ、こういう異常な連続殺人事件が起こるのだろう。
藤村林檎が遺書も一切残さず自殺した後では、彼女が何を考えてこんな恐ろしいことをしたのか、想像することしかできない。大方、最初の殺人の犠牲者の死体を見られたがための口封じと考えられるが、それだけでは説明できない、何か名状し難い危険なものが見え隠れしている。
彼女の思考のヒントになるのは、現場に残されていたという一枚の絵だ。あれは――誰の絵なのだろう? ここ最近の行方不明者の中には、似た特徴の人物は居ない。一度見たら間違いなく記憶に残るくらいの美少女が、キャンバスには描かれていた。これを描いたのは藤村林檎に間違いないが、モデルが誰かはわからなかった。
今一度、藤村林檎の骸を見る。
わたしは長年、多くの死体を検死を担当してきた。死体を相手にするのは、あくまで仕事の一環だ。差し挟む感情があったところで、それは同情くらいのものだった。若い女性の死体を検死したことだって、一度や二度ではない――だから、こんな初恋にも似た胸の高鳴りは初めてだった。
また、こんな奇妙な死体も見たことはなかった。胃の中の内容物から判断するに、藤村林檎の死亡推定時刻は、最後の犠牲者である朝倉優梨から数えて、たった三時間後でしかない。それから警察が家宅捜索に入るまでの間、夏場の空調の利いていない部屋で何日も放置されていた。にも関わらず、藤村林檎の死体だけは腐敗の兆候が一切見られず、世の王子様たちを狂わせるほどの危険な美貌を完全に保っており、何かの拍子に起き上がってくるのではないかという不安さえ抱かせた。
まるで、毒林檎を食べた白雪姫のように……