表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

愛しのビッグベア ~避難編~

作者: 細川ゆり

あれから6年。原発事故の放射能については何度も報道されていますが、災害当事者が実際どういった状況にあったのかは、語られることがありません。当時のことを記憶のはっきりしているうちに書きたいと思って、この小説を書きました。

 僕たちを載せた大熊町からの強制避難用のバスはあちこちの避難所に寄っては満員だと断られ、最終的には福島市の高校で下された。時間は夜の10時を回っていた。何もなければ2時間かかるかかからないかで来れる距離だが、道は地震の影響で凸凹でスピードを出せないうえに、受け入れ先を探しながら来たためこんな時間になってしまった。茨城県から駆けつけて、一日中働いてくれた運転手さんは、さぞかし疲れたことだろう。

受け入れ先の梅野高校では先生方が待っていてくれて、食べ物や毛布を提供してくれた。3月とはいえ、外では雪が舞い、底冷えのような寒さだった。毛布は年配者や子供から先に配られたが、僕と和夫までは回ってこなかった。僕は幸い寝袋を持っていたので、その中に入った。ジャケットは和夫の足にかけてやった。体育館の床は固く冷たかったが、自分で思うより相当疲れていたのだろう。ボストンバッグを枕にして横になったら、ぐっすりと寝てしまった。

 明け方、大きな余震で起きた。とにかく寒かった。のどが渇いたが水は出なかった。

 8時過ぎに方や学校職員が来て、校内にある自動販売機を開けて、お茶屋ジュースを配ってくれた。食べ物はなかったが、非常事態のせいか、お腹もすいてなかった。断水のため水が使えないので、トイレの水はプールからバケツで汲んできてほしいという説明を受けた。ガソリンを給油できない中、僕たちのために駆けつけてきてくれた先生方や高校の父兄の方々に頭が下がる思いだった。『困ったときはお互いさま』という言葉があるが、日本は本当に良い国だと思った。優しい人がいっぱいいる。

 とりあえず電気だけは復旧していたが、放射能拡散の不安が大きい中、大熊町から避難してきた僕たちのために、できることを一生懸命やってくれていた。携帯電話の充電が終わってワンセグでテレビを見ていると、現実に起きたとは思えないような映像が流れてきた。

 津波で建物が次々と流されていく様子。そして、見慣れたあの原発が爆発する瞬間が映し出された。

 僕は、瞬間、『バベルの塔』だと思った。旧約聖書に書かれてある物語。人間は神に近づこうとして天にも届くような高い塔を建てたが、結局は神の怒りをかって塔は崩れ落ちてしまうという話。安全という神話のものもとに原発はあった。人間が作ったものに完璧があるはずはない。重大な事故が起きれば周辺が何十年にもわたって暮らせない土地になるのは、チェルノブイリで経験済みのはずなのに、『日本では絶対に原発事故は起きない』と口を合わせたように皆が言うのを信じていたし、少しでも反論しようものなら、異端視された。原発は人間のおごりの象徴だったのだ。原発の映像を見ながら、なんとも形容しがたい虚無感に襲われた。

 呆然としている僕のそばで、和夫が話しかけてきた。

「もう一生小太郎に乗れないのかな。オレの初めての相棒で、できれば今年、少なくとも来年には一緒に野馬追に出るつもりだったのに。小太郎で御神旗とってみたかったな。。。小太郎に会えなくなるくらいなら、無理してでも乗って逃げればよかった!」

 一昨日の昼までは、いつもと変わりない大熊町の日常がそこにあった。午後2時46分東日本大地震発生。しばらくしてから、とんでもない津波が来たという知らせがあった。停電の中、まんじりともしない夜が明け、国の命令で予防のためバスに乗せられ避難した。そして避難所を探している時、原発事故のニュースを聞いた。

大好きだった母がいなくなった時と同じように、日常が、突然、非日常となって、それが当たり前になってしまうかもしれない。

 3日目の朝

「ここにいてもする事ないし、周りがどんなんか、見に行かない?店でもやってたらラッキーじゃん。」

 小太郎のことで落ち込んでいた和夫に声をかけてみた。

「そうだね。外の空気も吸いたいよね。放射能のことがあるから出るな、って言われても息が詰まりそうだもんね。少しぐらいならいいんじゃない。」

 係りの人に声をかけて外に出てみた。同じ県内とはいえ、大熊町から片道2時間はかかるので、小学生の時に県庁見学できた時くらいしか来た記憶がない。少し歩くと国道13号線に出た。通っている車はほとんどなかった。ラジオで聞いたところによると、太平洋沿岸のコンビナートが地震、津波で被害を受けたため、ガソリンが供給できず、多くの給油所が閉鎖しているという事だった。ガス欠になっても給油できないから、走ってる車が少なかったんだろう。

 鉄道も動いていない。車を使うこともできない。放射能を心配して外にも出られない。福島市の人たちも僕たち同様、大変な生活を強いられているなぁ、と思った。コンビニも商品が入荷できないため閉店だった。県都なのに怖いくらい車も人もいない。まるでパラレルワールドに入り込んでしまったみたいだった。

一台だけ車が通り過ぎたかと思うと、止まって窓を開けて

「放射能の矢が降ってくるから早く逃げろ!」

 と叫んでいった。

 大熊町で育ったから放射能のことは、普通の人よりは知ってるけど、矢になって飛んでくるとは、一体どんなに理解されているのかと思うと笑うしかなかった。

 それよりも津波の被害を知りたかった。2月の地震の時にも50㎝~1mの津波の被害が岩手県や宮城県であった。今回は、滅多に津波が来ない福島県でもやられたのだから、向こうはもっとひどいはずだ。史上最大級の人災が起こったから天災は後回しになっている感じがする。阪神淡路大震災の神戸のの時みたいに消防車が近づけず、亡くなった人がいないか心配だったが、原発事故の陰になってしまいわからない。

 複雑な気持ちだった。いま、大変な状況にあって、死ぬか生きるかわからない生存者もいるかもしれない中、僕たちは身体以外は失ったも同然かもしれないけど、明日生きてるかどうかの心配はしなくていい。そして、ここには電気は通じているので携帯の充電ができるから通信の不安もない。津波の被害にあった地域は道から何からメチャクチャだろうし、無事だとしてもそれを知らせる手段はないかもしれない。

 平成になってから、日本は奥尻島の津波被害を経験している。集落一つがなくなってしまう大災害だった。しかし夜が明けるまで被害状況はわからなかった。通信手段が寸断されてしまったので、大災害が起きたのに、国民が知ったのは次の日になってからだった。文明がどんなに発展しても、人間は自然の脅威には無力だ。僕が一歳の時のことだから、もちろん記憶にはないけど。社会の調べ学習で知った。18歳になった今また思い知らされるとは思わなかった。

 放射能被害への不安からの外出控え、ガソリン不足からの物流寸断、地震での鉄道不通に国道の通行止め。町はまるで戒厳令でも敷かれたかのような静けさだ。時折行きかう車や、空を飛ぶヘリコプターの音が現実世界だと思わせてくれる。

 いつもなら県立高校の入試も終わって、合格発表までの束の間の休息を味わっている中学生であふれている時期だ。映画を見に行ったり、ゲームセンターやカラオケに行ったり。。。進む高校どころか、明日いる場所もわからない中学生たちが大勢いるなんて、想像もできなかった未来がここにあった。

 僕はふと、福島市のシンボルの信夫山を見上げた。福島駅から15分ほどのところに鎮座する標高275mの山。江戸時代は信仰の山であり、太平洋戦争時は地下に軍需工場が作られ、現在は花見の名所として知られる山。時代とともに人々の山への思いは変わっても何事もなかったかのようにただ、ただ、佇んでいる。

 ジタバタしても仕方ないんだろう。この日本という国に多くの善意があるのはよく知っているし、しばらくすれば右往左往している事態も秩序だってくるだろう。山を見て、何か吹っ切れた感じがした。

「どんなことが起こっても、これが永遠に続くってことはないよね。」

 続いて和夫も

「あと一週間もすればきっと変わるよ。ただなぁ、なんでこの寒い時期に起こったのかな。せめてストーブのいらない時期ならなぁ。これじゃ、風邪こじらせて死ぬ人も出てくるよ。」

「最悪、歩いて東京へ逃げる?一週間歩けばどっかの電車には乗れるとこまで行けるんじゃない?東京なら地下道も暖かそうだし。」

「にわかホームレスになるのかよ。」

「福島の体育館よりは良さそうな気がするんだけど。」

「確かに。」

 現実離れした世界でのバカ話は気持ちを楽にしてくれた。避難所に戻ると、食べ物の配給が始まったところだった。といっても、小さなポテトチップスに紙コップの水だけだった。

「町で防災訓練があったときに、県の担当の人が『福島県には県民一週間分の食料備蓄があります』って言ってたのに、どこやったんだよ。」

 和夫が怒り気味に言った。

 避難所となった高校では、先生方や父兄たちの厚意で全員分の毛布が行き渡った。寒いのが少し改善されただけだが、昨日よりはマシだ。飲料水は断水しているので給水車まで取りに行かなければならないが、歩いて20分ほどのところに湧水があるので行く気のある方はそこまで行ってください、との説明を受けた。

「湧水ってこういう時はありがたいよね。」

 和夫が言った。

「ま、断水といっても、蛇口から水が出ないだけで川には普通に流れてるんだもんな。世界的には水道があって蛇口から水が飲めるっていうほうがレアなんだけどね。おれ達文明国基準だからさ。」

「あって当たり前がそうじゃなくなった時、人間は試されるんだろうな。ひたすら八つ当たりする人間とかいるじゃん。一方で、できることを黙々とする奴とか。」

「そうだな。人間性がモロに出るのってこういう時だな。」

 そんな話をしながら周りを見ると、支給された菓子袋を半分子どもに分ける老婆の姿と、妻から取り上げようとする男性が目に入った。

「あの夫婦、これから先大丈夫かな。」

「親が離婚した立場から言うと、我慢が限界に達したら別れそうだな。最終的にはつまらないことで沸点にいくんだから。」

「とりあえずは、ああいう男にならないようにしないと。」

和夫が言った。

「こういうシチュエーションは、ドラマなんかだと、妻をいたわって、っていうところなんだろうけど、現実にはあんな感じで、ろくでもない男が多いから離婚なんじゃない。」

「明人の言葉には重みがあるね。」

「父子家庭に育ってるからね。何百回となく母さんが家を出た理由を考えてるよ。」

「お母さんに会いたい?」

「もちろん。やっと自由な大学生になれるから、今年の夏休みは自転車で行ってびっくりさせるつもり。」

「おばさん、どこにいるんだっけ。」

「佐賀の実家。」

「ずいぶん遠いな。」

「それが会えなかった理由だけどね。お金も時間もかかるからさ。前にも自転車で行く計画立てたけど、あんまり長くバイトも休めなかったし。大学生になるまで待とうと思って。本当は中学の時、横須賀の自衛隊学校に進むのも考えたんだけど、向こうまで受験に行く交通費なくてあきらめたんだ。何とかして家を出ないと母さんに会えないまま、自分の人生ここで終わるのかなって、すごい恐怖だった。」

「今なら婆さんと別々の避難所だし、自転車調達して会いに行けば。」

「今の時期、野宿キツいし、それに入学式までに戻ってこれるか微妙じゃん。」

「それもそうだな。」

「大丈夫。ここまで来たら夏休みはそんなに遠くない。それに大学忙しい、って言えば戻らなくてもいいからね。」

「長かったな。」

「生きていくためには我慢しなくちゃいけないことも多いよ。」

「18歳とは思えない言葉だな。」

「ハハハ。でも、これからは自分の時間を楽しむよ。」

「おばさんも会いたがってると思うよ。優しい、いい人だったもん。なんか、こう垢抜けてて、素敵な人っていう印象持ってるよ。今までおばさんのこと話すのタブーかなって思って言わなかったけど。」

「ちゃんと覚えてるんだ。」

「小学区の時だけど、遊びに行ったとき、おばさんがササッと描いてくれた、二人が遊んでるとこの絵あったじゃん。あれ、まだ持ってるよ。ここは大熊だからって大きな熊もついでに描いてくれたやつ。少なくともオレの目には素敵なお母さんに映ってたよ。」

「ありがとう。。。母さんの事というと、ばあちゃんの口から出る悪口しか聞かされてこなかったから。褒めてくれる人がいて本当にうれしい。。。。」

 僕は必死に涙を堪えていたが、耐え切れず泣き出してしまった。和夫は黙って僕の肩に手を当ててくれた。小学校、中学校、高校と共にしてきた親友だ。僕の気持ちを痛いほどわかってくれていた。


 3月15日火曜日

 避難所で初めておにぎりが出た。みそ汁などの温かいものは出なかったが、コメの味が懐かしく思えた。たった4日ぶりなのに。変な感じだ。ガソリン不足から新聞も休刊となってるし、テレビは体育館に一台あるのを皆で見ているだけなので、世の中のことがよくわからなかった。断片的に入る情報からわかったことは、津波で青森県から千葉県までの広い範囲の海沿いが被害を受けたこと。死者・行方不明者が多数出ていること。福島原発が1基だけでなく2基も爆発したこと。恐ろしいのは、どのくらいの放射能が拡散しているのか、まだわからないという事。そして、政府は、「直ちに人体への影響はないから冷静に対応してほしい」と言っていること。

 僕はずっと、日本という民主主義の国に生まれてよかったと思ってきたけど、原発事故を考えると旧ソ連と変わらない感じがした。あれだけ大きな建物が放射能付きで2つも爆発したのだ。チェルノブイリ同様人類史が変わるほどの大事故だ。原発マネーの恩恵を受けてきた身ではあったけれども、一度事故を起こしたら取り返しのつかない事態になるのを改めて思い知った。

 午後になると和夫の母親が避難所に迎えに来た。ガソリンスタンドで給油できないので、親戚の車のガソリンを分けてもらったりして、なんとか福島に来ることができたと話してくれた。毛布も満足に配られていないと聞いて、風邪をひくんじゃないかと心配で仕方がなかったそうだ。福島市から車で30分ほど南に向かったところにある二本松市の親戚の家にしばらく世話になることになったらしい。

「じゃあ、元気でな、明人。落ち着いたら、また会おうや。」

「オレも、もう少ししたら仙台行くし。遊びに来てよ。」

 そう言って和夫と別れた。

 話し相手がいなくなった僕は、配布物の仕分けを手伝ったりしていた。日頃、家にいてもゴロゴロすることなんてなかったので、動かないでジッとしてることができなかったのだ。避難所も4日目、5日目と日を追うごとに配給される物資が増えていった。見捨てられているわけじゃない、という事がうれしかった。


 3月18日 金曜日

 避難所暮らしの6日目の午後、僕に面会者が来てると知らせがあった。父と祖母は郡山市の避難所にいるが、僕が心配だからと無理してでも来るような人たちじゃない。

「誰だろう?」

 怪訝に思いながら、案内された場所に行ってみると、そこには7年ぶりにある母がいた。僕が状況をよく理解できずにいると

「ああ、よかった!ちゃんと生きてた!」

そして僕の足元で泣き崩れた。

「母さん、大丈夫だよ。家は海から結構あるし、原発が爆発する前に避難してるし。。。」

そう言うのが精いっぱいだった。

 避難所のスタッフが気を利かせて学校の応接室を使わせてくれた。

「顔をちゃんと見せてちょうだい。背も高くなってずいぶんとイケメンになったじゃない。」

母が言うとなんだか照れ臭かった。

「東北大学に決まった話は、浪江の仕事仲間が震災の前の日に教えてくれたの。明人の高校からの進学だと、あの地区では有名人だからね。おせっかいな人がわざわざ連絡先調べて知らせてくれたのよ。知らずにいたら可哀想だって。大熊を離れてからゆっくり会いに行けばいいと思ってた矢先に、あの地震に原発事故でしょ。とにかく連絡のつく人片っ端から当たってったら和夫君のお母さんに連絡ついて、福島市にいるってわかったの。」

「でも、どうやって九州から来たの?」

「福島空港が12日から動いてたんで、とりあえず乗れるかどうかわからないけど、大阪の伊丹空港まで行ってみたの。そしたら山形空港からならバス使って仙台経由で福島行けるって空港の人に言われてね。なんだかんだとここまで来るのに3日使ったけど。」

「そんな無理して身体大丈夫なの?病気が原因で佐賀に行ったんだよね。」

「今はもう健康体よ。向こう行って、手術受けて、リハビリ生活をしばらく続けて、何とか復活できたの。今も向こうで焼き物の絵付けの仕事をしているの。

それより、お母さんと一緒に入学式まで九州で暮らさない?」

「大丈夫なの?」

「もちろん、連れて帰るつもりでここまで来たんだから。」

「でも、仙台までバスで行けるんなら、寮に頼んで少し早めに入ってもいいかと思うんだけど。」

「仙台の町通ってきたけど、断水してるし、停電してるし、電気が来てる分、福島のほうがまだましよ。九州のほうは何の被害も受けてないから、入学式近くになったら戻れば。ここにいても何かできるわけじゃないし、情報も来ないでしょ。テレビ見たりネットでもやってたほうが色々わかるんじゃない?」

「うん、そうだね。。。仙台行っても風呂も入れないんじゃな。」

「ちゃんと働いて、少しは蓄えがあるから心配しなくても大丈夫。」

 母の言葉に甘えて、僕はしばらく佐賀県にある母の実家に世話になることにした。その晩は母と一緒に福島市内にある飯坂温泉に泊まった。食事は出せないが、風呂は共同浴場の温泉なら入れるというという事だった。近所のスーパーが開いていたので、食べれそうなものを買って、それを夕食にした。その夜、僕は一週間ぶりの風呂に入った。替えの下着がなかったのは残念だったが、熱い風呂に入れただけで満足だった。体育館の冷たい床の上ではなく、畳の部屋の布団の上で眠ることができた上に、母と一緒で本当に幸せだった。僕も母も安心したせいか、横になると爆睡してしまった。


3月19日 金曜日

 福島市を出発して九州に旅立ったが、これがもう大変であった。福島駅までの飯坂電車は通常運行だったらしいが、JRはすべて不通だった。福島駅から仙台行きの高速バスに乗ったのだが、バス停には本当にいつ乗れるかわからないほどの人が並んでいた。ほとんどが県外から親戚に会いに行くという人たちだった。避難所が寒くて大変だろうと手に入るだけの使い捨てカイロを買ってきた人。命は助かったけど、すべて流されてしまった息子の家族に下着や服を持ってきた人。両親と連絡は取れないけど、少しでも近くに行きたいという思いで東京から来た人。。。

 避難所にいると、テレビを自由に見れるわけじゃないし、新聞も手に入らないので、この震災がどのくらいの規模なのか、被害の実態はどのようなものなのか、よくわからなかった。近くに2日前の新聞を持っている人がいたので読ませてもらった。僕が思っていたよりも、はるかに大きな災害だという事がわかった。

その副産物が原発事故だったのだが、聞かされてきたニュースは原発関係ばかりだったので、岩手、宮城の太平洋側がこれほど大きな被害を受けていることを初めて知った。

 5時間ほど並んで、昼過ぎにようやくバスに乗れた。高速道路の料金所を過ぎて中心街に入って行くにつれ、先日、大学受験で訪れた時と様子がまったく違っていたのは明らかだった。たくさんの人が行き交っていた通りは閑散として、店の多くはシャッターが閉まっていた。そして、人が大勢いる、と思ったら給水車に並ぶ行列だった。でも、建物の被害は、目に見える限りではなかった。そして、仙台駅近くにある高速バスターミナルで山形行きのバスに乗り換えた。こちらは福島と違って行列に長く並ぶこともなかった。

山形市で次の日の福岡行きの飛行機は大阪の伊丹空港乗り換えで何とか確保することができた。明日中には母の実家に着きそうだ。山形市内で泊まる宿を探したが、なかなか見つからなかった。取り合ってもらえるかわからなかったが、知っている教会に問い合わせてみた。以前、僕が行っていた大熊町の教会に招待されて説教に来たことのある佐々木雄一牧師の教会だ。僕たちの事情を話すと「ぜひ、いらしてください。」との返事をもらえた。ありがたいことに僕たち親子を駅まで迎えに来てくれた。

 教会では牧師家族が温かい食事でもてなしてくれた。ご馳走というようなものではなかったが、温かいご飯、熱いみそ汁は8日ぶりだ。大した期間じゃないと思うかもしれないが、その間はまともな食事じゃなく、数回のおにぎりの他は乾パンやスナック菓子が食事だった。ごはん、みそ汁、肉じゃが、漬物と並んだ食卓は、断水していた福島市では食べられないご馳走だ。食事前のお祈りも、この日は本当に心からの感謝だった。

「大したもの用意できなくてごめんなさいね。遠慮しないで食べてくださいね。」

 優しい笑顔の牧師夫人が言った。

「突然押しかけてきたのに、こんなに用意してくれてありがとうございます。温かい食事は大熊を出てから初めてです。」

「寒いのに大変だったでしょう。風邪をひかなくて本当によかった。そう言えば、大熊の教会員たちは米沢に行くって聞いたけど。」

 佐々木牧師が言った。

「はい、僕のほうにも米沢の教会に行くって連絡が来たけど、母さんに会った後だったので行きませんでした。車を動かせる人みんなで行くっていう話でした。明日の礼拝に間に合って皆さん喜んでると思います。」

「大熊町も津波でやられたみたいだけど、捜索もできないなんて悲しいね。原発事故がなければ違ったんだろうに。家族が行方不明だったら、立ち入り禁止区域になっていても何とかして探したいだろうにね。

 今は祈ることしかできないから、早く家族のもとに帰れるように祈りましょう。」

 夕食の後に牧師夫妻と母と僕の4人で祈った時間は今までで一番神聖な祈りに思えた。


 3月20日 日曜日

 佐々木牧師は礼拝が終わってから僕たち母子を山形空港まで送ってくれた。礼拝では教会員の方々が旅費の足しにとカンパまでしてくれた。人の気持ちの温かさが、ただただうれしかった。

 山形空港は被災地に近い空港だからだか人でごった返していた。報道陣らしき人達も見受けられた。僕たちは伊丹空港で福岡行きに乗り換えた。乗り継ぎの間に見たテレビ番組は報道関係ではなく、普通のバラエティ番組をやっていた。日本中が非常事態じゃないとわかると、不謹慎と思われるかもしれないが、なんだかホッとした。福岡空港に着いたのは夜8時を過ぎていた。

 お腹もすいたので、母の実家に行く途中ラーメン屋に寄った。同じ日本なのに何も変わらない日常があるのに驚いた。

「ここにいると、東北の出来事ってまるで外国の事みたいだね。」

 僕が言うと

「九州の人にとって東京から北は遥かかなたの外国かもね。実際、韓国のほうが東北よりずっと近いし。」

 長いこと母に会えなかったわけだと納得した。僕は生まれて初めての豚骨の九州ラーメンを味わった。普段、食べているラーメンとは麺もスープも全然ちがうラーメンだった。紅ショウガを薬味に使うのも驚きだし、味付けは勝手にどうぞ、という感じでネギ油やカレー粉があるのも不思議だった。

「なんか、同じラーメンのカテゴリーに思えないね。」

 僕の感想を言うと

「こっちはね、薬味は好きなだけどうぞ、っていう文化があるのよね。うどんのネギなんかもそうよ。」

「九州あるあるネタを友達に教えたらウケそうだね。みんな、こっちの事知らないから。」

 にぎわう店内で、他の客の話す東北とは違う特有の言葉を聞いて、本当に九州に来たんだというのを実感した。

 佐賀県武雄市にある母の実家についたのは夜10時を回っていた。祖父母に会うのは10年ぶりだった。最後に会ったのは会津観光に訪れた時だった。母と僕と祖父母との4人で東山温泉に泊まって鶴ヶ城や飯盛山、磐梯山などを見て回った。それまで、温泉宿に泊まったことがなかったので、このときは本当に楽しかった。初めて見る母の実家は、2階建てで瓦屋根のどこにでもある日本家屋だった。

「おじいちゃん、おばあちゃん、お久しぶりです。お世話になります。」

「いや~本当に大変じゃったな。疲れたじゃろう。まあ、よう大きくなったな。こんまぁ、小さかったんになぁ。なんもなかばってん、寝る場所と食べ物はあるからな。まずは風呂にでも入りんしゃい。浴衣もちゃんと用意してあるとよ。」

 そう言って祖母が色々と面倒を見てくれた。同居していた父方の祖母と違い、世話焼きな性格みたいだった。風呂から上がると、強烈な眠気に襲われた。


 3月21日 月曜日

 気が付いたら午後の1時過ぎだった。下に降りて居間に行くと

「よう寝たなあ。少しは疲れが取れたか?」

 祖父の友三が言った。

「まぁ、寝ろって言われても、眠れん場所にいたんじゃから仕方なか。昼飯用意してるけん,食べんしゃい。」

 縁側で針仕事をしていた祖母のセツが言った。

「お母さんは?」

「ちょっと買い物してくるって、さっき出かけたばい。」

「おじいちゃん、そういえば今日って何日だっけ?」

「今日は3月21日、春分の日の月曜日。」

「新聞ってある?」

「今日のでいいのか?」

「できれば12日から全部読める?」

「ああ、ちょっと待ってろ。」

 そう言って祖父が12日から今日までの新聞を持ってきてくれた。」

「なんじゃあ、福島じゃ新聞も読めんかったんか。」

「うん、避難所では読めなかったし、コンビニとかも閉まってたから。」

「じゃあ、被災地にいてもなんもわからんかったんか。

 祖父は避難した僕たちは同時に情報難民であることに驚いていた。僕は祖母が昼ごはんとして用意してくれた饂飩を食べ終えると、新聞を読み始めた。被災地にいたのに知らないことばかりが記事として乗っていた。避難区域は原発から半径20キロで北は南相馬市、南はいわき市に隣接する広野町にまで広がっていた。僕の高校に通っていた学生のほぼ全員が避難対象になった。それにしても亡くなった人の数がこんなに多いと思わなかった。僕が大熊町に住んでからも何回か津波警報はあったけれど、実際に波が来たことはほとんどなかった。津波をなめていたかもしれない。福島県の海岸線のほとんどが被害を受けていた。

 僕はようやく携帯電話の充電や電波の心配をしなくてすむ場所に来たので、登録している友人たちにメールを出してみた。返信をくれた友人の大半は親戚の家に身を寄せていた。避難所にいる友人でも、炊き出しの飯もなかなか美味いぞ、と返してきた奴もいれば、時間はたっぷりあるのにゲームができない、といった本音もあった。とりあえず半分以上の友人と連絡がついて僕も安心した。

 避難できているとはいえ、初めての佐賀県なので町の様子を見てみたいと思って、近くにあるコンビニを教えてもらって行ってみた。行ってみると、見慣れたいつも通りのコンビニがそこにあった。弁当が並び、飲料水が並び、お菓子や雑誌が並んでいた。この数日で僕たちが失ってしまった物の大きさを感じて、思わず泣きそうになってしまった。店内で泣き出したりしたら変に思われそうなので、急いで写真週刊誌とジュースやスナック菓子を買って店を出た。

 特別変わらない日本のどこにでもある風景。そして、ここに放射能の心配はない。

 家に戻ると、ちょうど母も帰ってきたところだった。

「なにか変わったものでもあった?」

「コンビニに普通にものが並んでいて、当たり前がびっくりだったよ。異次元にワープしてきたみたい。」

「同じ日本なのにね。そうだ、着替え買いに行かなきゃ。下着から何から揃えなくちゃいけないでしょ。近くに安い店あるから。」

 母の車に乗ると、5分ほどで衣類の量販店に着いた。予算内で買えるだけ買ってもらった。もう着替えの心配をしなくていいと思うとうれしかった。そして帰りにスーパーによって一緒に夕飯の食材を買いに行った。

「明人は何が食べたい?」

「とりあえず、肉ならなんでもいいや。」

「じゃあ、生姜焼きにしようか。

「うん、それでいいよ。」

 母と二人で店内を回って買い物をした。惣菜のコーナーでは福島では馴染みのないおかずが色々あって面白かった。地元のスーパーでバイトをしていたせいか、商品や値段をついつい見比べてしまっていたのに自分でもおかしくなった。 

 家に着くと、母は台所に立って夕飯の準備を始めた。そして僕が昼間買ってきた雑誌を読もうとすると祖父がそばにやってきて

「今はあない元気じゃけど、戻ってきて1~2年はホンマに大変じゃった。手術して取った腫瘍は良性だから良かったばってん、身体が前のようになるにはリハビリもかなり必要だったとよ。元気でいられれば必ず明人に会えるから、働いて稼がないと息子に会うこともできん言うて。。。。

 福島で焼き物の絵付けの仕事やってたいうの聞いて、知り合いが有田焼の絵付けの仕事紹介してくれてな、頑張って働いとうよ。

 今度の地震でも、居ても立ってもいられんいうて、明人がどこにいるかわからんとも福島に行きゃ何かわかる言うて行ったとよ。こっち来てから、そりゃあ、気にかけてたばい。ただ、自分がちゃんと生活できるようにならないかんて、こないに時間がかかってしもた。堪忍な。。。」

 祖父の言葉で大変な日々を送っていたのは僕だけじゃなかったんだとわかった。そして、何の気なしにテレビを見ると、福島県沿岸の被害状況と原発事故について伝えていた。仲の良かったクラスメートの佐山実が住んでいる浪江町の請戸地区がほぼ壊滅的状況で、行方不明者が多数いる者の放射能が高くて捜査隊員の安全を保障できないので、捜索は難航しているという事を伝えていた。

 僕は友人からの返信メールをチェックしてみた。実からの返信はなかった。先ほど返信をもらった友人で実と親戚関係にある赤間正に佐山実の安否を尋ねるメールを出してみた。

 ほどなくして正からメールが来た。

「九州はどうだい?オレは米沢の親戚の家にいる。3月も半ば過ぎだというのに雪がすごい。実だけど、あの日の午後3時過ぎに「津波来るから船を沖に出しに行ってくる」と言って家を出たそうだ。それきり連絡がつかない。俺たちは12日に強制避難させられた。津波で流された後に助けを待ってクラクション鳴らしてる車とかそのままにして逃げてきた。見捨てられた人の中に実がいたかと思うと胸が張り裂けそうだ。いくら国の命令だからって人を見殺しにしろってことはないだろ!何であんなもの作ったんだよ!あいつ成人式迎えたら付き合ってた2組の裕子と結婚する約束してたんだよ。彼女泣かすようなタイプじゃないし、サバイバル精神の強い奴だから、絶対に生きて帰るってオレは信じてる!」

 メールの内容からすると、ほぼ絶望的だというのが伝わってくる。僕は悲しいを通り越して、今まで信じてたものすべてに裏切られたような絶望的な気持ちになった。

 どうして、なんで、こんな悲しいことが起きてしまったんだろう。涙があとからあとから出てくる。縁側で僕が肩を震わせて泣いていると、

「明人、どうかした?」

 母が声をかけてきた。

「仲の良かった友達が津波で死んだかもしれないって。。。。放射能のせいで捜索することすら許されなかったって。。。。

 なんで。。。。。ついこの間会って僕の大学合格すごく喜んでくれて、次は仙台で会おうって約束してたのに。。。優しい良いやつだったのに。。

 生きてるかもしれないけど、捜索できませんって何なんだよ!」

 原発があることを初めて憎らしく思えた。大熊町に育って、あって当たり前の原発だったが、大きな事故が起きてこんなに悲しい思いをすると思わなかった。

 母も祖父母もどんな言葉をかけていいかわからず、ただ黙って見守っていた。夕焼けに染まる空は同じ日本に地獄のような地域があるとは思えないような美しい茜色だった。 

 夕食に母は僕の好物の豚の生姜焼きときんぴらごぼうを作ってくれた。生姜焼きは特に難しい味付けでもないので、僕もよく作っていた。母が作ってくれたのと同じ味付けだったので、親子だなぁと実感した。そしてきんぴらごぼうを食べた時だった。「ああ、この味」と思う懐かしい味が口いっぱいに広がった。母と一緒に暮らしていた大熊町の家の匂いが脳裏をよぎる。この7年間会いたくて会えなかった母への思いと、やっと会えたという思いが交錯して、また涙が出てきてしまった。

 母も僕が泣き始めたとき、同じような思いに駆られたのだろう。二人でしばらく泣いていた。本当に言葉では説明できない色々な感情が溢れてきていた。母の悪口ばかり言う性格の悪い祖母とおとなしい父とのまったく楽しみのなかった家庭。それでも、温かい近隣の人たちに助けられて、そこそこ幸せだった生活を壊した原発事故。国の命令とか何とか18歳の僕ではどうすることもできない現実。。。

 ひとしきり泣いたら、母も僕も気持ちに少しは整理がついた。そのあとは大学の入学式に備えてスーツを用意したほうがいいとか、そんな話をした。震災が起きた後でも、時間は確実に未来に向かって進んでいる。

 次の日、僕は入学予定の大学に電話してみた。入学式や寮について聞いてみようと思ったからだ。何回かかけ直して、ようやく職員の人に話を聞くことができた。大学側の話だと、4月に入学式は難しいかもしれないという事だった。まだ調整ができない状況なので、4月に入ったらホームページをチェックするか、大学に問い合わせてほしいという返事だった。

 母は仕事に出かけていて居なかったが、祖父が縁側で新聞を読んでいた。

「おじいちゃん、しばらく仙台にも行けないみたい。大学に聞いてみたら4月での入学式は難しいだろうって。家にいても退屈だから、なんかアルバイトないかな。ボランティアでもいいんだけど。」

「一か月くらいのアルバイトかぁ。なんせ不景気やけん、一か月だけ、なんて仕事はなかね。それより明人、この機会に自動車の免許取ったらどうじゃ。じいちゃんがお金出してやるけん。3月までは自動車学校は混んでるばってん、4月はガラガラじゃと聞いとるぞ。一か月あったら取れるじゃろ。」

「え、いいの?大丈夫なの?」

「そのかわり、じいちゃんたちが仙台行ったら、あちこち連れてってもらうぞ。」

「もちろん、行きたいところ、全部つれてくよ。」

 思ってもみない申し出だった。自動車免許は社会人になる前に欲しいとは思ってたが、時間も費用もかかるから、できるかどうか想像がつかなかった。今はとにかく時間はある。福島や仙台は非常事態だからそんなことは言ってられないが、ここ九州では、いつもと変わらない日常が流れている。何をして過ごしたらいいのか考えていた春休みは自動車免許取得という目的ができた。確実に道は未来につながっている。

 震災から3週間が過ぎ、福島にいる父と祖母は二本松の避難所に移ることとなった。今度は個室があるらしい。大熊町に戻ることができるようになるのかどうか今はまったくわからない。高校卒業後に上京するのを家族に反対されていた友人の渡辺真一は、この機会に東京の避難所に移るという。「やっと夢がかなった」とメールをくれた。

 福島県の浜通り地方は、地縁や血縁の強い土地柄なので、家を継ぐ長男が離れることを許さない家庭も多かった。僕はこんな形で古い習慣から抜けられるなんて皮肉なものだなぁ、と思った。でも彼が未来に向かって大きな一歩を歩みだしたのは確かだ。

 僕は大学で農業を学ぶ。地味な学問だが需要がなくなることは絶対にない。中学生の時に何かの授業で、日本のワインの父と言われる川上善兵衛という人のことを知った。ワインに関しても素晴らしい功績を残しているが、僕はブドウの品種改良の情熱に感銘を受けた。彼は100年前に約一万回にも及ぶ交配をして日本の風土に合うブドウを作り上げた。現在市場に出回るブドウの6割は彼が手掛けたものだ。僕の大好きな巨峰やピオーネも彼が作り出した。いま僕たちは川上善兵衛さんのおかげで美味しいブドウを当たり前に食べることができる。


 僕の夢は100年後の子ども達に誇りの持てる日本を、世界を、地球を残すことだ。100年後、僕が品種改良した野菜や果物が、アジア、アフリカで食卓を豊かにししてくれていたら、どんなに素晴らしいだろう。100年後、飢餓、貧困から子ども達を救う事に僕が役立てたらどんなに素晴らしいだろう。

 スリーマイル島、チェルノブイリ、福島第一原発と事故は起こってしまったけれど、得られた教訓も多いはずだ。


 『昔は原子力発電所で電気を作っていたんだって』


 そう言われる世界を作って残していきたい。僕たちは誇れる未来をつくっていく。絶対できる。

書きながら、大熊町に住んでいた時のことを思い出し何度も泣いてしまいました。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ