タイムトラベル
西暦1945年8月6日午前11時15分
日本人民共和国 東京市
国防省 第BB-31会議室
縦横15m四方はある会議室。普段は物置として使われているその会議室は、綺麗に片付けられ、一人の男が椅子に腰かけていた。
「はぁ」
彼はため息をつく。彼の役職は、日本人民共和国最高会議幹部会臨時議長。この日本における最高権力者の一人だ。
彼はつい先程まで、無任所政治委員の一人だった。彼は今70歳。このまま無任所政治委員として政界を引退する筈だった。
その筈だったのだが、米軍の核攻撃によって政治委員多数が戦死。彼の上位者は全てあの世へと旅立った。この為、先任序列に従って彼が臨時議長に就任。戦争指導をすることになったのだが、問題が山積していた。
問題の一つは、指揮系統に関すること。アメリカの奇襲攻撃によって、政府と軍の高官が多数戦死。指揮命令系統には大混乱が生じていた。無論のこと、日本国は西側との冷戦の真っ最中。
このようなNATO軍の奇襲攻撃に備えて、指揮官には継承順位というものが存在する。先任者が指揮を執れない状況になれば、すぐに次の者が指揮を引き継ぐことになっていた。
だが、これは現在余り上手く行っていなかった。損害の程度が大きすぎるからだ。平時の状態で奇襲を許したため、指揮系統が各所で断裂。事前の計画にもかかわらず、後任の選定は上手く行っているとは言えない状態だ。
「はぁ」
彼はまた溜息をつく。一体、この一時間で何度溜息をついたんだろうか? このままでは一生分の幸福を使い果たすことになるのでは? そんな疑問が一瞬、臨時議長の脳裏をよぎる。
いかんな。ワシがこんなんでどうする。
臨時議長は頭を振って、弱気な思考を追い払う。そして目をやる、手元の資料に。
その報告書は通常の手続きを経て、彼の手元に入ってきたわけではなかった。高校時代の同級生が横紙破りで持ってきたものだ。今は戦時、本来ならそんなものは無視しても良かったのだが、京都大学の物理学部で教授をやっているその友人には鬼気迫るものがあった。だから目を通したのだが……。
「はぁ」
どうしたものかと彼は頭を抱える。その報告書は誤字脱字が随所にみられる。本来、政治委員への報告書というものは幾度となく推敲を経て提出される。
それを横紙破りで持ち込んだのだから、それはまあいい。作成者にしても、余程慌てて作成したのだろうことが窺えるからだ。
問題はその内容だ。
資料の表題。それは『日本列島が時間移動している可能性について』。荒唐無稽。普通に考えてありえない。
しかし、そうも言い切れないところもあった。それは報告書の作成元が作成元だからだ。
京都大学大学院時間移動研究室。報告書の作成者は、その研究室だった。表手向きはタイムマシーンを開発していることで有名なその研究室は、その実、タキオン粒子の兵器利用を研究としている。
実のところこの研究室、5兆円以上という莫大な費用を投じて、超大型の加速器を建設、運用している。その建設費用の余りの巨大さに、政治委員である彼も建設に少しだけで関わっており、何度かほかの政治委員たちと共に現地視察をやったことがあった。
それは兎も角。
タキオン粒子とは、アインシュタインの相対性理論を無視し、超光速で移動する粒子のことらしい。そして、タキオン粒子が光速を越えて移動する関係上、その周囲では時空の歪みが発生する……とその報告書には書かれていた。
生憎と物理学が専門ではない彼には、何のことだかさっぱり分からなかったので、その辺のことは軽く読み飛ばして本題部分に入る。
そこに記載されていたのは、研究室が運用していた量子加速器が暴走。タキオン粒子を大量に生成してしまったこと。それが原因で、どうやら日本列島の広い範囲で時間移動現象が発生したらしいということだった。
もしもその内容が真実だったとしたら、大問題だ。責任者の処罰はまぬかれないであろう。
いや、政治的責任云々はまだいい。問題は『時間移動』という点。一体全体、いつの時点から、いつの時代に転移したというのか? そこが問題だった。
と、ノックの音。
「入れ」
報告書を脇に放った彼は、入室許可を出す。
「失礼します」
入ってきたのは三ッ星の将官。その後ろには佐官が二人。その将軍の顔には見覚えがある。陸軍参謀本部の誰かだったはずだ。
つい先ほど自己紹介をされたはずが、名前を思い出せない。まあ、参謀本部の誰かとだけ分かっていれば十分だろう。そう彼は判断する。
「将軍、何事かね?」
予想外にしわがれた声。その声を聞いて彼は気付く。喉がカラカラである事に。そう言えば、長いこと何も口にしていない。
「は! その……」
そう言ったきり、将軍は言いよどむ。どうにも言いにくそうだ。
「悪い報告かね?」
「いえ、その、何と言いますか……」
将軍の顔に脂汗がにじむ。まるで、何で自分がこんな報告を上げなければならないのかと同僚たちを呪っているかのよう。
少なくとも、敗北ではないな。彼はそう判断する。どこかの戦場で大損害を被ったという程度で、これほど狼狽する筈がない。既に核攻撃を受け首脳部が壊滅しているのだ。今更損害が何だというのか? つまりは、別の要因だ。
そこで彼は鎌をかけてみることにした。
「タイムトラベルかね?」
この質問に将軍は奇妙な顔をする。まるで鳩が豆鉄砲を喰らったかのよう。
「そ、そのとおりであります!」
上ずった声で将軍は報告を始めた。
10分後。
「ふうむ」
報告を聞き終えた彼は、腕を組んで黙考する。報告の内容は、電波傍受に関するもの。
シギント活動によって得られた電波情報によると、ここは21世紀ではないらしい。
つい先程まで傍受できていた筈の電波通信が突如として消滅。代わりに傍受され出したのが、無数のアナログ通信。アナログ通信は妨害に弱く、また盗聴も容易である関係であまり使われることはなくなっている。
不審に思った担当者はその通信内容について解析したところ、驚くべきことが判明した。アナログ通信で使用している暗号。それは時代遅れで旧式。それどころか、暗号解析機のライブラリに記録があった。
つまりは、大昔に実際に使われていた暗号ということだ。
早速その通信内容を解読した担当者は再度仰天することになる。何せその中身が、第二次大戦についてだったからだ。
それによると、現在は1945年の8月6日。
最初、通信局も情報部も、それを西側による欺瞞行動だと判断した。余りにも荒唐無稽で、空想的に過ぎるからだ。
だが、それは起こった。広島へB-29が侵入。そして、原爆投下。しかも、核兵器が使われたのは広島だけ。
これが西側の謀略による核戦争であるならば、広島のみに限定核攻撃を加えるのは余りにも不自然。
自分たちは第二次大戦に巻き込まれた。その仮説はここに至って補強され、情報部は上層部へと報告すべき事案と判断。今に至る。
「ふうむ」
どうしたものか? 彼は考える。時間移動の可能性は確かにある。だが、その情報は十分ではない。
「将軍、電波傍受だけなのか? 誰か実際に目で見たものは?」
この問いに将軍は、後ろにいた佐官の一人と目くばせする。その佐官は前に出ると、会議卓の端末を操作。正面の大型液晶画面を起動させる。
「議長、こちらをご覧ください」
画面に表示されたもの。それは衛星画像だった。
「議長閣下。これは生き残っていた偵察衛星が捉えた映像です」
将軍が説明を再開する。
突如としてほとんど全ての衛星を失った日本だが、全ての衛星が失われたのではない。何機かの衛星は健全で、地上に情報を届けていた。
生き残った衛星――その中の一つに偵察衛星も含まれていて、欧州や北米の情景も伝達していた。
そして、画面に表示されているのが、その偵察衛星がとらえた北米や欧州の情景だった。
欧州では多数の都市が破壊され、廃墟となっているものが多数。一方で北米にはこれといった破壊の形跡が見られない。
欧州の破壊跡だけを見れば、第三次大戦が始まりソ連軍が応戦したものであると推測できなくもない。だが、もしもそうだとしたら、北米が破壊されていないのは不自然に過ぎた。
第三次大戦となれば、当然北米に集中的に核兵器が使用されている筈。スター・ウォーズ計画によってアメリカ本国にはある程度の弾道ミサイル防衛能力があるものの、それを突破するための飽和攻撃だったはずだ。ワシントンやニューヨークの様な米国主要都市が生き残っているのは余りにも不自然だった。
「だが、北米が無事だからといっても……帝国主義者共の防空能力が予想外に高かっただけかもしれん。それで第三次大戦を否定するのは先走りではないか?」
議長の問いかけ。
「無論、これだけで時間移動を疑っている訳ではありません」
将軍はそう言って、表示画面を操作。衛星写真の一枚を拡大させる。そこに映っているのはワシントン近郊の飛行場。駐機場には多数の航空機。数十機はいるだろう。彼は衛星写真の専門家でもなければ、航空博士という訳でもなかったが、流石にその程度のことは分かった。
「ふむ」
彼は眉を寄せる。映っている航空機。それが問題だった。
「欺瞞の可能性は?」
答えには大して期待している訳ではなかったが、将軍に問いかける。
「可能性はありますが、不明です。偵察衛星は一機しか生存しておらず、情報が不足しております」
予想された答え。
「ふうむ」
結局のところ、これで分かるのは、ほとんど何も分かってないということだけだ。
――衛星写真に写っている多数の航空機。そのすべてが古臭いデザイン。いわゆるレシプロ機というものだった。
何とも微妙だ。たったの一機しか衛星が生き残っていないということは、何らかの手段でクラッキングされている可能性もある。この衛星は出鱈目な写真を送っているだけかもしれない。
「確認すべきだな。直接、目視で」
議長の指摘。将軍はこの問いに心外そうな顔をする。
「無論です、議長閣下。我々参謀本部はこの四時間余りの間、手をこまねいていたわけではありません。既に偵察機を発進させております」
将軍の返答。
「結果はいつごろ得られる?」
「シベリア方面に派遣した偵察機については、もう間もなく到着するかと思われます」
「朝鮮半島は?」
議長の問い。シベリアよりも朝鮮半島の方が近い。対馬からならば目視できるほどだ。当然、偵察機も朝鮮半島に先に到着する筈だ。
「朝鮮に航空機は飛ばしておりません。朝鮮の同志は……政治的に問題がありますので」
将軍は苦虫をかみつぶしたような顔をする。
日本人民共和国と朝鮮共和国。この二か国はいずれもソ連という共通の宗主国を抱いているにもかかわらず、その政治的関係は良好とは程遠かった。事前の通告なしに偵察機を飛ばした場合、政治問題化する恐れがあったのだ。
「駐日ソ連軍は? 彼らなら問題ないはずだ」
議長がそう指摘するも、その答えは否定的なもの。
「ソ連軍は本国の安否確認を優先させているようです。半島は後回しになっています」
「ふうむ」
理屈は分からないでもなかった。朝鮮半島の政治的・軍事的重要性はさして高くない。そして、彼らには帰るべき祖国が存在している。そうである以上、本国の様子が気になるのはやむをえまい。
議長は肩をすくめる。情報が不足していた。何がどうなっているのかが不明。駐日ソ連軍は核攻撃を受けて最終行動を実施したようだが、生憎と日本軍にそのような装備は存在しない。
結局のところ日本としては、動員と戦時体制への移行を行う以外、しばらく様子見しか手はないということだ。