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プロローグ 疼痛

 貴族というものはつくづく難儀な生き物だと思っていた。腹を満たす事より着飾る事を優先し、子を慈しむ事より体裁を保つ事を重視する。

 たとえ今まさに己の足元で地割れが起き、奈落の底に落ちそうになったとしても、平然を装ったまま磨かれた美しい靴でその亀裂を渡っていかなければならない。


 相手に隙を見せてはいけない。

 常に悠々と構えていなければ、すぐにでもその隙間に付け込まれて破滅する。

 優雅で、誰からも羨望の眼差しを向けられる存在。そうでなくては生きられない。人々に後ろ指を指されることなどあってはならない。


 ローレンスの両親は、まさにその貴族のプライドに全身を塗り固められた人形のような人たちだった。

 ローレンスは一人っ子だった。一家の長男で自分はいずれマクミラン家を継ぐ人間。しかしローレンスが生まれた時すでに彼の家は存亡に関わるほどの借金を抱えていた。

 父親は女児を欲しがった。より財に潤いのある上流貴族との縁談のためだ。父が望んでいたのは跡取りじゃない。己を救ってくれる財源とそのための道具だった。

 だから父はいつもローレンスに辛辣だった。一応跡取り息子としてそれなりに扱われたが、所詮それも体裁のため。父はローレンスに対し一切の期待をしなかった。

 母も父の言いなりだった。彼女は口を持たない奴隷も同然だった。記憶の限りではローレンスは母に抱きしめてもらった事などない。頭を撫でられる事も手をつないで歩いた事もない。

 ローレンスはいつも一人だった。日中家にいるのは引きこもりがちの母と、彼女を世話する言いなりの三人のメイド、家を取り仕切る厳格な執事、何を考えているかわからない冷酷な家庭教師だけ。外で遊ぶこともせず、そんな大人たちに囲まれてローレンスは幼少期を過ごした。


 ある日、我慢ならなくなったローレンスは彼らの目を盗んで屋敷を飛び出した。賑やかな繁華街を抜け、誰もいない路地を走り、郊外の河原にまで足を運んだ。家にいると息が詰まりそうだった。だから外へと飛び出した。新鮮な空気を、嗅ぎなれない匂いを、暖かな陽光を、その全てを目一杯吸収するために、ローレンスはどこまでも走った。

 ローレンスは笑っていた。彼は今、本当に自由だった。彼を縛り付けるものは何もない。彼はどこまでも走り続けた。


 けれどどんなに願ってもそんな時間はいつまでも続かない。やがて日が傾き、渡り鳥が鳴きながら南の空へと飛んでいくのを眺めると、ローレンスは帰らなければならないという現実を突きつけられているように思えた。ローレンスに行く当てなどない。帰る場所は、あの狭苦しい家しかないのだと思い知らされた時、ローレンスは急に谷底へと突き落とされたような心地がした。足が止まり、ローレンスはその場へ蹲る。もはやここがどこかもわからない、けれどもここにローレンスが帰れる場所がないのは確かだった。


「……帰りたい」


 けれどもどこへ?ローレンスの頭に浮かぶ『帰りたい場所』などどこにもない。そんな時だった。


「そこでなにしてるの?」


 ローレンスは声をかけられて顔を上げた。ローレンスの目の前に一人の少女が立っていた。


「だいじょうぶ?ぐあいわるいの?」


 少女は座り込み、蹲っているローレンスに目線を合わせた。ローレンスより少し年下の少女だった。飴色の髪がふわふわと風に揺れ、同じ色の瞳は大きく見開かれ吸い込まれそうになった。


「具合が悪いわけじゃ、ない」

「そうなの?でもつらそうなかおしてる」


 少女は無遠慮にローレンスの頭を撫でた。会ったばかりの少女に頭を撫でられるなんて、同年代の友達を持たないローレンスにとっては未知の刺激だった。


「……っ!」

「あなたどこからきたの?おうちはどこ?」


 ローレンスの戸惑いにも気づかず、少女はこちらを質問攻めにする。どうしていいかわからずローレンスはじっと黙って耐えた。すると、


「そうだ!おかしたべよう!」

「え?」


 唐突に少女は立ち上がった。そして蹲っていたローレンスを無理やり立ち上がらせると、ぐいぐいと服の袖を引っ張る。


「あそこがわたしのいえ、おばあちゃんが『しじゅく』をしてるの」

「私塾?」

「うん、いまね。おばあちゃんがあしたのためのおかしをつくってくれているの。いっしょにたべましょう!」


 そう言って少女は有無を言わさず、ローレンスの腕を掴んでその私塾とやらに導いた。


「あなた、おなまえは?」

「……ローレンス」

「ローレンス、かっこいいなまえだね!わたしはイスカだよ、よろしくね」


 イスカと名乗った少女は目の前の扉を勢いよく開けた。その風圧でローレンスの前髪がふわりと浮き上がり、視界が大きく開けた。その扉の向こうには―――、


「おや、イスカ。新しいお友達かい?」


 入ってすぐのキッチンに妙齢の女性が立っていた。彼女が手にする器からふわふわと湯気が漂っている。ほのかに甘い匂いがローレンスの鼻腔をくすぐった。


「うん、おばあちゃん。ローレンスっていうの。いっしょにおかしたべていい?」

「このお菓子は明日の授業の後に出すものだから駄目だよ。……でもそうだね、今からご飯にするから、一緒に食べるかい?」


 女性はローレンスに向かって問いかけた。ローレンスはなんだかよくわからずに、コクコクと頷いた。


「わあい!おばあちゃん、きょうのごはんはなに?」

「今日はイスカの大好きなクリームスープだよ」


 イスカは嬉しそうに飛び跳ねた。


(どうして、この子はこんなにも楽しそうなんだろう?)


 ローレンスには理解できなかった。突然の事に混乱して入口でつっ立ったままのローレンスにイスカが手を差し伸べる。


「ほら!おいでよ、ローレンス」


 イスカがにこりと笑った。その笑みにつられるようにローレンスは右手を伸ばしたが―――


「!」


 伸ばしたはずの右腕がそこになかった。肘から先がぽっかりと消え、イスカの手をかすりローレンスは前のめりにつまずいた。

 その瞬間、辺りは真っ暗に包まれて周囲の景色は一変した。遠く向こうで、「ほら!はやくはやく!」とはやし立てる少女の声はするのに、ローレンスの周囲には誰の姿も見当たらない。


「ま、待ってくれ」


 ローレンスは必死で少女の姿を探した。だが、影も形も見当たらない。声もどんどん遠ざかって、ローレンスは一人暗闇の中に取り残された。


「―――!?」


 その時右腕に激痛が走った。じくじくと脈打つような、右腕を丸ごと締め付けられたような痛み。思わず反対側の手で腕を抑えようとしたが―――そこに痛むはずの右腕はない。


「やめろ、……やめろ!」


 気が付くとローレンスの身体は少年ではなくなっていた。ローレンスは暗闇の中で一人痛みにもがく。這いつくばってのたうち回って、それでもないはずの右腕の痛みは消えない。


「やめろ―――!」


 ローレンスは絶叫した。その自分の叫び声で、ローレンスは飛び起きた。




「―――!」


 目覚めるとそこは昨日から宿泊している宿のベッドの上だった。辺りはまだ暗い。しんと静まり返った前の通りから、微かに虫の声だけが聞こえてきた。

 ローレンスは息を乱し、全身ぐっしょりと汗をかいていた。しばしそのままで呼吸を整え、ようやく平静を取り戻したが、ローレンスはやつれた顔で頭をかきむしる。


 数か月前、故郷メルカリアで右腕を斬ったローレンスはあの日以来、毎晩のように腕を失う悪夢を見続けていた。あらゆる場所で、あらゆる時代で、様々な状況下でローレンスはいつの間にか腕を失くし暗闇の中で痛みにもがく。さらに恐ろしい事に、目が覚めて悪夢だったとわかってもなお、その痛みは継続し続けた。無いはずの右腕が痛む。何かに押しつぶされたような激痛が寝ても覚めてもローレンスを蝕む。

 こうなってはもう眠れない。ローレンスは掛け布団をはぐとベッドの淵に腰かけて体をくの字に折った。


「……っ!」


 その瞬間またしても激痛がぶり返した。右手の指先をガンガンと金槌で殴られるような感覚、だが押さえつけようとしてもそこに右手などない。


 幻肢痛。医者はローレンスにそう言っていた。原因は明らかにされていないが、四肢を失くした者は大抵この激痛に襲われる。痛みを和らげる方法はない、ただ、それが治まるまで待つしかない。

 ローレンスは歯を食いしばって痛みに耐えた。そうしていればやがて痛みは引く。いつもの事だ。

 痛みで朦朧とする意識の中で、ローレンスはさっき見た夢を思い出した。今までいろんな夢を見てきたけれど、実際にあった過去になぞらえた夢を見たのは初めてだ。


(そう言えばあいつと出会った時も、こんな風にして一人で蹲ってたな)


 幼い頃家に帰るのが嫌で、下町の通りで蹲っていたローレンスに声をかけたのがイスカだった。彼女はローレンスを私塾に招き、ローレンスはそこで夕食をご馳走になった。出会ったばかりの見ず知らずの少年をあっさりと受け入れたあの家は、ローレンスにとっては想像のしがたい物が詰まっていた。テーブルの上に散乱するお菓子やおもちゃ、子供の絵や工作で飾り立てられた暖炉、リビングの隣の部屋を見れば、大きな黒板に残っていた子供たちの落書き、散らばった絵本や積み木。そして何より、そんな賑やかな空間で嬉しそうに温かいスープを食べる少女とそれを見守る彼女の祖母。ローレンスにとって、何もかも初めて出会うもの。自分のいたあの家とは、何もかも違うもの。


(あの後、俺はどうしたんだっけ……?)


 確か夕食をご馳走になって、そのまま疲れて眠ってしまったのだったか。翌日になって一度家に戻って父親に散々罵倒された後、結局またあの私塾に戻って塾生になったのだったか。

 確か家にも戻らず、あの家に間借りして卒業まで世話になったのを思い出す。


「今考えたら、……とんだ不良息子だな」


 結局塾を卒業した後、そのまま実家には戻らず騎士団に入隊した。もうかれこれ十年近く両親の顔を見ていない。彼らは今のローレンスを見てどう思うだろうか?右腕を失くし、騎士の道を諦め、痛みにもがく姿を見て笑うだろうか?

 もし、あの頃私塾で感じたあの温かさが片鱗でもローレンスの家族にあったら、きっと何か変わっただろうか。そんなありもしない妄想をしても仕方ないのに、ひょっとして自分は後悔でもしているというのだろうか。


「あいつは、元気にしてるかな?」


 ローレンスに一時の安息を与えてくれた少女は今、どこで何をしているだろうか。

 右腕の痛みは未だにひかない。窓の外を見ると空はうっすらと群青色に変わってきた。今日はもう朝までこの痛みと付き合わなくてはならないようだ。

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