第八話 獣の慟哭、薄暮の涙③
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夕暮れと血に濡れた地の上に数えきれないほどの死体が転がっている。どれも損傷が激しく、五体満足で息絶えた者はほとんどいなかった。そんな血肉の海の中に、ザウドは寂しく転がる骸骨を見つけた。
周辺に転がっている色鮮やかな死体とは違い、それは古ぼけていて遥か昔からここに放り出されていたように感じられた。
「ユリウス」
返事はない、そんな当たり前の事にザウドは小さく舌打ちをした。
《ユリ、ウス……》
そこにおぼつかない足取りで一匹の黒猫が近づいてきた。
《ユリウス……、ああ、何ということ。早く、もう一度、私の『生』を―――》
「無駄だ」
ザウドが冷たく言い放つと、猫は初めてこちらに目を向けた。九生の猫、ミロの瞳に映ったのは―――憎悪。
《兎の王。なぜ、ユリウスを救おうとしない?お前はユリウスと友だったはずだ》
「友だから、だ。もうユリウスを解放してやれ。こいつは二百年前に死んだんだ」
《いいえ、死んでなどいない》
ミロはきっぱりと断言した。その目に迷いも戸惑いも一切なかった。
―――ああ、こいつはとっくの昔に壊れていたのか。
ザウドはかつて共にユリウスの成長を見守ってきたはずの友を憐れんだ。いつの間に、こんな不安定な存在になってしまったのだろう。今となってはもうザウドが彼のために出来る術などない事は明白だった。
《万物の奏者の力さえ行使できれば……。だが、もうあれも当てにできない。ならばもう私の力でもう一度生き返らせるしかない》
「お前今日までに何度死んだ?自分が生き返るのに『生』を使い、この二百年ユリウスを生き返らせるために『生』を分け与え続けた。お前のそれは無限じゃない。―――九つだ、それ以上ないんだ。次に『生』を分け与えればさすがにお前は―――」
《私の未来など惜しくはない!》
ミロが激昂した。人間であるならば、彼はきっと泣いているのかもしれない。
《あの時、……あの日、お前がこの村にいてくれたなら……。ユリウスは死なずに済んだのだ。なぜ、村を出て行ったんだ!?なぜユリウスを置いていった!?》
「僕がいたって術師狩りの脅威はこの村を覆い尽くしていたさ。ユリウスを助けられたかどうかなんてわからない。助けられたかもしれないし、助けられなかったかもしれない」
過ぎた事を後悔しても仕方がないのだ。術師狩りがあったあの日、ザウドは村を空け、その間にユリウスをはじめとする多くの村人が犠牲となった。目の前にいるミロも、一度死んだ。
それは時の巡りあわせに過ぎない。仕方のなかったことなのだ。
だが、そのあとミロがした事はザウドにとっては許しがたい事だった。己の『生』をユリウスに譲渡し、ユリウスを擬似的に生かし続けた。動かなくなればまたもう一度『生』を与えて、友をずっと苦しめ続けていた。
「僕はお前の愚行をずっと見張ってきた。そのために教会にとどまり続けた。……もう十分だろう?二百年だぞ、健常な人間ですら生きられない時間を屍とはいえ共に過ごせたんだ」
《……》
ミロは何も答えなかった。ザウドももうこれ以上話す気はなく、さっさと踵を返す。
「精々いつまでもその亡骸に縋って居ろ。僕はもうこの村を出る」
《……私は決して、諦めるつもりはありません》
最後にぽつりとミロが吐露した。それを最後にザウドとミロは二度と会う事はなかった。
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村での戦闘は陽が頂点に上る頃には収まった。しかし、朝の陰鬱ながらも静粛な村の情景はもうそこにはなく、いたるところに死体が転がり、地面は血と脂が染み込み日照りの中で異臭を噴き上げていた。
生きている者はなかった。転がっているのは村人の死体、或は甲冑を纏った兵士の死体。いずれもひどい損傷を受け、凄惨な最期を遂げていた。
この日、全村民が死亡し事実上この村は消滅した。この事件の顛末を知るものはシルキニス王国の中にはほとんどいなかった。
唯一戦火を免れたのは村の外れにある教会だけだった。かつては荘厳な居住いをしていた礼拝堂は、今はすっかり寂れて廃墟と化している。
そんな荒んだ礼拝堂の中でイスカは膝を抱えて座っていた。床は埃と泥で汚れていたけれど、イスカは構わずに地べたに座り込んでいた。
イスカのすぐそばにある長椅子の上に一人の男が横たえられている。イスカは彼の横顔をずっと眺めていた。彼は今は意識を失っているが、呼吸は安定し顔色も良かった。きっとイスカの方がずっと青い顔をしている。さっきまでの惨烈な姿が嘘のように無害な姿で、安らかに寝息を立てていた。
イスカは微動だにせずその姿を凝視している。すると背後から肩に毛布を掛けられた。
「風邪ひくわよ」
「あ―――、ありがとうフィオナさん」
すぐ側にフィオナがいた事に気づかなかった。気づけば周囲は暗く闇に沈んでいて、窓から零れ落ちていた日差しもとっくに届かなくなっていた。
「あんたがここで診てなくたって大丈夫よ。こいつの身体はもうなんともないんだから。むしろいつも以上にピンピンしてるわよ」
「……心臓を、食べたから?」
フィオナは気まずそうに眼を反らした。
「私たちは人を喰らえば何百年だって生き永らえる。不治の病も致命傷も私たちには関係ない。ただそこに人間がいれば、私たちは生きていけるの。……こいつは今日大量の心臓を喰った。だからもう大丈夫、こいつの身体は健常者以上に健康よ」
フィオナはまるでイスカを安心させるように告げた。
それから彼女はすっとジンロの枕元に立った。その表情は憐れんでいるようで、どこか寂しそうだった。
「でもそれは獣王の本能がこいつを死なせまいとしたからよ。元々獣王の中で『食事』を進んでやっている奴なんて私くらいよ。兎はともかく、こいつだって口に出さないだけで本当は人なんか食べたくない。……でも、そうしなければ私たちは生きられないの。『食事』が必要になった時、それは必ず私たちの中に現れる。人を喰えと、何度も何度も迫ってくる」
フィオナがイスカの方を向いた。暗闇で瞳孔の細い目がギラリと光った。
「今日、こいつがあれだけの人間を虐殺して、それでもあなたに手を出さなかったのは何故かわかる?」
「……」
「昔のこいつなら、真っ先に万物の奏者を喰ってただろうにそうしなかった。多分こいつは本能に抗った。それであんな風に、暴走した」
「私の、せい?」
「あんたのせいじゃないわ。でも、こいつがあんたを守ろうとしたことだけは忘れないで」
獣王が万物の奏者を守る、それがどんなに歪な事か。フィオナたちの言葉から痛感した。そして、その歪な事を自分の命が危険にさらされた時でさえ押し通したジンロを愛しく思うと同時に、自責の念が積もった。
「……前にジンロに言ったの。ジンロが人であっても鳥であっても、化け物であっても関係ないって。あの時そう言った事は嘘じゃない、でも―――」
イスカは寒くもないのに体が震えた。脳裏に浮かぶのは、村人たちを虐殺し心臓を喰らい、血の中で笑う化け物の姿。
「あの姿を見た時、私は確かに恐いと思った。ジンロの事を恐ろしい化け物だとしか思えなくなった。来ないで、って何度も叫んだ。動きが止まっても恐ろしくて駆け寄れなかった、ずっと目を反らして動けなかった……!」
じわりと視界が滲んだ。イスカの目から何かわからない涙が零れ落ちた。
『あの姿を見て、まだ家族と言えるのか―――』
ザウドに指摘された言葉が胸中にぐさりと突き刺さる。
「私っ、ジンロを家族だなんて言う資格ない……!言えないよ、もう。一緒に居られる自信がない……!」
イスカの心がもっと強ければ、ユリウスの事を咎められた夜、逃げ出さずに済んだだろう。今日だってジンロの事を止められたかもしれない、いや、止められなくとも側にいるべきだったのだ。
イスカはそれが出来なかった。それが悔しくてイスカは涙が止まらなかった。
フィオナが静かにイスカを抱きしめた。いつもの彼女らしくない、優しい抱擁だった。
「いいのよ、あんたは万物の奏者である以前に、普通の女の子なんだから。全部受け入れるなんて事、出来なくていいのよ」
その晩、イスカはフィオナの胸でずっと泣き続けた。そのまま泣きつかれて眠りについて、翌朝目が覚めた時、イスカはジンロが寝ていたはずの寝台にいた。
ジンロの姿はもうどこにも見当たらなかった。




