第八話 獣の慟哭、薄暮の涙②
雨が降ってきた。ポツポツとジンロの肌を叩き滑り落ちる。温かい雨だ。目の前に広がる空は綺麗な青なのに、どうして。
身体が動かない。痛みも何も感じない、ただひどく、眠い―――。
だが、ぼやけた視界の中でこちらに必死に叫ぶ声が聞こえた。
いやだ、ジンロ、しんじゃやだ
視界に見えるその少女が苦しそうにこちらを見ている。その泣き顔に、ようやく心臓がずきりと疼いた。感覚がなくなっていた体が徐々にそれを取り戻していく。
ジンロ、ジンロ
少女は必死にジンロを呼ぶ。その度に心臓が呼応し、ジンロの身体を揺さぶった。どうして彼女は泣いているのか。ジンロのために、こちらが心配になるくらい涙を流して。
―――泣くな、大丈夫だから。
そう伝えたいのに、唇が動かない。声が届かない。
だが綺麗な光景だと思った。少女の歪んだ顔と、そのキラキラとした瞳から零れ落ちる透明で澄んだ涙。
―――ああ、やっぱりだめだ。俺は、昔からこの泣き顔に弱い。
かき乱される。少女が幼い頃からずっと、ジンロはこの泣き顔を見るのが辛くもあり、同時に嬉しくもあった。大きくなった今ならばなおさら、その眼差しに美しさと儚さがあってジンロは唯々魅了される。
こんな時に、こんな風に考える自分は相当に醜い。しかも少女にこんな顔をさせるのが他でもない己だという事に、罪悪感以上に愉悦を覚えている事がますます浅ましくて吐き気がする。
側にいなくてもいいと思ったのに、やはり彼女の側にいるとこんなにも満たされる。それはイスカとジンロが万物の奏者と獣王だからなのか、それとも別の何かがあるのか。
どうして今このタイミングでこんな馬鹿な事を考えるのだろう。ああ、もうさっさと楽になりたい。けれどもここでジンロが死ねば少女は悲しむ。でも悲しませるのも悪くない―――いや、やっぱり嫌だ。
もう自分が何を考えているかもわからなくなってきた。ポロポロとあふれる少女の涙が、ジンロの頬を伝う。その一滴が口の中に滑り込んだ。口腔に広がる少女の涙。塩辛くて、―――甘い。
その時、夢現になっていたジンロの意識が急に覚醒した。いや、違う。正確には、ジンロの中にあった別の意識が―――獣王の本能が呼び覚まされた。
―――喰え!この娘を喰え!まだ間に合う!
それは突然己の中で暴れだした。激しく激昂する、このままでは死ぬぞと、命の危機に警鐘を鳴らしている。
驚いたジンロだが、次の瞬間体が勝手に暴れだした。激痛が襲うが、ジンロの中に残っている最後の理性がそれを必死で抑えた。
―――何をしている!喰え!このままでは死ぬ!手遅れになるぞ!
―――嫌だ!イスカを喰うくらいなら俺は死ぬ!
―――何を愚かな、万物の奏者が目の前にいるのだぞ!喰え!早く!
―――嫌だ!絶対に嫌だ!
今やジンロの視界は赤と黒に染まり己の内に潜む化け物を抑え込もうと必死だった。化け物はジンロの喉元を掴みながら、何度も何度も喰え、喰えと迫ってくる。
だが、とうとう化け物が折れた。そして次に訴えた事は、
―――ならば他の奴を喰え。村一つを喰い尽くせ!そうしなければお前は死ぬ!
ジンロの理性が抵抗をやめた。その時、本能と理性、欲望と切望その全てが一つの結論に帰結する。それはジンロにとってこの後大きな禍根を残す愚かな決断だったが、少女を傷つけまいと願うジンロはただ、その決断に従った。
◆
虚ろな目をしてもう意識のないジンロを抱き寄せ、イスカは泣き続けた。
「お願い、死なないでジンロ。お願いだから……!」
イスカは必死に懇願し続けた。そしてまたしても自分の非力さを呪う。
万物の奏者には人を癒す力があったのではないのか?今、この瞬間こそその力が必要ではないのか?一体何のためにユリウスを救う事を諦めた?
「おねがい……おねがいします」
イスカは必死に祈った。このままでは嫌だ、イスカはまだジンロに何も言えてない。ひどい事を言った事、ひどい事をされた事。ジンロに伝えたい事が山ほどある。こんなところで終わるなんてあんまりだ。
その時、イスカの腕の中でジンロの身体がビクンと脈打った。驚いてイスカはジンロを見下ろす。ジンロの意識はまだ戻っていない、それなのに彼の身体はまだ生きているのだと訴えるように脈打ち始めた。
ドクドク
心臓の鼓動がイスカの身体にも伝わってくる。鼓動と共にジンロの身体が熱くなった。
「熱っ……!」
触れていられなくなってイスカは思わず彼の身体を離してしまった。
その瞬間ジンロの身体が急変した。傷口から血の代わりにどす黒いヘドロが大量に溢れ出し独りでに体外へと排出され形を成していく。黒いヘドロは徐々に固く成形され、やがて一本の脚となった。―――いや、一本どころではない。同じような関節の折れ曲がった奇怪な脚が次々にジンロの心臓部から生えてくる。
湿った音がやけに大きく聞こえた。その度にジンロの身体が蠢き、形が崩れ、別の何かに変わっていく。
イスカは喉がカラカラだった。空気が異常に乾燥している、穏やかな陽気が染み出してくる熱気と腐臭で塗り替えられていく。
やがて黒いヘドロの沼から一匹の怪物が起き上がった。
『それ』は闇より黒く、マグマよりもドロドロとした激しい煮えたぎった感情の中から生まれた何か。あたりの空気を歪ませ澱ませ、じっとりとそこにいた者の肌に絡みついた。
背から生える幾本もの脚は異様に関節が多く、奇怪な方向にねじ曲がっている。根元から黒く艶があり粘度の高い血を噴出させながら、周囲を覆い尽くさんばかりにその者の背に広がった。
その姿はまるで巨大な蜘蛛に似ている。醜さよりもおぞましさよりも何より恐怖を煽る、唯々恐ろしい怪物。
イスカが息を呑んだ。『それ』はゆっくりと振り返り、紅と黒で濁りきった目でイスカを射抜いた。
《―――》
その時、周囲の空気が激しく揺れた。それが怪物の咆哮であると気づくのに時間を要した。
怪物が嘶く。折れ曲がった背から生えた脚がギチギチと摩擦音を起こして動き出した。
「ひぃ!化け物が!化け物が変化しやがった!」
一人の村人が叫び声を上げた。皆恐怖で動けないなか、その男だけは我先にと逃げ出した、しかし、
「逃げ―――、」
走り去ろうとした村人の背に深々とどす黒い脚が突き刺さった。
一本の巨大な脚は男の身体を易易と引き戻し、
グシャリ
その壊れた人形から熟れた真っ赤な果実をくり抜いた。
ドクドク
まだ微かに脈打つその温かい果実を、『それ』はその場にいた皆に見せるように高く掲げた後静かに引き寄せ、―――食べた。
その咀嚼音が止んだ時、静まり返っていた村人達が一斉に悲鳴を上げる。皆正気を失い、互いを押し合い圧し合い、脱兎のごとく逃げ出した。
オオオオ
怪物は低く唸った。その背から伸びた脚が前方の逃げ惑う人々を無差別に切り裂いていく。
男の絶叫、女の悲鳴、肉の裂ける音、飛び散る音。イスカの目の前に繰り広げられる地獄は、音も臭いも鮮明なのに、何故かとても遠い。
―――あれは何?
今、自分の目の前にいるのは何だろう。さっきまで、あんなに側にいたのに、思い出せない。
ただじっと、その黒い怪物が殺戮を繰り返すのを見ている事しかできない。
その時、一人の少年がイスカの前に倒れ込んできた。最初に親の敵に向かって刃を突き立てた件の少年は顔面を真っ赤に染め、恐怖に唇を振るわせながら、目は真っ直ぐに怪物を見据えていた。
「……化け物め」
少年に似つかわしくない、憎悪に満ちた低い声。呆然としていたイスカはその時ようやく寒気がした。
「絶対に許さない……、絶対に!」
涙で濡れた瞳が復讐に燃えている。ひどい既視感、同じ感情を覚えた事がイスカにはある。
―――許さない、絶対に。今度は必ず―――
そしてイスカは思い出した。以前夢で見た、己を殺す化け物の姿と今、目の前に立ちはだかる怪物の姿が重なった時、イスカは我に返る。
少年の肢体に残虐な脚が襲いかかった。綺麗に心臓をくり抜かれ絶命した少年は破れた水袋みたいに夥しい血を零して放りだされた。
その向こうで怪物は美味しそうに少年の心臓を食べている。
怪物がこちらを見た気がした。血走った目に、口のまわりを真っ赤に染めて、―――ニタリと笑った。
「いやあああ!!」
イスカは絶叫した。
「来ないで!来ないで!」
イスカは必死に後ずさる。人喰いの化け物が笑いかけてくる。―――恐い、喰われる。
本当は怪物は一歩たりともこちらに近づいてはいないのに、イスカはパニックになってひたすら叫んだ。
その時、一頭の虎がイスカの頭上を飛び越えた。大きな体をしならせ果敢に怪物に襲いかかる。虎は怪物を押し倒し四肢で羽交い締めにすると、その鋭い牙を容赦なく怪物の心臓に突き立てた。
――――――
悲鳴が空気を切り裂く。耳が引きちぎられそうな程甲高い悲鳴に、イスカは耳を覆った。怪物の身体に生えていた脚はデタラメに暴れ、虎はそれを容赦なく喰いちぎる。脚を奪われる度、怪物は泣き叫んだ。まるで赤子の様に、ただひたすら泣いていた。
―――お願い、もう止めて。
こんなもの見たくない。怪物が喚く度、心臓が張り裂ける様に痛む。イスカは目を閉じ耳を塞ぎ、じっと待った。と、
「―――よく見ていろ」
気がつくとすぐ側に男が立っていた。全身真っ白な、枯れ枝の様に線の細い、でも血のように紅い目だけは力強くイスカを捉えて放さない。
「あれがあいつの本来の姿だ。人を喰う事で命をつなぐ。お前は今まであいつの姿をちゃんと見ていたか?」
イスカは答えられなかった。怪物の泣き声は、少しずつ力無いものに変わってゆく。
「お前はあれを家族と言ったな?今でもそう言えるか?あの姿を目の当たりにしても?」
促されるがままにイスカは怪物をもう一度直視した。あちこちに村人の死体と血と、そしてちぎれた脚が散乱する中で、怪物は動かなくなっていた。襤褸布の様な哀れな姿で、そこにあった。顔が少しだけ見えた。髪も黒く変色し、目から赤い血を流して、―――でも容姿は間違いなくいつもイスカの傍にいてくれたあの人だった。
恐ろしい、可哀想。そんな感情はとめどなくあふれるのに、イスカの身体はピクリとも動かなかった。




