第八話 獣の慟哭、薄暮の涙①
◆
イスカの周囲はいつの間にか元通りに戻っていた。道を割るように生えた樫の木は跡形もなく消えていて、イスカは道の真ん中に呆然と座り込んでいた。さっきのは幻だったのだろうか。穏やかな気候も晴れ晴れとした空も狂気に駆られた村人たちも変わらずそこにある。変わった事といえば、イスカの膝の上には黒ずんだ骸骨の頭部がそっと置かれていた事と、イスカが抱いていたはずのミロはいつの間にかどこかに消えていた事。
イスカは膝の上にあった頭蓋骨をそっと撫でた。もう何の反応も示さない、それはユリウスの魂がこの世から消えてなくなったという事だ。
(ようやく、解放されたんだ……)
それが嬉しくもあり、悲しくもあった。けれどもそれでよかったのだと思う。イスカの選択は間違っていなかった。
「恐ろしい……!やはりあれは亡霊の類だったんだ!」
そこでようやくイスカは周りの様子を見渡した。座り込んだまま頭蓋骨を大切そうに抱えるイスカの事を武装した村人たちが遠巻きに眺めていた。
村人がユリウスの骸骨を指さしてわなわなと震えていた。彼らからしてみればユリウスを殺してすぐその体が白骨化したのだ。気味が悪いのは当然だろう。
すると彼らのリーダーらしき男が勝ち誇ったように仲間たちに告げた。
「皆、亡霊は去った!だがまだ奴らの仲間は残っている!教会に住み着くあの薄気味悪い白い男はまだ健在だ!それに―――」
男がぐるりと首をひねりイスカの方を見た。
「……あの亡霊にとりつかれていた魔女も、我々の手で滅さなければならない」
村人が一斉に武器を構え血走った眼をこちらに向けた。狂った殺意がイスカに刺さる。先刻の異変を目の当たりにし、大事そうに頭蓋骨を抱えるイスカを見て、誰一人イスカを殺そうとする事に異議など唱えなかった。
不思議とイスカは冷静だった。ただ、もうこれ以上ユリウスとミロの領域を荒らしてほしくはなかった。それをどう彼らに伝えたらいいだろう、刃が振り下ろされそうになっているのにイスカは頭の中でそれしか考えていなかった。
「死ね!」
数振りの刃が一斉にイスカに襲い掛かろうとした時、空からイスカと彼らの間に割って入る者が現れた。
「!?」
凄まじい風圧に男たちが吹き飛ばされた。砂埃が舞い、イスカは慌てて顔を覆う。そうして目の前に現れた見慣れた姿にイスカはようやく口を開いた。
「ジンロ……」
キラキラと美しく光る虹色の翼。同じように太陽の光を受け輝く金の髪。だが、こちらを向いた双眸は、今までに見た事のない程大きく見開かれ、青いはずの瞳は黄色く、猛禽類のようにぎらついていた。
「ジンロ……、その目、どうしたの―――?」
思わず問うと、ジンロは何も言わずにふいとイスカから目を反らした。それがそっけなくて、それだけの事にイスカはひどくショックを受けた。
(やっぱり、怒ってるんだ……)
彼の態度はそう思わせるには十分で、イスカは俯いて涙をこらえた。と、
「―――見ないでくれ」
消え入りそうな声でジンロが呟いたので、イスカは顔を上げ聞き返そうとした。ジンロは顔を見せてくれない。けれど、どうしてか彼が泣いているように見えた。
「またあの化け物だ!」「俺たちを追ってきたんだ!」「恐ろしい……、どうして俺たちばかりこんな目に……」
ジンロの姿を見た村人たちが俄にざわつき始める。ジンロはイスカを村人たちの眼から遮るように立ち、すでに血に濡れている剣を構えた。
「……こいつを傷つけようとしたな?」
「ひっ……」
低い声で呟いたジンロを前に、あれだけ威勢の良かった村人たちが一斉に後退した。突然現れた有翼の化け物に怯え、戦意を失っていった。そんな彼の背中を見てイスカは悲しくなった。
やはり彼はイスカを助けに来たのだ。でもどうして?昨日あんなにひどい事を言ったのに。ジンロはきっと怒っているはずなのに。
―――どうして、まだ私の事を守ろうとするんだろう?
殺意をむき出しにしたジンロはじりじりと村人たちに対して間合いを詰めていく。だがその時、村人のいる方向とは別の角度から勢いよくこちらに突進してくる小さな影が見えた。村人を警戒していたジンロはその小さな影に完全に不意を突かれ、そして、―――ジンロの脇腹に短剣が深々と突き刺さった。
「ジンロ!?」
ジンロを襲撃したのは一人の少年だった。震える手には肉厚の短剣、少年はボロボロと涙をこぼしながら、懸命にその刀身をジンロに突き立てていた。
「よくも……、母さんを殺したな!化け物!」
少年はジンロに向かって罵りを上げた。ジンロはまるで時が止まったように動かない。ただじっと、傍らにいる少年と、自身の腹に突き刺さった短剣を眺めていた。
グチャ
さらに短剣がジンロの脇腹に押し込められ、少年は肉を抉るように捻った。ぼたぼたと尋常じゃない血が滝のように流れ落ちる。ジンロの低いうめき声がわずかに聞こえた瞬間、村人が堰を切ったように動き出した。
「今だ殺せ!化け物を殺せ!」
その合図を皮切りに、村人たちが一斉にジンロに襲い掛かった。何十本という剣や鎌が容赦なくジンロの身体に突き刺さり、そして、その一本がジンロの背中の翼を根元から斬り落とした。
「―――っ」
「ジンロ!?」
左翼から勢いよく血が噴き出し辺りを紅に染めた。根元を切られた翼はあり得ない方向に折れ曲がり、かろうじて繋がった状態でだらりと垂れ下がっている。その断面からまたしても致死量の血がぼたぼたと音を立てて落ち地面を濡らした。
イスカは悲鳴をあげ彼の元へ駆け寄った。
だが、身体中を刺されたジンロは脱力し、イスカの目の前でゆっくりと倒れ伏した。
◆
戦いが始まる数時間前。ジンロは昂る熱を冷ますように冷たく湿った朝の外気を吸い込んだ。頭が冴えて目がぎらつく。一時の衝動に任せて得た僅かな快楽は一晩中ジンロの体内を燃やし、そしてその副作用として甘い痛みを残して未だに火は燻り続けていた。
「どうだったの、久々に真っ当に味わった万物の奏者の味は?」
礼拝堂からフィオナが眠そうに欠伸を一つついてやってきた。
「別に、どうもしない」
「素直じゃないわね。遠慮せずに言ってもいいのよ。大好きなお姫様に触れられて、獣王としても、男としても滾って一晩中眠れなかったって―――」
フィオナの言葉をジンロの鋭い眼光が遮った。今のジンロの眼はいつも以上に瞳孔が大きく開き、色も通常の蒼ではなく金に燃えて猛禽類のようにぎらついていた。「ああ怖い怖い」そう言ってフィオナは肩をすくめる。
昨晩イスカに無体を強いた事をフィオナはすでに周知していた。彼女はあくまでも食欲に忠実な生き物だから、ジンロを咎める事はなく、むしろ何故自分も誘ってくれなかったのかと冗談までいう始末だった。だが、冗談交じりでかわす言葉の中に、どこか哀れめいた感情が見え隠れしているのをジンロは見て見ぬふりをした。
「どうでもいいけど、へまするのだけはやめてよね。あんたの尻拭いなんてごめんだから」
「……ああ、わかっているさ」
ジンロが抑揚なく頷く。ちょうどそこにもう一人、薄汚れたローブを目深にかぶった青年がやってきた。ザウドは空から照りつける朝日に顔をしかめ悪態をつく。
「くそっ、なんでこんな日に晴れるんだ」
「いいじゃない。たまには陽の光を浴びなさいよ。そのうちカビが生えそうよ」
しばらく引きこもっていたザウドは久々にまともに教会の外に出たらしい。陽の元では青白い顔がさらに際立って病的な外見はますます程度を増していた。
「さて、鳥の王、虎の王、仕事の時間だ。もう間もなく、この村に件の軍隊がやってくる。奴らはこの村の術師の捕縛、あるいは殲滅を図るだろう。正直この村の連中がどうなろうと僕にはどうでもいい事だが、国府の計画を進行させる事は避けたい」
「段取りは?」
「まずは僕が頭と交渉する。それで手を引くというのなら話は早いが、そうでなければお前たちの出番だ」
ザウドはジンロとフィオナを見た。話で解決できなければ武力行使、それはすなわち兵と戦うという事だ。
「交渉する余地はあるのか?」
ジンロの問いにザウドは一瞬黙り込む。そして、
「頭が話の分かりそうな奴だからあるいはな。まああまり期待はしないでくれ。役割分担だが、フィオナは僕と共に来てくれ、ジンロは村の入口の監視を頼む。おそらく村人たちを逃がさないように兵を配置するはずだ。兵が村人たちを連れ去ろうとしたらすぐに止めに入ってくれ。
だが一つだけ忠告する。交渉が決裂し僕たちとの戦いになったら、兵士は一人残らず殲滅しろ。また、僕たちが獣王であると気取られた場合も同様だ。誰一人として生かして返すな」
冷たい指令を受け、朝方の空が静かに明けていく。三者三様に胸中に秘めた思いがあれど、これから起こる事に誰しもが不安と覚悟を持っていた。
「ジンロ、お前大丈夫か?顔色が悪い―――いや、良すぎる」
「平気だよ。少し眠れなくてハイになっているだけだ」
ジンロは一呼吸でそう言った。事実、ジンロの体調はすこぶるよかった。頭も冴えて、身体も軽かった。
―――早く、早く終わらせてしまおう。こんなことは。
ジンロは今すぐにでも駆けだしたかった。すぐにでも村へと下りて邪魔をする連中を叩き斬ってやりたかった。
「もう行くぞ。俺は入口を張っていればいいんだろう?」
ジンロが我先にと村へ歩き出し、ザウドとフィオナもそれに続いた。
「よかったな。戦うところを万物の奏者に見られなくて」
道中ザウドが皮肉を込めてジンロを嗤った。いつもだったら罵るか一発殴ってやるところだったかもしれない。けれど、今のジンロはそうする気になれなかった。ザウドの言う事は正しく、そしてジンロも同じ意見だったから。
本当に良かった。これから村で血生臭い戦いが起きるというならば、それをイスカが見てしまわないでよかった。
「もし兵がこの村を襲ったら、あいつだって危険に巻き込まれるだろう?」
「……そうだな」
「なら俺は戦うだけだ。相手が何者であろうとも、殺すべき相手なら殺してやる」
「戦うのも万物の奏者のため、か?」
その問いにジンロは答えなかった。
村人を殺すつもりはなかった。村の入口を張っていた時、村の中央から逃げてくる村人たちが包囲網を敷いた兵たちに取り押さえられているのを目撃した。言われた通り、兵士が事を起こした場合、ジンロは兵士だけを取り押さえるつもりだった。だが、拘束された村人の中に、先日イスカとジンロを襲った奴らの顔があった。彼らは兵士たちにこう口走った。
『村には俺たちよりやばい化け物がいる。そいつらと仲間を先に殺した方がいいんじゃないか?』
村人の助言に兵は一瞬惑った。そして、彼らは最悪にもこんな事まで言い放った。
『仲間の中に非力そうな女がいた。まだ若い女で教会の悪魔に会いに来たと言っていた。そいつを先に殺してやれ。仲間の化け物をあぶり出すんだ。こんなところで俺たちを捕まえてていいのか?早くしないと女は逃げちまうぞ?』
それはきっと村人たちにとって保身のための時間稼ぎの提案だったに違いない。だが、彼らは知らなかった。その提案は一匹の化け物の逆鱗に触れるものだという事を。あまつさえそれを、その化け物当人に聞かれてしまった事が運の尽きだった。
そこから先はジンロもよく覚えていなかった。そこにいた非武装の村人を老若男女問わず屠殺した。逃げていく兵たちも同様に切り刻んだ。剣を振るって、羽を薙いで、そこにいた何もかもを壊した。
血の海になった世界の中で、ジンロの心はひどく冷静に一つの決意だけを繰り返す。
彼女が自分の元に戻って来なくてもいい。たとえ側にいる事が出来なくても、それはもう関係ない。
イスカを守る。彼女を傷つけようとする、あらゆるものを排除する。
今のジンロは、ただそれだけのために動いている。




