第七話 詩聖の残滓、三者の思慕③
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気づくとそこはあの教会の前だった。だが外観が明らかに違う。イスカの知っている廃墟と化した礼拝堂ではなく、そこにあったのは白い漆喰の美しい壁に光り輝く金の装飾、窓は曇り一つなく、中から見たらきっと美しいステンドグラスの模様が見られるに違いない。手入れの行き届いた庭には、小さな花々が咲き誇っていて、側にある切株の上に見覚えのある青年が座って書物を読んでいた。
イスカの目の前で素知らぬ顔で書物を読んでいるのは兎の王その人に違いなかった。枯れ枝のような線の細さもそれに反して鋭い眼光も、イスカの知る兎の王のままだった。
「あなたが神父様?」
イスカの隣に幼い少年がいるのに気付いた。まだ十歳にも満たない、丸い目をした純朴そうな少年は、兎の王を見つけるなりそう言った。
「……僕は神父じゃない」
「でも教会に暮らすのは神父様だって聞いたよ」
「僕は住み着いているだけだ。教会の連中はとっくの昔にこんなところ見捨てている」
兎の王は鬱陶しそうに手を振って少年を追い返そうとするが、意を解せず少年は近づいて行って兎のすぐそばに腰を下ろした。
「……おい、なんのつもりだ?」
「あなたが神父様でなくても、教会に居るのなら僕の懺悔を聞いてくれる?」
「断る。僕はそんなに暇じゃない」
兎の王が無下に追い返そうとするも、少年は断固としてそこを動かなかったので、結局追い返すのをあきらめ再び書物に視線を落とした。しばらく両者無言の時が流れていく。風がそよそよと鳴り長閑な空気が周囲を包み込んでいた。
「神父様は何をしているの?」
「だから神父じゃな―――、もういい。見てわかるだろう、本を読んでいるんだ」
「本。本って文字が書かれていて、色んなお話が読めるっていう物?」
「読んだことないのか?」
「うん。……そもそも僕は字が読めないから」
少年はしょんぼりと肩を落とした。それでも少年は興味深くその本を眺めている。
「読んでみたいのか?」
「読めるようになる?」
「そりゃあ、勉強すればな」
そう言って兎の王は手元の本を少年に広げて見せた。「この字はこう読むんだ」と言葉一つひとつに解説を入れる。少年は目を輝かせて楽しそうに頷いていた。
場面が転換した。イスカは見覚えのない書斎の窓枠に座っていた。窓の外を見ると、部屋とは逆に見覚えのある景色が広がっている。どうやらここは礼拝堂の中、イスカが足を踏み入れた事のない部屋のようだ。
「ユリウス!」
またしても目の前に兎の王が現れた。相変わらずの風貌で傍にいた少年に癇癪を起していた。
「お前、僕の本にまた勝手に落書きをしたな!本にメモをする癖をやめろと言っただろう!」
「ごめんなさい。でも、どうしてもその時思いついた言葉を書き記しておきたくて―――」
「だからといってむやみやたらに本に書くんじゃない!これは貴重な史料なんだぞ!」
すっかりご立腹の兎の王にユリウスと呼ばれた少年は肩を落としてうなだれた。少年はさっき見た時よりも少しだけ大きくなっていた。その横顔にイスカは大人だったころのユリウスの面影を見た。
ユリウスはあの礼拝堂で過ごしていた事があったと言っていた。そして、彼に読み書きを教えたのが他でもない兎の王なのだ。イスカに対してはあんなに冷酷で愛想がなかったのに、ユリウスの前に立つ彼は、(今は怒っているとはいえ)実に人間らしく少年に対して愛着を持っているように見えた。
窓の外の陽が急に傾いた。オレンジ色に照らされた部屋の中で、さっきと同じ姿勢で座ったままのユリウス。兎の王はいなかったがしばらくして何かを手に部屋へと戻ってきた。
「ほら」
兎の王が麻紐で束ねた小さなメモ用紙をぞんざいに放り投げる。
「いらなくなった書物からとってきてやった。紙は貴重なんだ、大事に扱え」
「……くれるの?」
ユリウスの顔がぱあっと輝いた。年相応の純粋な少年の笑顔にイスカの心は温かくなる。窓の側の椅子に、やれやれと肩を落とした兎の王が座った。その赤い目がこちらに向く。
「お前も大変だな。こんな奔放な奴の世話だなんて」
そう言って兎の王は苦笑を漏らした。そんな事はないと、イスカは笑った。
更に場面は変わる。この日は雨、さっきと同じ部屋に、また一回り大きくなったユリウスと容姿の全く変わらない兎の王の姿があった。
「ペンネーム?」
「そう、僕と神父様の」
怪訝な顔をする兎の王と、その一方でうきうきとしているユリウス。ユリウスの手には大きな字で『ザウド=パウエル』と書かれた紙が握られていた。
「かっこいい名前だろ?」
「……馬鹿馬鹿しい。なんでペンネームなんか作る必要があるんだ」
「僕と神父様の作品を公表するためだよ。出自不明の奇才の詩人、世間の注目間違いなし」
「……」
「あれ?ダメだった?」
「どこから突っ込んでいいのかわからないが、詩を書いているのはお前だけだろう?有名になりたいならお前ひとりでやってくれ」
「いいじゃないか、僕は神父様の書いた詩も読みたいんだ。共有のペンネームを作れば神父様も書きやすいかなと思ってさ」
「僕はお前のように詩の才能もないし、有名になる気もない!勝手に巻き込むな」
へそを曲げた兎の王はそれっきり黙り込んでしまった。いいアイデアだと思ったのに、とユリウスは肩を落とすが、口調からは悪びれた様子も諦めた様子もない。
しばらく沈黙が続いて、ふと兎の王が口を開いた。
「なあお前。最近ずっとここにいるけど、家族の元に帰らなくていいのか?」
「……いいよ、父さんも母さんも僕はもういないものとして扱ってるみたいだから。家の仕事の事なら兄が二人いるし」
「……まあ、お前がいいならいいけどな」
「神父様には家族はいないの?」
逆にユリウスが興味深そうに聞いた。
「いない」
「いないの?じゃあ、友達は?」
すると兎の王は苦い顔をして窓の外を見た。
「友達……、まあ一緒に旅してた奴らならいるけど」
「友達がいたの?どんな人?今どこにいるの?」
「知らないよ、ちょっと前に大喧嘩して勝手に出てきたから」
「喧嘩したんだ。想像つかないや」
「相手が知能の低い馬鹿だったんだ。……でも、僕も言い過ぎたとは思ってる。言いたい事だけ言って逃げてきたようなもんだから、あいつはきっと怒ってるだろうな。……まあ、どうでもいいが」
そう言って兎の王は自虐的に笑った。悲しそうな横顔を垣間見たユリウスは、何故か不安そうな顔になって、そして恐る恐る口を開く。
「なあ神父様。神父様ってさ―――」
「……なんだ?」
「―――いや、なんでもない」
ユリウスは聞くことを躊躇った。そうしてまた二人の間に無言の空気が流れていく。
三度目の場面転換、外は嵐。そして、部屋の様子も一転していた。
「どうして言い返さないんだよ!」
そこには、青年になったユリウスと、―――冷めた目をした寸分変わらない姿の兎の王。ユリウスはなぜか怒り狂い、兎の王は落ち着いてはいるが白いマントに隠れた顔に生々しい青痣がいくつも見え隠れしていた。部屋もぐちゃぐちゃにあれ、あちこちに物が散乱している。それでも素知らぬ顔している兎の王に、ユリウスは青筋を立てて怒りをあらわにしていた。
「あんたこの村の人たちになんて思われてるのかわかってるのか!?『あの化け物は年を取らないが非力だ。どんなに痛めつけても報復してこない』って!」
「そんなもの勝手に言わせておけばいい」
「だからって一方的に虐げられるなんてあんまりだ!第一、化け物呼ばわりされてる事に何か言う事は無いのかよ!?」
「事実だ。反論の余地もない。お前だって僕がおかしい事にとっくに気づいていたはずだ」
「……っ、そうだけど!こんな身勝手が許されるわけがない!」
ユリウスは荒らされた部屋を指示した。兎の王が何年たっても青年の姿をとどめ続けている事は、村人たちの間で奇妙な噂として広まり始めた。そしてそれがいよいよ確信に変わると、彼らは兎の王を恐れ忌み始めたが、彼自身が非力な若造に過ぎないと判断した村人たちは、態度を一変させ横暴を働くようになったのだった。
「お前も、これ以上僕に付き合っていると化け物の仲間とみなされるんじゃないか?いい加減村の家族の元に帰ったらどうだ?」
「ご忠告どうも。でも僕は僕の思うとおりに行動する。いくら神父様でも指図は受けないよ。僕はここで神父様を助ける」
「何を馬鹿な事を!僕はそんなこと望んでない!僕みたいなやつに関わって人生棒に振る気か!?いいから村に戻れ!」
「嫌だ!僕の人生なんだ!僕が決める!」
そう言って二人の口論はエスカレートし、とうとう耐えきれなくなった兎の王がいらだちを露わに席を立った。
「逃げるのかよ?」
「……」
「あんた前に言ってたよな?昔、仲間と大喧嘩して逃げてきたって。またそうやって僕にも何も弁解せずに逃げるのかよ!」
ユリウスが側にあった書物を兎の王の方に向かって投げつけた。書物は兎の王の脇の壁に当たり、空しく床に落ちた。
「……僕はお前たちとは違う」
「何が違うんだよ!?」
「僕は元々人じゃない。生きる時間も、生きる糧も、何もかも違う。何を弁解したって無意味だ、僕らは―――人間とは生きられない」
そうして兎の王は部屋を出て行った。この日を境に教会に棲む不老の化け物は姿を消し、噂は廃れ忘れ去られていく。
残されたユリウスは一人、教会に残って詩を書き続けた。詩人ザウド=パウエルという架空の存在にとりつかれたように筆を滑らせた。
「僕はここで執筆を続けるよ。いつか『ザウド=パウエル』が有名になったら、……あの人だって考えを変えてくれるかもしれない」
そう言ってユリウスは一心不乱に手を動かす。イスカはその様子を彼の隣でじっと見守り続けていた。
そしてその日は訪れた。その日はこの地方にしては珍しくからりと乾いた天気のいい日で、空は雲一つなく澄み渡っていた。長閑な村で人々はいつものように農業に従事し、一日を謳歌する。
「今日は随分といい天気なったなぁ」
教会の丘から村の様子を見降ろしてユリウスがしみじみと呟いた。彼はもうすっかり成人となり、その立ち居振る舞いからどことなく貫禄も出てきた。ユリウスはイスカの方を振り向くといつもの穏やかな笑みを浮かべた。
「せっかくだし散歩でも行こうか」
イスカは舞い上がるとユリウスの方に駆け寄り彼の足元に寄り添った。そうして二人で村の方へと繰り出そうとした時、村の外れに何やら不吉な影が見えたのだ。
「あれは、なんだろう?」
遠くで薄ぼんやりと見えるその影は徐々に村の方へと近づいてきた。まるで巨大な生物がずるずると這って村を飲み込もうとしているみたいだった。
「―――兵士だ」
ユリウスはいち早くその黒い影の正体に気づいた。黒い不気味な甲冑を身にまとった国府の兵士が数えきれない程の人数で列をなしてこちらに向かってくる。
「早く村の皆に、知らせないと―――」
ユリウスは慌てて村の方へと駆けだした。イスカも彼の後を追った。
走っている最中に場面は変わった。先ほどの穏やかな村の情景とは一変して、いつの間にか村は地獄のようになっていた。村に攻めてきた兵たちはところかまわず火を放ち、逃げ惑う村人たちを斬り捨てた。あちらこちらで悲鳴が聞こえてくる。皆絶望に顔を歪ませ、ある者は息絶え、ある者は発狂していく。
《―――ユリウスは》
いつの間にか前を走るユリウスの姿を見失っていた。イスカは必死で彼を探す。瓦礫と死体の間をかいくぐり、兵士の追手から逃れ、そしてイスカは路地裏でようやく彼の姿を発見した。
《―――!》
地面に倒れ伏したユリウスの背にまさに今、兵士が剣を突き立てたところだった。声を挙げる事すらできなかった。ユリウスの身体はびくびくと痙攣し、やがて大量の血の海の中でこと切れた。
「―――行くぞ」
剣を突き立てた兵士の冷酷な声がした。その瞬間、イスカは怒りで頭が真っ白になってその兵士の顔に勢いよく飛びついた。
「うわっ!なんだこいつ!?」
イスカは無我夢中になって兵士の顔をひっかき噛みついた。よくも、よくも―――。怒りで前が見えなくなっていたイスカを別の兵士がむんずと掴んで放り投げた。地面に体を強く打ち付け呻いている間に、イスカの身体に重い剣が突き立てられた。
《―――》
ユリウスと同じように倒れ伏したイスカは、朦朧とする意識の中でただひたすらユリウスを呼び続ける。
《ユリウス、死んではいけない。ユリウス―――》
視界がかすみ目の前のユリウスの姿が見えなくなる。それでもイスカは呼び続けた、彼の名を。―――もう一度『生』が宿るその時まで。
◆
《―――ユリウス、ユリウス》
イスカは目を開けた。また長い夢を見ていた気がした。頭の芯がゆらゆら揺れているみたいで意識がはっきりとしない。
顔を上げると視界一面が凸凹とした木の幹で覆われていた。驚いてさらに周囲を見渡そうとするも、イスカの身体はその幹にからめとられて思うように動きが取れない。
「なに、これ……?」
まるで大きな木の内部にいるかのようだった。周囲からは嗅ぎなれた匂いが漂う。かぐわしい樫の木の香り、イスカがここ数日通ってきた猫の抜け道で嗅いだものと同じ香りがした。
《ユリウス―――》
どこからか少年のような声がする。イスカは少しずつ気を失う前の事を思い出した。突然現れた怒り狂った村人たち、殺されたミロとユリウス。そして突然現れた巨大な樫の木―――。
その時イスカの前方の幹が蠢いた。幹はゆっくりと向きを変え、イスカの視界が開く。その幹のすぐ先にイスカと同じように幹に囚われているものが見えた。
「―――!」
イスカは息を呑んだ。それは人間の骸骨だった。黒ずんでいて今にも崩れそうで、死んで骨になってからもう数百年は経っているだろう古い骨だった。
「……ユリウスさん?」
理由はわからなかった。けれどもイスカはその骸骨がユリウスなのだと思った。つい先ほどまでイスカと同じように動き、笑っていた。そのユリウスが肉も皮も血も無くなり、こんな哀れな姿になっている。
―――当たり前だ、だってユリウスは、二百年前、あの術師狩りがあったあの日、目の前で死んだのだから。
イスカの手が意識に反してユリウスの方に伸ばされた。彼を渇望し焦るように彼に触れようとする。
「―――だめだよ、ミロ」
イスカはその手を止めた。イスカの中でイスカの者ではない意識が戸惑いを露わにする。
「ユリウスさんは生き返る事なんて望んでない。もう、……解放してあげよう?」
イスカにはわかる。ミロはずっとユリウスの事を間近で見守ってきた。そして肝心な時にユリウスのそばを離れ、そして助けられなかった。だから彼はユリウスが死んでからずっと己の『生』を分け与え続けてきた。でももうそれも終わりだ。ここでユリウスを解放してあげなければ、彼の魂はいつまでたっても報われない。
《あなたなら、ユリウスを救ってくれると信じていたのに》
ミロが恨めしそうに告げた。イスカはただ「ごめんなさい」とだけ告げて、今度こそ自分の意思でユリウスに手を伸ばす。
「ユリウスさん、『ザウド=パウエル』はまだ生きています。これからも未来永劫、この国で語り継がれる。だからどうか、安心して―――」
イスカの指が朽ちた骨の頬に触れた。すると目の空洞から溢れるはずのない涙がボロボロと溢れてきた。
涙は光となり辺り一帯を包むと、樫の木が見る見るうちに枯れてゆく。幹から解放される時、一瞬だけ目の前の骸骨が人の姿を取り戻した。
―――ありがとう。
ユリウスは泣き笑いを浮かべ、確かにイスカにそう言った。




