第七話 詩聖の残滓、三者の思慕①
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優しい朝日が身体を包んでも、心はこわばりキリキリと傷んで、その痛みでイスカは目が覚めて、涙が一筋顔を伝ったのを感じながら身体を起こした。
イスカがいたのはくたびれたソファの上で、毛羽立った毛布を被って眠っていた。
(ああ、そうか。昨日の夜ユリウスさんの家に泊めてもらったんだっけ)
ジンロと喧嘩して教会に戻れず、行く宛といえばもうここしかなかった。夜も更けた頃に突然泣きながら押しかけてさぞ迷惑だったに違いない。
冷静になって自分の所業を反省しながらも、やっぱりあの教会に戻る事は怖くて出来なかった。
「これからどうしよう?」
この先の事を考えて、イスカは途方に暮れる。そこに首の鈴を鳴らしながら、一匹の猫が寄ってきた。
《お目覚めになりましたか?》
「ミロ……、ごめんね。迷惑をかけて」
《いいんですよ。ただ事ではない様子でしたから》
ミロはぴょんとソファに飛び乗ると、イスカの隣に静かに腰を下ろした。
《心は落ち着きましたか?》
イスカはドキリとして心臓の辺りを探った。まだ少し違和感が残っていて、全身が重く気だるい。
「まだ、少し……混乱してる」
《先日来られた獣王と喧嘩をしたとおっしゃっていましたが、もしや我々の事で何か言われたのですか?》
イスカはどう答えていいかわからず黙り込んだ。それはもう肯定しているも同然で、ミロは嘆かわし気にこちらを見据えた。
《お聞きしたかったのですが、何故あなたは獣王と行動を共にしているのですか?》
「……やっぱり変?」
万物の奏者と獣王が共にいる。今までも何度か同じように不思議に思われた。ミロはそうではないと首を振る。
《変というのではなく、驚いたのです。万物の奏者があんなにも穏やかな顔で獣王の隣にいることなど本来あり得ない事ですから》
「そうなの?」
ミロは信じられないと言わんばかりに頷いた。
《万物の奏者は常に獣王から逃げ続けていました。そうして獣王と邂逅する事もなく平穏に亡くなる事もあれば、不幸にも見つかって喰い殺されることもあった。……あなたはそのどちらでもない、あなたのような事例はおそらく初めてでしょう》
「ミロは歴代の万物の奏者の事を知ってるの?」
《直接会った事はありません。ただ、術師の界隈に長く居座ればそう言う話も耳にするのです》
イスカは聞いてみたくなった。ミロが知っている過去の万物の奏者について―――。
《あなたはやはり無理をしているのではありませんか?》
「無理……?しているように見える?」
《少なくとも今のあなたは幸せそうではありません》
ミロはきっぱりと告げた。幸せそうに見えない。事実、イスカは苦しかった。ジンロの事を考えるだけで胸が張り裂けそうだった。
(やっぱりジンロといる事はおかしい事なのかな……)
ジンロが何者でもいいと思っていたのに、それが今自分の中で揺らぎ始めている。彼が何者で、何を考えていて、イスカをどう思っているのか、それがわからない事が辛くてたまらなかった。
《辛いのならばここにいてはいかがですか?》
ミロの提案にイスカは目を丸くした。
「ここにいては、って……」
《確かにここは辺境の何もない村で村人たちも好意的ではありませんが、あなたが望むのなら私は歓迎しますよ。落ち着いた静かな地で暮らすのがあなたにはいいのかもしれません。ユリウスもあなたがいてくだされば退屈はしないでしょう。そうです、ここでずっと三人で暮らしましょう。あなたの力でユリウスが元気になればきっと―――》
「ちょ、ちょっと待って。いきなりそんな事言われても―――」
ミロは食い入るように話し続けた。イスカはたじろぐ。ここで暮らすなんて急に言われたって困る。だがミロは冗談を言っているようには見えなかった。目を爛々と輝かせこちらを見つめる。その目が少しだけ怖くなって、イスカは後ずさった。
「ミロ、ごめん、私は―――」
「おはよう二人とも」
イスカを助けるように、隣室からおぼつかない足取りでユリウスがリビングに入ってきた。
ユリウスは相変わらず青白い顔をしていて、そしてどことなく困惑したような表情をしていた。
ミロがユリウスの元に駆け寄った。ユリウスはミロの頭を優しくなでると、ミロをひょいっと持ち上げた。
「……お茶でも淹れようか。朝食もまだだったかな?」
「手伝います」
イスカは慌てて台所に向かうユリウスに駆け寄った。朝食の準備をしながら、ユリウスの横顔を除き見る。彼の表情はやはりどこか困ったような、―――怒ったような顔にも見えた。
二人と一匹で簡素な朝食を用意して食べ始める。食事中は始終無言だった。先ほどのミロの話も有耶無耶になったまま、食事の時間は過ぎていく。
「さて、ミロ。いつものように調達を頼めるかな?」
皆が食べ終わったのを見計らって、ユリウスはミロに言った。
「それなら私も―――」
「いや、君はここにいなさい」
その時、今までの穏やかなユリウスとは違う、厳しい口調にイスカはぎょっとした。
《ではイスカさん。ユリウスの事をよろしく頼みます》
「―――あ、うん」
ミロは何事もなく家を出ていった。しばし、重たい空気が部屋を包む。
「……さて、一晩たって少し落ち着いたかな?」
「……はい」
ユリウスの口調はやはり重々しかった。怒っているのだろうか。状況を考えれば当然の事だ。夜分遅くに押しかけてきて、病人のユリウスにも随分と迷惑をかけてしまった。煩わしく思うのは当然だ。しかし、
「怒ってるわけじゃないよ」
イスカの懸念を払しょくするように、先にユリウスが笑った。
「ただ、昨晩の君の様子は尋常ではなかったし、何か深刻な事情があるなら話してほしいと思ってね」
イスカは口ごもった。いくらユリウスと言えど、イスカとジンロの込み入った話をしていいものか迷った。獣王の事、万物の奏者の事、祖母の事、そして二人自身の事も。
「……大切な人と喧嘩をしました」
「原因は?」
「……」
「ひょっとして僕の事かな?」
ユリウスは全てお見通しと言わんばかりに笑った。イスカは答える代わりに俯く事しかできず、それがひどく情けなくて申し訳なかった。
「……私なら、あなたの病を治せるとミロに言われて、でも、彼はそんな事をしても無駄だと言って、それで―――」
涙声になってイスカはユリウスを見ないまま訥々と答える。ユリウスは何も言わなかった。ただ、イスカの懺悔を黙ったまま受け止めていた。
「私は、ただ誰かのために出来る事があるなら挑戦してみたかった。でも、あの人はわかってくれなくて、何も教えてくれない事にも嫌になって、子ども扱いされてるみたいで腹が立ったんです」
それでジンロを拒絶して怒らせてしまった。イスカが吐露するのを静かに聞いてきたユリウスは、イスカが全て話し終わるとようやく自らの口を開いた。
「僕も昔、大切な人と喧嘩をして後悔したことがあるよ」
「―――えっ?」
ユリウスは澄んだ目を窓の外へと向けた。遠くの、どこか遥か彼方を見つめているようだ。
「その人は僕に色んな事を教えてくれた。僕がこの村の、まだ何も知らない子供だった頃、世界の広さと、それを表現する知識と言葉を。両親と不仲で心を閉ざしがちだった僕に世界はこんなに広く美しく、残酷で儚いものなんだと教えてくれた。……けれど、ある日僕はその人と喧嘩をし、そしてその人は僕の前からいなくなった」
彼は辛そうな顔をしていた。大切な記憶であると同時に悲しい記憶でもあるのだと、彼の表情が告げていた。
「その人とは、どうなったんですか?」
「喧嘩してからは一度も会わなかった。たとえもし、今会う事が出来たとしても、僕はもう会わない」
どうして、とイスカは消え入りそうな声で尋ねた。遠くを見つめていたユリウスの眼がこちらを向いた。まっすぐにイスカを見据えるその瞳は、もう何年も世界を見つめ過ごしてきた太古の大樹のような穏やかさがあった。
「僕はもうこの世に生きてはいけない者だから」
「!?」
「あの時僕は死ななければいけなかった。けれど、何故か僕は今こうして生きている。命の理を捻じ曲げている、それが誰のせいなのかも、僕は理解している」
「ユリウスさんは、もしかしてもう全部知って―――」
ユリウスの朗らかな笑みに、イスカは言葉に出来なかった。この人はわかっている。イスカよりもちゃんと己の立場を理解している。
「イスカさん。君とその人との喧嘩の原因が僕なら、君はもう僕に関わらない方がいい。僕はもうこの世にいないはずの亡霊なんだ。君が気に病む必要はない」
「そんな―――私は、」
「さっきミロにずっとここにいればいい、みたいな事を言われただろう?」
「!?」
イスカは口を噤んだ。ミロの言葉がわからなくとも、ユリウスは先ほどイスカたちが何を話していたのかわかっていた。
「君は今を生きる人間だろう?いつまでも過去の亡霊に囚われている必要はない。そんなものより、ちゃんと君の隣を歩いてくれる人の元に帰った方がいい」
それはまるで突き放すような言い方だった。ユリウスはわざとそういう言い方を選んでいる。
「ごめんね。君と話をするのは楽しかったよ。久しぶりにいろんな話をする事が出来て、それだけで君がここに来てくれた事には価値があった。……それで十分なんだ。僕はそれ以上を望まない。君も、これ以上僕に関わらない方がいい」
イスカの頬につうと涙が一筋零れた。
謝らなければいけないのはイスカの方だ。イスカはやっと自分が何をしようとしていたのか気づいた。
イスカは祖母に報いるため、ユリウスを救おうとしていた。ユリウス自身を救おうとしていたのではない、イスカにとって彼は祖母の代替だ。
けれどそれはユリウスに対して不誠実な事だ。結局イスカが彼を助けたいと思ったのは、イスカの自己満足でしかなかった。彼はそんな事一遍たりとも望んでいなかったのだから。




