第五話 病の回想、鳥の狂暴③
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祖母が病に倒れたのは突然の事だった。最初に祖母に異変が起こった時の事をはっきりと覚えている。その時イスカは自室にいた。その頃のイスカは祖母の助手みたいな立場に立っていて、時々祖母の代わりに子供たちの相手をしていたこともあった。その日の夜、明日子供たちに数の覚え唄を教えてあげようと思って、ジンロと一緒に練習していた。階下から大きな音が聞こえたのはその時だった。
一階に降りると祖母がダイニングテーブルに寄りかかって苦しそうにしていた。周囲には祖母が運んでいたと思われる花瓶の破片が散らばっていた。
―――おばあちゃん!!
イスカは悲鳴を上げて祖母に駆け寄った。いつもは血色の良い祖母の顔が真っ青になっていて、身体もがくがくと震えていた。
イスカは何もできなかった。ただ必死に祖母に縋りついて泣いていた。
やがて騒ぎを聞きつけた隣の宿のシャロンが医者を呼んできてくれた。医者は病院で療養が必要だと言って、すぐに祖母を馬車で運んで行った。あっという間の出来事だった。
その日の夜は眠れなかった。怖くて、朝起きたら祖母がいなくなっちゃうんじゃないかと不安で堪らなかった。ジンロが傍にいてくれなければ、きっとイスカは正気ではいられなかった。
翌日、祖母の入院した病院に駆け込んでみると、祖母はベッドで横になってはいたもののいつもと変わらない様子だった。
―――なんて顔をしているんだい、イスカ。
泣き腫らしたイスカの顔を見て祖母は豪快に笑った。ああ、いつものおばあちゃんだ。ほっとして全身の力が抜けた。
そうだ、おばあちゃんは強い。おばあちゃんは病気なんかに負けたりしない。いつだってイスカの事を引っ張ってくれる、頼りになるおばあちゃんだ。イスカを置いていなくなったりなどしない。
しかしイスカの希望に反して祖母はどんどん弱っていった。感染の恐れのある流行り病だと言われ、イスカは滅多に面会を許可されなかった。ごくわずかの間だけ許された面会の度、祖母の声は弱弱しくなり身体もどんどん瘦せ細っていって、最期の方はイスカも見ていられないほどだった。
祖母に会う度イスカは泣いていた。けれどもある日の面会で祖母がこう言った。
『笑っておくれイスカ。私はお前の泣き顔より笑顔が見たい。その方がずうっと元気になれる』
あの時の、イスカの頬を包む祖母の皴皴の掌をイスカは一生忘れる事が出来ない。イスカはそれ以来祖母の前では泣かなかった。涙をこらえて、祖母のために笑った。
最期を看取る事が出来たのは本当に良かった。それはイスカにとって唯一の救いだった。
その時もイスカは泣かなかった。けれど、それはもうただ単に疲れてしまったからだと今になって思う。
泣いたって変わらない。祖母の死は避けられない。
そう思ってしまった時、イスカの涙は本当に止まった。泣き疲れて、悲しむことすら無意味に思えてしまったのだ。
あれから幾年月が過ぎた。イスカはもう祖母の死を悲しんだりなどしない。
祖母の死は自分ではどうにもできなかった。
それだけは変えようのない事実だったからだ。
◆
イスカは急いで猫の抜け道を戻る。ユリウスと話し込んでしまって、気が付けば日が傾き始めていた。いつもは陽が落ちる前に帰るのに、故郷の話をしていると思わず時間が経つのを忘れてしまっていた。
行くなと言われたのにこっそり教会を抜け出してあの家に通い続けて、その上こんな時間まで戻らなかったら流石に何か言われるかもしれない。
(……でも、ちゃんと話すべきだよね)
結局イスカのやっている事はジンロから逃げているだけの事だし、出来る事ならちゃんとジンロにも納得してもらいたい。
ちゃんと話して、イスカの思いをぶつければ、ジンロはきっと蔑ろにしたりしないはずだ。それを信じてイスカは教会へと戻る。草の茂みをかき分けると、猫の抜け道は途切れ突然教会が目の前に姿を現した。
厚い雲の切れ間からかろうじて届いた夕暮れの陽に照らされた教会、まるで燃えているようにも見えて、イスカはつばを飲み込んだ。
そういえば、ザウドともまだちゃんと話が出来てない。ここに来た当初の目的をイスカはいつの間にか忘れていた。
イスカは教会の正面に回り込み、ゆっくりとその扉を開いた。ギィと軋んだ音と共に、薄暗い堂内が見える。
中は冷たく空気が停滞していた。人の気配がしない。恐る恐る足を踏み入れると、自分の足音がやけに大きく、遥か高い天井まで響いた。割れたステンドグラスから細く夕日が差し込む。その光がまっすぐに正面奥の壁に掛けられた聖画に降り注いでいた。
ジンロに教えてもらった太古の宗教画、最初に見た時も、今も、やはりイスカは目を反らせない、じっと吸い込まれるようにその絵画を見つめていると、突然背後で扉の音が響いた。
「!?」
その音でイスカは我に返り、後ろを振り返った。そこに立っていたのは、
「ジンロ……」
いつの間にか扉の横にはジンロがいた。彼は怒っているとも嘆いているとも取れる表情で、イスカの方をじっと見つめている。
何故か、イスカはその視線にぞくりとした。怖い、イスカは間違いなく恐怖を感じていた。
「……ジンロ、ただいま」
「おかえり」
ジンロの声は抑揚が無く、まるで感情が読めない。それがますますイスカの恐怖を助長させた。何を話したらいいのか、イスカは言葉に詰まる。
「またあの猫の家に行っていたのか?」
「あ、……うん。そう……」
イスカはしどろもどろになって目を泳がせる。
「……ごめん。行っちゃダメって言われたけど、やっぱり放っておけなくて」
ちゃんと言わなければ。ユリウスを助けたい、ミロを悲しませたくない。イスカに出来る事ならばしてあげたい。イスカの思いをわかってもらわなければ。
「―――あのね、私、万物の奏者の事まだよくわかってない。でも、確かに私の中に普通の人と違う『何か』があるのはなんとなくわかる。今までもそういう兆候はちょっとあった。だから、……だからね」
「……」
「もし、私の力でユリウスさんたちを助けられるのならやってみたいの。義理とかそういうのじゃなくて、私の気持ちの問題。私がやりたいと思ったの、だから―――」
「無駄だ」
ジンロはあっさりとイスカの言葉を一蹴した。突き放すような言い方にイスカは言葉を失った。
「お前のやろうとしている事は無駄だ。お前にあの男を救えないよ」
「どう、して……決めつけるの?」
「あの男はもう死んでいる。あれはただ術で生かされているだけの屍だ」
「屍って……。ユリウスさんはちゃんと生きてたよ。体は弱ってるけど、ちゃんと食べて、話をして、笑ってたよ?」
ついさっきまで楽しそうに話をしていた彼がもう死んだ人間だなどと、イスカは到底信じる事が出来ない。
「残念ながら本当の話だ。さっき兎に聞いた」
ジンロは扉から背を放すとこちらに近づいてきた。いいか、よく聞けとイスカに告げる。
「この村はかつて術師の里だった。二百年前、国にその所在がばれて術師狩りの部隊がこの村を襲った。ユリウスはその時亡くなっている。死んだユリウスをあの猫が己の『生』を分け与え無理やり動かしているだけだ。そうして約二百年間、あの猫はユリウスの蘇生を行うためにずっと万物の奏者を待っていた。そしてお前が現れた、お前はあの猫に利用されているだけだ」
「その話、本当なの……?」
「本当だよ。兎は偽りを話すような奴じゃない。俺も、最初にユリウスにあって思った。この男は『もう生きてはいない』ただのものだと」
イスカは絶句した。
二百年、そんな長い間、ユリウスはあの体で生かされ続け、ミロはずっと彼を助けられる者を―――万物の奏者を待ち続けていたというのか。
「だからお前にあいつの病を治す事などできない。あいつは病気などではなく、そもそも生きていないのだから」
「でも、ミロが待ち続けていたって事は、万物の奏者には死者を蘇生する事も出来るって事だよね?」
確かミロはこうも言っていた。万物の奏者の癒しの力は、時に死をも凌駕すると。
「それなら無駄じゃない。ユリウスさんを生き返らせて、そうすればミロも―――」
その途端、ジンロの表情が激変した。何も読めなかった表情から明らかな激情の顔に。
驚いたイスカをジンロは恐るべき速さで引き寄せ、壁に押し付けた。イスカは悲鳴も上げられず背中を強かに打ち付けて呻く。
両手首を縫い留められ、イスカは身動きが取れなくなった。すぐ目の前には怒りに燃えるジンロの瞳。暗闇で光るその二対の光がイスカを射抜き、イスカは恐怖で動けなくなった。
「お前自分が何を言ってるのかわかってるのか?死人を生き返らせる?たとえお前にそれが出来たとして、それでお前がただで済むと思ってるのか?」
低い唸り声がイスカを責め立てる。手首が熱い、触れられた箇所が、いや、触れられていないところも伝わる熱で全部熱い。
「いいかイスカ、お前にそんな権利はない!死を覆すことなど誰にもできない!そんな事をすれば、お前だって無事では済まない!」
ああ、そうか。とイスカは腑に落ちた。彼が何を思っているのか、それがわかった。怖がっているのはジンロも同じなのだ。イスカがしようとしている事は人間の禁忌だ。それを犯すことでイスカにしっぺ返しが来ることを彼は恐れているのだ。きっとミロにこの話を持ち掛けられた時点で彼はそれを危惧していた。だからイスカにもう行くなと釘を刺し、それを破ったイスカにこんなにも怒っている。
嬉しかった。彼はこんなにもイスカの身を案じてくれている。きっといつものイスカならすぐに謝って、もう心配をかけるようなことはしないと誓っただろう。けれど、―――イスカは気づいてしまったのだ。




