第四話 異教の聖画、黒猫の導き⑤
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《もうお分かりかもしれませんが、私は普通の猫ではありません、九生の猫なのです》
「九生の猫……?」
イスカは初めて聞く言葉に首を傾げた。ミロは確かに普通の猫ではないと感じていた。ジンロやフィオナの例もあってイスカは知っているが、動物が人の言葉を理解し意思の疎通が図れるのは、本来あり得ない事なのだから。
「その九生の猫は、普通の猫とどう違うの?」
《九生の猫は九つの命を持っています。……私は一度その寿命が尽きたとしてもまた次の命が宿ります。一つ目の生を終えれば二つ目の生へ、そうして繰り返すこと九回、―――九回目の死を迎えて私は初めて死ぬことができるのです》
死ぬことができる、という言い回しは少し悲愴な響きだと思った。ミロが少年のような声音のわりにどこか達観した佇まいをしているのは、彼がもう何度かの『死』を経験しているからだろうか。
《猫の中には数百年に一度そのようなものが生まれます。そして九生の猫として生まれた者は、通常の猫の数倍の長さを生き、普通の猫にはない知能を得、そして微弱ながら魔力も持ち合わせています》
「魔力……術師と同じようなもの?」
《そうです。私は元々とある術師の一族に飼われていた猫でした。魔力の使い方も彼らから教わりました》
術師―――。ラージュで出会ったクライヴやロースローンと同じ、かつてセシリア王国にいた者たち。今は迫害されひっそりと生き続ける者たち。
《私はただの猫ではなく、人間と同じ知能と魔術を習得した……いわば獣王に近い、似て非なる存在であるという事です》
そう言ってミロはジンロを見据えた。ジンロの表情は硬い。決してミロを同志として歓迎するような雰囲気ではなかった。
「ジンロは知ってたの?九生の猫の事」
「噂では聞いていたが会うのは今日が初めてだ。会ってすぐわかった、お前が何らかの力を持った猫だという事は。……獣王や万物の奏者の事も術師から教わったのか?」
《ええ。それにこう見えて私は長生きですから。知識も経験も豊富なのです。流石に獣王ほど長生きではありませんが》
とはいえ、その立ち居振る舞いから見てすでに人間の寿命を遥かに超えた月日を過ごしているに違いない。目の前にいるこの黒猫がとんでもない大物に見えて、イスカはごくりとつばを飲み込んだ。
《ですがそんな私でもなしえない事がある。それが、ユリウスの事です》
ミロはふっと悲し気な表情を見せた。まるで人間のような変化に、やはり彼が普通の猫ではないという事を実感する。
《ユリウスは彼が幼い頃からずっと一緒にいた、いわば家族のようなものです。彼は不本意でしょうが、私はあの子を息子同然に思っています》
ミロの表情は窺えなかったが、その言葉はとても慈愛に満ち溢れていた。先ほどキッチンで仲睦まじく過ごす一人と一匹の姿を思い出す。
―――家族、そうか。
イスカはどうしてあの時の二人がひどく心に残ったのかわかった。
似ているのだ、メルカリアにいた頃のイスカたちに。
《彼は今不治の病に侵されています。医者ももう救えないと匙を投げました。彼はもう末期です、助かる見込みはありません》
「そんな……」
《ですが一つだけ、彼を死から救う方法があります》
ミロは堂々と断言した。そしてイスカをじっと見つめる。
《万物の奏者のあなたなら……あなたの力さえあれば、ユリウスを救えるかもしれないのです》
「私?どうして……」
《あなたは自身の力をご存じないのですか?》
そう問われてイスカはキョトンとした。
《万物の奏者には癒しの力があります。あなたが力を使いこなせば、不治の病も致命傷も思いのままに治すことができます。そして時には『死』そのものすら凌駕する。あなたが触れるだけでその者は癒しを賜る。それが術師の一族に伝わる万物の奏者の逸話です》
イスカは開いた口が塞がらなかった。生き物を癒す?『死』を含めた、全ての傷と病を?
「……知らなかった」
だが思い当たる節はある。右腕を失い瀕死だったローレンスや不治の難病だと宣告されたリリスの奇跡的な回復。そうと言われれば、イスカの周りでそんな経験がある。
「ねえ、ジンロは知ってた?」
「……」
ジンロは押し黙ったまま動かない。沈黙は肯定であるという言葉をどこかで聞いたことがあるが、本当にそうなのだろうか。
《お願いです。どうかユリウスを不治の病から救ってください。私のたった一人の家族なのです》
「……でも、私はどうすればいいかなんてわからない。助けられる保証も出来ないわ」
《難しいことなど必要ありません。万物の奏者の癒しはただ、そこにあるだけでも効力を発揮する。すなわち、ユリウスの側についてくれるだけで彼の病状は回復に向かうはずです》
「側にいるだけでいいの?」
それならイスカにもできる。簡単な事だ、しかし己の力を自覚できていないのに安請け合いしてもいいものだろうか。―――と、黙っていたジンロが急に立ち上がった。
「悪いがこいつにはやる事がある。四六時中ここに張り付いているわけにはいかない。……帰るぞ」
「え!?ちょっと、ジンロ!?」
ジンロはイスカを無理やり立たせるとそのまま出口に向かって歩き出した。
「待って!まだ話は終わって―――」
「九生の猫、助けてくれたことには礼を言う。……だが、こいつを利用する事には賛同できない。邪魔したな」
《……わかりました。お帰りは樫の木の生えた道をお通りください。猫の抜け道です、誰にも会わず教会へと帰れます》
「感謝する」
ミロはあっさりと二人を見送った。未だ納得できていないのはイスカだけだ。イスカはミロをちらりと見た。その時、
《―――イスカさん、気が変わったらいつでもお越しください。私はあなたを待っています》
イスカだけにしか聞こえないように、ミロが告げた。それはまるでイスカが必ずここに戻ってくる事を確信しているような、自信に満ちた囁きだった。
◆
「待って!待ってったら!」
イスカはジンロに半ば引きずられるように樫の木の通りを歩いていた。目の前を歩くジンロはユリウスの家を出てから一言も発せず、ただずんずんとイスカの手を引いて歩く。
未だ雨は降りやんではいなかったが、樫の木に高く覆われているせいか雨水は降り注いでは来なかった。濃い湿った緑の臭いが充満して停滞した空気の中、イスカはジンロに手を引かれひたすら歩き続ける。
やがて道が開けると、そこは礼拝堂のすぐ裏手だった。ここまでくれば村人たちに見つかる心配もない。
「……っ、ジンロ!」
そこでようやくイスカはジンロの手を振りほどくことができた。暗くてジンロの顔が見えない。彼が何を思っているのかわからない。
「……知ってたの?私の力の事」
イスカが尋ねるとジンロは黙ったまままっすぐこちらを向いた。金の髪の間から覗く蒼の瞳がわずかに揺れた。
「知ってたよ。術師なら皆知っている」
イスカは驚愕した。また一つ、隠されていた事を思い知った。術師なら知っている事なのに、イスカ自身が知らなかった事。
「じゃあどうして、―――」
どうして黙っていたの、と聞くことが出来なかった。治癒の力がある事なんて普通なら見当もつかない。言う機会がなかったか、あるいはイスカに余計な心労を与えないが為の配慮か。おそらく両者だろう。最初から自分にそんな力あるなんて知らされていたら、今までのイスカであれば嬉しさよりも戸惑いや重圧の方が勝っただろうから。
「……わかった。黙ってたことは怒らない。じゃあ、もう一つ聞くけど、どうして私がユリウスさんを助ける事がそんなに嫌なの?」
「嫌というわけじゃ―――」
ふいっとジンロは気まずそうに眼を反らした。
「ただ……、彼の病は深刻そうだった。どのみちあれじゃもう希望は薄い、そんな厄介事にお前が関わる必要ないだろ」
「厄介事、って……私の力で助けられるかもしれないのに放っておけって言うの?」
イスカはジンロに詰め寄った。どうして、ジンロがそんな誰かを見捨てるような発言をするのか。
「お前がそんな重責を負う必要はない」
「私重荷だなんて思ってないよ。私にできる事があるならなんだって―――」
「必要ない!」
その時初めてジンロが怒鳴った。イスカは驚いて後ずさる。ジンロは切迫していた、こんな風に怒る彼を前に一度見た事がある。
メルカリアの時計台で一人で鱗の化け物と対峙しようした時、頬を打たれたあの時の顔と同じだ。
心配してくれている、案じてくれている。それはよくわかる、でも、イスカもうあの頃のイスカじゃない。
何かしたい。万物の奏者として初めて自分が役に立てることかもしれないから。楽しそうにお茶を淹れていたあの一人と一匹の背中をイスカが守れるかもしれないから。
「もうあの家には行くな」
「……っなんで……」
「いいから行くな!」
ジンロはまた怒鳴って、それから一人で教会へと行ってしまった。イスカは一人、そこに取り残される。
「……なんで行っちゃいけないの?なんで助けちゃいけないの?」
イスカの目にジワリと涙が滲む。―――悔しい。怒られた事ではなくて、ジンロにとってイスカは未だ庇護の対象なのだと、信頼してもらえていないのだと、そう告げられたみたいで、それが悔しかった。




