第四話 異教の聖画、黒猫の導き①
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翌朝、イスカは礼拝堂の中で目を覚ました。割れたステンドグラスの窓から弱弱しい外光が差し込んでくる。外の天気はあまり芳しくないようだ。イスカが目をしばたかせると、昨日は暗がりになってよく見えなかった堂内の最奥にかけられた聖画がはっきりと目に飛び込んできた。
それは一人の少女が三匹の聖獣に囲まれて笑っている不思議な絵画だ。主と聖母、あるいは天使の描かれたものならばよく知っているが、この絵にはいずれの姿も描かれていない。聖獣は羽と角の生えた白馬、顔よりも大きな角を二本頭部に生やした巨体の雄牛、そして蛇のように長い胴体と短い四肢を持つ鱗の生えた生き物―――。
「……蜥蜴、かな?」
「竜だよ」
手に果物を持ってジンロが近づいてきた。彼はいつものごとくイスカから少し離れたところで眠りについていたが、いつの間にかいなくなっていてどうやら食事を確保しに行ってくれたらしい。
「おはようジンロ。竜って?」
「想像上の生き物だよ。巨大な身体に頑丈な鱗、火を吐いて空を駆ける。人間を驚かすことが大好きな悪戯好きな生き物だ」
そう言ってジンロは隣に腰かけイスカにリンゴを手渡す。荷物の中にパンの切れ端があったのを思い出して、いそいそとそれを取り出すと二人で静かに食事を始めた。
「この絵画に描かれているのは、一角獣、雄牛、竜だな。いずれも正教がこの国に普及する前にこの国にあったセルバ教の聖獣だ。正教が国教になってから正教以外の宗教は異端とされて下火になったそうだが」
「異教の聖獣……、って事は、この礼拝堂は正教会のものじゃないの?」
「どうかな。異教の礼拝堂を正教会がそのまま転用する事もあるから一概には言えないな。……とはいえ、兎が住み着いてるくらいだから教会側も見放したところなんだとは思う」
今の正教が国教になったのはシルキニスが王国になるよりはるか昔、千年以上前だと言われている。それ以後異教は抹消されほとんどが忘れ去られたそうだが、今でもこうしてひっそりとその名残があるのも面白いものだ。
「じゃあ、あの女の子は?」
「……さあ、俺もセルバ教に詳しいわけじゃないから」
ジンロは首をひねった。その三匹の聖獣に見守られている少女は、イスカもよく知る聖母のように穏やかな笑みを湛え祈りを捧げている。
その笑みに何故か引き付けられ、気づけば食事の手も止まっていた。
「それで、これからどうするんだ?」
ジンロに声をかけられて慌てて食事を再開した。どうするとは、どういうことかと聞き返すと、
「兎はあの状態じゃ碌に話にならない。フィオナも昨晩からどっかに消えちまったし。これからここで何をするかって事」
「そうだね……」
ザウドとの話し合いに行き詰ってしまったイスカは、当面どうするか全く考えていなかった。うーんと、しばし唸った後、
「村の散策に行く、とかどうかな?」
「村?あの廃れた何もない村か?」
ジンロはあからさまに面倒そうな顔をする。
「どうかな……行っても無駄な気はするけど。村人たちは余所者に厳しいだろうし」
「でも、もしかしたら話を聞かせてくれそうな人が一人くらいいるかもしれないよ。当面ここに滞在するならその準備も必要だし。それに……」
イスカはここに来るときに見た黒猫の視線を思い出した。何故かあの猫の事が気になる。村に出ればまた遭遇するかもしれない。
「それに、なんだ?」
「……ちょっと確認したい事もあるの。とにかくここにじっとしてるより行ってみようよ。せっかく遠くまで来たんだもの。村の様子を見てみたい」
そう言うと、ジンロも渋々承諾した。
◆
しかしいざ村へ降りてみると、相変わらず鬱々とした空気に無人の通り。しまいにはいつの間にか降り始めた小雨に村の空気は冷え切っていて、イスカはやっぱりやめておけばよかったかもと後悔し始めた。
「こら、ちゃんとまっすぐ立って歩けよ。お前が行くって言いだしたんだろ?」
前を歩くジンロの服を引っ張ったまま歩いていると、ジンロが呆れた顔でこちらを向く。
「だって……、なんか気味悪いし。人がいないのに視線が刺さるし……」
一番堪えるのは人の姿が見えないのに、誰かがこちらをじっと見つめている気配がすることだ。建物の中から路地裏から、いたるところから異邦人であるイスカたちの様子をのぞき込んでいる村人たちの気配がする。
「隠れてこそこそしてる奴らなんかほっとけ。それより、ここか?例の猫がいたってところ」
イスカはようやく昨日通ったつぶれた商店の前までやってきた。昨日ここに腰かけていた猫の姿はなく、錆びれた見世棚とつぶれかけた軒が空しく風に吹かれている。
「うーん、誰も住んでないみたいだし、ここの猫じゃないのかな……」
ごめんください、と中に声をかけても返事はなく、完全に廃屋になっていた。ここでなければ後はしらみつぶしに探すしかない。……いや、そもそもあの猫を探す必要があるわけではないのだが。五分ほど店内を散策したが結局収穫はなかった。イスカが諦めてがっくりと肩を落とすと、
「ここにいなさそうなら、もう少し違うとこ見て回るか。もう一本向こうにも通りがあったから―――」
後ろから声をかけてきたジンロが不意に息を呑んだ。何事かとイスカも振り向くと、
「……っ!?」
店の前にいつの間にか人だかりが出来ていた。今まで隠れていたのに、突然湧き出てきた村人たち、彼らは皆怒り、殺意、憎悪、ありとあらゆる負の感情を向けてイスカとジンロを睨みつけていた。
「―――何か用か?」
「それはこちらのセリフだ。この村に何をしに来た?」
リーダー格らしき男が訊ねてきた。彼の手には肉厚の短剣が握られている。それを確認すると、ジンロはイスカを背に庇うように立ち、腰の剣に手をかけた。
「今すぐこの村を出ていけ。さもなくば身の安全は保障しない」
「……」
ジンロはイスカの方に視線を送った。どうするか、そう問われたイスカはジンロの背からそっと顔を覗かせると、敵意をむき出しにした村人たちと対話を試みる。
「勝手に入ってきてごめんなさい。でも、どうしても会いたい人がいたの」
「会いたい者とは?」
「丘の上の礼拝堂に住んでいる人。でももう会えたし、この村に干渉するつもりは―――」
「あの悪魔の仲間か!?」
一人の村人がヒステリックに叫んだ。その瞬間、彼らの様子が俄に色めき立つ。顔を青ざめさせ、武器を持つ者たちは一斉にその矛先をこちらに向けた。
「あいつの仲間なら生かしてはおけん!」
「そうだ!殺せ!」「殺せ!」
「えっ、待って!違うの、私たちは―――」
言ってはいけない事を口走ってしまったのだと気づいたがすでに遅く、もはや村人たちは話を聞いてくれる状態ではなかった。
「イスカ、店の中に隠れろ、早く!」
ジンロが剣を抜いた。それに呼応するように村人たちは雄たけびを上げ、次々と武器を掲げる。短剣、鉈、槍、棍棒、不揃いの武器が一斉にイスカたちに襲い掛かろうとした時、眼前を黒い影が横切った。
「ぎゃ!」
影は一番手前にいたリーダー格の男の顔にへばりつくとガリっと嫌な音を立てた。痛みに耐えかねた男は、絶叫し武器を取り落とす。その手のひらからぼたぼたと赤い血が滴り落ち、そこにいた村人たちはひるんだ。
その血だまりの側にすとんと小さな黒い影が舞い降りる。
「……!あなたは!」
そこにいたのは黒い毛並みをした猫だった。昨日この店でイスカが見かけた、まさにイスカが探しに来ていた猫に違いなかった。
猫の姿を確認した途端、村人たちは明らかに狼狽した。まるで恐ろしい猛獣を前にしたかのような慄きぶりだ。
猫は一瞬こちらに視線を送るとすぐに大きく跳躍し、店の軒に立てかけてあった数枚の木の板の上に勢いよく飛びつきそれを蹴り倒した。
「うわあ!」「ひいっ!」
木の板が派手な音を立てて村人たちの群集の中に倒れこんだ。何人かはその下敷きとなり、身動きが取れなくなる。店を包囲していた村人たちの壁が大きく崩れ隙が出来た。その時、
《お二人とも、こちらです!》
少年のような甲高い声が耳に届いた。すぐにジンロがイスカを担ぎ上げ猫の後を追う。
《さあ早く、急いで!》
ジンロに乱暴に担がれたまま、その少年の声の出所を探る。それは確かに前を駆ける黒猫から聞こえた。
「……っ、ジンロ、あの猫……」
「黙ってろ、舌噛むぞ」
ぴしゃりと言われ、イスカは口を噤んだ。遠くで村人たちの怒号が聞こえる。だか不思議な事にそれはだんだん遠ざかり、やがてジンロの靴音と猫の首についた鈴の音、そして雨音だけが聞こえるほどに静かになっていく。
担がれているだけのイスカはどこに向かっているのかわからない。同じような建物の壁が続く道をぐるぐると、次第にイスカの方向感覚は狂っていき、自分がどこにいるかも、何度曲がり角を曲がったのかさえ分からなくなっていく。
(どこまで行くの……?)
不安になりかけた時、ようやく視界が晴れてジンロの足が止まった。
《ここまでくればもう大丈夫でしょう》
その言葉を合図にジンロはゆっくりとイスカを下ろした。足がよろけるのをジンロに支えられながら、イスカは己を助けてくれた黒猫をまじまじと見つめた。
「……、あの、ありがとう」
《どういたしまして》
「!?猫がしゃべった!」
思わず叫んでしまったので、ジンロが「今更かよ」と呆れて言った。彼は全く動揺していない。よく考えればそれは当然の事で、彼だって『意思疎通のできる鳥』になれるのだから今更『話す猫』がいたとてイスカにとっては珍しい事ではないのだ。
《私の事はミロと呼んでください。私が話せる事に関しては、追々お話ししましょう。まずはゆっくり休めるところにご案内します》
「助かる」
ジンロとミロが頷きあうと、ミロはすぐそばの一軒家に二人を案内した。何が何だかわからないイスカも、
「お前も少し休んだ方がいい、ほら」
ジンロに誘われて、ミロが入っていった家へと足を踏み入れた。




