第三話 水魔の懇願、獣王の因縁④
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水浴びから戻ってきたイスカは先ほど拵えた簡易の寝台の上で毛布を被ってへそを曲げていた。フィオナと別れた後、何故か途中から意識を失いそして気が付いたら目の前にジンロがいた。しかも自分は裸のまま、彼に思いきりその姿を見られたのだ。
「……イスカ、いつまでそうしてるんだよ。悪かったって、本当に覗く気はなくてだな―――」
イスカは被った毛布の隙間から数メートル離れた先にいるジンロを無言で睨んだ。彼はばつが悪そうに祭壇の瓦礫の上で胡坐を掻いている。
イスカが着替えて泉から戻ってきてからかれこれ数十分、寝台で猫のように丸くなりへそを曲げているイスカとそれを宥めるジンロとの膠着状態が続いていた。
「……わかってるわよ、不可抗力なんでしょ?もう聞いた」
「そうだ。ほら、もう仲直りしようぜ」
「……」
「謝ってるだろ。何がそんなに不満なんだ?」
「……だって、もうお嫁にいけない……」
イスカは涙声で呟いた。婚前の娘が男に裸を見られるなんて、それはもう死にたいくらい恥ずかしい事なのだ。まあ、無防備に野外で肌をさらした自分も自分なのだが。いくら相手が気心の知れたジンロであっても、イスカにとってショックは大きい。
すると、ジンロはあきれたように大きなため息をついてこちらに寄ってきた。イスカの頭のすぐそばに腰を下ろす気配がする。
「心配してなくても俺に裸見られたくらいで嫁ぎ先がなくなるわけないから」
「……無責任な事言って」
「俺はお前に無責任な事は言わない。……大丈夫だよ、お前は何も悪くないんだから」
毛布の上からジンロが頭をなでてきた。甘やかされているみたいで少し不服だったが、それでも不思議と目頭が熱くなって涙が出てくる。
「ねえジンロ、ジンロ本当はザウドさんに会いたくなかったんじゃないの?」
「なんだよ急に」
イスカはさっき泉でフィオナに聞いたことを思い出した。獣王の事、ジンロとザウドの仲たがいの事。聞いてもいいものか迷っていたが、
「フィオナさんが言ってたの。ジンロとザウドさん、昔大喧嘩したって」
「……」
顔は見えなかったが、ジンロは今きっと『あの女余計な事を』という顔をしているに違いない。それがありありとわかるので、イスカはこんな踏み込んだ質問の中で逆に笑いそうになってしまった。
「昔の話だよ。もうお互いどうとも思っていない」
「嘘」
「……っ」
イスカは起き上がるとジンロの顔をまじまじと覗き込んだ。バツが悪そうな、恥ずかしそうな、いたたまれないような、そんな表情が浮かんでいる。
(この人、喋らない割に嘘をつくのが下手ね)
こんな時になんだが思わぬ発見だ。イスカはちょっと強気になってジンロににじり寄ってみた。ジンロはぎょっとして後ずさるも、座椅子のひじ掛け部分に阻まれて逃げ場を失う。イスカの中にちょっとした悪戯心が湧いて、ジンロに馬乗りになる形で手をついて退路を塞いだ。
「おい……、なんだよ」
ジンロの困惑した顔がイスカの下にある。いつもは見下ろされているから、その光景の違いに少し楽しくなってきた。
「ジンロ、ホントの事言って」
イスカは笑みを浮かべつつ、その目は寸分も笑っていなかった。ジンロの喉がごくりと動く。
「お前な、自分が何してるかわかって―――」
「私の裸見たくせに」
「……っ、いや、それとこれとは関係ないだろ!?」
「ジンロ」
有無を言わさずもう一度、「言って」と脅迫にも近い声色で告げた。たじたじになるジンロもやがて根負けしたのか、大きなため息を吐くと、
「ああもう、わかった。わかりました!来たくなかったよ!こんなところ!あいつの顔なんて見たくもなかった。お前の頼みじゃなかったら絶対来なかった!」
開き直ったジンロは饒舌になって愚痴を吐き始めた。
「そもそもなんだよあいつは!久々に顔合わせてちょっとは大人しくなってるかと思えば、本当に何百年経ってもちっともかわりゃしねえ。やっぱりもう一発殴って――って、どうした?」
ジンロが不思議そうにこちらをのぞき込んだ。それもそのはずでイスカは知らないうちに肩を震わせクスクスと笑っていたからだ。
「ごめん、可笑しくて」
「何が?」
「やっぱりジンロはこうでなくっちゃな、って思っただけ」
今までどこか壁を作られていたような気がする。元から不機嫌で、不愛想で無神経なところがあるな、と思っていたけれど、ここのところジンロはイスカに対していつも遠慮がちで、そう言った素の一面を見せてくれることがあまりなくなった気がしたから。それが見られただけで、イスカは嬉しかった。きっとこの人はまだまだ色んな事を隠しているだろうけれど、それでも嬉しかった。
「お前は平気か?あいつに色々言われてたけど」
「私?私は……」
敵意をむき出しにするザウドに対し、納得できない事はもちろんある。気になって仕方がない事も。けれど、
「私は平気。ザウドさんにはザウドさんの考えがあるだろうし。それを少しずつ知っていきたい。出来たら仲良くなりたいわ」
「仲良く?あんな奴とか?」
顔をしかめるジンロにイスカは迷いなく頷いた。
「なりたいよ。だってジンロの仲間だもん」
するとジンロは目を丸くして固まった。驚かせるような事を言ったつもりはなかったのだが。
「どうかしたの、ジンロ?」
「別に……それで、いつまでこのままでいるつもりだ、イスカ」
「え―――、あ」
そこでようやくイスカはジンロを椅子に押し倒している自身の体勢に気づいて、急に我に返って顔を赤らめた。
「ご、ごめん!」
慌てて飛び降りようとすると、ジンロに手を掴まれて、次の瞬間視界がぐるんと回転する。クッションのない、薄い毛布を引いただけの堅い椅子に押し倒されて、―――見上げれば、笑みを浮かべたジンロの身体で視界が遮られていた。さっきの体勢からあっという間に逆転されたイスカは、両手をジンロに抑えられ両足を絡めとられ、完全に逃げ場をなくす。
「お前は本当に……、長い事一緒にいたつもりだったけど退屈しないな」
「な、何言ってるの?いいから早く、どいて……」
上ずった声で必死に抵抗する。急に恥ずかしくなって、ジンロの顔が見られず目を閉じると、盛大にため息をつかれた。
「……狙ってやってるのか、無自覚なのか」
「え……何が―――」
言い終わる前にジンロの顔が近づいてくる気配がした。吐息が唇にかかる。前にキスされた事を思い出して反射的に身を固くした。が、いつまでたってもそれがやってこない。恐る恐る薄目を開けると、至近距離でほくそ笑んでいるジンロの顔があって、その瞳にイスカのちょっと涙ぐんだ顔が映っているのが見えた。
「……何されると思ったんだ?」
「……っ!馬鹿!馬鹿!ジンロの馬鹿!!」
またからかわれた事に怒りを覚え、がむしゃらに抵抗するもあえなく撃沈する。結局、ジンロにカウンターを喰らって、隠し事の事や裸を見られた事に対する有耶無耶はあっさりと流されてしまった。
◆
「……あいつら、もうちょっと場所選んでもらえないかしら……」
礼拝堂横の懺悔室でイスカとジンロの一連のやり取りを影で見ていたフィオナは、気恥ずかしさにいたたまれなくなってその場で脱力した。何が悲しくて極上の餌と認定した少女と、友情もへったくれもないのに付き合いだけは長い腐れ縁の男の睦合など見なくてはならないのか。しかもここは廃れているとはいえ神聖な礼拝堂だというのに。
フィオナは側の壁に寄りかかって座った。兎の王の事も何の解決もしていないのに呑気な事だと呆れる。
でも同時に羨ましくもあった。フィオナが過去に、あんな風に誰かと戯れたのはいつのことだったろうか。男との交渉なら今だってある。けれどそれは身体だけの繋がりであって、心が繋がった事は当分ない。
―――フィオナ。
名前を、魂の言葉をくれたあの人は、いつの時代の人だったか。
「……馬鹿ね、報われる事なんてないのに。その子が傷つくだけよ」
その言葉はジンロに対してか、あるいは過去の自分に対してか、いずれにしても誰の耳にも届かず、空虚な部屋に溶けて消えた。




