第三話 水魔の懇願、獣王の因縁③
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その一言にジンロは全身の血が急激に沸騰した様に感じ、思わず手に持っていたジョッキをテーブルに叩きつけた。ジョッキは派手に割れ、テーブルにガラスが散らばる。
「てめぇ……、今のもういっぺん言ってみろ」
ジンロは目の前にいる細身の青年の首を容赦なく締め上げた。青年は苦しそうな顔をしながらも、目は爛々と赤く輝き戦意を失ってはいなかった。
突然二人の男が喧嘩を始めたので、酒場の客たちは色めき立つ。関わり合いになりたくないと、足早に席を立つ。
「何度だって言ってやるよ。僕たちは人の姿をしているくせして同族を喰う化け物だ」
「―――っ!」
「口を真っ赤に染め上げて汚らしく人を喰うんだ。我を忘れて本能のままに貪りつくす。こんな滑稽な生き物が他にいるか?」
「……黙れよ」
「そうしないと生きられない?ははっ!そんなものは詭弁だろ?だったら死ねばいいじゃないか!『あの時』みたいに腹を空かせて気を狂わせて、糞みたいにのたれ死んだらいいじゃないか!」
「黙れって言ってんだろ!!」
ジンロは青年の顔を思い切り殴り飛ばした。枯れ枝みたいな青年の身体は、それだけで馬鹿みたいに吹っ飛び、派手な音を立ててテーブルに激突する。
「ジンロやめろ!」
さらに追い打ちをかけようとしたジンロをリマンジャが後ろから羽交い絞めにした。ジンロはそれを解こうとするが、やがて息を荒げつつ抵抗をやめた。
「……兎も、少し言い過ぎだぞ。飲みすぎだ」
続いてリマンジャは、やや離れたところまで吹っ飛ばされた青年を窘める。ゆっくりと起き上がった青年は顔を腫らし、それでも目は血のように赤く輝いている。
「……本当の事を言っただけだ」
「言っていい事と悪い事がある」
「何がだよ?お前だって所詮人喰いの化け物の癖に。―――ああそうだよ。僕は逃げてるんだ、お前らの言う業から。早く解放されて、自由になりたいんだよ!」
青年は壊れたように笑いだした。その笑い声がジンロはどこか癇に障った。
「でも逃げてるのはお前らだって同じだろ!?獣王の本能から目を背けて、それを口にしないだけだ!それで『仕方ない、どうしようもない』って、そう言って今まで何人殺してきたよ!?」
「兎、もうやめろ」
「僕はもうたくさんだ!もうこんな人生、まっぴらごめんだ!人を喰って生きる位なら餓死した方がましだ!人なんかにならなきゃよかった!こんな姿に生まれなければよかった!あの時あの女を喰わなければ―――」
「―――!」
ジンロは翼を出現させリマンジャの拘束を破った。そして、まっすぐに青年に躍りかかる。
あの時の事は正直よく覚えていなかった。酒が回っていた上に頭に血が上って、気が付いたら血まみれで死にかけの兎の王が横たわっていた。
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「……嫌なこと思い出した」
もう随分と忘れていた気がする。ジンロは久々にザウドと会って、己が過去に犯した過ちの中でも一二を争う類の出来事を思い返していた。
結局ザウドから話は聞けずじまいで、彼は部屋に引きこもってしまった。ジンロはまだ彼に聞かなければいけない事が山ほどあるというのに。
一旦諦めたジンロは気分転換に裏手の森で悪態をつく。埃っぽい教会を出て新鮮な空気を吸い込もうとするも、湿地特有の湿った空気にあいにくの曇り空では気分も全く晴れない。
元々ジンロは昔からザウドとはそりが合わなかった。
人当たりが悪く神経質で頑固者のザウドは、ただの動物であった時から気に食わなかったし、万物の奏者の体を喰って獣王になってからも、奴はその態度を改めることはなかった。いつも何かに癇癪を起して、自分の思い通りにならない事には容赦なく毒を吐く。気の長い方では無いジンロはいつも彼とぶつかっていた。その最たる出来事があの事件、もう二百年近く前の事だというのに、あの時ザウドを殴りつけた拳の痛みも血だまりの上で倒れこむ奴の姿も、ありありと思い出してしまった。
正直イスカに「獣王に会いたい」と懇願された時も、兎にはあまり会いたくなかったし、向こうもジンロと顔を合わせるなんてまっぴらごめんだったろう。それでもイスカの願いで、なおかつ彼女が獣王を知る上で最も合理的なのはあの男をおいて他にいないと思ったから足を運んだ。それなりに知識があり、なおかつ他人に対して余計な情を持たない兎の王なら大丈夫だと思ったから。
それにジンロ自身もザウドには追及したい事が山ほどあった。例えば今シルキニスで暗躍している術師たちの企みの事。イスカを連れ去ろうとした革新派の連中の事、その関係。また、それ絡みかは定かではないがリマンジャがわざわざ東方のガラドリムから戻ってきている事も改めて聞いておきたい。
自分とイスカの周りで何が起ころうとしているのか、自分はどう動けばいいのか。
今にも降り出しそうな潤んだ空を見上げながら、大きなため息をつくと、
パシャン
森の奥から水音が聞こえた。奥と言ってもそれほど遠くない、茂みを挟んだすぐ傍からだ。付近に水場でもあるのか、と首をひねった時またしてもパシャンという水面を跳ねる音がする。
ジンロは気になってその水音のする方角へと茂みをかき分けた。
茂みの向こうに開け放たれた空間があり、そこに直径五メートル程度の澄んだ泉があった。泉の水は曇天にもかかわらずチカチカと目をくらますように乱反射しており、水面も忙しなく脈打っている。どう見ても普通の泉には見えなかったのだが、それよりもジンロの目に真っ先に飛び込んできたのは泉の淵に腰かけた一人の少女だった。少女はこちらに背を向けたまま足だけを泉に浸け、時折パシャンと水面を蹴っている。
少女は裸だった。陶器のように真っ白な肌を惜しげもなく晒し、泰然とそこに座っている。まだ成熟しきっていない、だが女性らしい柔らかなラインを描く腰回りと細くしなやかな腕の上を水の反射光が滑る。全身をしっとりと濡らし、濃い飴色の髪から滴り落ちた水滴がつうっと背中をつたって地面にしみ込んだ。
「―――イスカ?」
ジンロが名前を呼ぶと、少女はゆっくりと振り返った。上半身をこちらに向けたせいで少女の露わな胸や腹が目に飛び込んできたので、ジンロは慌てて視線をそらした。
「おい、お前こんなとこで何やってるんだ?ここ外だぞ」
「……」
「風邪ひくから早く服を着ろ。……おい、聞いてるのか?」
顔を背けたまま少女に注意を促すものの、何故か返答がない。
おかしい、いつもの少女のなら悲鳴を上げたり恥ずかしさを紛らわそうとこちらに理不尽な罵声の一つや二つ浴びせたりしてくるところなのに、彼女は騒ぐどころか恥ずかしがる様子さえない。様子を伺いたいのだが、目線を合わせようとすると嫌が応にも少女の裸体が目に入ってしまうのでそれも憚られる。
しかもあろうことか、少女は立ち上がって裸のままペタペタとこちらに近づいてくるではないか。
「―――!?」
冷え切った小さな手がこちらの手首を掴んできたので、ジンロはぎくりとした。すぐ側に少女がいる。全力で顔を真横に向けているがそれでももう少女の濡れた髪や白い肌が視界にちらちらと映り込んでくる。一糸纏わぬ身体から微かな体温と息遣いを感じ、ジンロはいたたまれなくなって最後のあがきとばかりに目を閉じた。
「―――ジンロ」
少女がジンロを呼んだ。抑揚のない静かな声だった。ジンロは違和感を覚え、恐る恐る少女の方を向いた。できるだけ首から下は見ないように少女のつむじあたりに目をやると、少女がすっと顔を上げた。
光を灯さない濁った瞳がこちらを見ていた。それは普段明るい少女にはそぐわない、闇に覆われた瞳。
「……お前、誰だ?」
目の前にいるのは自分の知っている少女の姿をした『何か』だ。少女はこんな目をしない、感情の無い虚ろな人形のような目をするはずがない。
その何かは少女の姿を借りてこちらに必死に訴えかけようとしている。
「ジンロ、ブリドリントの森に来てくれ」
「えっ……?」
「戦争が起こる。もう異変は始まっている」
少女は凛とした口調で淡々と告げた。
「森の動物たちが危ない。不穏な空気が漂い始めている」
「おい、お前まさか―――」
「猿にもこの事を伝えてくれ。必ず。……頼んだ、―――鳥の王」
そう言って少女は一瞬意識を飛ばすように遠い目をして、そしてまたぼうっとした顔でこちらを見た。大きな丸い琥珀色の瞳に光が灯る。ジンロは少女と―――イスカとばっちりと目が合った。
「……、あ、れ?私……?」
「戻ったか?」
ジンロが問いかけるも、イスカは未だ意識を朦朧とさせ目をパチパチと開閉する。その吸い込まれそうなほど大きな瞳にジンロの姿が映り込んで、ようやくイスカの方もこちらに気が付いた。
「……ジンロ?」
「大丈夫かお前、なんか憑かれてたみたいだけど」
「憑かれてた?……あれ?私水浴びしてたら、突然なんか光みたいなのが現れて、それで水柱に襲われ、て、……」
段々意識が明瞭になっていくイスカの唇が固まった。ふと、何かに気づいたようにイスカは自分の身体を見下ろす。つられてジンロも見下ろして―――イスカの裸体を直視してしまった。
「あ」
「―――!?」
気づいて目をそらしたがもう遅い。ジンロの目の前でイスカは見る見るうちに紅潮し、声にもならないか細い悲鳴を上げて蹲った。
張り倒されなかっただけジンロはまだ幸運だった。




