第三話 水魔の懇願、獣王の因縁②
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フィオナに連れられてやってきたのは、教会裏手の茂みの奥にあった小さな泉だった。泉の水は澄んでいて掬ってみるとほんのり温かい。
「温泉……?これ」
「そ、ちょっと温いけど水は綺麗だし気持ちいいわよ」
するとフィオナはイスカの隣で躊躇なく服を脱ぎ始めた。
「フィ、フィオナさん!?」
「大丈夫よ、周りに人いないし女同士なら別に気にならないでしょ?」
確かにここはもともと人気のない村の外れで、泉の周囲は木々で覆われているがそれにしたって野外で裸になるなんて、イスカにとってはとんでもない行為だ。
(それに女同士だから平気ってわけでも……)
あれよという間にイスカの目の前でフィオナは一糸まとわぬ姿になった。くすみの無い真っ白な絹肌にスラッとした肢体、にもかかわらず胸や腰は女性らしい丸みを帯びた肉感のあるシルエットをしていて扇情的だ。全く隠そうともしないので、逆にイスカの方が顔を赤らめて目をそらした。
フィオナの含み笑いが聞こえて、その後パシャンと入水の音がした。
「ほら、あなたも早く脱いで入りなさいよ」
泉の中からフィオナが手招きをする。ワンピースの襟元を握りしめたまま硬直していたイスカだったが、いつまでもこうして固まっていても仕方がないと覚悟を決め、煤と埃に塗れたワンピースを脱ぎ始めた。
思い切って下着まで地面に落としてしまうと、イスカは足先からそっと泉に滑り込んだ。泉はそれほど深くなくイスカの腰下辺りまでの水位だ。肩まで体を沈めるとほのかに温かい水がイスカの全身に纏わりついていた煤や埃や汗を全て洗い流してくれる。同時にさっきまでの羞恥心もあっという間に拭い去られ、妙な解放感に包まれる。
「―――気持ちいい」
イスカは掃除で縮こまっていた身体をグッと伸ばした。体中の筋肉がほぐれていく感覚が気持ちよくてイスカは思わず吐息を漏らす。
「ね?いいところでしょう?」
フィオナが満足そうな顔で体を寄せてきた。イスカのむき出しの腕にフィオナの柔らかな胸が押し当てられる。ふわりと花の香りも漂ってきて、イスカはどぎまぎした。
「―――!?い、いいところはいいところだけど、なんか、近くない?」
「あら、いいじゃない。女同士、裸の付き合いって事で」
困惑でカチコチに固まるイスカをよそに、フィオナはゆっくりとその豊満な体を絡めてくる。フィオナの掌がイスカの腰のラインやへその辺りをまさぐり始めたので、恥ずかしいやらくすぐったいやらでイスカは必死で身をよじったが、思った以上の怪力にイスカの抵抗も無駄に終わった。正直イスカは女同士の裸の付き合いなんて今まで経験したことがないので、今行われている行為がはたしてそれに該当するものなのかどうかわからない。
「ま、待って……っ」
悶えるイスカに対してフィオナは大変上機嫌だ。イスカは与えられる快感のような何かに耐えていたが、ふと頭の中に一抹の不安がよぎる。
(あれ、でもこの人確か私の事食べようとしてたんじゃ―――)
それを思い出した瞬間、羞恥心も何もかも吹っ飛んで、今度は恐怖と焦燥にどっと汗が噴き出した。イスカが納得するまで待つと言っていたが、このまま約束を反故にされてばくりといかれたらどうしよう。と、今さらながらに自分が今置かれている状況の危険性を感じたのだが、
「ふふっ、いいなぁ。妹ができた気分」
フィオナがしみじみと呟いた。
「妹?」
「ええ。もし姉や妹がいたら一緒にお風呂に入ってみたいなぁって思ってたの、私」
その純真な笑顔にイスカは毒気を抜かれてしまった。ようするに今やっているスキンシップも、彼女にとっては親愛の証みたいなもので(それにしては少し過度な気もするが)食べたりとかそんな考えであっての事ではないらしい。
「フィオナさんは一人っ子なの?」
「一人っ子もなにも、家族なんていないわよ。私はぐれの虎だったんだから、いつだって気ままな一人暮らしよ」
そういえば彼女は元々人間ではなかったのだった。確か獣王が生み出されたのは今から八百年前、獣王として生まれてからその長い時を一人で過ごしていたのだろうか。
「……ねえ、フィオナさん」
「ん、なあに?」
「フィオナさんは他の獣王の事、どう思ってる?」
それはイスカにとって何気ない質問だったのだが、フィオナは目を皿のように見開いて数秒の間固まった。
「どうしてそんなこと聞くのかしら?」
「それは……」
急に責められているような心地がしてイスカは口ごもる。イスカは単に、一人だとのたまうフィオナに、おそらく一番同族として近しいであろう獣王の事をどう思っているのか聞きたかっただけだ。そう述べると、
「誤解しないでよね。あいつらとはただの腐れ縁。境遇が同じだから今も付き合いがあるけど、元々自分勝手な奴らばっかりだし、そこまでお互い干渉する事もないもの」
そういえば前にジンロも同じことを言っていた事を思い出した。やはりイスカにはわからない。長い時を過ごさなければわからない孤独と共鳴はきっと彼らにしか理解できないものなのだろう。
「でも、私たちは一時期共に旅をしていた事もあるわ。生まれ変わってから何百年と経って、お互いつるむ相手もいなかった私たちは、共に旅をし、道中で獲物を分けあった。楽しくはなかったけど、退屈でもなかったわ。なんだかんだ言って、同じ境遇の者同士だからお互い心のどこかで拠り所にしていたのかもしれない。
けれどある時私たちはバラバラになった。元々勝手な奴らばっかりだからなるようになったのだけれど」
「何があったの?」
「いつだったかジンロと兎が大喧嘩したのよ。まあ、私はその時現場にいなかったから詳しい事は知らないけど。ジンロが兎の事ボコって大怪我させたって」
「大喧嘩……」
「そのかなり後にこの教会で再会した時は、お互い普通にしてたから、今はもうなんとも思ってないのかもしれないけど。知りたければジンロ本人に聞きなさい。……多分滅多な事じゃ話さないだろうけど。」
そう言われて、イスカはまたズシンと心臓に重みを感じた。先ほど礼拝堂でザウドにジンロの本当の姿を知っているのかと聞かれた時と同じだ。
(私、ジンロの事何も知らない)
あんなに近くに、何年も共にいたのに、イスカはジンロの事を何も知らない。そしてジンロ本人もイスカに自分の事を語ろうとしない。最近、何故かその事ばかりを突き付けられている。それがショックで仕方ない。すると、
「ひょっとして、気にしているの?さっき兎が言っていた事。本当の姿がどうたらって話」
「……うん」
「……あのね、じゃあ聞くけど、あんたジンロに裸見せろって言われて素直に見せるの?」
「えっ!?」
唐突な質問にイスカは顔を真っ赤にして全力で首を振った。
「今あんたが知りたがっているのはそれと同じことよ。誰にでも秘密がある。見せたくない部分がある。それはあいつだって同じ。知りたいからと言って無理に暴く事なんてできないのよ」
そう言ってフィオナはイスカの頬を軽くつねった。鈍い痛みと共に、イスカを諫めてくるような気遣いが感じられて、イスカは逆にほっとした。
「―――うん、そうだね」
結局のところ少しずつ知っていくしかないのだ。ジンロの事も、目の前にいるフィオナの事も、イスカを大嫌いだと言ったザウドの事も。
「そういえば、フィオナさんはジンロたちと旅してた時以外は誰かと旅したりしなかったの?」
「……?誰かと?」
「うん。ずっと獣王同士で行動してたわけじゃないんでしょ?その間ずっと一人だったの?」
フィオナはイスカから手を放すと、少しだけ記憶を思い起こすように眉を寄せた。
「……そうね。たいていは一人だったけど、たまに人間と行動を共にしていた事もあるわ」
「人間と一緒に過ごしていたこともあるの?」
「私だっていつも人間を食べようなんて思わないわよ」
「そんなつもりで言ったわけじゃないわ」
イスカは少しはにかみながら言った。でも少し気になる。食欲旺盛で天真爛漫な彼女が共に過ごしていた人とはどんな人だったのか。
「どんな人だったの?その人?」
イスカは何気なく尋ねてみた。
するとフィオナはふっと気の抜けたような顔をした。フィオナの表情は懐かしいその面影を思い浮かべているようで、嬉しそうに見える反面少し寂しそうにも見えた。
「……そうね、それはたった一人、私が唯一家族になりたいと思った人よ」
フィオナはかすれた声で呟いた。思わずイスカが聞き返そうとすると、次の瞬間フィオナは容赦なくイスカのわき腹をくすぐり始めた。
「わわっ……!ちょ、フィオナさんくすぐったい!」
イスカが暴れるので水面が揺れバシャバシャと水しぶきが上がった。思わず笑い声をあげるとフィオナも楽しそうに笑っていた。まるで本当に家族にちょっかいをかけられているみたいだった。
ひとしきりくすぐって満足したのか、フィオナは息を荒げたまま勢いよく立ち上がった。
「私もうあがるわ。あんたはもう少し温まっていきなさい」
そう言ってタオルと着替えを持ってさっさと教会の方に消えていく。その後ろ姿は、やっぱり少し寂しそうにも見えた。
一人になったイスカは少し冷えた肩を温めるために首まで湯につかった。
(家族になりたい人、か。それってもしかして恋人とかかな?)
寂しそうにしていたのは先立たれたからだろうか、それにしてもそう告げた時のフィオナのあの表情は少し引っかかる。
けれど、フィオナはイスカの何倍も長く生きてるのだ、イスカみたいな小娘には到底及ばないほどに酸いも甘いも経験しているのだろう。そう思ってふと、もう一人永い時を生きてきたであろう人物を想起する。
(ジンロは……どうだったのかな?)
彼にだってイスカと出会う前に経験した出会いと別れがあったはずだ。もしかしたらその中には恋仲になった人もいたのかもしれない。家族になりたいと思った人が―――。
と、イスカはハッと我に返った。同時に、さっき礼拝堂で己が何を口走ったかを思い出して、イスカは沸騰するかと思うくらい顔が熱くなった。
「違う!家族ってのはそういう事じゃなくて!」
自分に対する言い訳は誰もいない森の中にこだました。さっきジンロは家族と言い切ったことが今更になって恥ずかしさを増す。思い返せばかなり恥ずかしい事を言ったような気もする。
「……ううん、でも、本当にそう思っている事だから」
イスカが幼い頃からずっと共にあった存在。祖母と同じように、イスカの人生の中で必ず側にあった小鳥を家族と呼ばずして何と呼ぶのか。
けれども改めてイスカはジンロの事をどう思っているか、と聞かれると返答に困る。相棒?兄弟?親代わり?それとも―――。
イスカは邪念を振り払うように大きく息を吸い込んで頭の先まで水に潜り込む。水中でぎゅっと膝を抱えていると、閉じていた瞼の向こうできらりと何かが光った。何かと思ってそっと目を開けてみると、泉の中心付近、今いる場所より深い場所でキラキラと何かが光っていた。
(なんだろう?石かな?)
最初鉱石か何かが光を反射しているのかと思ったが、現在の天候は曇りで太陽光は雲で遮られている。その何かは自身で発光し水底でキラキラと揺らめいているのだ。一度浮上したイスカは、慎重に泉の中心へと近づいてみた。澄んだ水は水面からでもその光る何かが見える。もう数メートルでその何かの正体がつかめるかと思った瞬間、光の直上の水が独りでにごぼっと盛り上がった。
「―――え?」
盛り上がった水はイスカの目の前で瞬く間に高く立ち上り、大きな水柱となって泉の表面に現れる。水底から照らされる光で水はキラキラと光り、生き物の如くうねって―――イスカの身体を飲み込んだ。




