第二話 静寂の村、兎の受苦②
村の中央を通り過ぎ郊外へと歩き続けてしばらくすると小高い丘が見え、そのてっぺんに古びた礼拝堂があった。
古びた、という形容がはたして正しいのか。比較的小さい規模の礼拝堂ではあるが、かつては荘厳な石造りの外観であったものが今や壁は蔦で覆われ一部は風化して崩れ落ち、窓も朽ちて美しかったはずのステンドグラスはボロボロだ。手入れのされていない周囲の草むらは草木が無造作に伸びていて虻や蜂が飛び回っていた。
「行くぞ」
ジンロは苔に覆われてもう何十年と動かされていないかの如く固く閉ざされた扉を躊躇なく蹴り開けた。錆びた蝶番が軋んで、重い扉が乱暴に開かれる。
「ジンロ!?ちょっと、そんな乱暴にしたら壊れ―――」
咎めようとしたものの、中から濛々と立ち上がった埃に気管をやられ、イスカはごほごほとせき込んだ。埃に混じって細かい砂粒や黴の臭いまで襲ってきたので、イスカは慌てて口元を覆う。
埃を巻き上げて内側に開かれた扉の向こうには、外観と同様朽ち果てた祭壇が見えた。
「うえっ……、服が汚れちゃうじゃないの。掃除くらいしなさいよね」
後ろでフィオナが悪態をついている。イスカも埃っぽさを気にしながら恐る恐る足を踏み入れる。
灯りなどは当然なく、割れたステンドグラスから直接入り込む細い外光がちらちらと舞う埃を照らしていた。あちらこちらに瓦礫が散乱し壁の漆喰もボロボロになって剥がれ落ちている。天井には蜘蛛の巣も張っていて、もはや人が住むところではない。
「ねぇ……、本当にここにいるの?兎の王って」
「いる。―――おい!隠れてないで出てこい!」
ジンロが虚空に向かって叫んだ。広い堂内に反響しワンワンと鳴り響く。返事はなかった、あるはずもないと思ったその時、祭壇の奥にある礼拝室の一角から奇妙な音が聞こえてきたので、イスカは眉をひそめた。
ガサガサガサ
何か紙と紙が擦れあうような音がする、最初は微かに―――それは段々音量を増してゆく。
(何―――?)
徐々に近づいてくる音に首を傾げた次の瞬間、音の聞こえてきた礼拝室の扉から、一斉に白い何かが大量に飛び出してきた。
「―――!?きゃあ!」
謎の白い大群が一直線にこちらに襲いかかってきたが、衝突する寸でのところで、ジンロの大きな翼がイスカを覆った。
「いっ――――!?痛ってえ!」
「ジンロ!?」
いつの間にかジンロの腕の中に収められていたイスカだが、ジンロが呻き声を上げたので思わず顔を上げた。
ジンロの翼は普通の鳥の翼ではない。人間の男の背から生えているという事以外に、風を起こしあらゆるものを切り裂き吹き飛ばす力を有している。にもかかわらず、そのジンロの翼を白い何かは容赦なく切りつけ、羽から鮮血が散った。
イスカはジンロの腕の隙間から周囲を飛び回っている白い断片の正体を垣間見た。
(……紙?)
ジンロの翼を傷つけるほどのものとはいったい何なのかと思ったら、それは何の変哲ものない紙片だった。だが、何の変哲もない紙が独りでに動き何かを切り裂くわけはない。灯りに群がる羽虫を彷彿とさせる紙片は、まるでこちらを食いつぶすように体当たりを繰り返す。
「―――っの×××野郎!」
細かい切り傷を無数に受けたジンロが激怒してどこかに向けて叫んだ。なんと言ったかは紙の羽音でよく聞こえなかった。
ジンロが無理やり翼をあおった。刹那イスカたちのいるところを中心に放射線状に突風が放たれた。群がっていた紙片があっけなく吹き飛ばされ、ギイギイという悲鳴を上げて壁に激突する。猛威を振るう突風は紙片だけでなく備え付けられていたボロボロの長椅子や割れたステンドグラスの破片まで吹き飛ばし、耳が割れるかと思うくらいの轟音が轟いた。
「ちょっと!私まで巻き込むんじゃないわよこの馬鹿鳥!」
突風の中からフィオナの悲鳴がしたかと思うと、次の瞬間堂内の温度が急激に上昇した。
「―――!?」
風の音とは違う、今度は火が爆ぜる音が礼拝堂を揺らした。建物の空気が一瞬にして焼き切れたかと思うくらい強烈な炎がほとばしり、炎熱に肌が焼かれそうになってイスカは息を呑む。
ギアアアア
豪風で壁に叩き付けられ、炎で容赦なく炙られた紙片たちの断末魔が堂内に響き渡った。耳を塞いでも防ぐことができず、イスカは歯を食いしばってそれに耐える。ほどなくして、断末魔は止み、辺りは一転して静かになった。恐る恐る顔を上げると、周囲にはチリチリと真っ黒な炭が天井から舞っている。意思を持った紙片のなれの果てがひらひらと舞い落ちて、イスカの足元に降り積もっていく。
「イスカ、大丈夫か?怪我は?」
「私は平気だよ。ジンロこそ大丈夫?」
解放されたイスカは慌ててジンロの背中に回り込んだ。美しい金の翼に少し朱色が滲んでいる。だがどれもかすり傷程度で深い傷ではなかった。
深手ではないことに安堵すると、今度は少し離れたところにいたフィオナにも声をかけた。
「フィオナさんも大丈夫?」
「大丈夫じゃないわよもう……、服も切れてるし最悪」
ジンロと同じように紙片の群衆に襲われあちこち切り傷をつけたフィオナは悪態をついていた。非常に機嫌は悪そうだが、彼女も深い傷はないようで、イスカは胸をなでおろすと、
「―――さて、熱烈な歓迎をしてくれたからには礼をしてやらねえとな」
ジンロがゆっくりと立ち上がった。彼はこめかみをひくつかせ片方の頬をこれでもかというくらい引きつらせていた。目が据わっている、―――これは完全に、キレている。
ジンロが地面を蹴ると、彼は一瞬にして祭壇の奥、紙片が飛び出してきたと思われる礼拝室へ飛び込んだ。
ギャア!
先ほど聞いた紙片の断末魔とよく似た、しかし今度はもっと軽い、人間の悲鳴だとすぐにわかる声がした。続いて何かが割れる音や落ちる音。ドタンバタンと騒がしくなったと思えば、最後に礼拝室から白い布の塊がペッと吐き出された。
「ぐへっ」
カエルの潰れたような声がその塊からしたので、イスカはそっと近づいてみると、
(震えてる……?)
よく見ると薄汚れた塊は小刻みに震えている。小さく縮こまったそれを凝視していると、怒りに目を血走らせたジンロが静かな足取りでその塊に近づき、それをボールよろしく容赦なく蹴り上げた。
仰天するイスカの目の前で塊はポーンと宙を舞う。そこでようやく布の絡まりが解かれ、中にあったものが見えた。
再び地面に叩き付けられたのは、イスカと同じ年くらいの男だった。線は細く色も白くて、初対面でこう言っては申し訳ないが、腕力の欠片もなさそうなひ弱な青年だ。
男は腹を押さえ苦しそうに呻いた。細い枝のような胴体ががくがくと痙攣し、今にもポキリといってしまいそうなほど無残な姿だ。にもかかわらず、ジンロは彼に追い打ちをかけるよう今にも折れそうなその肩に踵を落とす。またしても男が潰れた悲鳴を上げたので、さすがのイスカも傍観できずジンロを止めにかかる。
「ちょっとジンロ!何してるの!?」
弱っている線の細い青年をこれ以上足蹴にするなんて許されない横暴だ。イスカは慌ててジンロを男から引っぺがすと、いまだに痛みで呻いている彼の肩を起こした。
「大丈夫ですか?」
顔を覗き込むと、飛び込んできたのは薄明りでも輝きを失わない真っ赤な二対の瞳だった。男がぎょろりとこちらを向いた。満身創痍で弱っているとは思えない鋭い眼光にイスカは怯む。その力強い瞳はまるで個の自我を持っているかのようだ。
「―――っ、触るな!」
男がイスカの手を勢いよく振り払った。思った以上に強い力にイスカは跳ね飛ばされてしりもちをつく。男は手負いの獣のように息を荒げて興奮していた。呆然とするイスカを憎き仇敵の如く鋭い眼光で射すくめる。
予想外の拒絶に呆然としていたイスカの側をまたしても男を詰ろうとするジンロが横切ったので、慌ててその足を掴んだ。
「待ったジンロ!暴力はダメ!」
「って、お前。こいつはな―――」
ジンロもイスカの事は乱暴に振り払う事が出来ないようで、足を縫い止められたまま困惑する。そんな二人の横からずかずかとした足取りでフィオナがやってきて、ジンロと同じように男を追い詰めた。フィオナも相当怒っており、それがわかっているのか男はジンロに責められていた時以上に震えあがった。
「な、なんだよっ!」
「なんだよ、……じゃないわよ!どうしてくれるのよこの服!お気に入りだったのに!」
フィオナの怒りの原因は服をダメにされた事らしい。彼女の着ていた綺麗な色のコートは今や埃と煤で汚れ、あちこちが切り裂かれ少し血も滲んでいた。
「服なんか知るか!そもそもなんでお前までここにいるんだ!」
「なによ?いちゃいけないっていうの?どうせ私たちの事遠巻きに視てたんでしょ!?このっ、このっ!」
フィオナが男の頬をぐりぐりと抓った。痛い痛いと男は悲鳴を上げ涙目になっている。もはや可哀相と思う事すら無駄に思えてくるほどの不憫な光景に、イスカは身動きもできずに傍観するしかない。すると、横から大きなため息をついたジンロがイスカを立ち上がらせた。ジンロの足にしがみついたままの状態で固まっていたイスカは、慌てて体勢を立て直す。
「こいつだよ、兎の王」
「えっ」
ジンロが目の前でフィオナに泣かされている哀れな男を顎でしゃくった。
兎の王。その姿は何度見てもまるで白樺の細木のように真っ白で線の細い青年だった。だが、薄汚れたローブの奥から覗く真っ赤な瞳だけは、確かに人間離れした異様な重圧を感じ取れる。
男と目が合った。その瞬間、イスカは見えない何かに囚われたように目がそらせなくなり、そしてまた例の懐かしい感情が心の中を満たしていった。
「……あなたが、兎の王?」
イスカが問いかけると、男の眼光がますます鋭くなる。
「ああそうだよ」
兎の王はぶっきらぼうに答える。少しトーンの高い掠れた声だ。
「こんな廃屋にようこそ、イスカ=トンプソン」
男は座ったまま一つも歓迎なんてしていない風に言った。目線の高さはこちらが上なのに、まるで見下されているみたいだ。
「お前は僕に会いたかったのかもしれないけどさ、」
イスカが何故ここに来たのか、その全てを見透かしたかのように男は告げ、そして、
「僕はお前なんかに会いたくなかったんだよ。僕の方はお前の事なんか知りたくない」
イスカは言葉が出なくなる。兎の王は本当に不機嫌そうにイスカに嫌悪の視線を向けて、
「僕はお前なんか大嫌いだ」
まだ出会って数分も経っていないのに、はっきりと敵意を向けられた。




