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第一話 少女の決意、感謝のしるし②

 しばらくすると馬車は大きな湖のほとりを通過した。イスカはその湖をじっと見つめた。水面はキラキラと波うち、中心では水鳥が気持ちよさそうに泳いでいる。


「……『水撥ねる、澄んだ空気は鮮やかに、水鳥は水面を漂い愛分かつ』」

「何の歌だ?」

「知らない?ザウド=パウエルの詩の一節」


 ザウド=パウエルはこの国で最も有名な詩人だ。素朴で簡素ながらも優しい韻と響きが評価され、シルキニスで彼の名を知らぬ者はいないとされている。イスカも幼い頃祖母の授業の中でザウド=パウエルの詩を読んだし、同じように子供に読み聞かせをしていた。彼の詩は自然の情景や動植物を題材にしたものが多く、イスカが外の世界に憧れてた頃暗記するまで読み込んでいたものだった。


「なんとなくこういう風景を眺めてると思い出すんだよね。百年以上前の人で遺されてる詩もそう多くはないんだけど」

「ふーん」

「あ、でもそういえば一つだけちょっと毛色の違う詩があったかも。珍しく人間の事を詠ったような―――どんなのだったっけ?」


 ジンロの方に目を向けると、彼は面白くなさそうな顔をしてそっぽを向いていた。


「……って、ジンロ聞いてる?」

「んー、聞いてるよ」


 ジンロは億劫そうに返事を返す。そんなにザウド=パウエルの詩に興味が無いのか、イスカは仕方なく肩をすくめると、


「ザウド=パウエル、ねえ……」


 ジンロは露骨に嫌そうな顔をして虚空を仰ぐ。


「どうしたの?変な顔して」

「いや、あいつの詩なんてちゃんと読んだことねぇな、って思ってさ」

「あいつ?」


 随分と親しい呼び方をするものだと、イスカは首をひねった。


「ひょっとしてジンロ、ザウド=パウエルの事知ってるの?」


 確かにザウド=パウエルは今よりずっと昔の人だから、普通の人間ならとうに亡くなっているだろうが、ジンロは普通の人間ではない。八百年前を生きていたジンロがザウド=パウエルと面識があってもおかしくはない。

 ジンロは肯定する代わりに一層眉間のしわを深くした。


「知ってるもなにも、あいつは―――」


 その時、大きな音を立てて荷馬車がガクンッと斜めに傾いた。


「きゃっ!」


 重心が傾き荷馬車から振り落とされそうになる。後方で積み荷の一部がバラバラと崩れ路上に落ちた。共に転げ落ちそうになったイスカは寸でのところでジンロに抱き寄せられ事なきを得る。


「大丈夫か!?」

「うん、ありがとジンロ」

「おい!どうした?何があった!?」


 ジンロは前方の商人の男に向かって叫んだ。崩れた積み荷の向こうから男の呻き声と馬の嘶きが聴こえる。


「いてて……、ああすまねぇ。どうも車輪が泥濘にはまったみてえだ」


 前方を覗き込むと、確かに左前の車輪が地面に深く埋まり破損していた。道は舗装はされていないものの乾いていて土も固いのになぜか車輪は柔らかい泥の上を渡ったかのように陥没している。


「おかしいな……、いつもはこんなことないんだが」


 商人は首をかしげながら車輪を戻そうと奮闘するも、地面に深くめり込んでいるうえに車輪自体にも亀裂が入ってしまっていて走行は無理そうだ。イスカとジンロもその背後で様子を眺め表情を曇らせる。この状態では直すのにも時間がかかるだろう。しばらく立ち往生になるかと途方に暮れると、ジンロが突然周囲を鋭い目で睨みつけた。


「静かに」


 ジンロは素早くイスカと商人の男を己の背に隠した。何事かと目を点にさせていると、周囲の草陰からこちらに近づいてくる気配がする。ジンロの背中越しに見えたのは襤褸布を纏った小汚い男たちだ。


(盗賊……!)


 町の外で略奪と人攫いを繰り返すという野蛮な集団が馬車を包囲し始めた。イスカは恐ろしくなってジンロの背に縋りつく。


「見ろ、随分豪勢な馬車が掛かった。一体何を積んでるんだろうなぁ」

「おい!若い女もいるぞ!こりゃあついてるぜ」


 男たちの下品な笑い声が響く。どうやら車輪の陥没は彼らの罠のようだ。こうして罠に掛かった者たちをカモに略奪を繰り返しているのだろう。彼らの視線の一部がジンロの背に隠れているイスカに注がれてびくりと肩を震わせた。

 わらわらと盗賊たちが集まってきた。ざっと見渡しただけでも十人強、全員が手に短剣や鉈を持っていた。


「おい兄ちゃん。積み荷とその後ろの嬢ちゃんだけ置いてきな。そうすりゃあ、お前とそこのおっさんの命は見逃してやるからよ」

「……まったく、いつの時代にもこういう連中はいるもんだ」


 ジンロは低い声で呟くと、腰につった剣に手をかけた。


「ジンロ……!」

「できるだけこいつで何とかするけど何分数が多い。いざとなったら羽で散らす」


 不安そうに縋りつくイスカにジンロは心配はいらないと笑いかけてくる。思ったより余裕の面持ちだ。


「大丈夫だよ。お前はここ動くな。……出来たら目閉じとけ」


 ジンロが剣を抜いた。盗賊たちは一瞬ひるんだが自陣の数の優位は変わらない、彼らも一斉に武器を構える。

 ジンロが動いた。一瞬で間合いを詰め正面にいた男を斜め袈裟に斬り伏せる。あっという間の出来事だった、切られた男は悲鳴も上げずに絶命した。


「―――っ!」


 イスカは思わず目をそらした。いくら相手が盗賊とはいえ、人が死ぬ場面はイスカにとって刺激が強すぎた。盗賊たちが武器をふるうよりも早くジンロの剣が彼らの身を薙ぐ、素早さが常人の比ではない。

 一人、また一人と盗賊は倒れ伏した。ジンロが手練れだとわかると盗賊の幾人かは恐れをなして逃げ出し、数の優位もいつの間にか崩れ始めている。


「……っ、この野郎!」


 その時、悪態をついた一人の男がジンロの側をかいくぐってこちらに突進してきた。イスカたちを人質に取るつもりか、こちらに伸ばされる手に思わず後ずさるも、その手がイスカを捕らえることはなかった。


「ぐぁ!……っ!」


 男の背に深々と剣が突き刺さる。剣の切っ先が男の胸を貫き、男は顔を歪めたまま動かなくなる。

 イスカの眼前にある、体を貫かれた男と剣の切っ先。そして男の肩越しから見えた恐ろしいほど冷たいジンロの瞳―――。

 ジンロは後ろに払うように男の身体から剣を抜いた。倒れた死体には目もくれず、その反動を利用して後ろから迫る最後の一人の首を横に斬りつけた。

 男が血しぶきをあげ崩れ落ちると辺りはしんと静まり返る。周囲に広がる血の臭いに眩暈を感じイスカは呆然とへたり込んだ。


「怪我はないか?」


 ジンロが血に濡れた剣を持ったままこちらにもう一方の手を差し伸べてきた。一瞬、その手が何を意味しているのか分からず、イスカはその手を凝視する。

 大きくて骨ばった手だった。さっきイスカの頭を撫でてくれた手で、その手が温かいのもよく知っている。けれど、―――。


「……どうした?大丈夫か?」


 ぼうっとしていると思われたのか、イスカの目の前でジンロは手を振った。イスカははっとして慌てて自力で立ち上がる。


「大丈夫!……どこも怪我はないわ」

「そうか、ならよかった―――」


 ジンロは安堵した顔で再びその手をイスカに伸ばした。が、イスカは思わず飛びのいてその手を避けた。完全に無意識だった。


「―――?イスカ?」

「あ、ご、ごめん……」


 イスカは自分のとった態度を後悔した。周囲に散らばる盗賊たちの亡骸、彼らを屠ったのが目の前にいるジンロ。その手を取るのを躊躇った。ジンロはイスカを守ってくれたのに、そんな彼に対して一瞬でもそんな態度をとってしまった事が悔しい。

 ジンロも察したのか、行き場のない手を気まずそうに下ろした。何と答えてよいかわからず、お互いに黙り込んでいると、


「―――う、うわぁ!!」


 イスカの背後で商人の悲鳴がした。ジンロがイスカを引き寄せ腕の中に収める。

 商人の背後には目を血走らせた若い男が立っており、彼の首に腕を回し強く拘束していた。盗賊の仲間がまだ数人隠れていたのだ。


「動くなよ!」


 盗賊は興奮しているようだがその行動は冷静だった。怯えて固まる商人を盾にジンロにその様を突き付けた。ジンロが少しでも動けば商人の首が折れる、それは明白だった。


「こうなりゃこいつと馬だけでもうっぱらってやる!」


 商人の首を絞める男が口をゆがめて笑った。後方では暴れる馬の轡を外している男たちの姿も見える。女より買い手市場は少ないが、男でも内臓を売れば破格の値段になると聞いたことがある。馬だって一度市場に出せば、毛並みと馬力に応じて上々の買い手が見つかるのだ。


「た、助け……っ……!」

「……っ!」


 商人の苦悶の声にジンロが舌打ちをし剣を構えた。イスカはそれを固唾をのんで見守った。しかし、その緊張は次の瞬間、どこからか轟いた猛獣の唸り声であっという間に別の恐怖に塗り替えられた。


 突然荷馬車の反対側から一頭の虎が飛び込んできた。虎は迷いなく商人を拘束していた男の頭に食らいつく。


「ぎゃ―――」


 男の潰れた悲鳴は中途半端に途切れ、骨をかみ砕く生々しい音がイスカの耳に響いた。すぐさまジンロがイスカの目を覆う。おかげでイスカはその光景を見ずに済んだが、ぐちゃぐちゃと肉を咀嚼する音と強烈な血の匂いだけは防ぎようがなかった。


「と、と、虎!?」

「やべぇ!逃げるぞ!」


 目の前で仲間を喰われた男たちの慌てる声が聞こえる。バタバタと遠ざかる足音から、彼らが一目散に逃げだしたのだと分かった。

 イスカはジンロの手をのけ恐る恐るその現場を見る。頭部を無くした男の死体に目をそらしつつ、イスカはその横で凛とたたずむ虎の姿を確認した。


《あんたも妙なところで甘いわね、ジンロ。こんな奴らとっとと八つ裂きにしちゃえば早いのに》


 ラージュの町で出会った虎がそこにいる。初めて夜の野原で出会った時と同じように、虎は―――フィオナは牙を覗かせてにやりと笑った。口元を赤く染めた猛獣は恐ろしいが、ゆっくりとこちらに近づいてくる姿には美しき狩人の風格すら見えた。

 ジンロは左腕でイスカを抱きしめ、右手で剣を構える。切っ先は少し震えている、ジンロの身体からバクバクと心臓の鳴る音が聞こえた。


「フィオナ……、てめぇつけてたのか……!」

《むしろなんでつけられてないと思ったのよ?前に言ったでしょ、黙って町を出たら二人とも噛み殺してやるって》


 噛み殺すという言葉にイスカの顔は青ざめた。ジンロの腕もさらに強張る。震えがイスカにも伝わってくる、ジンロがこんなにも怯えているのは初めて見た。


(どうしよう、このままじゃ……)


 ジンロとフィオナ、互いに言葉を交わしていたところは見たが、この一触即発の危急の事態で何が起こりうるか予想できない。

 このままでは本当に二人の殺し合いが始まると直感が告げていた。


「―――っ、待って!」


 意を決してイスカはジンロの腕から飛び出した。


「!?馬鹿!前に出るな!」


 ジンロの制止を振り切ってイスカは今にも飛びかかってきそうな虎と対峙した。流れるような毛並みや珠のような瞳が間近に見える。こんな時でさえ、その姿は美しいと感じる。


「虎の王―――フィオナ、あなたと話がしたい」

《……?》


 震える声でフィオナの名を呼んだ。すると虎の瞳は僅かに揺らめく。


「あなたの事が知りたいの、お願い、少しでいいから私に話す時間を頂戴」


 イスカは目をそらさずにまっすぐ虎の目を見据えた。今のイスカは無防備だ、一歩間違えばこのままその鋭利な牙を身体に立てられ食い殺されるだろう。けれどイスカは逃げずに猛獣と向き合った。


《―――ふふっ》


 沈黙の後に聞こえたのはフィオナの笑い声だった。すると虎は臨戦態勢をほどき、ゆっくりとその体を変化させる。虎の毛並みと同じく美しい容姿を持った女がそこに顕現した。


「いいわね、その威勢のいいとこ嫌いじゃないわ。後ろの鳥よりもずっと勇敢じゃない」


 目を細めて笑うフィオナには、脅威を感じられなかった。少し妖しげでとても無邪気な笑顔だと思った。


「いいわ。女同士でゆっくりお話ししましょ、万物の奏者レーディンレル


 瞳孔の細い目は少しだけ―――ほんの少しだけ獲物を手の内に捕らえた時の猛獣のそれに見えた。

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