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第六話 術儀顕現⑦

 ◆

 ずっと走り続けて気づけばイスカは倉庫を抜け、だだっ広い原っぱまで来ていた。あたりはもう暗く月明りもほとんどない。だが今は祭りの時期だ、遠くから街灯の光が煌々と見えて、完全な闇ではない。


(あそこまで戻れば……もう大丈夫なはず)


 仮面の軍勢の手から抜け出せたことに安堵したイスカだったが、手首にヒリリとする痛みを感じて顔をしかめた。見下ろしてみると強引にロープで縛られた手首は赤く擦り剥け血が滲んでいた。おそらく足の方も同様の症状になっている事だろう。自覚したとたんに、一気に痛みが襲ってきた。声にならないうめき声を上げながら、それでもイスカは町明かりに向かって再び走り出す。

 後ろを振り返ることは怖くてできなかった。痛みを堪えながらただまっすぐ前を見ながらひたすらに走る。先ほどの出来事が走馬灯のように頭の中にちらついた。ロースローンを名乗る術師、男が口にした新たな混沌、剣を持った仮面の男たち、突如現れた猛獣の群れ。イスカはあの獣たちに助けられた。あの獅子がイスカを逃がしてくれたのはそういうことだ。

 あれはいったい何だったのだろうか?どうしてイスカを助けてくれたのか?

 わからないまま、イスカは町に向かってひた走る。


 そうしているうちにようやく大きな公道の先端にたどり着いた。ちらほらと祭りの客たちの姿も見える。イスカはほっと息をついた。しかし、


「いたぞ!」


 後方から鋭い男の声がした。そしてガシャガシャという金属音が響く。振り返るとそこには白い仮面を被った紫マントの集団がいた。先ほど倉庫にいたお仲間だろう。相変わらず奇怪な仮面が笑いかけるが、不思議とこれまでのような不気味さを感じない。それよりももっと別の恐怖がイスカを襲った。


(統率のとれた動き、それにあの剣……ローレンスが持っていたものと同じ……!)


 やはりそうだ。倉庫で見た時と同じ、彼らは訓練された兵士―――国府の兵団だ。


「さっきはよくも仲間をやりやがったな!小娘!」

「な、なに?何のこと―――」

「とぼけるな!サーカスの猛獣を操って俺らにけしかけやがって!」


 それは謂れのない罪だ。イスカは何もしていない。だが、イスカが否定しようにも彼らは仮面で覆い隠されているにもかかわらずそうとわかるほど怒り狂っていた。


「どうせ喰わせるんだ。死体だろうがあのお方は構わんだろうさ!」

「っ!?」


 兵たちがじりじりとイスカに近寄る。わずかな光源で鈍く輝く剣がきらめきイスカは悲鳴を上げた。踵を返して逃げ出そうとするが、足首の傷から走った激痛にたたらを踏み転倒してしまう。


(助けて……、助けて!)


 後ずさりしながら必死で兵たちと距離を取ろうとするも恐怖で足が思うように動かなかった。頭の中が真っ白になった時、イスカの脳裏に一人の面影が浮かび上がった。


『―――俺を呼べ』


 イスカははっとした。そうだ、あの時イスカはそう言われた。どんな事があってもイスカの側にいてくれた。イスカを見捨てないで、守ってくれた彼が。


「―――ロ」


 恐怖で声が掠れる。それでもイスカは大きく呼吸をして、肺一杯に空気を貯めた。


「―――っ!ジンロ!」


 兵の一人がイスカに躍りかかる。煌く剣の切っ先に目がくらみ、イスカは思わず目をつぶった。


 ザシュッ


 肉を断つ音が響き、生ぬるい液体が顔にかかった。だが痛みはない。恐る恐る目を開けるとそこにあったのはこちらに腕を突き出したまま固まった仮面の男の姿だった。本来右腕があったはずの箇所は途切れていて、イスカは血と脂で斑になった人間の腕の断面をまじまじと見る羽目になってしまった。


「きゃあああ!」

「う、うわああああ!」


 イスカの悲鳴と男の悲鳴がこだまする。さらにその上から、無邪気な女の軽快な笑い声が重ねられた。


《だめよ、この子は私達の獲物なんだから。あんたたちみたいな奴には渡さないわ》


 イスカの前に躍り出たのは暗闇でもわかるほど美しく輝く毛並みを持った虎だった。虎は首をこちらに向けイスカに大事がないことを確認すると、こぼれんばかりの巨大な鋭歯を覗かせ笑った。


《随分情熱的な呼び声だったわね。相手があいつなのが癪だけど》


 そう言いながら虎は生々しい音を立てて何かを咀嚼している。口元が動く度に鮮血が滴り落ちては、血の臭いが届いてくる。イスカは耳を疑った。先ほどの黒獅子と同じようにイスカの脳に直接声が聞こえてくる。


「腕がっ!腕が……!」


 その背後で腕を失くした兵がのたうち回っていた。その傷口は荒くまるで獣に喰いちぎられたようで、目の前の虎が喰っている物がなんであるかは考えるまでもなかった。


「くそっ、また猛獣か!」「殺せ!」


 突如現れた獰猛な獣に怯えながらも兵たちは果敢に剣を構える。するとまた虎は面白そうに唸り声を上げた。


《いいわね、私こういうの大好き。若い男は抵抗してこそ食べたときの味が格別になるのよ。……本当はもっと生で食べたいんだけど、仕方ないか》


 美味しそうに人肉を咀嚼する虎を目の前にしてショック状態のイスカはようやく察した。


(まさか、この人―――)


 イスカの直感が虎の正体を告げている。虎は背をしなやかにくねらせると、その口元が煌々と輝き、次の瞬間勢いよく火柱が吐き出された。


「!?」

「ぎゃあああ!」


 虎の正面にいた兵たちに点火した。夜にもかかわらず目がくらみそうなほどの炎光と炎熱、焼けた臭い、轟轟と轟く炎の中に消える男たちの絶叫。幾人かは一瞬で消し炭になり、また火達磨になった兵たちは苦しみもがきながらのたうち回る。

 イスカは目の前の地獄のごとし光景に声も出なかった。あちこちで出来上がる焼死体から上がる炎が、夜の原を真っ赤に照らす。


「―――ひっ」


 火に炙られた兵の一人がのろのろとイスカの元に近づいた。もはや意識もないであろう全身が焼けただれた兵がこちらに向かって手を伸ばす。イスカは悲鳴すら上げられず固まった。間一髪、イスカは背後から体を掬われそのまま大空へと飛翔した。

 目を白黒させている間に、イスカは腕に抱きこまれる。


「ジンロッ……!」

「悪い、遅くなった。無事か?」


 虹のかかった金の翼をひらめかせたジンロの姿を確認したとたん、糸が切れたかのようにイスカの目から涙がこぼれた。阿鼻叫喚とした世界から逃れられたことの安堵と、ジンロが助けに来てくれたことの嬉しさに、イスカは堪えきれずジンロの首元に縋りついて泣き始める。


「ジンロ……、ジンロ……、っ!」

「怖かったよな、もう大丈夫だ。もう、大丈夫だから」


 イスカのいたところから少し遠ざかった木の上に着地したジンロは、そう何度も繰り返しながらイスカの背を撫で宥めてくれた。

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