第五話 サーカス団③
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気づけば彼の言葉を何度も反芻している。頭がいっぱいになって何も手につかなくなって、悲しいわけでもないのに涙が出そうになる。
「お姉ちゃんたら!聞いてるの!?」
リリスが斜め下から覗き込んできたので、イスカは我に返った。ぼうっとしたまま歩いていたイスカは、慌てて手に持っていた紙袋を抱え直した。この中には小麦粉や卵など落としたら大惨事なものばかり入っている。
「ご、ごめんね。何だったかな?」
「もうっ、さっきからぼうっとしすぎよ。しっかりしてよね」
リリスは頬を膨らませてずかずかと先へ進んでしまった。イスカは慌ててその小さな背を追いかける。
二人はラージュでも一際賑わう中央市場へと赴いていた。町の中央講堂の前に位置する広大な広場では中央の噴水の周りで大々的なマーケットが開かれている。遠方から来た行商人だけでなく、地元の農家の人々や一般市民も自由に露店を開いてよい自由市場だ。大変活気があり、数歩歩けば通行人と肩がぶつかるので進むのにも精一杯だ。
「リリスちゃんダメだよ。勝手に一人で行かないで」
小柄なリリスは人ごみを縫っていくため今にも見失いそうだ。イスカは荷物を庇いながら必死で追いかけた。
「お姉ちゃん、早く早く」
催促しながらもリリスは弾むように足取り軽く市場を巡る。彼女にとってこういった人の集まる市場は珍しいらしく、こうして食料の買い出しに来ただけで彼女は遠出でもしているかのように目を輝かせてはしゃいでいた。
こんな風にリリスと出かけるのは初めてではなかった。リリスと打ち解けてから彼女のリハビリを兼ねて一緒に町へと出かけた。お菓子の材料を買いに行ったり、祭りの露店を眺めたり、少しだけ見世物も見に行った。ずっとこの町に住んでいたリリスだったが、こんな風に謝肉祭の時期の町を歩くのは初めてだったらしい。
「大丈夫?リリスちゃん。辛くなったら言うのよ?」
ようやく追いついたイスカはリリスの小さな手を握って言った。するとリリスはツンと澄ました声で、
「平気よ。身体なんてもう何ともないもの。ママが心配しすぎなだけだわ」
と返すので、イスカは苦笑した。
「それよりお姉ちゃんよ。どうしたのよ、さっきからずっとぼうっとして!」
しっかりしてよね、とリリスはまた不機嫌そうに頬を膨らませるので、イスカはまた別の意味で苦い笑いを浮かべた。
「ごめんねリリスちゃん。……でも私ちょっと疲れちゃったんだけど、まだ町回りたい?」
イスカは掠れた声で呟いた。イスカとリリスは連日こうやって町中を歩きまわっていたのだ。元々外に出たがらなかったリリスだが、本当は誰よりも好奇心旺盛で祭りを見てみたいとひたすらにごねる。イスカもそれに同行しているが、二日三日と人ごみの中をひたすら歩き続ければ、さすがのイスカも疲労がたまっていくというものだ。
対してリリスは全く疲れている様には見えない。本当にこの間まで人形遊びばかりしていた病弱な子供なのかと疑いたくなるほどだ。興味のあるものを見つけてはすぐさま飛んで行くのはどこの町の子でも変わらない。
「わかったわよ。少し休憩しましょ」
リリスは唇をとんがらせて近くのベンチに向かった。イスカも彼女の隣に腰かけ息をつく。ちょうど近くの講堂の鐘がカランカランと音を立てた。時刻は昼の三時を回った、昼下がりの市場はより一層賑わい、熱気のこもった空気が広場に満ちていく。
「……お姉ちゃんはさ、あのお兄ちゃんと喧嘩したの?」
しばらくぼんやりと広場を眺めていたリリスがぽつりと呟いた。核心をついた質問にイスカはドキリとする。
「え、なんで……?」
「だってずっと元気ないじゃん。今日の朝もちょっと変だったし」
図星をつかれてイスカは黙り込むほかなかった。
リリスの指摘通り、ここ数日のイスカはどこか上の空だった。何をしていても気づけば考え事ばかりしている。原因はわかりきっている、数日前のジンロとのやり取りがイスカを悩ませていた。
ここのところジンロと碌に会話していない。ジンロも仕事が忙しくなったのか、朝早く起きて夜遅く帰ってくるという生活が続き、イスカともすれ違いが続いていた。今朝は久しぶりに朝食を一緒に取ったが、ほとんど会話することもできずに終わってしまった。最後に頭をなでられたことが、なんだか気を使わせてしまったようで悔しかった。
(どうして前みたいにうまく話せなくなっちゃったんだろう?)
理由がわからない、ジンロも話してはくれない。聞いていいのかもわからない。
そしてまた思考は戻り、堂々巡りを繰り返すのだ。
「……パパとママもね、ちょっと前までそんな感じだったの」
黙ったままのイスカにリリスは悲しそうに言った。
「パパとママ?」
「うん。原因は私の身体の事。治療の事とか学校の事とかそういう事でいっつも喧嘩してた。治療を受け続ければ莫大な費用が掛かるし、学校だってほかの子が行くような安いところには行かせられないって、もっとちゃんとした医療施設のある所にするべきだって。でもうちはそんな裕福な家じゃないから解決策が見つからなくて、それでいつも二人で喧嘩するの、そのたびにママは悲しそうな顔してた」
あの元気そうな女将の姿からは想像がつかなかった。けれども彼女とて一児の母親だ。イスカに家庭教師を頼んだ時だって、思いつめたような顔をしていたではないか。
「だから私二人に言ったの。私は治療なんか受けなくていい、学校も行かなくていい。家にずっといる、ってね」
「リリスちゃん……」
「私がそういった途端二人の喧嘩が止まったの。二人して困った困ったって、今度は意気投合しちゃった。……笑っちゃうわよね」
自虐的に笑うリリスにイスカは胸が締め付けられた。もしかしたら彼女はイスカが考えている以上に周囲に気を遣っていたのしれないと今になって痛感した。わざと駄々っ子のような真似をするのも両親を喧嘩させまいとする気持ちから来ているのだとすると、イスカは無性に切なくなった。
「パパとママが本当は私の事どう思ってるかわからないけど、私は二人に喧嘩してほしくないの。だからお姉ちゃんも、あのお兄ちゃんと喧嘩してるなら早く仲直りして、私じゃ何もできないけど」
その言葉にイスカは泣きそうになりながらリリスを抱きしめた。
「大丈夫だよ。リリスちゃんのパパとママはリリスちゃんの事が大好きだから」
「……ほんとかなぁ」
「ほんとだよ。そうじゃなかったら、私に家庭教師をお願いなんてしないわ」
心配で、でもどうしようもないからこそイスカに仕事を頼んだのだと思う。イスカはようやく、どうして自分がこの子の側にいなければいけなかったのかを悟った。
「ごめんねリリスちゃん。私ちゃんと仲直りするわ。約束する」
「ほんとに?」
イスカは笑って頷いた。そうだ、この子を不安にさせてはいけない。
(向き合おう、ジンロと―――何があったのか、ちゃんと聞こう)
そう心に決めた時だった。
「蟠りはとれたかい?」
突然すぐ隣から老婆の声がして、イスカは飛び上がりそうなほど驚いた。いつの間にかリリスの反対側に腰掛けていたのは、数日前に町で出会った占い師だ。相変わらず陰鬱な空気を身に纏って幽鬼の如き姿をしていた。
言葉を失っているイスカの目の前で、老婆はにやりと笑う。相変わらず口元しか見えないが確かにこちらを見ていた。
「こんにちは、お嬢さん。そちらの小さなお嬢さんも」
老婆はイスカの肩越しにいるリリスにも微笑みかけた。しかしながら朗らかとはいいがたい微笑みに、リリスは小さな悲鳴を上げてイスカの背に隠れた。
「おや、怖がらせてしまったね」
「何の御用ですか……?」
「いや、なんてことはないよ。あの後仕事は上手くいったかと思ってね。まぁ、聞くまでもなさそうだけれど」
イスカに縋りつくリリスを見て、老婆は黄色い歯を見せて笑った。その不気味さにイスカも身を震わせる。途端、朗らかな午後の陽気が漂っていたはずの広場が冷たくなっていった。
「でもまだ憂いているのかい?難儀な子だ。まったく、お前さんの様な可愛らしい女の子にそんな顔をさせるなんて、そいつは随分罪な男だね」
老婆は深いため息をついた。まるでイスカの悩みを全てくみ取っているといわんばかりだ。
「あの、……どうして私の事、そこまで気にかけるんですか?」
「なにも不思議な事なんて無いさ。―――私は占い師、ただそれだけのこと。憂いた顔をした人間を見ると、その悩みを取り払ってやりたいと思うもんさ」
そう言って老婆はまた口元をにんまりと歪める。明るい陽の元にそぐわない暗く鬱屈とした空気を纏った占い師。人の悩みを解決したいと言われれば聞こえはいいが、どうにも彼女から発せられる負のオーラに薄ら寒さがぬぐえない。気づけば肌に触れる空気は凍えそうなほど冷えていた。後ろに縋るリリスも恐怖と寒さでカタカタと震えだす。
「リリスちゃん、先に家に戻ってなさい」
これ以上この子をこの場に留めたくない。イスカはリリスにそっと耳打ちする。だが、リリスは動かない。否、動くことができないでいた。その様子を見た老婆は、またしてもこちらの不安を煽るような笑みを浮かべる。
「安心しなさい。その子には何もしないよ。ただどうしてもお嬢さんと話をしたいという者がいるんだ」
「話……一体誰?」
「僕だよ」
その時間近で新たな声がした。今度は男の声だった。反射的に振り向いた時そこに立っていたのは、
「―――!?」
紫色のマントに白い石膏の仮面、まるで闇の中から這い出てきたかのような出で立ちの男がそこに立っていた。
―――お姉ちゃん!!
側にいたはずのリリスの叫び声が遠くに聞こえた。まるでイスカの周辺だけ厚い膜で覆われているみたいに。
思考の停止したイスカの目の前で、仮面の男はゆっくりとその顔の覆いを取り去った。
男の顔が露わになる。何の特徴もない、一度見ただけではすぐに忘れそうな希薄な印象の男だった。しかし、その目に宿る紫色の靄が怪しげに光り輝いた瞬間、イスカは頭を思い切り殴りつけられたかのような衝撃を受けた。
(……っ、な、に……?)
眩暈がする、視界がぶれて立っていられなくなる。崩れ落ちたイスカの身体を老婆が優しく支えた。
「さあ、楽しい楽しい宴の始まりだ」
老婆の声と共にイスカの視界が闇に染まる。ゆっくりと近づいて来る男の背後に彼と同じマントと仮面を付けた者たちが集まっていた。
男はもはや朦朧として何も考えられなくなったイスカの傍により、老婆と同じく妖しげに笑った。
「初めまして、会えて嬉しいよ。―――万物の奏者」




