第二話 家庭教師③
翌日、イスカは町外れの小さな教会に向かった。見晴らしのいい小高い丘の上に建つ教会には祈りをささげにやってくる市民たちが毎日訪れる。旅行者であるイスカも彼らに交じって建物の奥にある聖画に祈りを捧げるとキャンドルに一つ火をともした。ステンドグラスから差し込む僅かな陽光に照らされた薄暗い教会で、イスカの灯した光は儚げに揺れた。次にイスカは座椅子の前に膝をたて静かに祈った。
(神様、どうか私たちの旅が平穏に終えられるよう見守って下さい)
メルカリアの町を出て、次なる町を訪れたらやっておこうと思っていた事。その町の教会で神に祈りを捧げ旅の無事を祈る事。元々迷信深い性質ではなかったので、メルカリアに居た頃だって律義に教会に足を運んでいたわけではない。けれどもこうして町の外に出てみて思う事は、己の心のよりどころとなる信仰はいつなん時も心強いという事だ。
周囲にはイスカと同じように聖画に祈りを捧げる者たちがいる。信仰の厚そうな老人夫婦に、ただぼうっと聖画に見惚れている若者。赤ん坊を抱えて我が子の健やかな成長を願う母親。皆、それぞれの願いを掲げ神に祈りを捧げている。厚い信仰心と厳かな空気に包まれた教会の中で、イスカはまたしてもそれを目にした。
「……!?」
イスカの視界の片隅に映ったのは、紫色のマントに遠くからでも認識できる真っ白な石膏の仮面だった。
イスカは戦慄した。だが一瞬視界にちらついたその影は幻影であったかのように掻き消えどこにもいなくなる。
(見間違い……?そうよ、だっていくらなんでも祭りの格好のまま教会に入り込んでくるはずがない)
イスカは自分にそう言い聞かせようとしたものの、無意識のうちに身体は震え唇をぎゅっと噛みしめていた。
すると様子がおかしかったのを見咎めた神父が、心配そうにイスカの顔を覗き込んだ。
「大丈夫ですか?お嬢さん」
神父の声でようやく呪縛から解き放たれたイスカは、浅く息を吐きつつ立ち上がった。そうだ、今日はここで祈りを捧げる他にもう一つ大事な用事があるのだった。幸運にも神父の方から声をかけてくれたので、イスカも姿勢を正し用件を伝えた。
「もう大丈夫です、神父様。ですが一つお願いがあるのです、聞いていただけますか?」
「お願いですか?はて、なんでしょうか」
イスカは自分が旅の者で、少し入用の物があるのだと告げると、神父も慈悲深い笑みを浮かべた。
「それならば裏手の修道院に行かれるとよい。修道士たちが快くあなたの力になってくれるでしょう」
神父は修道院までの道のりを簡単に説明すると、最後にイスカに向かって十字を切った。
―――神の御導きがありますように
しめやかな祈りの言葉に押されてイスカは教会を後にした。もうそこには仮面の集団の形跡など影も形も見当たらない。ただ厳かな信者たちの祈りの声が響いていた。
修道院で必要なものを分けてもらった後、イスカは祭りで賑わう町を歩いていた。
「蜜蝋に香油、それから染料……、教会の裏手で花は摘んだし後は……」
手元にある材料を確かめながら残り必要な物品を見繕っていく。大通りは現在祭りの屋台で狭まっているが、中には通常どおり店舗営業をしている店もあってイスカは適当な店で買い物を済ませて行く。
用事が済んだら後は宿に戻るだけだ。手に抱えた荷物を見下ろしつつ、イスカは不安げにため息をついた。
(リリスちゃん……喜んでくれるかな?)
昨日教え子となった少女に少しでも心を開いて欲しい。その一心でこうして手は打ってみたが正直自信がない。
「―――何か悩み事かね、可愛いお嬢さん」
顔を伏したまま歩いていると、ふとかすれた声がイスカの耳に届いた。雑踏の中ではっきりと聞こえたその声の元を辿ると、屋台と屋台の間、やや暗がりになったスペースで一人の老婆がこちらに向かって手招きをしていた。
「おいでお嬢さん。少し占ってあげよう」
いかにも怪しげな老婆は黒いフードを目深に被っており、太陽が燦々と照り付けているというのに顔がよく見えなかった。突然呼び止められ躊躇するイスカだったが、
「なに、お金は取りはせん。こんな祭りの賑わいの中で暗い顔をしているものだから少し気になっただけさ、さあおいで」
今日はやけに顔色を気にされる。そんなに憂いた顔をしているのだろうかと落ち込みつつ、老婆の流れる様な指先の動きに不思議と身体が吸い寄せられた。黒い布の被せられた台座の前に立つと、イスカと老婆の周りだけ祭りの喧騒が離れて行くような心地がした。
「お婆さんは占い師なの?」
「ああ、そうさ。祭りの時期は色んな輩が集まるからね、こういう仕事は尽きないものさ」
台座の上に並べられた小さな駒をコロコロと玩びながら老婆は答える。小枝のように細く皺だらけの指が滑らかに動く様は少しだけ不気味だった。
「それで、お嬢さんは何を悩んでるんだい?」
「……大したことじゃないわ。新しく始めた仕事がうまくいくかどうか不安なだけ」
だから別に占ってもらう程の事ではないと素っ気なく答える。そのまま歩き去ろうとすると、
「待ちなさい」
老婆が声を発した。たったその一言に、イスカは動けなくなる。なぜだろう、それほど強い口調では無かったはずなのに、本能的に従ってしまった。
「お嬢さんに一つアドバイスをあげるよ」
「アドバイス……?」
「どうするかは自分で決める事。誰かの意見を頼ってはいけないよ」
老婆がくれたアドバイスは正直何にでも当てはまりそうな曖昧なものだった。イスカはとりあえず頷いておくと宿に向かって歩き出す。しばらくして少し振り返ると、相変わらず老婆は賑やかな大通りの一角で、一人だけ暗い闇を湛えて座っていた。
◆
宿に戻ると早速リリスの部屋へと向かった。町で調達してきたものを彼女の前に広げると、リリスは怪訝な顔をした。
「……何これ?」
「今日はリリスちゃんと工作してみようと思って」
イスカはにこにこと笑いながら紙袋の中から材料を取り出した。
「工作……、嫌よそんなの面倒くさい」
「そんな事ないわよ、きっとリリスちゃんも気にいると思うわ」
最初は鬱陶しそうにそっぽを向いていたリリスだったが、イスカが取り出したものの中で一つ気になる物があったのか、やや目を光らせてこちらを向いた。
「……それ蝋?」
「うん、修道院から分けてもらったの。これでアロマキャンドルを作ってみようと思って」
その瞬間リリスの興味が明らかにこちらに移った。やった、とイスカは内心で喜ぶ。
「リリスちゃん、キャンドル好き?」
「別に好きってわけじゃ……、あれは前に教会から貰った奴が勿体ないから取ってあるだけで……」
そう言ってリリスが目を向けているのは、本棚の下に積み上げられたキャンドルの山だ。イスカが先ほど教会で使ったものと同じ物で、使いかけのものから新品の物まで沢山ある。
昨日、この部屋でこれを見つけた時イスカはピンときた。キャンドルのコレクションに加え、本棚には香りに関する専門書などが並んでいたからだ。
「アロマキャンドルって、作れるの……?」
先ほどまでの剣がすっかりとれ、リリスがおずおずと訊いてきた。
「作れるわよ。この蝋と香油、それから好みで染料を混ぜて色付けして、好きな器に入れれば完成」
町の雑貨屋で買ってきた小さなガラスのカップや陶器の小瓶も見せると、リリスはますます目を輝かせた。
「蝋を溶かす必要があるからお母さんにキッチンと器具を借りようか。一緒に来る?」
「……うん」
リリスは手に抱えていた人形をベッドに放り出すと、イスカの後ろを付いてきた。
それから午後の時間一杯を使って、誰もいない食堂で二人でアロマキャンドル作りを開始した。最初は気恥ずかしそうにしていたリリスも蝋を溶かし好きな香油を混ぜ始めると、わあっと嬉しそうな声で笑っていた。蝋の塊を何種類かに分け、香りや色の違う蝋を作る。それらを好きな方に流し込み、教会で摘んだ花びらなども混ぜ込めば美しいキャンドルが完成した。
「綺麗……」
早速自身御手製のキャンドルに火を点けて、リリスはうっとりと言った。薔薇の香油にピンクの染料を混ぜ込んで作ったキャンドルは、仄かな明かりを灯すと上品な香りを漂わせた。
「ね?出来たでしょ?」
イスカも自分で作ったアロマキャンドルに火を灯し、そっとその光を眺めた。イスカのは綺麗な青いガラス瓶にカモミールの花を散らした物だ。
「うん、初めて作ったけど……教会で貰うものよりずっといい」
「それはよかったわ」
キャンドルの明りから目をそらすことなくリリスは呟いた。その顔は満足げで、ようやく年相応の可愛らしい笑顔が見れた気がした。
カーテンを閉めた薄暗い食堂で、しばらくお互い自分のキャンドルを眺めていると、ふとリリスがこちらを向いた。
「あなたは他にも色んなものが作れるの?」
「色んなもの……、そうね、なんでも作れるわけじゃないけど。お料理とか裁縫とかで簡単なものなら出来ると思うわ」
イスカは特別器用でもないが、一人で生きていく上で必要最低限の嗜みは祖母に教わった。一人暮らしをしていた時でも特に支障はないくらいにはなんでも作れる。
リリスは「お料理、裁縫……」とどこか羨ましそうに呟いている。イスカはその様子に微笑みを浮かべた。
「じゃあ明日はお菓子作りでもしてみようか?リリスちゃんの好きなもの、作ってみよう」
「本当に?」
イスカが頷くとリリスも少し照れくさそうに頷いた。




