エピローグ 兎と猿
そこはカーテンの閉め切られた照明器具もない暗がりの部屋。時刻は正午、陽は高いのはずなのに、この部屋だけは外の爽やかな陽気からすっかり遮断され、夜をそのまま閉じ込めたように陰鬱だった。
暗がりでよく見えないが、部屋の床や壁はあらゆるもので埋め尽くされており、物の位置を把握しなければ、一歩足を踏み入れるだけで転倒は必至だ。部屋の空間の大半を占めているのは書物、それからフラスコやランプなどの実験器具。いずれも乱雑としていて整理整頓には程遠い。
そんな混沌とした部屋の主は中央に位置する台座の前にいた。室内にもかかわらずフード付きのマントを目深にかぶってすっかり闇に溶け込んでいる。背はそれほど高くない小柄な青年だが、その顔は室内の暗さとフードのせいでほとんど認識できない。
ただ一つ、彼の顔を照らしているのは目の前の台座にある妖しげに輝く水晶だった。青年の頭部ほどある水晶玉は青紫色に輝き、内部には同色の靄が渦巻いている。同時に雷に似た電流が時折ぱちぱちと音を立てていた。
青年がその水晶玉に手をかざすと内部の靄と電流が一瞬で霧散した。水晶本来の透き通った青色になるが発光は未だに衰えず、徐々に強さを増していく。そして、―――
『お?繋がったか……?あー、あー。……?ん、これ聞こえてるのか?』
光度が最高点に達し、水晶が白みがかった時そこになんとも間抜けな男の顔が映り、同時にこれまた気の抜けた声が返ってきた。
「聞こえている。通信術を使うのは初めてじゃないだろう、いい加減慣れろ鬱陶しい」
フードを被った青年が心底うんざりとばかりに水晶に映った男に言った。するときょろきょろと焦点の合わなかった男がこちらを見つけたという様に向き直り、屈託のない笑みを水晶に映す。
『おお!兎か、久しぶりだな』
「久しぶりでもないだろう?つい二十日前に連絡を寄越したばかりだ」
『ああ、そうだったか。それにしても、お前の顔がよく見えんぞ。そんな陰気なマントなんざ被って、またカーテン閉め切って引きこもってるんじゃないだろうな?』
水晶の向こうの相手にはこちらの部屋の様子などわかるはずもないのだが、図星を言い当てられて青年は、顔をしかめる。
「お前には関係ない大きなお世話だ」
『そんな事言うなよ。ちゃんと食べてるか?お前はしょっちゅう「食事」を怠るからな、いくら潔癖症だからといって怠ると―――』
「今は僕のことなんかどうでもいい!この能天気猿、いいからさっさと用件を言え!」
『なんだよ、相変わらず短気な奴だ。いいじゃねぇか世間話の一つや二つ』
悪びれもなく男はぽりぽりと頭を掻いた。だがすぐにその顔つきが変わる。飄々とした顔から刃の様な鋭い顔つきに。
『栗鼠に連絡を取ってくれ』
「栗鼠……?【ラタトスク】か?」
『ああ、あいつがどこにいるかわかるか?』
男が尋ねると青年も静かに頷いた。
「あいつなら幾つかの地方を放浪している。僕なら見つけるのはたやすいが」
『なら呼びもどしてくれ。至急王都に来てくれとな』
「随分急だな、一体何があった?―――まさか、術師がらみか?」
青年の顔つきも険しいものに変わった。それに対し、水晶の中の男は「違う、違う」と手を振る。
『全く無関係ってわけじゃないが。この間面白い駒を手に入れてな、今は使い物にならないんだが、使い物になる様にあいつの力を借りたい』
「駒……?協力者か?」
『ああ、……聞いて驚け。万物の奏者の幼馴染だ』
「万物の奏者の幼馴染……?」
『そうだ。興味深いだろう?しかもそいつ鳥とも接点があったらしい、それで―――』
一方的に話し続ける男に対して、青年は実に冷静だ。冷静と言うより冷めている。
「くだらない。そんな奴を相手にしている暇があったら、連中の尻尾の一つや二つ掴んできて欲しいものだがな」
『だからそのための駒だっつってんだろ?で、引き受けてくれるのか?』
「……手配しておく」
渋々、といった様子で青年は頷いた。
『それともう一つ、その万物の奏者の足取りは把握できているか?』
「ああ、今はジンロと一緒に港町方面へ南下している。随分速度が遅いな、おそらく徒歩だ」
『そうか、引き続き彼らの動向も探っておいてくれ。他の獣王と接触がないかもな』
「了解した―――!?」
その時部屋の一角でぼうっと光が灯った。それは書机の上から発せられている。
青年はすぐに水晶の台から離れ、大股でそちらに向かう。暗がり光を放っていたのは、書机の上に置かれていた大きなボードだ。
一見するとチェスのゲームボードの様な形状だが、チェスに比べて盤上が細かく歪に組み立てられている。本来置かれるはずの駒もなく、代わりにボード上にふわふわと様々な色の光の球が浮いていて、縦横無尽に盤上を移動していた。その光の一つが一際強い光を放っている。橙のまばゆい光、それが近くにあった小さな白く儚げな光を捕らえんとしていた。
青年はそのボードを一瞥し、途端に驚愕した顔になる。マントの奥から覗く、赤い瞳が烈火の如く燃え上がった。
『おい、どうした?』
台座の方から男の声が聞こえてきた。青年はそちらに戻ると、今ボードが伝えてくれた情報を包み隠さずその男に伝えた。
「どうやら早速厄介な事になりそうだぞ」
『厄介な事?一体何が―――』
青年はごくりと唾を飲み込んだ。マントの奥の顔は少しばかり冷静を欠き動揺している。
「―――虎だ」
『虎……、って、まさか!?』
「ああ、虎の王が近づいている―――万物の奏者のすぐ傍に」
第二章 完。
第三章は現在執筆中です。しばらくかかるかもです。
ここまで読んで下さった方々に感謝を。




