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第七話 空へ還る⑤

 ◆

 半刻程空を飛んで、ジンロは切り立った崖の上に着陸した。少し夢見心地になっていたイスカがおぼつかなく背から降りると、ジンロの身体が光りだし、やがて元の人間の姿に戻る。


「―――!ジンロ!?」


 戻った途端ふらついて膝をつくジンロを慌てて支えた。暗闇でもわかるくらい、その顔は蒼白になっている。


「……大丈夫、だ。久々に変化(へんげ)したから、さすがに……疲れた」


 ジンロは頭をぐったりとイスカの肩に預けてくる。苦しそうにしているので優しく頭を撫でてやると、ジンロは気持ちよさそうに喉を鳴らした。


「……怖い思いさせて、悪かったな」

「別に怖い事なんて無かったわ」


 強がりを言ってみたか、当然の様にジンロには見透かされていた。腕の中からくつくつと笑う声がする。面白がっているのを見て、イスカは思わず反論する。


「本当よ!怖い事なんて何も―――」

「ふーん、じゃあ俺がした事も無罪放免でいいのか?」


 するとジンロは含みのある言い方をして、イスカにそっと手を伸ばしてきた。その指がイスカの唇をなぞる。その途端、イスカはジンロが鳥に変化する前に彼にされた事を思い出して、かあっと頬が熱くなる。焦りのあまり、イスカはもたれかかっていたジンロの身体を思いっきり突き飛ばした。


「いっ……!?」

「そ、それとこれとは話が別でしょ!!?大体何だったのよあれ!!」

「いや……、不可抗力というか、何というか……。悪かったって」


 未だイスカの気持ちは収まらなかったが、脱力したまま地面に突っ伏すジンロを見てとりあえず怒りだけは抑えておく事にした。


「……あとできっちり説明してもらうから」

「……やった俺が言うのも何だけど、それ自分の首絞めてないか?」

「うるさい」


 ジンロの頭をぺしりと叩くと、彼のすぐ傍に腰を下ろし膝を抱えた。

 少し離れた所にはジンロが運んできたビルの亡骸がある。起きだしたらどうしようかと思ったが、生気というか気配というか、そう言ったものを全く感じられない。本当にただの物言わぬ死体だった。


「あの人そのままにしていいの?」

「いや、ちゃんと葬る。リマンジャを待たないとな」


 それまで少し待機、とジンロは息を吐いた。もう動かないとはいえ、それでもやはり不気味なものがある。あのまま放置しておくのはなんだか落ち着かない。ちらちらとビルの方を見ていると、イスカは無意識にぽつりと呟いていた。


「ビルはリナーシャにもう一度会えたかな」

「は……?」

「あの世で、ちゃんと会えたかなって」


 ジンロは不思議そうにこちらを見上げている。彼は知らない、ビルを捕らえたあの瞬間、ビルの記憶と思念が流れ込んできた事を。そこで見た、光景を。


「ねぇジンロ」


 イスカは少し躊躇った後、ジンロに問いかけた。


「リナーシャってどんな人だったの?」


 ジンロの表情が固まった。


「……俺たちがただの動物だった頃から仲良くしていた人間だった。毎日森にやってきて俺たちと同じ時間を過ごした。俺や他の獣王、そしてビルもそこに居た。……不思議な人だった。誰にでも分け隔てなく接して、いつも笑っていた」


 深い森の中でビルを待っていた女性。彼らはあの場所で憩いの時を過ごしていたのだろうか。あそこにこの鳥の姿もあったのだろうか。


「リナーシャはあなたたちにとって大切な人だった?」

「……ああ」


 少し間があってジンロは答えた。彼は上体を起こし崖の向こうの暗闇を見つめ続ける。


「リナーシャはたくさんの動物に慕われていて、いつも森に行っては動物と話していた。……あの場所で俺たちは多くの想い出を持った。動物と人間の垣根を越えた、俺たちは親友だった」


 ――親友。その響きに何故かイスカは胸が苦しくなった。ジンロたちはリナーシャと一体どんな時間を過ごしたのだろうか。イスカの知らないジンロの記憶。知りたいようで、知るのが怖い。


「……別の話をしようか」


 難しい顔をしているイスカを気遣うようにジンロは明るい声で言った。


「別の話……?」

「そ、例えば―――ばあさんと俺の話」

「それは少し聞いてみたいかも」


 リナーシャの話を聞くより少しは気が晴れそうだ。ジンロもほっとしたように笑う。


「俺がリンデと契約してお前の傍にいた事はもう知ってるな?」

「うん、最初ジンロは私を食べようとして近づいたんだよね。それをおばあちゃんに阻止されて、それから十五年間猶予を付けるって約束した」


 思えば思うほどめちゃくちゃな契約だ。これを執行しあまつさえ成功させてしまった祖母はやはり只者ではない。ジンロはその事に自覚があるのか苦笑いで返した。


「……怒らないのか?」

「どうして?」

「だって、リンデと俺はお前を出汁に賭けしてたんだぞ」

「そう言われると凄く理不尽だなとは思うけど……」


 でも不思議とイスカの中に怒りはない。だってジンロは約束通りイスカの事を見守ってくれたのだ。結果論と言えばそれまでだが、その事に不満も無い。


「それにジンロはおばあちゃんが亡くなってからもずっと変わらず傍にいてくれたでしょ?だから、……もういいわ」

「そうか……ありがとう」


 ジンロは肩の荷が降りたみたいにほっとした。そこでようやく気付く。


(……ああ、そうか)


 この人はずっとこの事を気負っていたんだ。イスカの傍にいる時、時折どこか憂いたような顔をしていた気がしたから。切迫したように守ると口にしていたから。

 本当のことを知ってイスカが怒ったらどうしようか、なんてこと考えていたんだろうか。そう思うと、イスカも少し気が楽になった。やっぱりこの人は優しい人だ。


 けれど、どうしても一つだけ腑に落ちない事がある。


「それならどうして今になって人間の姿になって現れたの?本当はいつだって戻れたんでしょ?」


 少なくともイスカの記憶の中にはジンロが人間の姿で現れた事はない。もしかするとビルの襲来を察知して、イスカを守るために現れたのだろうか。それが一番ありえそうな理由だが、ジンロの答えは意外なものだった。


「リンデが生きてた時は、『イスカの前では常に鳥の姿でいる事』って制約があったからな。その方がお前にも接しやすかったし……」

「じゃあ、おばあちゃんが死んでからは?」

「……条件を一つ、……いや二つ課された」


 ジンロはうんざりした顔をする。その条件とやらがそんなに億劫だったのだろうか?イスカが首を傾げていると、ジンロは観念したように答える。


「リンデが死ぬ直前に言ったんだよ。今後お前に人間の姿を晒すのは、次の二つの場合に限る、と。一つは『イスカの身が危機にさらされた時』、そしてもう一つが―――『イスカが俺に人間であってほしいと望んだ時』」

「……へ?」

「最初の一つは……まぁありえるとは思ったんだが、……まさか二つ目で制約が解除されるとは思わなかった」


 ジンロはやれやれとため息をついているが、イスカの方は平常心ではいられない。見る見るうちに顔が真っ赤になっていくのが自分でもわかる。


「……そ、それってつまり、私があの時……!」


 それはまだ記憶に新しい、ローレンスが遠征から帰還した日、傷心のイスカがジンロに言った事―――。


「なんだ、忘れたのか?お前言ったじゃねぇか。俺が人間だったらよかったのに、って―――」

「うあああ!!」


 イスカは思わず奇声をあげて、ジンロの口を塞いだ。何という事だ。あの一言がきっかけとなってジンロは人の姿でイスカの前に現れたのか。


(あんな……!子供みたいな願い事本気で叶えるなんて……!!)


 それはとんでもなく恥ずかしい、死にたくなるほどに。


(というより、よく考えたらあれ以外にも弱ってる所この人にいっぱい見せてるじゃない!)


 今更になって、この男がずっと一緒にいてくれた小鳥だという事を実感し始めた。それは、幼い頃からずっと、弱音を吐いたり浮かれたり、それこそ人に言うのも憚れるような恥ずかしい独り言も散々『この人』に言ってきたという事で。

 更に言うなら『この人』と四六時中一緒にいて、寝食を共にしていたという事で―――。


「忘れて!早く忘れて!!全部忘れて!!!」

「まっ……、待て落ち着け!叩くな!」


 羞恥に我を忘れたイスカはここがどこだか、どういう状況かも忘れジンロに躍りかかる。馬乗りになってひたすらにジンロに殴りかかり、ジンロはもがきながら必死でそれを抑え込もうとしている。と、―――


「お前たち……、いちゃつくのは構わんが、もう少し時と場所を選んでもらえんか?」


 やけに冷静かつ笑いを押し殺したような声が近くから聴こえてイスカは手を止めた。顔をあげると半分呆れ顔、半分にやけ顔でこちらを覗きこむリマンジャの姿があった。

 イスカははっとして、現在のイスカとジンロの体勢を自覚すると悲鳴をあげてジンロの上から飛び降りて距離を取った。


「まったく……、随分仲がいいんだなぁ。なあ、ジンロ?」

「……、来るのが遅い」

「あのな……、俺はお前みたいにひとっ飛びってわけにはいかないんだ。これでも全速力で来たんだから大目に見てくれ」


 そう言うと、リマンジャはイスカたちの元を離れ、少し離れたビルの亡骸の元へと歩を進める。冷たい無機質な瞳で、その物言わぬ死体を見下ろした。


「……死んでいるな」

「ああ」

「あの時と同じだ。……今度こそ、安らかに眠れるといいがな」

「さあ、それはどうかな」


 ジンロとリマンジャはビルの亡骸を見据えたまま、鬱々とした顔をしていた。それは敵を卑下するというよりも、同族を憐れむようなそんな雰囲気だ。


「……さて、さっさと片付けよう。ジンロ、そいつ持ってくれるか?」


 リマンジャが指示を出すと、彼自身は切り立った崖の先端へと躊躇なく歩き出した。その後を、ビルを抱えたジンロと何が何だか分からないイスカが続く。

 二人の背の後ろから、そっと崖の底を覗きこんだ。そこは峡谷だった。底は深く、月明かりしかない今の時間帯では尚更何も見えやしない。どこまでも続きそうで、吸い込まれそうだった。

 その崖の先端で、リマンジャが右手をかざす。空に伸ばされた指先が暗闇で煌々と光りだし、その先端から一筋の光が照射され、谷の底へと真っ直ぐに伸びていく。

 不思議な光景だ。徐々に幅を広げる閃光は、やがて目も眩まんばかりに底を照らした。峡谷の最下層にあるものが露わになる。それは、


「―――!これ……、町……?」


 峡谷の溝のひどく狭い亀裂から覗くのは、決して狭くない都市の情景。まるで地底都市だ。突如現れた謎の巨大都市にイスカは言葉が出ない。


「この裂け目から見えるものこそが、かつてこの世界を統べた偉大なる国、セシリア王国だ」


 セシリア王国、文献で読んだ。シルキニスが本来つかえていた王国、そして蜥蜴の王に全てを奪われた廃墟の王国。


「見えるだろう?鱗に覆われ枯れ果てた憐れな国の末路が」


 イスカはもう一度目を凝らした。確かに、亀裂から見える王国は青黒い靄で覆われていた。いや、これは靄ではない、―――鱗だ。全てが鱗に覆われ息絶えているのだ。その事実を知るだけで、この奈落の底にあるものが恐ろしく感じられる。


「八百年前、ここにはかつてこの王国があった。だが、蜥蜴の王が国を乗っ取り、全ての動植物が死に絶えた折、俺たちは蜥蜴の王を殺し、―――この裂け目に国を丸ごと封印した」


 国を丸ごと封印する、という何とも非現実的な表現。だが、イスカは納得せざるを得なかった。確かにこの谷底に国がある。もう誰も触れる事の出来ない遥か地底ある、忘れられた亡国が、この目に映っている。


「ジンロ」


 リマンジャがジンロを呼ぶ。ジンロはゆっくりと谷底の方に歩を進め、そして、セシリアの都が見える裂け目に向かって、ビルの亡骸を投げ込んだ。

 ビルは吸い込まれるように裂け目へと落ちていき、やがて見えなくなる。リマンジャが何かを唱え十字を切った。


「蜥蜴の王は己の国に還った。もう出てくる事もあるまい」

「……だといいがな。埋葬するのはこれが二度目だ」

「不吉な事を言うな、ジンロ。大丈夫さ、さすがに……」


 二人が複雑な顔で裂け目を覗きこむ。こうして、蜥蜴の王の埋葬は恙無く(つつがなく)終了したのだった。


 ◆

 真っ暗だった空はやがて藍色に変化し、夜明けの兆候を示していた。


「これからどうするんだ?ジンロ」


 埋葬が終わって一段落ついたところで、リマンジャがジンロに話しかける。


「一度町に戻る。相当な騒ぎになっていそうだからな」

「そうか……、だが忠告は忘れるなよ」


 リマンジャが釘を指すと、ジンロも神妙な顔つきで頷いた。


「近頃王都がきな臭い。術師共が何か動いているようだ」

「術師が?」

「ああ。おそらく蜥蜴の王が復活した原因もその辺にあるはずだ。行くなら重々注意しろ、そうでなくてもそのお嬢さんを巻き込むのは危険だからな」


 そう言ってリマンジャはイスカを見た。掴みどころのない異国風の男は、ゆっくりとこちらに歩を進め、イスカに向かって頭を垂れる。


「そう言えばきちんと挨拶をしていなかったな。……初めまして、万物の奏者レーディンレル。私ははるか東方の地ガラドリムより参りましたリマンジャ=アハル=サームと申します」


 リマンジャはさらりと、イスカの事をレーディンレルと呼んだ。ビルにそう言われたの同じように。


「イスカ=トンプソンです。……あなたは―――」


 イスカが告げる前に、リマンジャは面を上げ妖艶な笑みを浮かべた。その微笑みに目を奪われている隙に、リマンジャはイスカの右手を掬いとり、流れるような動作でその甲にキスを落とす。


「!?」

「今は何も告げずに去りましょう。またいずれ、お目通りかなう日を楽しみにしています。―――イスカ」


 そしてリマンジャは踵を返すとさっそうと去っていった。未だ茫然としているイスカの顔をジンロが覗きこむ。


「あいつは、ああいう奴だから気にするな」

「うん……、ジンロ、あの人ってやっぱり―――」

「ああ、そうだよ」


 素っ気ない返事を返してジンロもまた帰り支度を始める。イスカはじっとリマンジャが消えた方角を凝視した。兵舎の時と同じ、離れがたいどこか懐かしい感覚。


(ジンロと同じ、でも少し違うような)


 だが、いつまでもぼうっとしても居られなかった。再びジンロがあの怪鳥の姿になると、もう一度背に乗るよう促される。

 イスカが首に手を回すと、ジンロはその翼を広げ崖の上から飛び立った。上空から崖の下の峡谷が見える。そこは相変わらず吸い込まれそうな闇で、もうあの国の景色はどこにも見えなかった。


 先ほどより少し白んだ空をジンロの背に乗って飛ぶ。暗闇の時には見えなかった森や草原に通る小道、川などがうっすらと見え、イスカは少しだけ息を呑んだ。


《どうかしたか?》

「ううん……、本当にここ外なんだなって……ようやく実感湧いてきちゃって」


 なんだかそわそわする。心がざわめく。

 居心地が悪いわけではないのに、身体がふわふわとして落ち着かない。


 その時イスカの足元に一筋の光が差した。白みがかった橙の強烈な光、それが徐々に広がりイスカの身体を包み、温かさをもたらしてゆく。

 イスカははっとして、その光の先を凝視した。そして、見えた。


 はるか地平線から立ち上る、朝日だ。


 その力強くも美しい光が、イスカの目に飛び込んでくる。朝日を遮るものは何も無く、ただまっすぐにイスカの元に届いている。

 イスカもまたその朝日と真っ直ぐに向き合い、そして涙をこぼした。


《おい、お前何泣いて―――》

「……初めて見た」


 ジンロの言葉を遮り、イスカはただポロポロと涙を落して呟いた。


「あそこから昇る朝日を、初めて見た」


 城壁に阻まれた世界では決して見る事の出来なかった光景だ。


 ―――決して外に出てはいけないよ


 こんな時に浮かぶのは祖母の言葉だった。イスカは悲しいような嬉しいような、自分でもどうしようもない感情をもてあまして、ただとめどなく涙を溢れさせている。

 今日この日、イスカはようやく自分を閉じ込めていた鳥籠の鍵を開く事が出来たのだと、そう思った。

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