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第七話 空へ還る④

 強い気流にイスカは息をする事も出来ずぎゅっと唇をかんだ。振り落とされないように更に強くジンロの首にしがみつく。

 風が轟々と音を立てる。

 最初の内は息も出来ずに必死に堪えていたが、徐々に飛行が安定してくるとイスカは周囲を見渡せるくらいの余裕ができた。

 イスカは空を飛んでいた、漆黒の空を悠々と。足元をみる、暗闇でも輝きを失わない金の鳥の背にイスカは乗っている。


(夢みたい、空を飛んでいるなんて)


 町は積み木で人は人形みたいだ。作り物の様な、でもイスカがずっと住んでいた場所。イスカにとって大切な町だ。そのメルカリアが今、荒らされている。地を這い周囲を飲み込む巨大な怪物によって。


「―――ジンロ!」

《わかってる。―――落ちるなよ》


 ジンロは急降下すると、真っ直ぐに怪物に突進した。周囲に風が集まる、その風力は鋭さを増し小規模ながら勢力の強い竜巻が巻き起こる。

 怪物がこちら気づいた。ぎょろりと怪物の目がこちらを捕らえるが、ジンロは怪物の爪がこちらを薙ぐよりも早くその煌々とした赤い瞳を嘴で抉りとった。

 割れんばかりの絶叫にイスカは耳を塞ぎたかったが、あいにくと手は塞がっている。ジンロはすぐさま飛び上がり怪物から距離を取った。ジンロと入れ替わりで怪物を襲ったのは先刻発生した竜巻だ。固い鱗で覆われた怪物を全方位から容赦なく切りつける。暗がりで真っ黒な鮮血と飛び散った鱗が周囲を汚していくのがはっきりと見えた。

 背後に見える怪物は目を押さえ、身体を切り刻まれてのたうちまわる。近隣の建物や木々が衝撃で被害を受けているのを見てイスカは胸が締め付けられるような気持ちになったが、それ以上に憐れを感じた。

 竜巻で身体を削られた怪物は一回りほど小さくなっていた。それでもその脅威は衰えていない。潰れた片目を庇って、もう片方の目で必死にイスカたちを追っている。黒い影の様なものが宙を飛びまわっては、ジンロを捕縛しようと動くが、素早さは圧倒的にジンロの方が上だった。 ドロドロに溶けかかった身体とその瞳は、憤怒で赤く燃えているようだ。捕らえられない敵を前に子供の様に怒っている。純粋に怒っているのだ。


(どうして、そこまでして……)


 あの怪物は何を求めていたのだろう。沢山の人を食べて、イスカを手に入れようとして、最後に彼は何を得ようとしていたのだろう?

 湧きあがるのは慈悲の念、これまでの所業を許す気は到底なれないが、それでもこの怪物が抱えるものが何か、イスカは気になってしょうがない。


《……情を移すな。あれはもう人でも獣でもない。もう救われない》


 イスカの心を読んだかのように、ジンロがぴしゃりと言った。イスカは首を振り邪念を払う。


「わかってるわ」


 そうだ、これ以上の被害拡大を防ぐためにも、今はそんな事を考えている場合ではない。


《イスカ、あいつの本体がどこにあるかわかるか?》

「本体?」

《あの身体はほとんどが周囲から取り込んだものだ。奴の本来の身体がどこかにある。お前にわかるか?》


 イスカは宙を旋回するジンロの背から目を凝らす。奇怪な怪物はすでに何の姿も成していない。イスカは特別目がいい方でも、勘がいい方でもなかったが、


「―――頭。てっぺんの、瘤みたいなところ」


 何故か確信があった。怪物の核がそこにある。イスカははっきりと断言した。


 ジンロは敵の攻撃をかわしつつ高く飛翔すると、もう一度大きな竜巻を作った。今度は竜巻が先攻する。怪物はその竜巻を黒い鱗の影と自身の鋭い爪で切り裂いた。

 竜巻はあっけなく霧散した。行き場を失った空気の塊が、周囲にはじけ飛んで一帯のものを乱雑に吹き飛ばした。

 だがその開けた空間の真上から、竜巻よりもずっと速く鋭い雷が迫る。轟々と風を切り、怪物の頭上に急降下する。

 ジンロの鋭い鍵爪が怪物の頭上目がけてまっさかさまに突き落ちていく。


 怪物が急速に近づいて来る。背に乗ったイスカはその光景をやけに穏やかな気持ちで見ている。驚くほどの速さなのに、それはやけに緩慢に感じられた。

 イスカはジンロの背からそっと手を伸ばした。近づいて来る怪物目がけて、そして、


「―――ビル」


 名前を呼んだ。その瞬間、怪物の頭上の瘤がボロボロと崩れ、その中から一人の男が顔を現し、イスカと確かに目を合わせた。


 ひどく満ち足りた、泣いている様な笑い顔―――


 ジンロがその男を鍵爪で抉りとった瞬間、イスカの視界が真っ白に染まる。身体が強く後ろに引っ張られた。

 落ちる、そう思った時にはすでにイスカは意識を手放していた。


 ◆

 緑の匂いがする、どうやら森の中の様だ。

 それから水の匂いも。どこかに水源があるのかもしれない。

 辺り一面緑で覆われていて、私はどこにいるのかわからない。辺りを見まわそうとするが、不思議な事に視界が低くて見えづらい。


 ―――ここは、どこ?


 慣れない四本足で必死に茂みを掻き分ける。私はひどく焦っていた。

 けれどそれはここがどこだかわからないからではない、別の理由だ。その焦りは不安ではなく心地よくさえある。何かを待ち焦がれる、早く早くとせっつかされるみたいだ。


 ―――私は何をそんなに急いでいるのだろう?何を楽しみにしているの?


 どれくらい歩き続けたのだろうか、やがて視界が開け静かな森の中にあるその場所に辿りついたのだ。

 木々の茂る森の中でそこは太陽の光の差し込む、ぽっかりと開けた空間。物語ならばここで森の動物たちが集会を開いている光景が目に浮かびそうだが、そこにいたのは動物ではなく人間だった。

 切り株に腰を下ろして読書をしている若い女性。彼女はこちらに気づくと、ふわりとたおやかな笑みを浮かべた。


「あら、今日はあなたが一番乗りね」


 柔らかく透き通るような声、そのたった一言で私の心は舞い上がり身体が熱くなる。熱に浮かされて女性の元へと近づくと、彼女は愛おしげに私の身体を撫でる。その行為に気恥ずかしさを覚えると同時に、暗い想いが心の淵から沸き起こった。熱は途端に冷めてしまう。


 ―――私の身体は醜いでしょう?


 だから触らない方がいい、私が暗にそう言うと、女性は目を丸くしてそれからまた可笑しそうに言った。


「あなたはとっても強そうよ。傷のつかない頑丈な鱗。強くてかっこいいわ。醜いなんて思った事ない」


 私の意識は再び浮上した。至極単純だ、この女性にかっこいいなんて言われただけで、こんなに舞い上がってしまうなんて。


「あなたは私の大切な友達よ。これからも仲良くしてね」


 ―――ああ、勿論。私はあなたをこんなにも


 けれどその続きは言えなかった。また暗雲が立ち込める。私はどうしようもなくなって口を噤んだ。



 わかっている。たとえ彼女がそう言ってくれても、私と彼女は違うのだ。

 彼女は人間で、皆から好かれる存在。明るく気品があってその一挙一動が繊細で美しい。


 それなのに私ときたらどうか。鱗に覆われた固い身体、地を這って獲物を探し生きる事の何と不格好な事か。本当なら彼女の傍に寄る事もおこがましい。

 けれど彼女はこんな私にもわけ隔てなく接してくれる。他の動物たちと同じように嫌な顔一つせず私に触れてくる。


 私はいつしか、彼女を深く愛していた。

 彼女の傍に立ちたい。ふさわしい姿が欲しい。


 ―――人間に、なりたい。


「それなら人間を喰えばいい」


 誰かが私に答えをくれた。いつの間にか景色が変わっている。女性もいなくなって、代わりに一人の老婆がこちらを覗きこんでいた。

 黒い外套を被っていて顔が見えない。だが、ちらりと覗く皺皺の肌と黄色い歯が、私を震わせた。


「人間になりたいんだろう?簡単さ、人間を食べるんだ。頭を割って脳を啜り、骨をしゃぶって噛み砕く。血も肉も内臓も、ぜーんぶそのまま食べるんだよ。……そうすりゃあ、お前はもう人間さ。人間の身体で動き、人間の声で話す事が出来るんだよ」


 そう言って老婆は去っていく。私は言われた言葉の一つ一つを噛みしめた。

 人を食べる、そうすれば私も人間になれる。

 人間になれば彼女と言葉で話ができる。同じ目線の高さで立つことができる。森の外を一緒に歩く事が出来る。


 ―――そうだ、私は人間になりたい。リナーシャと同じ、人間に。


 そして私は初めて人を襲い喰った。人間の身体は脆く爪で切り裂いただけで簡単に壊れた。最初にそいつの頭に齧りついた時、私の中で何かが壊れた。私はただひたすら食べた。味はわからなかった。それでも、彼女と共に歩むためなら、私はいくらだって食べるだろう。何人だって殺してやろう。


 そうだ、私は人間になるのだ。私は――――




《……スカ、――イスカ!!》


 イスカははっと我に返った。意識を取り戻した瞬間、ごうっという風の音が耳をつんざく。

 イスカはまだジンロの背の上にいた。周囲の風は強いが安定している。ジンロの首に手をまわしたままイスカは幻影を見ていたのだ。


《大丈夫か?意識飛んでたみたいだけど、怪我はないか?》

「……うん、大丈夫よジンロ。私どれくらいボーっとしてた?」

《?……三十秒くらいかな。あんまりひどかったら降ろそうかと思ったけど、…大丈夫そうだな》


 さっきの幻影はどうやら一瞬の事だったらしい。だが、すごく長くて大切な記憶だった気がする。


(もしかして、あの記憶は―――)


 本来の記憶の主を想い浮かべた時、イスカはようやく今の状況を思い出した。慌てて身を乗り出してジンロに尋ねる。


「そうだ!ビルは!?ビルはどうなったの!?」

《は……?ああ、こいつか。ここだ》


 ジンロは目線で足を指した。下を覗きこむと、ジンロの鍵爪が一人の男を掴んでいる。今はもう普通の人間の姿に戻っているが、ビルはぐったりとしていて意識はなかった。


「死んでる、の……?」

《……》


 ジンロは答えなかった。彼はもうビルは限界だと言っていた。あの怪物の姿は、ビルにとって両刃の剣だったのだろう。生気を奪われ抜け殻になった憐れな男は、今はもう物言わぬ存在になってしまった。


《埋葬する。このまま町の外に出る》

「そう、……って、えっ!町の外!?」


 哀愁に耽っていたイスカは思わず声を裏返して叫んだ。周囲を見回す。今ジンロが飛んでいるのは町の郊外、城壁のすぐそばだ。


「ま、待って!私、町の外には―――」

《ん?どうした?―――嫌なら降りるか?》


 その質問にイスカは黙り込んでしまった。


 外に出たい、イスカが幼い頃からずっと願っていた事だ。

 さっきもローレンスに町を出ると宣言したではないか。

 沈黙を承諾と取ったのか、ジンロはそのまま易々と城壁を飛び越える。イスカをずっと留めていた壁があっという間に消え去った。


 今は夜。地上は暗く、月明かりだけが辺りを照らす。


「暗いわ、何も見えない」

《そうだな》


 初めての町の外にしては呆気ない景色だった。ジンロの上に乗っているからというのもあるからだろうが、あまり外に出たという実感が湧かない。

 けれど気持ちが良かった。辺り一面星空、遮るものなどない。恐る恐るジンロの首から手を離して両手をいっぱい広げてみた。


《おい、危ないぞ》


 ジンロの忠告も耳にしない。イスカは初めての外の空気をめいいっぱい吸い込んだ。

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