The perfect cage 3/8
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イスカが町の外に興味を示していたのはこの頃からだったと思う。それは彼女の言葉の節々から、時折見せる物憂げな表情から。『外の世界を見てみたい』という願望は、彼女の中で無意識のうちに育っていた。多分空を飛んでみたいという願望もそこから来ているのだろう。だが、『外に出てはいけない』というリンデの言いつけが常に彼女を縛っていた。
「南の川でおっきな魚が釣れるんだってさ」
ある日、塾生の少年が教室の中で大声で話しているのが聴こえた。
「本当に?行った事ないや」
「今日皆で釣りに行こうぜ。食べられる魚もいっぱい釣れるって兄ちゃんが言ってた!」
「いいな」
「そうしよう」
少年たちがワイワイとはしゃぎながら計画を立てている。塾の終礼後の和やかな風景をイスカはダイニングテーブルに突っ伏して眺めていた。
「バイバイ、イスカちゃん」
「さよなら、おねえちゃん」
塾を出て行く女の子たちがイスカに向かって手を振った。イスカは結構塾生に可愛がられている。まだ共に勉強はできないが、一番下の妹のように特に年長組の女子は世話を焼きたがる子も多い。
さらにそれに続いて、慌ただしく教室を飛び出していく少年たち。彼らの背中を目で追っていると、
「イスカも行くか?河原、魚釣り楽しいぞ」
こちらに気づいた少年が、イスカの方を振り向いて誘いをかけた。
「……ううん、やめとく」
「そっか。じゃあ、また明日な!」
少年は気にした風もなく、仲間の後を追って出て行ってしまった。
(一緒に行けばよかったのに)
とジンロは心の中で思っても決して口に出さない。イスカはまた突っ伏して、足をプラプラと揺らしながら、手持ち無沙汰にテーブルの上のジンロの木の実を弄り始めた。そこに子供たちを全員送り届けたリンデが現れる。
「イスカもう二階にお上がり。今日はシリルさんが来る日だからね」
「はぁい」
イスカはまだ少し名残惜しそうな顔をしながら立ち上がった。
「ジンロ、おいで」
テーブルの上で木の実と戯れていたジンロを掬いあげると二階の自室に向かった。
シリルとはこの家に定期的に訪れる絵本や文房具などを納品してくれる商人の事だ。月に二度、腰の曲がった老体を引きずり、体格のいい息子を一人連れてやってくる。
納品の日は荷物の搬入でリビングを一杯に使うので、イスカはいつも二階の自室に追いやられるのだ。イスカは自室に戻ると机で絵を描き始めた。迷いなくジンロのスケッチを描き始めると、
「ジンロのはねは、とってもほそくてきれいだね」
唄うように口ずさみながら紙の上でクレヨンを滑らせる。その間はジンロは一ミリたりとも動けない。やれやれ、なんで俺がこんな事を。と思わないでもないが、絵のモデルになると言うのは意外や意外、存外に楽しいものでジンロも気に入っていたりする。
しばらく少女の鼻歌とクレヨンの擦れる音が響く。すると、微かにトントンと階段を上る音がしてイスカは手を止めた。
「イスカちゃんはいるかい?」
「……!えほんやさん!」
扉の向こうから呼びかける声に、イスカはスケッチブックとクレヨンをベッドに放り出して駆けだした。扉を開けるとそこには、脇に本を抱えたシリルが立っていた。
「やあ、イスカちゃん。いい子にしていたかい?」
「うん!いま、おえかきしてた!」
「そうか、何を描いていたんだい?」
「ジンロ!」
イスカは嬉しそうにジンロを振り返った。机の上でポーズをとったまま動かないジンロはちらりと、イスカと老人の方に視線を向ける。
シリルは足のおぼつかない体で重い本を片手に階段を上ってきた。彼は見かけほど軟弱なご老体ではない。長年商人をやってきただけある、とジンロは内心で感心した。
「ねえねえ、きょうはどんなほんをもってきてくれたの?」
「ああ、そうだそうだ。これを渡さなくてはね」
せがむイスカに対し、シリルはその重い本を机の上まで運んできてくれた。今日の本は五冊、大きくて薄い絵本のようなもの、古ぼけた赤い装丁の物語小説、おそらく他の街で配布されていたと思われる折り目のついた観光用ブックレットまで様々。
シリルは商品の納品のついでに、毎回こうしてイスカにお下がりの本を持ってきてくれるのだ。それは以前にイスカが教室の絵本を読み漁っていて、そんな彼女の姿を見て本を差し入れてくれるようになったのだ。
今ではすっかり恒例となっていて、イスカもシリルの事を『えほんやさん』と呼んで懐いていた。
「ねえ、えほんやさん。これはなに?」
毎度の如く目を輝かせて本を眺めているイスカが、一冊の本を掲げた。それは今日シリルが持ってきた本の中では一番大きい、イスカの上半身くらいあるかもしれない重厚な本だった。
「それは『植物図鑑』だよ。長い事売れ残って捨てようと思ってたんだけど、イスカちゃんにはまだ少し難しいかもしれないね」
「でも、おはなのえがいっぱいあるよ」
イスカはその本を床に広げると、ページをパラパラとめくり始めた。本には絵師が模写した植物の精巧な絵と、細かい字で書かれた説明書きが載っている。説明の箇所は確かにイスカの年齢にはまだ難しそうな内容であったが、大きく美しい花々の絵にイスカは目が釘付けになっていた。
「あ、これきれい!」
ふと、イスカはあるページの花の絵を指さして声を上げた。それは丸い小さな黄色の花びらに、淡い緑の花弁が美しい群集花だ。
「ああ、それは『月華草』だね」
「ゲッカソウ?」
「鮮やかな金色の花を咲かせるんだけど、その花の蜜を月の光に当てると、どんな怪我や病気も直してしまう魔法の力が宿ると言われているんだ」
「まほうのちから……」
実際月華草の分泌する蜜には打ち身や切り傷などに対する薬効があり、古くから薬草として重用されている。比較的広い範囲に自生しているので特別貴重な花というわけではない。が、
「まほうのはな……!すごい、みてみたい!」
この庭に自生している花しか見た事のないイスカは、まるで秘伝の儀でも教えてもらったかのように嬉しそうにはしゃいでいた。
「確かこの近くの野原にも咲いているはずだよ。今度見つけたら持ってきてあげよう」
そう言ってイスカの頭を撫でたシリル老人は、この日を境にぱったりと顔を見せなくなった。次の納品の時に現れた彼の息子が、シリルは突然倒れ寝たきり状態となって引退したのだと告げた。
結局、イスカは植物図鑑の中でしか月華草を見る事が出来ずにいた。今まで以上に食い入るように本の絵を見つめ、あっという間に一日が過ぎる。庭で遊ぶことが少し減って、部屋に引きこもって絵を描く時間が増えたように感じた。
そしてそれと時を同じくしてとある男とイスカは知り合いになった。
「今日も一人で遊んでるの?イスカちゃん」
「あ、ダミアンさん。こんにちは」
庭でジンロと遊んでいるイスカに門の向こうから青年が声をかけた。
ダミアンという若い青年は、この近くの建築現場で働いている若衆の一人だ。がっしりした体格に焼けた肌。いかにも肉体労働に従事している爽やかな好青年といった風体だが、ジンロはどうにもここ最近この塾に顔を出すこの男に対し胡散臭さを感じていた。
「今日は何して遊んでるんだ?」
「えっとね、おままごと。いまおひるごはんをたべるとこ、ジンロがあかちゃんだよ」
(え、俺赤子の役だったの?)
さっきから地面に寝かしつけられて、よしよしと背中を撫でてくるので一体何の真似だと首をひねっていたのだが、どうやらイスカはおままごとを始めたらしかった。ジンロの目の前に泥で作った団子と葉っぱがちょこんと置かれる。
「はい、ジンロ。ごはんですよ」
満面の笑みでそのご飯とやらを差しだされ、ジンロは鳴くことも出来ずに硬直した。子供のままごとに付き合って赤子の真似をして、もう虚しい事この上ない。しかも、
「あはは、大人しい赤ちゃんだねえ」
その様子を嘲笑うダミアンにジンロは腸が煮えくり返って仕様がない。散々笑われた後、ジンロはとりあえず葉っぱだけかじって寝たふりをした。するとイスカはとっても満足そうにジンロを膝にのせて羽を撫でた。
「イスカちゃんはいつもそうやって一人で遊んでるの?」
「ひとりじゃないよ、ジンロもいっしょ」
「うーん……、まあそうなんだけど」
門の前に腰を下ろしたダミアンは、そこに居座ってイスカと話をし始めた。もう早く帰れよ、とジンロは心の中で彼を睨む。だが今のジンロはお腹いっぱいで眠りについた赤ん坊で、今動いたらイスカに窘められるのは目に見えている。
「出かけたりしないの?近所の子と遊んだり……」
「そとにでちゃいけないって、おばあちゃんにいわれてるから」
イスカは少し寂しそうな声で答えた。思えば近所にはイスカと同じ年の子も多く暮らしている。それなのにイスカは彼らと一緒に外で遊ぶことをしない。私塾にやってくる塾生はいるが、イスカにとっての『友達』と呼べる存在はまだいない。
「それって寂しくない?」
そんなイスカにダミアンが揺さぶりをかける。ジンロはますますこの男を腹立たしく思った。イスカの事情も何も知らないくせに、勝手な事を言ってイスカの心をかき乱すなと、ジンロは強く呪った。
「……さびしくない」
イスカは目を伏せたままそう答えた。だが膝の上に眠るジンロには彼女の顔がよく見えた。奥歯を噛み締め、何かを強く我慢している時の、寂しそうで悔しそうな顔。無垢で幼気な少女がする顔ではなかった。
イスカは時々そういう顔をする。そういう時のイスカを見ると、かつてジンロが出会ってきた『彼女たち』の姿を少しだけ思い出すのだ。