第六話 おばあちゃんとの約束③
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一時間きっかりに家を出てきたイスカは、家の前で待っていたローレンスに呼び掛けた。最小限の荷物しか持っていない事もさることながら、どこかふっきれた様な顔をしたイスカに少し眉をひそめたローレンスは、馬車から背を離しゆっくりとこちらに近づいて来た。
「荷物はそれだけか?」
「うん。……ねえ、ローレンス。帰る前に、私の話を聞いてくれる?」
イスカがそう言うと、ローレンスはまた奇妙だとばかりに顔を歪めたが、イスカの願いを承諾した。
「私、あなたの事がずっと好きだったわ」
自分が思う以上に澱みなく、はっきりと言えた。この二年間ずっと溜めこんで燻っていた想いが、無理なくすうっと身体から流れ出していくような気がした。
「子供の頃から、あなたが好きだった。ずっと憧れていた。夢を抱いて、真っ直ぐで、……真っ直ぐ過ぎて少し危ういところも全部好きだった。遠征に行くって聞いた時、『ああ、この人は自分の手の届かないところに行ってしまうんだな』って思って、凄く悲しかった」
「……そうか」
「最初は初恋だって思っていたわ。でもそのうちそれは『憧れ』なのかもしれないと思って、本当はどちらなんだろうってずっと迷っていた。けれど、本当はそのどちらも正しくはなかった。……一番正しかったのは……『嫉妬』だったのかもしれない」
「嫉妬?」
「私はずっとこの町で生きてきた。外の世界を知らない。おばあちゃんに言われてきたの、『町の外に出てはいけない』って。
勿論破る事は簡単だった、でも、出来なかった。私にとっておばあちゃんは絶対の存在で、おばあちゃんそのものが私にとっての呪縛みたいなものだったから」
前に、ジンロに祖母の事をどう思っているか聞かれた時、好きだと答える事に躊躇いが生じた。あれは好きという感情だけでは無かったからだと今にして思う。好きだけじゃない、束縛や嫌悪、後ろめたさや気負い。もっと複雑な感情が祖母に対してはある。祖母の後を継いで教師になったのも、イスカの意思である反面、どこか祖母に対する配慮があったのかもしれない。
「だからあなたが羨ましかった。自分の野望の為に、何かを犠牲にしてでも己の道を突き進む。雁字搦めの鳥籠から抜け出せない私と違って、あなたはあなたの意思で真っ直ぐ前に進んで行こうとしていたから。だからきっと憧れて、妬ましくて、追いかけたくなった」
「……今は違うのか?」
その問いにイスカは笑って頷いた。
「ありがとう、ローレンス。私あなたに会えてよかったわ。凄く身勝手な事ばかり言ってごめんなさい。でも、あなたがいてくれたからこそ今の私がある。それは本当だから」
イスカは深く礼をした、そして告げる。かつてローレンスが別れを言いにきた時と同じ夕暮れの中で、今度はイスカが言う。
「私この町を出るわ」
「!?」
「私がこの町にいたら、あの鱗の男はまたきっと私を狙って騒ぎを起こす。犠牲になる人だってもっと出てくる。そうなる前に、私はこの町を出ていく」
「出て行ってどうする?何の当ても無いんだろう?お前一人で暮らしていけるのか?」
「さあ?やってみないとわからないわ」
「どうしてそこまでする?先生との約束を違えるのか?」
こんな風に必死なローレンスを見たのは初めてだ。それに祖母の事をまた先生と呼んでくれた。ローレンスには悪いが、少し嬉しい。たったそれだけの事が、イスカはとても嬉しかったのだ。
「おばあちゃんは、私を守るために私に約束を与えた。それが私の為だというのなら、私にも意思がある」
「意思……?」
「おばあちゃんが私を守ってくれたように、私にも守りたいものがあるの。この町の人たちを、大切な人たちを、―――あなたを絶対に傷つけさせない」
そう、それがイスカのただひとつの願いだ。そのためなら自分はどんなことだってやってやる。
『決して外に出てはいけないよ』
かつて祖母が言った約束。
(ごめんね、おばあちゃん。でも私は自分だけ守られて生きるなんて出来ない)
だが、ローレンスはそれでも険しい顔を崩さなかった。
「俺は反対だ。お前が出ていけばこの町に平穏が訪れるかもしれない。だが、お前はどうなる?あの鱗の男は町の外……いや、地の果てまでだってお前を追う!」
「私一人でも戦うわ」
「無茶を言うな!戦い方も知らないお前に何ができる!?」
ローレンスは怒っていた。イスカの事を本当に案じてくれているのだろう。だが、イスカはもう決意を揺るがすつもりはない。
「もう決めたわ、私は行く」
「……ッ!イスカ、俺は―――」
だが、ローレンスはその言葉の続きを告げる事はなかった。何かを察したように、身体を強張らせ周囲に全神経を集中させる。何事かと驚いたイスカも、やがて周囲の異変がじわりと肌に滲むのを感じた。
「―――ローレンス」
「静かに」
ローレンスが腰の剣に手をかけた。言い様の無い緊迫感、イスカはローレンスと背を合わせ後方を見据えた。
枯葉が風に攫われるカサカサとした乾いた音がやけに耳に痛い。その耳障りな音の中に、イスカは確かに聞いた。ズルズルとこちらに這い寄ってくる不吉な影の音を。
それは鮮やかな橙に染まった石畳の上にあった。鋭利で硬質な、どす黒い青の鱗の足跡。地面を這う鱗の痕。
「――!ローレンス後ろ!」
ローレンスは流れる様な動作で剣を抜き放ち、振り返る反動でイスカの足元に迫っていた鱗目がけ思い切り剣を突き刺した。
石畳を叩いた時のそれではない、より頑強な音が響く。
剣の切っ先が進軍していた鱗に突き刺さる。進軍は止められたかに見えたが次の瞬間、鱗が驚くべき素早さで地面から膨れ上がり、突き刺さった剣に絡みつき、それを軸に這いあがった。
「!?」
ローレンスはとっさに剣を引き後ずさる。軸を失った鱗は地面から五十センチほどのところで停滞し、ぐちゃぐちゃと奇怪な音を立てながら変形を繰り返していた。その影がやがて一人の男の姿を象る。もはや人間という事も難しい、鱗にまみれ背の大きく曲がった哀れな男の姿なっていく。
ビルは以前見た時と違い、表情に余裕が無かった。見ると彼は肩を庇っている。閃光の直撃した箇所だ。
《……ぬかったよ》
声帯のつぶれた声がする。
《まさか獣王がもう一人控えていたとは。やはりあれらは害悪だ、忌々しい》
ローレンスは剣を構え背にイスカを庇った。イスカは対峙する男をまっすぐに見据える。ビルもまたローレンスを見てはいなかった。ただ一人、イスカだけをその邪悪な赤い瞳に映している。
「あなたの狙いは私でしょう?だったらこの町の人間には手を出さないで」
「イスカ!」
《ああ、いいとも。……と言いたいところだが、残念だかそういうわけにもいかなくなった》
「なんですって?」
ビルはにやりと笑った。苦渋に満ちた憎悪の笑み、イスカは我知らず恐怖に慄く。
《私の身体はもう人なしでは生きていけなくなった。もはやお前一人を喰ったところでそれが治まるとも思えない。……私は喰わなければならない、この国の全てを。この命が果てるまで》
「そんな事させない!」
イスカは叫んだ。もうこれ以上、誰かが怯える様を見たくない。ビルは目をひんむき目の前に対峙するイスカをこの世の全ての憎悪を注ぎ込むかのように見つめた。
《……やはりお前は万物の奏者だ。清く豪傑で恐れを知らない、あの時もそうだった》
「レーディンレル……。そう言えばあなた前にも私の事そう呼んだわね」
《そうだ、我ら全ての獣の主にして獣王を生み出した罪深き生贄の娘》
ビルはゆっくりと歩を進めた。
《なぜ何度もこの地に生まれ落ちるのか……、この世界にとって災厄しかもたらさないであろうその娘が》
「きっとあなたを止めるためだわ」
《……そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない》
固い鱗で覆われた腕がイスカの元に伸びてきた。イスカは竦むことなくそれを受け止めんとする。だが、その手はイスカの元に届くことはなかった。横から振り上げたローレンスの剣が、ビルの腕を弾き飛ばしたのだ。
常人の腕ならおそらく切り落とされていただろう。だが、固い鱗に覆われたビルの腕は騎士の剣すら通さず、ただその表面の鱗が数枚はらりと落ちていくだけだった。
《……脆弱な人間が》
「―――っ!?」
氷のようなビルの一言にローレンスの体が跳ねた。もう一度、今度は男の急所心臓に向かって剣を突き出す。
渾身の力を込め、寸分たがわずビルの体の中心に突き立てられた剣は、その鱗と肉を突き破り心臓を捕らえたかに見えた。が、――
「なっ……!?」
剣は鱗の一枚たりとも突き破ることが出来ず、カチカチと音を鳴らしたまますべての刀身がビルの身体に食い止められていた。ローレンスは驚愕する、刃のまったく通らない身体、正真正銘の化け物だ。
《蜥蜴の王に……逆らおうとは!》
ローレンスの剣が大きく弾かれた。バランスを崩したローレンスはたたらを踏み後退する。その体に大きな鱗の影が迫り、激しいうねりと共にローレンスの体を天高くつき飛ばした。
「ローレンス!!」
イスカの目の前でローレンスの体が吹っ飛ぶ。決して小柄ではない男性の体が、まるで風にあおられる枯葉の様にあっけなく飛ばされ、そして墜落した。
イスカは慌ててローレンスの側に駆け寄った。地面に体を強打したローレンスは頭部から血を流し、痛みに呻きながらもその眼光ははっきりと眼前に迫る化け物に注がれる。
《いつの時代も戦士という者は愚かだ。愚鈍で脆弱で、にもかかわらず恐怖に立ち向かい自ら死を選ぶ》
「なんだと……!」
《お前のような血気盛んな若者が倒れ伏していく姿を私は何度も見てきた。皆絶望の中で死んでいく。誇り高き戦士の姿などそこにはない》
ビルは煌々とした笑みを浮かべた。そのひきつった口元が、嫌悪感を煽る。
イスカはローレンスを庇おうと前に進み出ようとしたが、それより早くローレンスが再び剣を持って立ち上がった。しかし先ほどの一撃で全身を打たれたローレンスは、もはや立つことすらままならず、半身を庇いながら立ち向かおうとするその姿は無謀を通り越して哀れにすら思えた。
イスカの制止も聞かぬまま、ローレンスは咆哮を上げて立ち向かう。もう力の入らない斬撃を難なくいなしたビルは、先ほどと同じ鱗の影を放った。容赦のない一撃がローレンスを再び襲い、ローレンスは吹き飛ばされ後方の煉瓦の壁に激突して鈍い音をたてた。
イスカは思わず目をつぶった。適うはずがない、最初から。それなのにローレンスは果敢に立ち向かう。何度も何度も、その度に鱗の牙がその身を切りつけ肉を抉った。
「お願いやめて!」
どちらにでも無く叫んだ。助けを呼ばなければ、でも、助けを呼んだとして彼らもまた同じように犠牲になるだけではと思うと、動けなくなる。
(なんて様だ。私には何もできない、ローレンスの言うとおり。私は無力だ……!)
何度目かの攻撃がローレンスの身に打ち付けられると、ローレンスはがっくりと膝をついた。その傍にビルが悠然と近づいて来る。後ろ手で手を組んだ隙だらけの姿にも関わらず、かろうじて剣を握っているローレンスに臆することなく近づいていく。
「……ッ!!」
ローレンスは最後の力を振り絞って剣を振った。切っ先はまっすぐにビルの首へ、しかしその刃がその首を落とす事はなかった。鱗に覆われた肌はどんな刃も通らない。首で刃を受け止めたビルは、それでもなお戦意を失わないローレンスを面白そうに見下した。
《残念だよ、君は人間にしてはなかなか筋がある》
「……!」
《―――だが、遊びはここまでだ》
ビルがローレンスの右腕を掴んだ。その瞬間、ローレンスの顔がこれまでにない驚愕に満ちる。ビルの固い鱗の肌から、感染するように青黒い鱗がローレンスの右腕を侵食し始めた。
「なっ……!があああっ!!!」
ローレンスは絶叫した。己の腕を這いまわる鱗の感触、肌が別のものに生え換わるおぞましい感覚。イスカも一度経験した事がある。
身体が自分のものでは無くなっていく。動かなくなりやがて何の感覚も感じられなくなる。そうすれば行きつく先は、これまでの犠牲者と同じ。全身に鱗を生やした哀れな死体となり果てるのみ。
「ローレンス!」
だが、ローレンスは自身を侵食する毒にすら臆さなかった。判断は一瞬、ローレンスは左手で懐にしまいこんでいた肉厚の短剣を素早く抜き放ち、ビルに捕らえられ動かなくなっていく右腕を容赦なく切り捨てた。
《!?》
赤い鮮血が舞う。それが目くらましとなり、ビルの意識が僅かに逸れた。その隙をついて、ローレンスがその腹に思い切り蹴りを叩きこむ。ビルは後方に飛び、ローレンスもまた満身創痍の身体で大きく距離を取った。その右腕の肘から下は忽然と消え、ボタボタと尋常じゃない血が流れている。
「ローレンス……腕が……!」
「平気だ、これくらい」
あの鱗に犯されるくらいなら、とローレンスは息を荒げ告げる。だが、そんなものは強がりだ。片腕を失って正気でいられるわけがない。その顔には脂汗が浮かび、血のにじむほどに唇を噛みしめていた。
《……驚いたよ、自ら尻尾を斬り落とすとは。やはり君は、面白い》
ビルは切り落とされたローレンスの右腕を掲げて笑った。右腕は完全に鱗に浸食され腕の形をしていた何かに変わり、ぼとりと地面に落ちた。
「……イスカ、逃げろ。……出来るだけ、遠くに」
「なっ……、何言ってるのよ!あなたを置いて行くなんて出来ない!」
全身ボロボロで片腕を失くしたローレンス。置いて行けばこの男に虫けらのように殺される。そんなものは見たくない。
イスカは服が血で汚れるのも厭わず、ローレンスの身体をかき抱いた。そしてゆるりと近づいて来る男を見据えた。
(お願いです、神様。私はどうなってもいい。だから、どうかこの人を助けて、この男から)
鱗の男の手が伸びる。イスカはぎゅっとローレンスの頭を抱く腕に力を込めた。
(お願い、誰でもいい。この人を逃がして……!)
「―――誰か」
イスカは叫ぶ。ここにいない、誰かに向かって。
「誰か、助けて!!!」
その叫びは暗闇に溶けて空に吸い込まれる。誰にも届く事なく、掻き消えて、無くなる。
そうしてイスカの心から希望の火がふっと消えいこうとした時、空から羽が一枚振ってきた。
刹那、凄まじい風の音が鼓膜を叩く。身体を持って行かれそうな程強い突風に、イスカはローレンスの身体が飛ばされないようにと一層しがみついた。風で前が見えない、目を開けていられない程の衝撃。だが、それはそれほど長くは続かなかった。
風がやみ、恐る恐る目を開ける。
その目に飛び込んできたのは、夕暮れの鮮やかな橙にも負けない燦然と輝く金と虹色の翼。
もう何度も眺めてきた、美しき羽の色。
「……ジンロ」
男はゆっくりと振り返った。その険しい顔の中にある暖かくて優しい眼差し。
イスカの知る小鳥と同じ目だ。
(……ああ、私はやっと理解できた)
この人はジンロだ。
ずっと一緒にいてくれた、この世の何よりも愛しい小鳥だ。




