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第四話 名も無き君へ①

 ◆

 翌朝、イスカは波音で目が覚めた。ベッドの上で大きく伸びをして小屋の中を見渡すと、部屋の隅で座り込んだまま眠っているジンロの姿があった。

 この小屋にベッドは一つしかない。家主の少女とイスカとジンロ。誰がベッドを使うかで昨晩はもめた。イスカはまだ病み上がりだからジンロが使って欲しい、と提案したが、ジンロはそれを断ってイスカと少女と二人で使えと言ってきた。

 お互いベッドの譲り合いで、結局家主がさっさとベッドに横になり、イスカに半分使うよう促したので、結局ジンロの案が通ってしまった。


(ジンロにちゃんと休んでほしかったのに……)


 とはいえここはイスカの家ではなく、決定権は家主である少女にある。その当の少女は姿が見当たらない。


 イスカはベッドから降りると小屋を出た。洞窟を出ると、日の出前の少し薄暗い浜辺に足を向ける。少女は浜辺に腰を下ろして海を眺めていた。イスカが近づくと少女はその大きな瞳をこちらに向ける。


「おはよう、早いのね」


 イスカは少女の隣に腰を下ろすと、同じように海を眺めた。


「ごめんね、ベッド半分占領しちゃって。狭くなかった?」

「……」


 少女は黙って首を横に振った。ウェーブのかかった髪が風でふわふわと揺れる。その一線一線の美しさにイスカは我知らずため息を漏らした。

 陶人形のように白い肌、宝石のような髪と瞳。華奢な身体は儚げで、このまま波にさらわれてしまいそうだ。

 どこか浮世離れした少女。彼女の様子を眺めていると、ふとイスカの胸の奥に熱が灯る。ここ一年の間に、何度か感じるようになった、あの懐かしい感覚が。


「ねえ、ひょっとして違ったらごめんなさい」

「……?」

「あなたもしかして、――獣王?」


 その瞬間少女の表情が固まった。感情の見えにくかった少女の眼は大きく見開かれ、明らかに動揺している。

 少女は焦って立ち上がった。慌てて去ろうとするので、イスカは思わず少女の手を握る。


「待って!怖がらせるつもりじゃないの」


 怯える少女を優しく宥める。敵意がない事を知らせるために、イスカは努めて朗に笑った。

 少女は逃げるのをやめ、イスカの隣に座りなおす。こうしてみると確かに表情や仕草は大人びて見えるが、外見はいたって普通の女の子だ。


「私と一緒にいた人、……ジンロもね、獣王なの。……ああ、同じ仲間だからわかってた?」


 昨日の二人のやり取りを見るに顔見知りだったのだろう。少女はコクリと頷いた。

 何という奇遇だろうか、とイスカは思った。偶然とはいえ会いたいと願っていた獣王に会えるなんて。


「あなたは何の王?」


 イスカは辺りを見回して、手ごろな枝を見つけた。それを拾うと少女に手渡す。


「字は書ける?」


 ジンロは話せると言っていたが、少女はどうも話したがらないようだ。少女は少し考えて枝を受け取る。そして湿った砂の上に文字を綴り始めた。


『私は鮫の王』

「鮫……、図鑑で見た事があるわ。身体がとても大きくて鋭い牙を持つ海の生き物」


 時に人に害をなす事もあるが、決して狂暴なものばかりではなく、海を悠々と泳ぐ生物だと図鑑には書いてあった。

 少女の可憐な姿からは少し想像しがたい生き物だが、少女の思慮深い眼差しや落ち着いた言動は、確かに泰然と海を泳ぐ鮫の姿を連想させた。


「鮫の王、あなたの名前は何というの?」

『私に名前はない』

「えっ、……そうなの」


 イスカは少女の横顔を凝視した。別段悲しんでいるふうでも、困っているふうでもない少女は淡々と字を綴る。


『名を呼んでくれるものなどいない。だから必要ない』

「他の獣王は?」

『話す奴もいるが、大体の奴らは私の事を仲間だと思っていない』


 その言葉にイスカは眉をひそめた。


「仲間だと思っていないって……」

『私はブリドリントの森の出身ではないから』


 それを聞いてふと、過去にアッシュが言っていた事を思い出した。獣王はブリドリントの森に暮らしていた万物の奏者レーディンレルと懇意にしていた動物たち。ただ一人、鮫の王を除いて――。


『私も奴らも仲間意識を持っていない。こちらも仲良くなろうとは思っていない』


 イスカは返す言葉が見つからず、黙り込んでしまった。そんなイスカに今度は少女から質問を投げかけられる。


『あなたは獣王を探して旅をしているのか?』


 少女が疑惑の目をイスカに向けた。


「それだけが目的じゃないけど、それも旅の目標の一つだわ」


 獣王に会いイスカ自身の事とジンロたちの事を知る。それが今イスカにとって必要な事なのだと思っている。


「会った獣王は貴女で六人目よ。ジンロにリマンジャさん、フィオナさんにザウドさんにアッシュさん。そしてあなた。個性的な人たちだけど、皆話してみると面白い人たちだったわ」


 会っていくうちに獣王がどんな歴史を歩んできて、何を想い今の時代を生きているのか、少しはわかってきたような気がする。とはいえ彼らに関してはまだまだ知らない事がいっぱいだ。


「あなたとも、色々話がしたいわ。ダメかしら?」


 少女の丸い瞳が僅かに見開かれた。じっとイスカを見つめ、そして地面に文字を綴る。


『……あなたは変わっている』

「そう?」

『獣王は忌み嫌われる存在だ。現にこの島の民も』


 と少女は手を止めて固まった。少女の顔に翳りが見える。その続きを書く事を躊躇っているように見えた。


 そういえば、この島に辿り着いた直後出会った島民は、少女の事を巫女と呼んでいた。何故だか彼女を恐れ、逃げるように去っていった。

 八百年という長きにわたり生きる獣王は、歳をとることも成長することも無く、不変の時を生きている。その異常さに多くの人間は畏怖を覚える。


(もしかして……)


 イスカは少女の横顔を見つめた。感情のない陶人形のような彼女の顔が、どこか悲しそうに見えるのはイスカの気のせいだろうか?


「あなたは、この島にずっと一人でいたの?」


 年を取らず何百年も同じ姿のままで生きる彼女は、いつしかこの島で巫女と呼ばれ、そして恐れられたのだろうか?腫物のように扱われた彼女は、その人生の途方もない時間を孤独に過ごしていたのだろうか?

 少女はただ何も言わずに頷いた。その瞬間イスカの心の中に哀れみと、寂しさが灯った。


『私を不気味だと思うのなら、早くこの島を出ていった方がいい』


 少女はそう書いて立ち去ろうとしたので、慌てて少女の腕を掴んで引き留める。


「待って!」


 この時少女は初めて、はっきりとわかるくらい驚いた顔をした。


「不気味だなんて思わないよ」


 イスカは少女の目を見て告げた。少女の大きな瞳が揺れる。


「私はあなたに会いたかった。ジンロや、他の獣王たちと同じように、会って話がしたと思っていたの」

「……」

「願いが叶った。だから私、あなたと出会えたことが嬉しい」


 そう言ってイスカは笑った。少女は驚きのまま固まって、じっとイスカを凝視している。とても純粋で吸い込まれそうな宝石みたいな瞳に、イスカは心をかき乱された。

 彼女に何かできる事をしてあげたい。そう思ってしまうのは、イスカの思い上がりだろうか。


「……そうだ!ここにいる間、あなたの事名前で呼んじゃだめ?」


 イスカが勢いよく叫ぶと、少女は首を傾げたまま固まった。イスカが何を言っているのか、よくわかっていない様子だ。


「私が名前を考えるって事。気に入らなかったら断ってくれていいから」


 恩人の少女にいつまでも『あなた』呼ばわりではそっけない。名前がないというなら、せめてものお礼にいい名前を考えてあげようと思ったのだ。


 イスカはしばらく思案し少女を見やる。波のように揺れる髪、美しいアクアブルーの瞳、真珠のような珠肌、凛とした静謐で深い面立ち――。


「メーア」


 イスカの中に少女を連想するイメージが浮かび上がる。


「古語で『海』って意味。メーア、……どうかな?」


 少女は目を見開いたまま動かない。いいのか悪いのか、イスカは計りあぐねる。


「……嫌だった?」


 やっぱり迷惑だったかな、とイスカは戸惑っていると、少女がイスカの手を取って――嬉しそうに微笑んだ。


(笑ってるとこ、初めて見た)


 蕾がほころぶ、とはこういう事を言うのだろうかと、イスカはその魅力的な笑顔に見惚れていた。


 やがて薄暗かった地平線に光がさした。海面を橙の光が静かに滑る。


「戻ろうか」


 イスカが握りしめた手を引いて歩き出すと、少女――メーアは嬉しそうについてきた。無垢な獣王の事はまだわからない事が多いけれど、少し心を開いてくれた気がしてイスカは胸を弾ませた。

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