第四話 名も無き君へ①
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翌朝、イスカは波音で目が覚めた。ベッドの上で大きく伸びをして小屋の中を見渡すと、部屋の隅で座り込んだまま眠っているジンロの姿があった。
この小屋にベッドは一つしかない。家主の少女とイスカとジンロ。誰がベッドを使うかで昨晩はもめた。イスカはまだ病み上がりだからジンロが使って欲しい、と提案したが、ジンロはそれを断ってイスカと少女と二人で使えと言ってきた。
お互いベッドの譲り合いで、結局家主がさっさとベッドに横になり、イスカに半分使うよう促したので、結局ジンロの案が通ってしまった。
(ジンロにちゃんと休んでほしかったのに……)
とはいえここはイスカの家ではなく、決定権は家主である少女にある。その当の少女は姿が見当たらない。
イスカはベッドから降りると小屋を出た。洞窟を出ると、日の出前の少し薄暗い浜辺に足を向ける。少女は浜辺に腰を下ろして海を眺めていた。イスカが近づくと少女はその大きな瞳をこちらに向ける。
「おはよう、早いのね」
イスカは少女の隣に腰を下ろすと、同じように海を眺めた。
「ごめんね、ベッド半分占領しちゃって。狭くなかった?」
「……」
少女は黙って首を横に振った。ウェーブのかかった髪が風でふわふわと揺れる。その一線一線の美しさにイスカは我知らずため息を漏らした。
陶人形のように白い肌、宝石のような髪と瞳。華奢な身体は儚げで、このまま波にさらわれてしまいそうだ。
どこか浮世離れした少女。彼女の様子を眺めていると、ふとイスカの胸の奥に熱が灯る。ここ一年の間に、何度か感じるようになった、あの懐かしい感覚が。
「ねえ、ひょっとして違ったらごめんなさい」
「……?」
「あなたもしかして、――獣王?」
その瞬間少女の表情が固まった。感情の見えにくかった少女の眼は大きく見開かれ、明らかに動揺している。
少女は焦って立ち上がった。慌てて去ろうとするので、イスカは思わず少女の手を握る。
「待って!怖がらせるつもりじゃないの」
怯える少女を優しく宥める。敵意がない事を知らせるために、イスカは努めて朗に笑った。
少女は逃げるのをやめ、イスカの隣に座りなおす。こうしてみると確かに表情や仕草は大人びて見えるが、外見はいたって普通の女の子だ。
「私と一緒にいた人、……ジンロもね、獣王なの。……ああ、同じ仲間だからわかってた?」
昨日の二人のやり取りを見るに顔見知りだったのだろう。少女はコクリと頷いた。
何という奇遇だろうか、とイスカは思った。偶然とはいえ会いたいと願っていた獣王に会えるなんて。
「あなたは何の王?」
イスカは辺りを見回して、手ごろな枝を見つけた。それを拾うと少女に手渡す。
「字は書ける?」
ジンロは話せると言っていたが、少女はどうも話したがらないようだ。少女は少し考えて枝を受け取る。そして湿った砂の上に文字を綴り始めた。
『私は鮫の王』
「鮫……、図鑑で見た事があるわ。身体がとても大きくて鋭い牙を持つ海の生き物」
時に人に害をなす事もあるが、決して狂暴なものばかりではなく、海を悠々と泳ぐ生物だと図鑑には書いてあった。
少女の可憐な姿からは少し想像しがたい生き物だが、少女の思慮深い眼差しや落ち着いた言動は、確かに泰然と海を泳ぐ鮫の姿を連想させた。
「鮫の王、あなたの名前は何というの?」
『私に名前はない』
「えっ、……そうなの」
イスカは少女の横顔を凝視した。別段悲しんでいるふうでも、困っているふうでもない少女は淡々と字を綴る。
『名を呼んでくれるものなどいない。だから必要ない』
「他の獣王は?」
『話す奴もいるが、大体の奴らは私の事を仲間だと思っていない』
その言葉にイスカは眉をひそめた。
「仲間だと思っていないって……」
『私はブリドリントの森の出身ではないから』
それを聞いてふと、過去にアッシュが言っていた事を思い出した。獣王はブリドリントの森に暮らしていた万物の奏者と懇意にしていた動物たち。ただ一人、鮫の王を除いて――。
『私も奴らも仲間意識を持っていない。こちらも仲良くなろうとは思っていない』
イスカは返す言葉が見つからず、黙り込んでしまった。そんなイスカに今度は少女から質問を投げかけられる。
『あなたは獣王を探して旅をしているのか?』
少女が疑惑の目をイスカに向けた。
「それだけが目的じゃないけど、それも旅の目標の一つだわ」
獣王に会いイスカ自身の事とジンロたちの事を知る。それが今イスカにとって必要な事なのだと思っている。
「会った獣王は貴女で六人目よ。ジンロにリマンジャさん、フィオナさんにザウドさんにアッシュさん。そしてあなた。個性的な人たちだけど、皆話してみると面白い人たちだったわ」
会っていくうちに獣王がどんな歴史を歩んできて、何を想い今の時代を生きているのか、少しはわかってきたような気がする。とはいえ彼らに関してはまだまだ知らない事がいっぱいだ。
「あなたとも、色々話がしたいわ。ダメかしら?」
少女の丸い瞳が僅かに見開かれた。じっとイスカを見つめ、そして地面に文字を綴る。
『……あなたは変わっている』
「そう?」
『獣王は忌み嫌われる存在だ。現にこの島の民も』
と少女は手を止めて固まった。少女の顔に翳りが見える。その続きを書く事を躊躇っているように見えた。
そういえば、この島に辿り着いた直後出会った島民は、少女の事を巫女と呼んでいた。何故だか彼女を恐れ、逃げるように去っていった。
八百年という長きにわたり生きる獣王は、歳をとることも成長することも無く、不変の時を生きている。その異常さに多くの人間は畏怖を覚える。
(もしかして……)
イスカは少女の横顔を見つめた。感情のない陶人形のような彼女の顔が、どこか悲しそうに見えるのはイスカの気のせいだろうか?
「あなたは、この島にずっと一人でいたの?」
年を取らず何百年も同じ姿のままで生きる彼女は、いつしかこの島で巫女と呼ばれ、そして恐れられたのだろうか?腫物のように扱われた彼女は、その人生の途方もない時間を孤独に過ごしていたのだろうか?
少女はただ何も言わずに頷いた。その瞬間イスカの心の中に哀れみと、寂しさが灯った。
『私を不気味だと思うのなら、早くこの島を出ていった方がいい』
少女はそう書いて立ち去ろうとしたので、慌てて少女の腕を掴んで引き留める。
「待って!」
この時少女は初めて、はっきりとわかるくらい驚いた顔をした。
「不気味だなんて思わないよ」
イスカは少女の目を見て告げた。少女の大きな瞳が揺れる。
「私はあなたに会いたかった。ジンロや、他の獣王たちと同じように、会って話がしたと思っていたの」
「……」
「願いが叶った。だから私、あなたと出会えたことが嬉しい」
そう言ってイスカは笑った。少女は驚きのまま固まって、じっとイスカを凝視している。とても純粋で吸い込まれそうな宝石みたいな瞳に、イスカは心をかき乱された。
彼女に何かできる事をしてあげたい。そう思ってしまうのは、イスカの思い上がりだろうか。
「……そうだ!ここにいる間、あなたの事名前で呼んじゃだめ?」
イスカが勢いよく叫ぶと、少女は首を傾げたまま固まった。イスカが何を言っているのか、よくわかっていない様子だ。
「私が名前を考えるって事。気に入らなかったら断ってくれていいから」
恩人の少女にいつまでも『あなた』呼ばわりではそっけない。名前がないというなら、せめてものお礼にいい名前を考えてあげようと思ったのだ。
イスカはしばらく思案し少女を見やる。波のように揺れる髪、美しいアクアブルーの瞳、真珠のような珠肌、凛とした静謐で深い面立ち――。
「メーア」
イスカの中に少女を連想するイメージが浮かび上がる。
「古語で『海』って意味。メーア、……どうかな?」
少女は目を見開いたまま動かない。いいのか悪いのか、イスカは計りあぐねる。
「……嫌だった?」
やっぱり迷惑だったかな、とイスカは戸惑っていると、少女がイスカの手を取って――嬉しそうに微笑んだ。
(笑ってるとこ、初めて見た)
蕾がほころぶ、とはこういう事を言うのだろうかと、イスカはその魅力的な笑顔に見惚れていた。
やがて薄暗かった地平線に光がさした。海面を橙の光が静かに滑る。
「戻ろうか」
イスカが握りしめた手を引いて歩き出すと、少女――メーアは嬉しそうについてきた。無垢な獣王の事はまだわからない事が多いけれど、少し心を開いてくれた気がしてイスカは胸を弾ませた。