第五話 尊い時間①
翌朝、いつものように起き上がると鈍痛が身体を襲う。鏡の前に立つと、やつれきった顔の自分が映ってイスカは辟易した。
原因はこれだ。イスカはパジャマの肩口を下げる、紫色に鬱血した歯型の跡がくっきりと残っていた。
(どうしようこれ……もう血は止まってるし首元まである服着たら問題無いんだけど……)
問題はこれを付けた張本人がまだ階下にいるかもしれないという事だ。
怒るべきなのか、すぐに通報して訴えてやるべきなのか、それとも何事も無かったかのように接すればいいのか。イスカにとってこんな事態は経験した事が無いから対処法がわからない。誰かに相談するのも気が引ける。一体どうすれば―――
その時部屋の扉が乱暴にノックされ、イスカは飛び跳ねた。まさかスクラが上がってきたのか。昨晩月明かりに照らされた獰猛なスクラの姿を思い出してイスカは硬直した。
「せんせー!あさだよー、おきてよー!」
だが、扉から聴こえて来たのはスクラではない無邪気な少年の声だった。ノックもなんだかリズミカルな音色に変わって、明らかに楽しんでいる。
「その声……、ミルス!?どうしたの?」
急いで扉を開けると、そこには久しぶりに見る元気なミルスの姿があった。
「やったー!せんせーおきた!おはよー」
「おはよう……、じゃなくて、ミルスどうしてうちにいるの?」
「あそびにきたの、お兄ちゃんたちといっしょに!」
すると階下できゃあきゃあと子供たちの騒ぐ声がした。
「えっ、もしかして皆来てるの!?でも塾はまだ再開じゃ―――」
「うん、だから今日はあそびにきたの」
ミルスはにこにこと嬉しそうだった。数日ぶりに見る太陽の様な笑顔に、イスカは先ほどまでの鬱々とした気持ちが晴れていくのを感じた。
「早くせんせーもきてよ!今おじさんにいろんなおはなしきいてるんだよ!」
「え?う、うん?おじさん?」
なにがなんだかわからないまま、イスカはミルスに手を引かれて一階へと降りていく。教室の方から楽しそうな笑い声と落ち着いた男の声が聞こえて来た。
「だからな、海ってのはこの町よりずっと大きいんだよ、この町のため池の何百倍……いや何万倍もな」
「じゃあシルキニス王国よりも大きい?」
「もちろん」
「本当に青いの?赤い海は無いの?」
「基本的には坊主の目ん玉見たいに真っ青で透明だ。でも時には濁って緑色になる事もあるし、夕日が沈む時は真っ赤に見える事もある」
「やっぱり!僕の言ったとおりだ!」
「じゃあどんな魚が住んでるの?」
「色んな奴がいるぞ。こーんなにちっちゃい奴からこの家位におっきい奴まで」
教室の真ん中で子供たちに囲まれていたのはスクラだった。スクラが身ぶり手ぶりで話をすると、子供たちは嬉しそうにはしゃぐ。昨日ここであった事が幻の様な微笑ましい光景だった。
「あ、イスカ先生だ!」
輪を作っていた子供の一人がイスカに気づく。それを合図にスクラの周りに群がっていた子供たちが一斉に駆け寄ってきた。
「イスカ先生久しぶり」「先生朝寝坊だー、いけないんだー」「先生お腹すいたー、ボク先生の作ったお菓子食べたい!」
次々に捲し立てられるのでイスカは返事をする間もなく困り果てた。そもそもどうして皆がここにいるのか聞かなくてはいけないのに。だが、その答えはスクラがあっさりとくれた。
「朝起きたらそこの窓にへばりついてたんだよ。入りたそうにしてたから入れてやった、まずかったか?」
「まずいというか……、その……」
イスカは言葉に詰まった。子供たちが授業も無いのにうちを訪ねてくるなんて思いもしなかった。イスカを取り囲んで笑う子供たち、久しぶりの明るい声と笑顔。しかし、どうしても先日の事件が頭をよぎる。この笑顔を守るために、子供たちをここに来させないようにしていたのに。
「……皆、やっぱり帰りなさい」
「えっ!どうして!?」
「パパやママが心配するよ。皆が危ないから今塾お休みしてるのに」
もし次にあの時の様な事があったら今度こそ親御さんたちに申し訳がたたない。大事な子供を預かっているのに、イスカが彼らを危険な目に晒すわけにはいかないのだ。
だが、ベンは力強くイスカに言った。
「だって家にいたってつまんねーもん!そりゃあ、勉強は好きじゃないけど……」
ベンは拗ねたようにそっぽを向いた。けれどもその瞳にははっきりと涙が浮かんでいる。
「俺はこの塾で皆と会って遊びたい!先生とも皆とも話したい!」
涙交じりにベンが言った。そのまっすぐな言葉にイスカは圧倒され、言葉を失う。
「私もずっと家で一人でいたけど、やっぱり寂しい。イスカ先生に会いたかったんだもん」
「私も。まだ宿題でわからないとこあるから教えて欲しい!」
「ボクもー、みんなとあそびたい!」
口々に子供たちが語りかけてくる。その言葉にイスカはどうしようもなく苦しくなって、ポロポロと涙がこぼれた。
「え!?先生どうしたの!?大丈夫?どこか痛むの?」
「やっぱり迷惑だった……?先生私たちがいない方がいい?」
「ちが……違うの、ごめん、」
イスカにとってこの塾は祖母の残した形見の様なもので、祖母が亡くなってから何とかその後を引き継ごうと必死だった。何か違う事をしてみたいとか、本当はもっと向いている仕事があるんじゃないかとか、考えたことだってある。けれどもイスカはこれしか出来なかった。乗っかってしまった道を只必死で走っていく事しか出来なかった。
いつしかその道に大切なものが出来た。守りたいと思う大切なものが。その大切なものが今、自分と同じようにそれが大切なんだと訴えてくれている。皆自分の事を先生だって認めてくれていないんじゃないかとさえ思った事もある。そんな彼らがイスカと共にいたいと、もっとたくさんの事を教えて欲しいと言ってくれる。
イスカは子供たちの前でみっともなく涙をこぼした。
嬉しくないはず無いのだ。だってイスカだってずっと寂しかった。数日この子たちに会えないだけで、胸が張り裂けそうな程辛かった。
イスカは大きく鼻をすすると服の裾で涙をぬぐい、にこっと笑った。
「しょうがないなー、今日は皆で遊ぼう!休みの日の分まで!」
「「やったー!」」
「先生授業は!?」
「授業も無し!」
「お菓子は!?」
「準備するから待ってなさい!」
子供たちは飛び跳ねて喜んだ。さっそく何をして遊ぶかの会議が始まる。その様子を微笑ましげに見ていたイスカの元にスクラがやってきた。
「よかったな」
そう言ってスクラは笑った。その顔には昨晩の面影など一切なく、取り繕った色も見えない。夕食時に祖母の話を聞いたあの時のスクラに戻っていた。
「あの、スクラさん……、昨日の事……」
「昨日?……ばあさんの話か?」
「……ううん、なんでもない!あの子たちの相手してくれてありがとう、おじさん!」
「おじっ……!?―――おいこら、どういう事だ!」
イスカは一頻り笑うと、子供たちのリクエストのお菓子を作るために厨房に向かった。
(覚えてないって事は、やっぱり寝ぼけてたか何かだったんだわ)
だとするなら、これ以上この話を持ち出すのは悪手でしかない。肩はまだ鈍く痛むがきっとそのうち忘れてしまうだろう。




