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第四話 回想と噛み痕④

 ◆

「じゃあ、おばあちゃんって昔は結構厳しかったの?」

「ああ、厳しいなんてもんじゃねぇ。あれは鬼だったな、怒鳴るなんて日常茶飯事。課題を忘れた奴は窓の外に立たせる、居眠りしてる奴には脳天にチョーク投下。時には手をあげた事もある。塾の餓鬼どももそりゃあビビりまくって、逃げ出す奴も結構いたんだ」


 イスカはスクラの口から語られる祖母の姿に驚きを隠せなかった。祖母は確かに約束やルールを守らせる事にうるさかったし、約束を破って罰を受けた事も何度かある。しかし決して怒鳴ったり凄んだり、そういう事をしたところは見た事が無かった。


「まるくなったのはお前が私塾の生徒になった辺りからじゃないか?孫も入ってきてさすがに厳しすぎると自覚したんだろう」

「でもおばあちゃん、私が入ってきたからって甘くするような人でもないと思うんだけどなぁ……」

「誰だって孫には甘くなるんだよ。特にお前みたいな手のかかる奴はとことんハードル下げてやりたくなるんだろ」

「……いいですよ、どうせ私はドジで抜けててズボラですよ」

「あれ?さっき言ってた事気にしてたのか?」


 スクラが意地悪く笑うのでイスカは頬を膨らませた。かれこれ一時間程スクラと言葉を交わして、軽口を叩いたり冗談で笑い合ったりも出来るほどには打ち解けてきた。

 話してみる中でイスカが思う事は、やはりスクラは思っていた程悪い人ではないという事だ。相変わらず言葉の節々に嫌味が混じるし、その度にイスカは憤慨するが決して不快になるわけではない。むしろそうやって会話が響いていく事が楽しくもあった。

 こんな風に男性と長い間話した事は今まで無かった。それなのにまるで今までずっとそうして来たかのようにスクラとは会話が弾む。心地いい、楽しい。イスカは素直にそう思う。


(もっとこの人と話していたいな)


 そう思った矢先、今度はスクラの方から質問を寄越してきた。


「お前はどうなんだ?」

「えっ、何が?」

「ばあさん。お前はばあさんの事どう思ってたんだ?」


 どう思っていたかなんて、随分滑稽な質問をするものだ。祖母はイスカが物心つく前から大切に育ててくれた肉親であり、唯一の家族。厳しくも優しくイスカの事を見守ってくれていた大切な人だ。そんな人に対してどう思っていたかなんて。


「……大好きよ」


 だが、出てきた言葉は自分が思い描いた以上に空虚で、突けば簡単に弾けそうだった。


(あれ……?なんで?)


 もっと言いたい事があったのに。祖母のどんなところが好きか、人に伝えたい事は沢山あったはずなのに、イスカはそれっきり口を噤んでしまった。

 スクラも「そうか」と、適当な相槌を打つ。なんだか急に居心地が悪くなって、先ほどとはうって変わりイスカはすぐにでも会話を中断したいという衝動に駆られる。

 幸いにも時間が味方をしてくれた。ふと見た時計の針はもうすぐ半宵を示そうとしていた。


「いけない、もうこんな時間。ごめんなさい引きとめちゃって」

「ああ、いいよ。俺は別に帰るところ無いし」

「そう、それなら―――って、え?」


 帰るところが無い?

 なんだか今とんでもない事を言わなかっただろうか、この男。


「えっと……、スクラさん御住所は?」

「無い、家自体ないから放浪中」


 イスカはふらりと椅子に崩れ落ちた。結構自由な人だなとは思ったが、まさか根なし草だとは。しかし、この場合困るのはイスカの方だ。


(どうしよう……、シャロンさんの所もとっくに閉まってるだろうし、帰るところが無いなんて言われてこんな時間に追いだすのも人として……いやでも男の人を泊めるわけには……!)


 スクラはイスカの命の恩人でもある、無下にも出来ない。でも独り暮らしの女の家に男を泊めるなんてそんな事出来るわけが―――。

 ぐるぐると思考が動き回る。目が回りそうになっているイスカを尻目に、スクラはさっさと帰り支度を始めてしまった。


「えっ、帰るの!?」

「うん、別に無理しなくていいぞ。泊めてもらおうなんておこがましい事は考えてないから」


 そう言われたらイスカとしても安心なのだが、今一つ釈然としない。そうこうしている間に、スクラは玄関の方へと歩き出す。


「……ッ!待って!」


 迷った挙句、イスカはスクラを呼びとめた。目を丸くしているスクラに、イスカはダイニングの横の扉を指し示す。


「教室……、空いてるから。長椅子なら寝転がれるし、毛布くらいなら貸すし……」

「……なに、泊めてくれんの?」

「部屋貸すだけだから!絶対鍵閉めて!あと二階には絶対上がって来ない事!」


 イスカは何故か茹でダコの様に真っ赤になって、一息で告げた。どうしてだが息切れまでしてきた。ぜえぜえと苦しそうに俯くイスカの頭に大きな手が乗せられた。


「ありがとな、助かるよ」


 スクラは満面の笑みでそう言った。その笑顔がやけに眩しくて、イスカはまた顔が火照るのを感じた。



 ◆

 ベッドに入ってしばらくたっても、イスカは眠る事が出来なかった。上手く寝付けない、どうにも階下にいる男の事が気になって仕方がない。

 彼が約束を破ってこっちに来るなんて露とも思ってはいないが、やはり見ず知らずの人間が同じ屋根の下で寝ているというのは、どうにもむず痒い。スクラにどう思われただろうか、ほとんど見ず知らずの人間――しかも男を家にあげるだなんて軽薄な奴だなんて思われてはいないだろうか。いや、でもスクラは助かると言っていたし―――


「お水飲みに行こ……」


 すっかり目が冴えてしまったイスカは、手さげランプを持って階下へ降りる。一階はしんと静まり返っていた。一人で暮らしているんだから静かなのは慣れっこのはずなのに、なんだか今日はそわそわする。物音をたてないように、忍び足で水を取りに行くとコップに注ぎ一気に飲み干した。けれどもまだ満たされた気がしない、喉は相変わらず渇いたままだ。イスカはふと、リビングの隣に続く扉を凝視した。

 イスカの言いつけ通り教室の扉はしっかりと閉められている。あの向こうにスクラが眠っているのだろうか。イスカはそっとドアノブに手をかけた。鍵はしっかり閉まっている。


(ちょっとだけ……、家主としてちゃんと快適に寝れてるかどうかだけ……)


 少し言い訳がましい事を心の中で呟きながら、イスカは鍵を取り出しそっと扉を開けた。

 教室の中は思ったほど暗くは無い。カーテンもせず開け放たれた窓から月の光が入ってきているせいだ。

 いつも生徒たちが座っている長椅子が並べられており、教室の中央に位置する長椅子の上に毛布がこんもりと山を作っていた。イスカはそっと足音をたてないように、スクラが寝ている所へ近づき、恐る恐る長椅子の上を覗きこんだ。

 月明かりに照らされたスクラは、幸せそうに寝息を立てていた。大の男が眠るには少し狭いスペースだったが別段問題は無い様だ。

 スクラは放浪生活を送っていたと言っていた。野宿なんかも日常茶飯事だったのだろう。イスカの心配は杞憂に終わったようだ。


 イスカはスクラの顔元に座り込み、悪いと思いながらもその寝顔を観察した。

 少しあどけない無邪気な寝顔、男の人は皆こんな顔で眠るのだろうか?その寝顔にイスカは自然と笑みをこぼす。なんだか子供っぽくて、すごく微笑ましかった。

 ふと、イスカはスクラの身体の方を覗いてみた。狭い場所で強引に眠っているせいか毛布の大半が上半身からずり落ちてしまっている。

 風邪なんか引かれてはこちらが申し訳ない。イスカはそっと立ち上がると毛布をかけ直すべく、そっと手を伸ばした。


「―――!?」


 だが、イスカの手首が突如下方から伸びてきた手に掴まれた。あまりの力と速度にイスカは思わず悲鳴を上げる。


(嘘!?起こしちゃった!?)


 イスカの懸念はまずそれだった。しかし、ゆっくりと起きあがったスクラの姿にイスカは戦慄した。

 スクラの目は先ほどイスカと話していた時のものとは全く違う、月の光を受けてぎらぎらと輝き、射殺すような鋭さを放っていた。眼前で射竦められ、イスカは本能的恐怖に震える。逃げようにもイスカを捕らえる手は鋼の様に固く振りほどく事が出来ない。


「……イスカ?」


 目の前の男がイスカの名を呼んだ。それだけで、イスカの身体に電撃が走ったかのようだった。


(一体どうしちゃったの?夕方までのスクラさんと違う……)


 パニックになっているイスカを更なる衝撃が襲った。スクラが思い切りイスカの腕を引き、イスカはスクラの方に倒れ込む。気が動転している中、気が付けばイスカはスクラにしっかりと抱きしめられていた。


「ちょ、ちょっと……!スクラさん!?寝ぼけてるの!?」


 スクラの腕の中で必死にもがくも、イスカの力では抵抗も無意味だった。おかしい、男と女とはいえ、いくらなんでも力の差がありすぎる。スクラの力は異常だ、まるで―――


「イスカ」


 耳元で名を呼ばれてイスカは身体を震わせた。低く唸るような声が鼓膜と身体の両方から伝わる。イスカは抵抗しようとするが、考えに反してどうしてか身体中から力が抜けていく。


(なに……?どうしちゃったの私)


 何度も呼びかけられて耳たぶを舐められると同時にスクラの指が背中を何度も往復した。その感覚に肌が泡立ち、かすれた声が喉から漏れた。


「スクラ、さん……」


 力の無い声でスクラに呼びかけた。抑揚が無く蕩けていて、自分の声じゃないみたいだ。


(ああ、これはちょっとまずいかも……)


 婚前の女子としてこの状況は最も避けたかったのだが、どう考えても抗える雰囲気ではなかった。第一イスカ自身が嫌だと思っていないのがまずい。ここしばらく不運な事続きで人の優しさに飢えていたつけがこんな所でくるとは。


「イスカ、俺は―――」

「待って……私、あなたが――」

「腹減った、喰いたい」


 ―――え?


 イスカは唐突に我に返った。今、何と言った?この人―――

 次の瞬間、イスカの右肩にとんでもない激痛が走った。思わず色気も無い、甲高い叫び声をあげてしまった。

 イスカはあらん限りの力を振り絞ってスクラを突き飛ばした。先ほどまでの力が嘘のように、あっさりと拘束から逃れられる。


「な、ななな……何するのよ!この変態!」


 イスカは右肩を押さえて怒鳴った。自分では見えないがイスカの肩にははっきりとスクラの歯型が付いているはずだ。甘噛なんてそんな生易しいものじゃない、本気の噛みつきにジンジンと鈍い痛みが走る。 

 突き飛ばされたスクラは椅子に背を打ち付けてそれから微動だにしなかった。ひょっとしたら打ち所が悪かったかもしれないが、イスカはもうそんな事に構わずに教室を飛び出していた。


(なんで!?なんでいきなりあんな事!?)


 確かにこっそり忍び込んだイスカも悪いが、それにしても噛みつかれるなんてあんまりだ。一瞬別の意味で覚悟を決めたのに、それすらも恥ずかしくなってまた怒りが募る。

 せっかく話をして打ち解けたはずなのに、仲良くなれると思っていたのに。イスカはバタバタと自室へ戻ると、手当てもせずに布団に潜ってひたすらに震え続けた。

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