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第三話 誘い③

 ◆

 娼館の裏手の庭で小さな井戸を見つけた。滑車を回して水を汲むと澄んだ水がバケツの中に溜まっている。ローレンスはその水で顔を洗った。随分長い間あの狭苦しい部屋でリマンジャの話を聞いていた気がする。強い香で頭がぼんやりとしていたが、冷たい水のおかげで少し気分も冴えた。

 しかしローレンスの表情は未だ暗いままだった。先ほど聞いたリマンジャの話が頭からこびりついて離れない。


 術師の歴史、獣王の誕生秘話、シルキニス王による迫害、そして―――万物の奏者レーディンレルと獣王の関係。


 正直国の存亡に関わる話なんて言われてもピンとこなかった。騎士であった自分でもそれは遠い世界の話だと思っていた。けれどそこに一人のよく見知った少女が加えられただけで、途端にローレンスは委縮した。


 恐ろしくなった。もし、彼女がこの先本当に命に関わる大きな災厄に巻き込まれたら、自分はどうするのだろうかと。


(何より、イスカにとって一番危険なのは彼らじゃないか)


 リマンジャは獣王が歴代の万物の奏者を喰い続けてきたことを隠さなかった。今代の万物の奏者、すなわちイスカの事はまだ保留にしているようだが、国の存亡以前に彼女の命を脅かす存在がこんなに近くにいるではないか。


 ローレンスは傍らに立てかけた自分の剣を見つめた。振るえないとわかっていても、この剣は捨てられなかった。剣の柄を握る。左腕だけで振るうにはやはり重く、ローレンスの心にも重くのしかかってくるようだ。

 この剣を用いて戦う事が出来ない。今の自分には獣王をどうこうする事など到底できない。イスカを救うどころか自分の身を守る事すら精一杯の状態だ。そんな人間が本当に国の存亡に関わる事件に立ち向かえるのだろうか。無二の幼馴染を救う事などできるのだろうか。


「へえ……、騎士の剣ってのは上等に出来てるんだな。立派な剣だ」


 後方から声がして振り返ると、そこには興味深そうにローレンスの剣を見つめる少年の姿があった。


「ラタトスクさん」

「さん付けはしなくていいよ。こんな餓鬼に敬語なんか使ってると周りから変にみられるぞ」


 そう言って齢八百を超える少年は笑った。ラタトスクはローレンスの剣を手に取ると、それこそ少年のようなキラキラした目で刀身を見つめ、そして軽々と剣を抜いた。数か月ぶりに陽の光を浴びた剣は全く錆びてなどおらず、ローレンスが最後に振るったあの日のまま美しく輝いていた。


「重いな、これを片手で扱うのは至難の業だ。でも使い込まれているいい剣だ。思い入れがあるんだな」

「……別に、思い入れなんてない」


 けれどもローレンスが騎士を志し、騎士団に着任してからずっと自分の傍らにこの剣があった。聖騎士となって出世すると決め、その野望を胸にいつもこの剣を振るってきた。ローレンスにとってこの剣は己の『野望』の象徴なのだ。


「なあ兄ちゃん、兄ちゃんはもう一度この剣を振るえるようになりたいか?」


 ラタトスクがふとこちらに問いかけた。ローレンスは口を噤む。もう一度剣を取りたいという願望と、隻腕でそれは無理だという諦観が己の中でせめぎあう。そんなローレンスに対し、ラタトスクは実に淡白だった。


「まあ嫌だと言っても振るってもらわないと困るんだけどな。そのために俺が呼ばれたんだし」


 そう言ってローレンスの目の前で、ラタトスクは剣を振るった。ローレンスの騎士の剣を軽々と―――左腕だけで華麗に操る。まるで舞いを舞うように、見事な剣さばきでローレンスを魅了する。

 昨晩見た時と一緒だ。自分より小柄な少年がその身の丈ほどの大剣を振るっている。そのアンバランスな二者が絶妙な調和を奏で、一種の美を生み出している。

 少年が切っ先をローレンスに向けた。そしてその大きく丸い瞳もまっすぐとこちらに向いている。


「俺が教えてやるよ、この剣の扱い方を」

「―――!」

「お前がその腕でこれを振るえるように、一から剣術を指南してやる。どうだ、やる気はあるか?」


 そう言ってラタトスクは静かに剣を鞘に収めた。返されたその剣はずしりと重く、これを片手で軽々と振るっていたラタトスクは、やはり普通の人間ではないのだと思い知らされる。


「……あんたに剣術を教われば、俺は使い物になるか?」

「なるさ。この俺が教えるんだ」


 ラタトスクは堂々と宣言した。元騎士とはいえ、片腕の人間を戦いに使えるようにするなど、どう考えても正気ではなかった。しかしラタトスクは全く動じてはいない。それを命じたであろうリマンジャも先ほどの話からしてローレンスが十分な戦力になると確信しているようだった。


 わからない。獣王が一体何を考えているのか。


「俺はあんたたちを信じていいのかわからない。さっきの話が本当なら、あんたらはイスカに害をなす存在だ。イスカだけじゃない、人間を……俺たちを喰って生きる奴らが何故俺を引き入れようとするんだ?」

「獣王だって『食事』の事ばかり考えているわけじゃないさ。君たちと同じだ。食べなきゃ生きていけないが、それだけじゃない。それに生き物の血肉を喰って生きるのは人間だって同じだ」


 確かに人間も家畜や魚を食って生きている。彼らにとってそれが人間というだけ、そう言われれば、ローレンスには反論が出来ない。


「それに俺たちにとって万物の奏者は特別な存在なんだ。―――愛情すら抱いていると言ってもいい。だから、少なくとも俺や猿のおっちゃんはすぐに彼女を食べようなんてしないし、大半の獣王は喰うよりもまず慈しみたいと思っている。……まあ、そうじゃない奴も中にはいるけど」


 ローレンスは眉をひそめた。愛しているのに食べようとするのか?その思考がローレンスには全く理解できない。


「兄ちゃんは万物の奏者とは仲がいいのか?」


 今度はラタトスクが尋ねた。


「まあ、……幼い頃からの付き合いだから」

「じゃあ彼女を狙う術師や、俺たちから彼女を守れるように強くなればいい。そのために俺を利用する。―――そう言えば、少しはやる気になるか?」

「……正気か?」

「正気も正気だ。君を戦いに突き動かす動機となるなら、俺はどんな役でも買って出よう」

「なぜそこまでする。あんたは一体……」


 戸惑いを隠せないローレンスに対し、ラタトスクはためらいなく答えた。


「俺は、人間というものが大好きだからさ。人間と争いたくない、仲良くしていきたいんだよ」


 そう言ってラタトスクは笑う。その笑みに偽りは見えない、それが一種の狂気を感じさせた。


 その時娼館の扉が乱暴に開かれた。中から大股でリマンジャが現れる。


「競売の場所が特定できたぞ。開催は……明日の夜だ」

「明日の夜?示し合わせたようなタイミングだな」


 リマンジャの報告にラタトスクも目を丸くする。


「間に合ってよかったよ。とある貴族の邸宅で開かれるそうだ、貴族の人間なら家名と爵位を名乗れば入れるそうだが、―――」


 そう言ってリマンジャが意味ありげな目でローレンスを振り向いた。


「……マクミランの家名なら一応通るはずです。俺は爵位は持っていませんが騎士団時代の勲章ならあります」

「上等だ」


 リマンジャは指を鳴らすと準備に取り掛かるために娼館の中へ意気揚々と戻っていった。


「さて、俺たちも用意をしよう」


 ラタトスクは少年のようににこりと笑った。ローレンスはまだ先ほどの返答をしていない事に気づく。


「なあ、ラタトスク。俺は―――」

「さっきの返事なら今すぐに答えを決めなくていい。覚悟が決まったら、その時はお前に戦い方を教えてやる。そうそう、明日の潜入、その剣はちゃんと持って来いよ」


 室内に戻っていく二人の背を眺めながら、ローレンスは立ち尽くす。


 人間が好きで人間を食べ続ける、人間のために尽力し人間を容易く殺す。そんな矛盾した生き物、それが獣王であるならばローレンスは一体彼らにどう接していけばいいのだろうか。

 一つわかっている事がある。もし、この先彼らと渡り歩いていこうと思うのならば、ローレンスにはもう一度剣を振るう力が必要だ。そしてその力を得る最大の近道が彼らと共に進んでいく事なのだ。

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