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燃える日々

作者: 山内博之

山内宥厳和尚の苦難の人生を描いた自伝小説

大家族が何故故郷を後に敗戦後の混乱極まる大阪へ転居することになったのか?逞しくも悲しい家族の流転を描く。

 終戦直後の大阪市生野区新今里町という私がくらしたところからは、すこし足をのばすとすぐ郊外へ出た。布施市から河内市へかけて、広漠とした畑や田んぼが生駒山のふもとまで一望できるようなところだった。東に見える生駒山から小阪あたりまでは、視野をさえぎるものがほとんどなく、近鉄電車と産業道路と呼ばれる一筋の道が、田んぼをかきわけるように生駒山に向かって伸びていて、電車の窓からは、河内平野の緑におおわれた大地が広範囲に見渡せる風景であった。電車が、小阪駅を通過するときには、ハウスカレーの工場から、カレー粉の匂いが車内に流れ込んできた。

米軍の空襲で焼け野原になったままのところもあったが、今里あたりは空襲に遭わずに焼け残った、二階建ての借家の古い長屋もかなり残っていた。

私たち家族が、天神橋に近い豊崎の謄写版工場をやめて、生野区の新今里町にある社宅に転居し、父が勤めはじめた西村木製器具製造株式会社は、現在は地下鉄の終点になっている巽町というところにあった。会社の門を出ると左は行き止まりになっていて、そこからは一望の田んぼがひろがり、かすむような遠くに見える家並は平野の町、そのなかに屹立する大念仏寺の大きな甍が見えていた。

 工場の近くの田んぼのなかを流れる幅二米ほどの水路は、こどもたちの夏の水泳塲になっていて、私もなんどか泳いだことがある。

 終戦直後の河内平野には、昔ながらののどかな時間がまだ流れていて、夏の夕方になると、田んぼや水路から湧き出たように、無数のトンボが乱舞した。

 梁石日の『血と骨』を読むと、私が当時くらした新今里町からは、数キロ都心寄りの鶴橋近くの町が描かれているが、夏の夕方に、糸の両端に小石を紙にくるんで結びつけ、トンボを取ったという記述が出てくる。

 私と同年齢の作家の少年が、まったく同時代に同じ環境を共有し、同じ遊びをして生きていたんだと共感した。

 河内平野の水路が生み育てた、あれほど多くのトンボを見ることができたのも、長くは続かなかったのだろう。弥生時代から続いてきたにちがいない、河内平野の風景にほかならない環境も、次第に家が立ち並び、農家が農薬を多用する時代に移行していって、トンボも絶え、いまは全国でいちばん緑のすくないといわれる街衢が埋めつくしている。

 いまでは、思い描くしかないような、絵のような、みどり豊かな田園が息づいていた最後の時代だったのだ。

 国破れて山河ありというのは、あの時期の河内平野にふさわしいイメージである。

 わが家の玄関を出て左へ数十歩の距離には、平野川分水路と呼ばれる川が流れていて、その川は近隣の家庭や零細企業から汚水を垂れ流しするためか、当時からなかばドブ川になっていたが、川を挟んで向き合って建っている消防署と東中川小学校の正門前あたりは、川底を浚ったような深みがあって、大きな食用蛙や台湾ドジョウなどが棲息していた。 ときたま弓道で使う長い弓をもった風変わりな老人がやってきて、蛙を矢で仕留めて持って帰った。川岸から対岸にいる蛙を狙うのだから距離は二十米ほどか、的は十糎に満たない大きさの蛙だが、たいてい一撃で仕留めるのだから、なかなかの弓の達人なんだろうと思ったが、だれとも口を聞かないその和服の老人には、口を利きがたい武士の威圧感みたいな威厳がそなわっていた。食料の乏しい頃だったので、貴重な蛋白源として、蛙はあの老人に七輪で火あぶりにでもされて醤油をつけて食われていたのだろう。

 小学校の前には蛙も魚もいたが、わが家に近い橋から下流は、泥が浮き上がった汚い川で、汚泥がたまり、やわらかいところからはメタンガスがボワッと吹き出したりする。汚泥のすこし固いところには草が背丈ほどもぼうぼうと生え、その間を蛇行する水も多くはなかった。

 さらにもうひとつ下流の中学校に近い橋は、空襲の際に焼夷弾に被弾したままだった。 コンクリート製の板橋が真ん中から折れて、ひっくり返ったヘの字型になった橋が、掛け替えられないまま使われていた。

 ある日、進駐軍のジープがその橋を通りかかって、若い米兵数名が乗ったまま、なんどもバックしては助走して走ってきて、その橋へ滑るように下っては登り、車をジャンプさせて喊声をあげているのを見たことがあった。私はそのときはじめて身近で白人を見たのである。

 この川を挟んで向こうは今里の花街だが、川と今里新地の間にはかなり広い野原と畑が広がっていた。

 昭和二十一年、私は六年生になっていたが学校へは通わず、父について洋家具職人の見習いに励んでいた。

 現在では、登校拒否や閉じこもりはたくさんあっても、それを不就学児童などとはいわない。終戦後には、学校へ子供を通わせたくても、それが出来ない生活困窮の家庭が多く、家計の手助けに就業させられていた子供たちがたくさんいたのである。

 労働基準法は昭和二十二年に公布されたが、その後も、子供に就労を禁止なんてことは、中小企業の会社などは無関心で考えなかった時代である。

 その年に大相撲がこの野原で興行されたことがあり、天幕で囲まれた会場へは、切符の買えない子供らは入れなかったが、どうしても相撲取りを見たいと思った私たち悪ガキは、孫君という朝鮮人のともだちと示し合わせ、子供たちが天幕の裾から潜り込まないように見張りをしている、行司見習いの少年を数人で囲んで論争をいどんだ。

 「お前のようなガキに、相撲の勝ち負けがほんとうにわかるのか」

 孫君のもののいい方はいかにも尊大で、相手のプライドを傷つけるにうってつけだった。行司見習いの江戸っ子の少年は、揶揄するような孫君のいいがかりに腹をたてて、顔を真っ赤にしながら、食ってかかった。

 「わからなくて行司が勤まると思ってるのかよ、なに生意気いってんだ、子供は早く家へ帰れ」

 孫君を相手に、行司装束をまとった見習いがムキになっている間に、私たち何人かは、彼の目の届かない横側にまわって、天幕の裾を友達と素早くくぐり抜け、首尾よく中へもぐりこんだ。

 徳島ではメンといい、大阪ではベッタンという、子供の遊び道具のメンコの写真でしか相撲取りを知らなかった私は、本物の相撲取りに興奮して見入った。生れてはじめて見る大男たちのショッキリ相撲には腹をかかえて笑った。

 当時の横綱はほかにもいたかも知れないが、私が相撲取りで名前を知っていた横綱は、照国と羽黒山、関脇の神風も名前をよく知っていた。戦争の末期には、神風が吹いて鬼畜米英を吹き飛ばすと本気で信じ込んでいたから、神風にはなじみがあったのだ。

 羽黒山は褐色の肌でいかにもたくましい闘志が感じられ、照国は女のような色白の肌でまぶしく光っており、片目をしばたたきながら出てきたような印象だった。

 この相撲を見たのは、姉の久子が博多へ嫁ぐすこし前のことだったが、その頃、会社の同僚の職人で、ものいえばすこし吃るクセのある永井さんという福井県出身の人が、故郷の兄の援助を受けて,二階建ての家を今里駅の近くに土地を借りて新築することになり、父と私は棟上げの日から、休みになると建築現場へ応援に出かけた。

 当時の職人の休日は毎月一日と十六日で、

ほかの勤め人が日曜祭日に休んでいるのをみると羨ましくて仕方がなかった。

 父は棟上げが終わってから、敷居と鴨居を取り付けに行ってあげた。父は本建築の家屋の、鴨居と敷居の取り付け方を、私に丁寧に教えながら作業していたが、そんな方法を詳しく知っている父が私には不思議だった。

 父は何かの仕事をしている現場を通りかかると、必ず立ち止まって、納得がいくまで長時間の観察を怠らないひとだった。

 手に職人としての技術を完璧に身に付けている父は、ほかの分野の仕事であっても、観察して想像力が到達さえすれば、その仕事は本職の職人同様に、即座に一人前にこなせてしまう器用な技量の持ち主だった。

 永井さんは家を新築することになって、材木は福井県の兄が無償で送ってくるのだが、屋根瓦などを買う金がないというので、私は姉が勤めているバケツ会社に、ブリキの端切れが沢山あることを知っていたので、そのことを永井さんと父に話すと、姉も大賛成して、さっそく姉の口利きで、会社は三輪オートバイいっぱいのブリキを建築現場まで運んでくれた。

 さまざまな形をしたブリキの端切れを、父と二人で大屋根にあがって丁寧に並べて打ち付けた。

 こうして永井さんの家は、荒壁のままで仕上げ塗りの漆喰壁などは出来なかったが、屋根もトタンのモザイク模様ながらきれいに葺けて、人が住めるようになったのであった。

永井さんが感謝したことはいうまでもない。

 

 父は元来無口なほうだが、姉が居なくなってから、よけいむっつりし、以前より頻繁に仕事を休むようになった。父のなかのなにかが変わり、荒れはじめたようだった。

 父は小学校を出てから鏡台作りの工場へ通い弟子となり、二年間で年期があけるような、早熟な天才肌の職人だったが、鏡台の年期があけてからは、鏡台職人では仕事が同じことの繰り返しばかりなので飽き足らなくなって、洋家具を作るほうに進み、こちらでも短期間に長足の進歩をして、あちこちから引っ張り凧になるような職人になっていた。

 突出して仕事が出来たため、父は下積み生活というものを知らないまま、一人前の職人として扱われるようになったのであった。

 当時の父の家庭は、いまでいうコンビニみたいな店を祖父が経営して繁盛していたため、金に不自由しない家の子供だった。

 父は木の細工をすることが大好きだったから指物師の道を選んだわけで、生活のために鏡台屋に弟子入りしたのではなかった。

 通い弟子というのは、貧しい家庭から弟子にしてもらうためにやってきて、年期があけるまで数年以上もかかる住み込みの弟子とはまったく扱いが違ったのだそうである。

 腕自慢な気持ちも多分にあったのだろうが、十四歳から朝酒をたしなみはじめ、仕事の出がけに四合の冷や酒をひっかけて行くので「冷や酒のだんなはん」とひとにいわれるような職人生活を長年にわたって送ってきたということだが、だれもこれを怪しまなかった時代であった。

 当時の職人は、サラリーマンや、教師、巡査などにくらべると、はるかに高給取りだったそうで“職人か神さんか”などといって胸を張っていたのであった。

 そのような伝説的な職人だった父も、敗戦で荒廃しきった、地縁も友人もいない大阪に住むようになってからは、かつては夢を描いたであろう思いなどなにひとつかなわない、大きな壁のような現実を背負い込んだ。

 自分の力しか頼るものはなく、家族以外のだれにも気ままなど通用しない孤独な人間として、のたうちまわる運命になったのだ。

 終戦直後は、まだまだ酒など入手できる時代ではなかったが、生野区に住むようになった昭和二十一年の終わり頃に、父はだれからかドブロクの販売先を聞き込んできて、私たちきょうだいは、朝鮮人の経営する布施の駅前のバラックの店へ、ドブロクを買いに使いに出されるようになった。

 家から東へ三十分ほど歩いて行くと、布施の駅にほど近いところに、立て込んだバラック建ての商店がたくさん軒を連ねている。

 ひさしをくっつけ合うような狭い道の両側に、多くは朝鮮人が経営している小さな店が並んでいた。

 細い柱と垂木と貫と野地板ばかりを使って、釘を打って組み立てたような素人作りのバラックがほとんどで、屋根はタールを挟みこんで防水したルーフィングというロール紙を広げ、三×一センチ厚ほどの薄材の板で釘を打って押さえてある。

 なかには屋根の板に、薄っぺらな瓦の下に打ち付ける、トントンという桧を薄く剥いだ三十センチ角ほどのものを、針釘で打ち付けただけの屋根のバラックも多い。

 雑な大工が打ち付けたトントン屋根は、瓦を上に乗せなければ、すぐ雨漏りがするようになるし、台風がくると真っ先にひらひらとめくれて舞い上がってしまうのである。

 こういうことに私が詳しいのは、のちにこのドブロク屋の近くに、父と同じ木工所で働いていた中国帰りの藤岡さんという職人が父と同時に失業してから、この街にバラックを建てて、中国風の駄菓子みたいな揚物を作って売る店を作ることになり、頼まれて父と私とで、屋根にトントンを打ち付けるのをやってあげたからである。

 父はトントンが必ず重ね目で三枚重なるように打ち付けるのだと、私にやかましく指導して丁寧に屋根を作った。トントンを打ち付ける足の長い針釘は、普通の釘のように頭まで打ち込まず、下手糞が釘を打つと折れ曲がるが、あのように途中で折れ曲がることが大切なのである。

 折れ曲がることで、一ミリほどのへぎ板を押さえられるので、頭まで打ち込んだら板を突き抜けてしまうのである。トントンの職人が屋根にあがって、魔術かと思うほど早打ちをするのは、釘が曲がってもかまわないばかりか、故意に曲げて打つからである。

 瓦をこの上に敷くときは、まず練り土を置きそれに瓦を置くが、練り土は折れ曲がった釘をくわえ込んで乾燥するので、ずれることの防止も兼ねているのである。父は仕事をしながらこうした講釈も聞かせてくれるのであった。

 「このように重ね目が三枚になるように打ち付けると、台風が来ても滅多に飛ばされることはないからな」

 こうしてなにごとであれ良い仕事を完璧にやることが父の身上である。

 父のいったことは間もなく戦後最大のジエーン台風がやってきたときに実証された。

 あたりのバラックはおおかた屋根がめくれて飛んだが、父と私の作った屋根は、全く被害はなかったのだ。

 この街へ夕方にドブロクを毎日のように小さなヤカンをぶら下げて買いにいくと、なじみになった朝鮮人のおかみさんは、丼鉢になみなみとドブロクを入れてから、下げていったヤカンに移してくれる。さらに瓶からすこし多めにおまけも入れてくれるのであった。

 どんな味がするのか、すこし口に流し込んでみるのも、使者の特権かも知れない。

 姉も酒買いの帰路に、なんどかこの特権を発揮したと話しあって笑ったことがある。

 このころはインフレが加速していった時代であった。ものの値段がどんどん高くなっていったが、丼鉢いっぱいのドブロクは当時十円ばかりだったろうか。

 買ってきた酒を前にすると、父はすこぶるご機嫌になるが、ドブロクが空になると、どうしてももうすこし飲みたくなるのだった。 「もう一度買って来てくれ」

 といいはじめると、母が反対し、子供らがまた遠くまで使いに出るのをどんなにいやがっても、後にひくことは絶対にないのである。同じ道をまた歩かされることもいやだったが、同じ店にまた買いにいくということにも抵抗がずいぶんあった。しかし逃げるわけにはいかないのであった。

 こうした父とのやりとりは、家族の日課のひとつではあったが、赤貧にあえぐ家計にとっては死活問題でもあった。母が抵抗するのは当然だが、ぜったいにひっこめない主張のまえには、抵抗も挫折を余儀なくさせられるのである。

 

 父と私が会社で作る家具は、得意先からも、社長からも、職人仲間からも信頼をおかれていて、間もなく父は、会社から職長を依頼されて引き受けることになった。

 しかし体調が思わしくなくて時々は会社を休んだが、出社したときには、社内の整頓と清掃をきちんと指導し、社内は以前にくらべて、乱雑なところがすこしもなく、隅々まで整頓されて仕事がしやすくなっていた。

 父の仕事の内容が変わったので、私は家具の金具、箪笥の鍵や引き手、洋服ダンスの扉の取り付けなどをすることになった。

 私は登校すれば六年生だが、からだは小柄なほうで、だれが見てもまだまだほんの子供だったが、家具職人としての仕事は、なにをしても大人に伍して引けをとらないほどすでにできるようになり、その頃は、PX(米軍基地)の家庭に使う家具の仕事が多く、その家具の金具を取り付ける仕事をまかされて、何十台もの家具の金具の取り付けを終日一人でやっていたのである。

 詩人の浜田知章が若いころに、PXの家具の検査官の仕事をしていたことがあって、西村木製器具製造株式会社へなんどか来たそうである。そこで、小学生のような子供が、鑿などの道具を巧みに使って、複雑な家具の金具の取り付けをしているのを見て、“あんな幼い子供が一人前にやってる”と大変驚いたそうだが、約十年後に劇団・月光会の稽古場でいろいろ話しているときにそれが私だったとわかってその奇遇に互いにびっくりした。

 その日、父がまた仕事を休み、私はひとり工場へ出て金具つけの仕事をしていたが、そこへ弟が必死の形相で走って呼びにきた。

 「お父さんが暴れているから…野原さんを連れてすぐきてくれって!おかあさんがすぐ呼んできてっていってるから…」

 近所に住んでいる、大柄な職人の野原さんが一緒に家まで走ってくれたが、帰ってみると、まだ新しい玄関のガラス戸がばらばらに壊されていて、父は座敷で不貞寝していた。

 会社を休んだことやなにかで母と言い争いになり、いきなり玄関を叩き壊してしまったのであった。

 「こりゃすごい勢いだね。このままでは戸締まりもできないし、とりあえずベニヤ板で囲っておくかな」

 と、簡単なベニヤ板二枚の仮の戸板を作って一枚を打ち付けて固定し、一枚は動くようにしてくれて、夜は中側からつっかい棒をするようにした。

 「そのうちおとうさんが、きちんとしたものをまた作ってくれるでしょうから…」

 海軍あがりの野原さんは、くせのない標準語でそう話しながら引き揚げたが、自分で叩き壊したものを修復するような女々しいことを父は絶対にしないことを、家族はみんな知っていた。

 長屋のなかのわが家一軒だけが、バラックにだって見かけないような、戸ともいえないような玄関のまま、その後暮すことになったのであった。

  

 こういう事件があって間もなく、神戸製鋼から、製図入れを父に作らせることという名指しでの発注があり、父は職長を一時降りて、それを二人で作ることとなった。

 製図入れは、大きな全紙の製図用紙がそのまま引き出しに納められるサイズで、引き出しは浅いのが四段あり、両面どちら側からも引き出せるように設計されていて、四段のものを二つ重ねて一セットとし、どれを組みあわせても正確にずれないで重なり合うこと、引き出しはすべて、どの枠に持っていってもすんなりと軽く正確に収納することというのが条件であった。この図面入れを五セット、つまり十台作るのが仕事だった。

 他の職人には、手の出せない条件だった上に、一台あたりの手間賃が五千五百円、総計で五万五千円の仕事だった。納期は約一ヶ月ほどであった。父は勇んで引き受けた。

 何ヶ月か前に、見本を依頼されて作ったのが父だったので、納期にも仕上がりにもなんら問題はなかったのである。

 職人の一ヶ月の収入が一万円に届かない時代だったので、多くいた職人のなかには、不平に思うひともいたようだが、大手企業からわざわざ名指しできた注文だから、だれからも文句はつけられないし、このような正確な仕事を要求されたら、たいていの職人は尻込みするのも確かである。

 材料は楢材で、側板もベニヤ板は使わないで、無垢の挽き板を使うように指示されていたので、父は木取りの段階から自分で材料を選択して仕事をはじめた。この時代には素直な良質の北海道材が沢山送られてきていた。

 工場の裏側の二千坪ほどの広い土地は、材木の自然乾燥の場所になっていて、製材された材木がきちんと両端を揃えられて、二センチ角ほどの材木を上下がずれないように四等分ほどの間隔で整然と間に入れて、風が板の間を通るように積まれて乾燥させるのである。この材木の山から、乾燥した素直な楢材を選びだすのである。よく乾燥した楢材は、アクが表面に浮いて出てまっ黒の板になっている。こうした楢材を大きな帯鋸で小割りして寸切りし、プレナーで所定のサイズにしてから、職人の手元へまわってくるのが普通の手順だが、今回の仕事は特注なので、自分で納得できるものを材料の選択の段階からとりかかったのであった。

 楢材は鉋で削ると、楢材特有のきれいな斑(ふ=ルビ)模様が浮き上がってきて、そういう斑が表面に揃って出るように神経を使いながら細工するのも、職人の腕の見せ所なのである。今回は他人に木取りはまかせられないというのが、父の考えだった。

 父は仕事に集中しはじめると、緊張感が全身にみなぎってきて、うかつに傍へ寄れないような雰囲気に包まれる。

 頭のてっぺんの髪の毛が、ハリネズミのようにピンと立つのであった。それを見ると、弟子である私は、父がなにを自分に要求しているか、事前に察知して、ものいわれずとも、スムースに作業が行えるように絶えず気遣いながら仕事をカバーするのである。

 気づかないと、いきなりごつんと拳骨が頭に飛んでくるのだ。

 この仕事を引き受けてから、私たちは始業時間よりも二時間も早く六時に工場に入るようになった。父は夜業するのが大嫌いだったので、その分早朝に出かけるのである。 

 母は徳島に住んでいた頃から、朝は五時に起きだして家族の食事の用意をするのが慣わしだが、こうして早朝に出掛けるというので、四時に起きて、弁当の段取りをした。

 「よかったわ。いい仕事をすることになって。これで一息つけるわね」

 と母は述懐した。徳島を後にして以来、経済的な安定などまったくなくて、金があればいろいろものが買える時代になってきていても、いつも火の車のわが家は生きるにかつかつの世帯ぶりなのであった。

 姉がいなくなってから、気分が落ちていた父も、この仕事をまかされたことで、かなり意気があがってきたようだった。姉が九州へ嫁いでしまって淋しくなったとはいっても、八人家族の大所帯なので、にぎやかなことには変わりはない。

 この仕事をもらったことで、父も母もつかの間の安堵の日々になっていた。

 父が機嫌がよくてにこにこ暮してくれることが、母にも、子供たちにとっても、なによりのしあわせ、心の平安なのであった。

 ともすればすぐいらだちがつのって怒りだす父の性格と付きあうことは、家族にとって地獄にもひとしい時間なのである。

 この仕事を受けたころは、布施のドブロク屋へ買いにいくことはなくなって、近所の酒屋で、日本酒や焼酎の計り売りが、付けで買えるようになっていた。

 酒が買えるといっても、わが家では一升瓶で買うというゆとりはなくて、五合瓶をさげて酒屋に行き、一合の酒を枡で量ってもらって買ってくるのである。大抵は一合づつ買うのが日課である。しらふの時の父はおだやかで、はじめから二合買ってこいということはない。母の手前そんなことはしなかった。

 しかし、一合が空になると、もう一合の追加を必ず要求してくるのである。この要求に必ず抵抗しないわけにいかないのが母の立場である。だが、この抵抗に母が勝ったことはいちどもない。子供のだれかが、あきらめた母の顔を見ながら、瓶をさげて酒屋に向かうのである。

 「またかね」

 と苦笑しながら、酒屋のおやじは酒を計って入れてくれる。こうして酒屋へ何度も瓶をさげて通い、酒屋のおやじの小馬鹿にしたような態度は、屈辱感なしにはすまないのだがだまって入れてもらうしかない。父には、家族のだれもが抵抗ができないのだった。

 だが、神戸製鋼の製図入れは、こうした状況をかなり変化させることになった。

 父は、日本酒や焼酎ではなく、当時売り出されて間のない、トリスウイスキーを一瓶もらって来いというようになった。

 トリスは、晩酌と、朝の出がけにも一息でダブルほど飲み、昼飯前用にちいさな金属の携帯瓶に入れて、仕事にも下げていくのであった。

 「あれだけの仕事をするんだから、トリスの一本ぐらい安いものだ」

 というのが、父の主張だった。

 酒屋へ付けでトリスを一日か二日おきぐらいに一本づつもらいにいくと、数本目になったとき

 「一本いくらか値段を知ってるのかいな」

 といいながらしぶい顔をしておやじが渡してくれた。調べてみると、売り出された昭和二十一年にはトリス一本が十六円から、まもなく三十六円に値上がりし、次には四百九十二円とあがり、あっという間のインフレで翌年の夏過ぎには六百五円にもなっていた。

 父が買っていたのは六百五円のときで、当時としては高価なもので、指物の職人風情が頻繁に購入できるようなものではなかったろう。

 約一ヶ月後、ウイスキーが九本目になったときに、製図入れの仕事はつつがなく終わった。だが、この仕事が終わってから、まとまった給料がもらえると喜んでいたその月末になって、会社が資金繰りがつかなくなり、給料が支払われなくなった。

 社長が、金策に走り回っているから、待ってくれと従業員に頭をさげて弁解したが、給料は支給されないまま何日かが過ぎた。

 会社に隣接して、社長宅があり、奥さんと社長の親のばあさんが住んでいた。

 母はある日私を伴ってそこへ押しかけた。

 私はそこのばあさんをひどく憎悪していた。ばあさんは、作業時間中に工場のなかへおおきな竹篭を腕にひっかけて入ってきて、私が機械のスイッチを入れて丸鋸を回して家具の木材加工をしていると、切り落とした木材の端切れを、丸鋸の近くまで手をのばしてきて掴んで取るのであった。

 「おばあちゃん。危ないですよ」

 といっても、素知らぬ顔で、いじわるばばあそのままというか、歯抜けの口元をむっと閉じて、人の顔を見てもにこりともせず、高速回転の機械鋸の刃のすぐ傍へ平気で手をのばされると、こちらはいらいらしてきて、気が散って仕事にならないし、ほんとうに危なくて仕方がないのである。取りそこなったりして、木切れが刃に触れると、キンと音をたてて、機械を使っている人の方に飛びはねてくるのである。運わるく目にでも当たれば失明しかねないのだ。

 仕事をして出てきた木切れで、当時は木工所に勤める職人の家庭は、竃で飯を炊いたのである。ばあさんは、私が夕方になると木切れをいっぱい詰めた袋を下げて帰宅するのを知っていて、わざとそうするのであった。

 このばあさんは、おだやかな顔をした人のいい門衛のおじさんに、工場でできた木切れは、無断で持ち帰ってはいけないという規則にしたから、退社するひとが木切れをもって帰らないように、目を光らせなさいとある日命令したのである。

 昭和二十三年六月二十八日の夕方、父と私が、木切れを袋に入れて工場の門を出ると、門衛のおじさんが後を追っかけてきて、

 「先日から、たきぎは持って帰ってはいけないという、社長命令がでたので、私はお持ちになっているのを調べたりはしませんが、これからお帰りのときには、そのことを忘れないようにお願いいたします」

 と、いかにも申し訳なさそうにいうと、お辞儀をして、守衛室へ入ってからもなおこちらを見ながら頭を下げていたのである。

 あのいじわるばばあの命令なんだと思った。

 「気にせんでええ」

 父は笑いながらいった。

 父と並んで歩きはじめると、突然大地がぐらぐらと揺れた。それが三千七百人以上の人が亡くなった福井地震だったということはだいぶ後に知った。 

 

 母は私を連れて、社長夫人とこのばあさんの住まいへ押しかけていき、傍に井戸のある勝手口のところで談判した。

 「すこしでもお金を都合してくれなければ一家心中するしか途はありません。私はこのままここに座り込んで、お金をくれるまで帰りません。どうしてもくれないというなら、この子と一緒に、この井戸に飛び込みます」

 めったに強いことなど人にいわない母が頑張ったが、右目と右頬を顔面神経痛でゆがめた社長夫人は、

 「なんとかしてあげたいのは、やまやまですが、私も飛び込みたい思いです。あの人はもう何日も帰ってきていません」

 と、ぼろぼろ涙を流すのであった。

 「無い袖は振れんじゃろ」

 と歯抜けのばあさんもしたり顔で応援するのである。

 母にはほかにまったく金策のあてもなく、五万五千円もの手間賃が月末にはもらえるはずで、それを当て込んで父は、六百五円もするトリスウイスキーを毎日飲んで九本も酒屋にツケを増やしながら頑張ったのに、なにもかもあてがはずれ、まったく晴天の霹靂であった。

 すでに何日も前から財布が空になったままで、米びつも、塩までも切れてしまって、一家は途方にくれていたのであった。

 「ものが切れるときは、ほんとうに塩までなくなるわねぇ」

 母がそういって嘆いたのは今朝のことだ。

 「帰ろう博之。毎日来ますからね」

 吐き出すようにいってあきらめて立ち上がった母は、会社をあとにして歩き出したが、

 「この近所に張屋の東さんの家があったねたしか」

 東さんは、父がなかなか腕のいい職人だと感心する椅子張りの職人の親方で、東さんも、父の仕事に一目置いてくれていると、父が話していたのを母は思い出したのであった。

 そこの家に行ったことはなかったが、いつも前を通るので知っていた。

 「ここだよ」

 私が指さした平屋の家に、母は私をうながすようにして入っていった。東さんには子供がいなくて、その時、三十半ばの和服を着た奥さんと向かい合って夕食をしているところだった。玄関の下駄箱の上には万年青の鉢が置いてあり、夫婦ふたりの整頓された暮らしぶりがうかがえ、雑然としたわが家とは大違いであった。 

 「突然こんな時間に厚かましくお邪魔して失礼します」

 母がか細い声で挨拶した。母は東さんとは初対面だったが、私がいるので

 「どうぞ、ご遠慮なくお上がりください」

 といぶかしげなそぶりもなく、座敷に招じいれ座布団をすすめてくれた。

 母は遠慮がちに、座敷にあがって端のところに座り、座布団を横に押しやって深々と頭を下げた。

 「なにか、ご用事で来られましたか」

 「通りかかったのです。今日は会社へ、すこしでも給料をくれないかと交渉に行ったのですが、社長はいませんし、奥さんにお目にかかりましたが、どうにもしてくれず、会社の井戸にこの子ともども飛び込みますとまでいいましたが、社長の奥さんは、私が飛び込みたいなどという始末でした」

 母はそういってうつむきこんだ。

 東さんはなにもいわず奥さんに目配せすると、奥さんが紙幣をだまって持ってきた。

 「これを使ってください」

 東さんが母の手に千円札を載せた。

 母はしばらく拳を握りしめていたが、

 「なんともいえません。恩に着ます」

 母はしばらく俯いたままで、やがてはらはらと落涙し、左手に握りしめていたハンカチで顔をぬぐい、深々と頭をさげた。

 「ご恩は決して忘れません。初対面なのにこんなはずかしいことを…」

 「困ったときは相身互いです。お役に立てたら嬉しいです。私たちは気楽にやれていますから、どうぞ。ご主人の仕事にはいつも頭が下ります。よろしくお伝えください」

 東さんは、毛糸の腹巻きを押さえながら、私の目をじっと見据えた。

 私は頭は下げたが、礼はいえなかった。母の無念を思うとことばなど出せなかった。

 たしかに東さんの親切は骨身にしみるが、ここまで母を進退谷まった状況に追い込んだなにかに、心底憤ろしかったのであった。

 今夜と明日ぐらいはこの金で一家の身過ぎができるかも知れないが、それから先にはなにが待っているのだろうか。

 東さんのお宅を辞してから、家へ帰るまで母は黙りこんだままだった。

 

 父と私は、給料はくれなかったが、なんとかするという社長のことばに、やがてくれるだろうと希望を持ちながら出社して、仕事はしていたが、会社があぶないというのがみんなの見解だった。会社に出ても仕事はなかったのでみんな仕事を探しはじめていた。

 倒産すれば、社宅もやがて出ていかなくてはならないだろう。

 そう思って、母は、府営住宅や市営住宅の申込に専念するようになった。社宅の人を誘っては市役所や府庁へ申込に行くのだが、抽選になると必ず落選だった。

 夫婦そろって運は弱かったのだ。

 同伴して申込に連れていってあげた人が、初回で当選したりしたが、母は二十回を過ぎても、当選確率の高いほうに回されたということだったが、結局当選にはならなかった。

 給料はくれず、父に仕事は見つかりそうもなく、父は玄関が壊れたままの自宅の奥の廊下で、子供が腰掛けるのにちょうどいい折畳み式の椅子をこしらえたり、大人が寝そべる安楽椅子をこしらえたり、おもちゃの小舟をこしらえたりして、それを私と弟とで、今里の駅前へ行って並べて売ることを思いついた。売るというより、売れるだろうと想像して並べただけといったところか。

 何日か頑張ったが、買ってくれる人はほとんどいなかったからである。

 露店で店を出してものを売るという行為には、じつに恥ずかしい思いが伴う。

 勇気がいる。みんなが見ている。知っているだれかが見るかもしれない。見られるかもしれない。見たらきっと笑うだろう。

 みんなが笑う。嘲笑って見ているような気がしてくる。しかし、そういう気がしているのは自分だけで、ほんとうは粗末な破衣をきて、路傍でものを売る子供のことや、ましてその子のこころのなかの葛藤など、だれひとり忖度などしてくれるはずはない。滅多にひとがしない経験を積もうとすれば、そういう自問自答を経ないではすまないものだ。

 ある日、俯いて地面をなぞっている私の前に影が写った。

 中年の男が見下ろしていた。

 「ぼく、なんぼか売れたか」

 私が手の平に握っていた、その日の百円足らずの売り上げの硬貨を見せると、

 「それだけか。なあ、ぼく、ここでものを売るのやったら、しょば代をもらわんといかんのや」

 という。

 見上げると、四十半ばの日焼けした男が、ぎょろりと光る目で、私の顔と並べてあるものをじっと眺めている。

 「お前んとこのお父さんが作ったんか」

 うなづくと、

 「ぼく、年はなんぼや、学校へは行ってへんのか」

 返事をする前に涙がたまって流れてきた。

 だまったままうつむいていると、

 「だれかが来て、しょば代のこととか、なにか文句をいわれたら、三尺のおじさんにいうてある、といいや」

 といって、去っていった。

 三尺というのは、三尺組という看板をつけた家の前を通ることがあるので、今里あたりを縄張りにしているヤクザの組だということは知っていたが、そういうひとたちと口を利いたのははじめてだった。

 しょば代というのがなにか知ってはいたし、その後も何日か店を開いたが、男は二度とやってこなかった。

 店を張っていると、たまに立ち止まって見てくれる人がいたりしたが、折畳みの子供椅子がなかなか良く出来てるといいながら、自分で作るからといって、手に取って寸法を計って帰ったりする厚かましい男もいたが、私は文句もいわないで、男のすることをあきれて見ていたりした。

 夕方になると、今里駅前の新聞売りの出店には、子供たちの行列が並んだ。

 私も、店をほったらかして、行列に加わった。夕刊の大阪新聞を買うためであった。

 大阪新聞は入ってくる部数が限られていて、じきに売り切れてしまうのである。他の新聞もあったかも知れないが、大阪新聞の求人欄には、求人広告がいちばん沢山掲載されているので、だれもが大阪新聞を買いたがるのであった。露店を出す前から、父の仕事を探す求人欄が目的で、大阪新聞を買うために、夕方になると駅へ向かうのだった。

そうやって並んでいても、必ず買えるとは限らず、売り子のおじさんは、半分残して隠したまま“売り切れだ”などと、意地のわるいことをいったりして子供を追い払ったりもした。残りは夜遅く電車を下りて買う客のために残すのだ。

 二ページだったかの薄っぺらな新聞だが、買うことができると、家に持って帰るまでに私はほとんど目を通してしまう。

 囲碁の天才少年、橋本昌二の活躍などという見出しが記憶に残っている。どうやら私と同世代の少年が、囲碁で注目されるような活躍をはじめていたらしい。そんな、華々しいことをするすごい少年が日本にいるのだ。

 学校へも通えず、人にそのことを聞かれてすぐ涙ぐんでしまうような、泣き味噌の自分のみじめさと引き比べて、すごい奴がいるなと思いながら、売れなかったわずかな商品を片づけて家へ向かうのだった。

 露店を出しても、ほとんど売れないので十日もしないうちに止めてしまった。

 夕方になると、大阪新聞を買うために駅へ行って行列に並んだが、昼間は鉄くずを拾って売りに行くことにした。近所には、小さな鉄工所などがあちこちにあり、鉄くずなどは不法投棄されてしまうことが多く、路傍のあちこちに錆びた状態で埋まったり、転がったりしているのであった。そういうものを拾ってきて売れば金になるということを知ったのは、朝鮮人の友人の孫君に教えられたからであった。

 寄せ屋と呼ばれている、庭に金属のくずが山と積まれた朝鮮人が経営している店があって、そこへ持っていくと重さを計って買ってくれる。鉄屑は一貫目十円、真鍮などの色物は、倍の値段で売れるのである。

 そういう資源がまた必要になるようなことが、翌年には朝鮮戦争が始まろうとしていた頃だった。

 

 会社は結局倒産してしまった。

 給料はもらえないままだったが、思い掛けないことに、神戸製鋼の仕事で得た報酬の代価として、住んでいる社宅が時価相応だということになって、自分のものにしてくれることとなった。

 家一軒の給料現物支給であった。

 公営住宅の当選を心待ちしながら奔走していた家族にとっては、家賃の心配がいらない家を自分のものにできるとは、大した朗報のはずであった。飛び上がって喜ぶようなことに違いあるまい。

 だが父も母も、この現物支給を前に途方に暮れていたのだった。家の名義が父のものになったところで、さしあたって暮しの目処が立たないでは、明日はやってこないのだ。

 だれが、どうやって差し迫って必要な財布を満たしていくのか。はたして八人の家族が生活の必要を満たすことができるような収入が得られる仕事が早急に見つかるだろうか。

 収入のあてがなければ、借金もできないし、この時代には底辺の人間が金を借りられるような所などどこにもない。

 庶民が現金を得ようとすれば、質屋しかないのである。それも質種があればの話しで、わが家では、質種になるような金目のものなどもはや持っているはずはなかった。

 大阪新聞の求人欄を熱心に見つめても、木工の職人の求人は見あたらなかった。

 年末が近づいてきてどうやって年を越そうかとかと考えはじめる初冬に、会社で一緒だった人の紹介で、山下と植田という男二人が父を訪ねてきて、いい仕事があるから協同経営をやらないかといってきた。

 父と同年配のふたりは、詳細に計画をはなした。ふたりの知りあいに、小さな木工所があり、機械も揃っている。その木工所の了解はすでに得ていて、機械を使わせてくれるので、仕入れた桧の材木をプレナーにかけて寸切りをした板をここへ持ち込むから、鉋で仕上げをして欲しい、という話だった。

 どうやら、山下から起こった話らしく、植田はうなづいたりしながら、だまって山下の話しを聞くばかりだ。

 「なんの板ですか」

 「蒲鉾の板です。どこも蒲鉾板が不足していて、何軒もの蒲鉾屋が困っているので、競って買ってくれますから、ようもうかりまっせ」

 「蒲鉾板か」

 父はしばらく考えこんだ。私は横で話しを聞きながら、すぐやりますといわない父がじれったかった。

 蒲鉾板を削る仕事などは、腕のいい指物師からいえば、受けられるような仕事ではないだろう。だがこの際、そんなプライドよりも、わずかでも収入になることが、大切なのではないだろうか。

 「よろしい。やってあげましょう」

 父はこれを引き受けた。なんであれ仕事が

あるということは、このさい僥倖と思わねばなるまい。

 翌日にはさっそく、リヤカーで板を運んできた。リヤカーいっぱい程度の板ぐらい削るのは、私ひとりでやってもそんなに時間がかからない。

 母やきょうだいも一家総出で積み下ろして、父と私と弟と三人で蒲鉾板を削った。向かいの家の工務店の奥さんが通りかかって、

 「蒲鉾の板みたいやね」

 と言われたのにはびっくりした。こういう形の板を見て、蒲鉾板と見抜くのは、ずいぶん慧眼ではないだろうか、と思いながら、数日間、つぎつぎとリヤカーで持ち込まれる板を削った。

 数日後、この板を鶴橋の蒲鉾屋に納品するので、手伝ってくれというので、百枚ごと結束した蒲鉾板を大八車に積み込んで、植田が曳く車の後押しをして、鶴橋の蒲鉾屋へ行った。

 市電の通りに面した蒲鉾屋で、軒端には欅の大きな一枚板に、格調高い書体で彫り込んだ金文字の看板がかかっていた。

 車の横を押しも曳きもしないでついてきた山下が、先に店に入っていってしばらくするとでてきた。

 「あそこにとりあえず下ろすのや」 

 店の奥に上がり框があってそこから先は座敷になっている。

 荷を解いて百枚づつ結束した板を順々に運んだが、店の床は油でぬるぬるしていて、辷りそうで恐くて仕方がない。店内は狭くて、気をつけないと、油の入った鍋がいくつも乱雑に置いてある。

 座敷の入り口に置けなくなったので、店のおじさんにそういうと、

 「こちらの都合も聞かんと持ってくるからや。困った奴や。ここへ置いてんか」

 なにかものを積み上げてある上に置けというので、そこへいくつか背伸びしながら置いていると、がらっと下が荷崩れして、傍らの大きな鍋が辷っていって、入っていた油が床一面にひろがった。

 泣きそうな顔をしていると、

 「かまへん、それは捨てるように置いてあった油やから」

 といってくれたのでほっとして、掃除をしようかとまわりを眺めていると、山下は、

 「そのままでええねん、帰ろ」

 口をとがらすようにしながら、店の人に挨拶もしないで、さっさと車をほったらかして歩いていった。

 私は、植田に車をまかせて帰った。山下と植田はそれっきり顔を出さなかった。金などまったくもらわず、ただ働きだったのだ。

 母が、木工所へ問合せにいったら、

 「あいつら、散々迷惑かけておきながら、一銭もはらわん、けしからん奴等や」

 こうして、蒲鉾の板が数日わが家を素通りしていっただけだった。

 

 間もなく年末になろうとしていた。

 父と母は、ときどきこのままでは年が越せないという話をしていたが、年が越せるというのは、正月の神棚にお供えするものとか、おせちとか、子供のお年玉とか、飾り玉を付けるとか、故郷の徳島の家でやっていたことができることを指すのだろうか。

 そんなくらしができるとか、したいとかいうような優雅な話ではないのだ。

 必要が、所有をかぎりなく上回っていることが、年を越せないということで、正月という区切りがあろうがなかろうが、そんなことには関係のないきびしい生存の状態なのであった。

 

 年末も押し詰まってから、ダブルの背広を着込んだ大柄な中年の男と、和服を着て、上等そうなハンドバッグをもった夫婦らしいのが、夜になってからやってきた。

 男は五十代の後半だろうか、丸顔で筋肉質の太ったからだをしていて、赤ら顔がてかてかひかり、唇がぶ厚く、かなり贅沢な食事を毎日している人なんだろうと思った。玄関に脱いだ黒い靴がやけに大きく見えた。女性は玄関の戸に驚いたふうだったが、先にあがった男の靴を出船に置きかえ、小さな草履を横に並べてから座敷にあがってきた。

 「子供はあちらへ行ってなさい。大人の話なんだから」

 母にとなりの部屋へ追い払われた。

 「こんばんは、先日はお越しいただいてありがとうございました。今日は専務をお連れいたしました。見ていただこうと思いまして。こちらが山内さんと、奥さんです」

 先に挨拶したのは女のほうで、話しの様子では、父か母がこの女を訪ねてなにか頼んだ様子であった。

 「奥さん、お茶は結構ですから、さっそく要点に入りましょう」

 「よろしくお願いいたします」

 「先日お話したこちらの条件について、もうお二人でご決断していただいたでしょうか。なにしろこんなご時世ですから、先日の条件でよろしければ、買わせていただきます」

 「なんとかもうすこし色をつけてくれませんか。相場よりかなり安いと私どもは思うのですが、せめてあとこれくらいは」

 父がこれくらいはというのは、なにをしているのだろうか。

 専務だと紹介された男は、

 「なにしろ、ここは長屋ですからね。一戸建ちの家なら、買っても処分しやすいですが、長屋なんだから、こちらも、いつ売れるかわからないものを買うことになるんですから、これが限度なんです。なんだったら他所にあたってくださってもかまわないですよ」

 父と母は、せっかく自分のものになったこの家を売ろうとしているのであった。

 なぜだ。あれほど住むところがなくて、苦労して、流れ流れてやってきて、やっとこんな願ってもない家が自分のものになったのに。どうしてだ。

 給料の現物支給で、せっかく家をもらっても、その日その日の口過ぎがかなわなければ、こんな連中に足下を見られながら、手放さなければいけないのか。

 私たちきょうだいは、隣の部屋で息をひそめるように耳をそばだてていた。なにかがまた起こるのだ。また当てもなくどこかへ引っ越しするのだろうか。私は幼い弟と妹を抱き寄せて、父と母の悲痛に聞えてくる声を、燃えたぎり煮えるような頭の芯で聞いていた。

 そんなことがあってたまるか。

 どのような結末がついたのか、男と女が帰ってからも、父も母も黙り込んでいた。

 

 正月までに、引っ越すことになった。

 屋根の上にブリキを葺いてあげた永井さんが、事情を知って、二階を無料で貸してあげるからと申し出てくれて、その親切に甘えることにしたのであった。

 いつか母と無心に行った東さんの家を二度と訪ねることはなかった。

 トリスウイスキーの代金も支払わないままになってしまった。

 昭和二十五年の正月はそこの二階で迎えた。              


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