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True April Fool

作者: 水也
掲載日:2014/04/01

 背の高いビルが立ち並ぶ街の中心部。

 街を貫く私鉄の駅前に広がる繁華街の片隅。

 サラリーマンが立ち寄りそうな小ぢんまりとした居酒屋の並ぶ一角からは少し離れた、比較的大きな店舗がひしめくエリア。


 交通量の多い道をガードレールに沿って駅から歩いてきた俺は、道路脇にちらほらと並ぶ、酒の種類や値段が書かれた立て看板の一つの前で立ち止まった。


 一枚のハガキを片手に、その看板を出している店の、一つ隣の店の上部に首をめぐらせる。

 そちらの店は看板を一切出しておらず、入り口も飲み屋ではなく小奇麗なレストランといったつくりだった。

 そこが、ハガキに記載されている店であることを確認し、ドアを開けて中へ入った。


「よう、慎二!」


 中に入ると、すぐに名前を呼ばれた。

 呼んだのは俺と同じくらいの背丈の、浅黒く焼けた肌の男。

 俺が持っているハガキの差出人――のはずだ。


「康太?」


 俺は片手を上げると、確認するようにその名前を呼び返した。

 間違ってはいなかったらしく、相手も軽く手を上げ返してきた。


「ひさしぶりだな。っと、とりあえずハガキくれるか。誰が来たかチェックしとくんでな」


 康太は店に入ってすぐ正面に設置された長机の奥に立っており、そこが受付になっているようだった。

 俺は言われたとおりにハガキを渡し、康太が名簿の中の「瀬良慎二」という俺の名前のところにチェックを入れるのを見ながら訊いた。


「もうみんな来てる?」

「ああ、だいたいな。あと4、5人ってとこか。

 そっち、左から入ってくれ。席は適当でいいから、空いてるとこに座ってくれればいいぜ」

「わかった」


 受付の横からは軽くカーブした通路が延びていて、そのすぐ左側とずっと奥の右側に、ガラス張りの両開きのドアがあった。

 俺は、康太が指した左側のドアを押し開けて会場に――


 入ろうとして、一瞬手を止める。

 部屋の中からは先客達が談笑する声が聞こえてくる。その明るい声がする部屋にすぐに飛び込んでいくべきかどうか……


 数秒悩んだ後、受付を振り返る。

 しかし、すでに康太が次に来た人間の受付を始めているのを見て、ため息をついてドアを開いた。



     ◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 俺、瀬良慎二のもとに同窓会の招待状が届いたのは、今から3ヶ月前、年が変わってすぐのことだ

った。


 小学校5年生――ちょうど10年前の当時のクラスメイトで一度集まりましょうというその招待状は、古河康太という名前で出されていた。

 中学入学とともに引っ越して別の校区へ移った俺は、小学校の友達とはそれきり付き合いがなくなったせいで大半の顔と名前を忘れていたが、その名前は記憶に残っていた。

 どこのクラスにも一人はいる、にぎやかでみんなの人気者といった感じのやつだった。


 当時のことを考えるなら、あいつが幹事をするのは妥当だろう。

 とは言え、名前を覚えていても記憶が10年前じゃ心許ない。

 受付にいたから康太だろうと思ったが、いまいち自信はなかった。結果当たっていたわけだが……


 そんなわけだから、会場に入ったとたん、俺は少し後悔していた。

 何をかというと、昨日のうちに卒業アルバムを見てこなかったことだ。

 会場にはざっと30人弱の人がいたのだが、顔を見てすぐに名前を思い出すことができたのはたったの3人だけだった。

 その3人というのも、担任だった首藤先生と、引っ越すまで家が近くでよく遊んでいた雄介、幸平の2人だけだ。


 他は、なんか見たことあるというレベルと、まったく誰だかわからないというレベルに分けられるくらい。

 中には相手の方から俺に呼びかけてくるやつもいて、そんな時は忘れたと言いにくくて、あいまいに話を合わせるしかない。


 会場は絨毯の敷かれた小さなパーティ会場といった感じで、丸テーブルがいくつか配置されている。

 幸い先に挙げた雄介の隣の席が空いていたので、俺はそこに座って専ら彼としゃべっていた。

 やがて全員がそろい、幹事である康太がマイクの前に立った。


「えー、今日は久しぶりに集まっていただいてありがとうございます。

 ……なんて堅苦しいあいさつは似合わないから、やめとくな。今日の参加者は、首藤先生を入れて全部

で28人です。残念ながら残りの13人は日程が合わなくて来れないそうです。

 まあ、4月1日なんて、大学でも手続きとかある人もいるだろうし、社会人になってたら春休みってわけにもいかないだろうし、本当ならもっと違う日にしたかったんだけどさ。

 ずらそうとするともっと後に延びちまうんで、今日この日に集まってもうらことしました。

 今日来れなかった人の分も、懐かしい顔をお互い会わせて楽しみましょう」


 簡単なあいさつの後、首藤先生にマイクが渡される。

 小学校の頃から言葉少なな人だったけれど、今回も非常に短いあいさつだった。

 それが終わると、テーブルに料理が並べられ、グラスにワインが注がれた。そこからは立食形式になり、各々好きなところへ移動してしゃべり、食べることになった。


「おーい、雄介、慎二!」


 離れたテーブルに座っていた幸平が駆け寄ってきた。

 先生にマイクを渡してから同じテーブルについていた康太と、あと一人俺が名前を覚えていない女もいっしょにひとまず乾杯する。

 康太は飲みなれているらしく、一回グラスを傾けるだけで全部飲み干してしまった。

 そして、すぐにまた波々と注いでしまう。少し口をつけただけの俺とはえらい違いだ。


「おいおい、いきなりそんなに飲んで大丈夫か」

「へへっ、なめてもらっちゃ困るぜ。大学のサークルで鍛えられてるからな。こんなもん水飲んでるようなもんだって」

「瀬良はあんまし飲めないの?」


 女に訊かれ、俺はドキリとした。

 相手は俺の名前を覚えているらしい。が、幸いにして女の名前はすぐに康太が言ってくれた。


「そういう藤村も飲んでねーじゃん」

「あたしはいーの。女の子だもん」

「またまた、ネコかぶりやがって」


 そう、藤村。藤村だ。

 一度名前が出てくると、すんなりと納得できる。


「いつもはこんなもんじゃねぇんだぜ。もう底なしに飲むんだ」


 笑いながら藤村を肘で小突く康太に、俺は首を傾げた。


「よくいっしょに飲むのか?」

「ああ、大学いっしょで、サークルも同じだからな。飲み会でちょくちょく」

「へぇ、そうなのか」

「小学校からずっと同じだからな。ま、腐れ縁ってやつだな、ハハッ」


 同じ大学、か。

 そう、地区が同じだから、高校まではこの中でも同じだというやつはけっこういるんじゃないだろうか。

 中学で引っ越してしまった俺にはそれはない。

 大学でなら誰かと同じになる可能性もあるのだろうが……あいにく、俺は今学生じゃないから、それもない。


 浪人してるわけじゃない。一旦入って、辞めたのだ。

 3年前に俺が入学したのは、実家がある県内のとある美大だった。もともと絵を描くのが好きで、小学校6年の頃にはすでに画家になることを目標としていたから、それは至極自然な選択だった。


 が、今は大学生じゃない。何がいけなかったのかは自分でもよくわからないけれど、俺にはその美大が肌に合わなかった。

 入学から1年経ってそう思うようになった。そして、退学して今はフリーターの身だ。


 別の美大に入る気はなく、アルバイトをして暮らしている。

 藤村は俺が絵を描いていたことを覚えていたらしく(こっちは全然覚えていないというのに、頭が下がる)、美大に入ったのかと訊かれたのでそう答えた。


「辞めちゃったの? ふ~ん、それでかぁ」

「それでかって、何がだ?」

「いやね~、前に高校の友達の大学に遊びに行ったときにさ、近くの美大で絵の展示会してるっていうから見に行ったのよ。そこに瀬良慎二って名前が入った絵があったんだけど、あれってあんたよね?」


 そう言って藤村はその美大の名前を挙げる。そこは、三年前に俺が入学した美大だった。

 確かに、あの美大では数ヶ月に一度、生徒の絵の展示会を行っていて、俺の作品も数回展示されたことがあった。


「でね、半年くらいしてからまた遊びに行ったときに寄ってみたら、その時もやってたのよ、展示会。でもその時には瀬良の絵はなくってさ」

「いつ頃だ、それ?」

「2年の時の夏前だから……1年くらい前かしら」

「ああ、その時にはもう辞めてたよ」

「やっぱり、そうなんだ」

「そういえば慎二ってよく絵を描いてたよな。美大に入ったってことは、画家とか目指してんだろ? 絵はどうしてるんだ。やめちゃったのか?」

「それは……」


 雄介に聞かれ、俺は即座に否定することができなかった。

 絵そのものはやめていない。画家への夢は持ち続けているし、退学したあとも自宅で描き続けている。


 ……いや、描き続けていた、と言った方が正しいかもしれない。

 ここ数ヶ月、まったく描いていないから。


 描かないんじゃなくて、描けなくなったのだ。描きたいという気持ちはあるのに、いざキャンバスに向かって描き始めるとなぜか力が抜けてしまう。

 描いていて楽しくならない。


 いくら描いても認められないことが原因の一つだろうとは自分でも思う。

 美大にいたときも、展示会に出しこそすれ教授の評価はどれもいまいちだった。

 美大をやめてからも、いくつもコンクールなどに出してみたが、そのどれも、見向きもされなかった。


 もちろん、そんなに簡単に上手くいく世界でないことはわかっているつもりだけど、じれったい思いが募ってしまう。

 実を言うと、今日この同窓会に来たのも気晴らしのつもりだった。

 画家を目指し始めた頃の友達と会って、何か自分で掴めやしないかと、ひどく漠然と考えていた。


「絵は続けてるさ。バイトしながらだけど、独学でなんとかやってる」


 結局、俺は意地からそう言わざるを得なかった。


「雄介と幸平は? 大学か?」


 康太の問いに、二人とも頷いた。雄介は東京の大学に、幸平は県内の大学に通っているという。


「ところでよー、最初っから気になってたんだけど、康太ってそんなに色黒かったっけか?」


 幸平が康太の肌を指差して言う。


「馬鹿、地なわけねーだろ。焼けてんだよ」

「この季節にかぁ?」

「スノボ焼けだよ。今年は4回も行ったからなー。あと、温泉も行ったし」

「よく金あるな。バイト何やってんだ?」


 やがて、話はそれぞれの大学生活の話に移っていった。

 1年間しかそれを経験しなかった俺は、ただ話を聞いているだけ。サークルにも入らなかったので、康太たちが話す内容は俺にはまったく縁のないことばかりだった。


 だが、聞いていて感じるのは、誰もがその生活を満喫しているということだ。

 やはり高校とは違うというのが大勢の意見で、特に実家を離れて一人暮らしをしているやつが顕著だ。


 ……なんだろう、この輪の中には長くいたくない。

 この輪の中にいると疲れてしまう。


 久方ぶりに会った級友たちと話したいという思いとは裏腹に、俺はその場にいることに奇妙にもどかしさを感じた。


 みんなの口から語られる現状には、何の不安要素も含まれていない。ただ話していないだけなのかもしれないけれど、俺だけが上手く行っていないような気がしてしまう。

 壁際に目をやると、テーブルに据えられているのと同じ椅子がいくつか並べられていて、そこはどの集団からも少し距離が開いていた。


 少し、あそこで休もう。


 どうしたと聞く康太に少し酔ったと答え、俺はグラスを持ったままその場をすっと離れた。



     ◇◆◇◆◇◆◇◆◇



「どうしたの、瀬良くん」


 ひとりワイングラスを弄んでいると、横から誰かがすっと近づいてきた。

 そっちに顔を向け、俺は相手に聞こえないくらいに口の中でうめいた。


 相手は小柄な女で、肩で切りそろえた黒髪と青いワンピース、明るい柄の長めのスカートといった出で立ちだった。

 あまり化粧をしていないせいか、他の女達に比べて垢抜けていない感じがする。


 まいったな……覚えてない顔だ。


 当然、小学校の頃からはだいぶ変わってはいるだろう。

 どこか面影に覚えがあるような気はするのだが、名前が思い出せない。


「あっちじゃ古河くんたちが随分盛り上がってるよ。こんなとこで座り込んじゃって、お疲れかな?」

「疲れちゃいないけど。まぁなんだ、ちょっと酔っちまって」


 本当はみんなの中にいるのが"疲れて"しまったのだが、酔っているというのも本当だ。


「ふぅん、瀬良くんってあんまりお酒強くないんだ。ま、意外じゃあないかな」

「なんだよそれ、俺って酒弱そうに見えるのか?」


 笑顔で言う彼女に笑い返しながら、俺の頭は名前を思い出そうと回り続けている。

 まあそんなに長く話しこまなければ大丈夫だろう。そうでなくとも、このまま当たり障りのない話をしていればいずれ思い出すキーワードでも出てくるだろうから……

 そう考えていると、女はそのまま俺の隣の椅子に腰を下ろした。


「ねぇ、瀬良くん」


 そして、少し上体をかがめて俺の顔を覗き込んでくる。


「うん?」

「私のこと、覚えてる?」

「えっ!?」


 いきなりの質問に、俺は思わず声を裏返らせてしまった。それを見て、女の顔に落胆の色が現れる。


「やっぱり……覚えてないんだ?」

「いや、その……」


 なんとか記憶の中から搾り出そうとするが、ほんの数秒では到底無理だった。

 仕方なく、俺は頭を下げた。


「わりぃ、ちょっと名前が出てこなくてさ」

「名前だけ? 顔も名前も、ぜーんぶ忘れちゃってるんじゃないの?」

「んなことないって!」

「ホントかなぁ~?」

「本当だって」


 なんか、やっぱり気がひける。

 誰かの面影があるなとは思うが、昔のクラスメイトを並べてみてあぁあいつだ、という顔は思い出せない。こういうのは、顔も忘れてしまっているということになるんだろうな。


「あ~あ、ひどいなぁ。ファン第一号を忘れちゃうなんて」


 名前のわからない女は足をブラブラさせて上を向くと、ため息を吐き出しながらつぶやいた。


「は? ファン第一号?」


 俺は彼女が何を言っているのかわからず、眉根を寄せてその横顔を見る。

 すると、上を向いたまま視線を横に流した女と視線がぶつかった。


「そ。瀬良くんの絵のファン第一号。私が見せてもらったのはクジラの絵だったよね」

「絵……?」


 俺の絵のファンだって?


 クジラ?


 …………


 その言葉が頭の中に収まって脳を駆け巡るとともに、俺はそれを思い出していた。


「ああ! お前……七沢!」

「ぴんぽーん。よかった、思い出してくれたんだ」


 彼女は――七沢はうれしそうに笑みを浮かべた。

 そうだそうだ、なんで忘れてたんだろう。俺が絵を描き始めた頃、まだ本格的に画家に憧れてはいなかった頃だ。

 俺が描いた拙いクジラの絵を、偶然クラスの女の子に見せたことがあった。

 青く塗りたくった海に、別の青で塗りたくった空。いちおう雲は浮いていたけれど、どれも先生がテストにつける花丸みたいな形だった。


 そこに、クジラが浮いている。

 なんでそんな風に描いたのかは忘れてしまったけれど、その絵の中のクジラは盛大に潮を噴き上げながら、海の中じゃなくて空の中を泳いでいた。


 それをとても気に入ってくれたのが彼女――七沢泉美(いずみ)だった。

 そして、言ってくれたんだ。

 「瀬良くん、絵描きになったらいいと思う! そしたら、あたしが瀬良くんの最初のファンね!」と……


 俺の中で画家への願望が明白に強くなったのはそれからだ。言わば、俺に画家への道を目指すきっかけを与えた女。

 思い出すと同時に、俺はさしてクッション性のない椅子の背もたれに最大限沈み込み、脱力した。


「そっか、七沢かぁ。なんでわかんなかったんだろ、俺」


 その後も幾度か、描いた絵を見せていたというのに。


「仕方ないよ、もう10年も経ってるんだし。私も最初わからなかった人けっこういたもの。まあ私の場合は子供の頃おとなしくてそんなに話さなかったからってのもあるんだけど」

「あぁ、そういやそうだったなー」


 七沢はわりと静かな子で、たぶん、絵を見せるようになってからは俺が一番よくしゃべっていたんじゃないだろうか。


「にしても、ホントごめん。言い訳じゃないけど、俺、他のやつらもほとんど覚えてなかったんだ。なんていうか、自分でも驚くくらいに」

「ふふ、いいよ別に。思い出してくれたから私は十分」

「でもなぁ、やっぱりアルバム見てくりゃよかったよ……」

「う~ん、それはどうだろ。アルバム見ても今と昔じゃ変わってるからわかんなかったと思うな。

 それに、もしわかったとしても、思い出せた瞬間って楽しいからわざわざアルバム見なくてもいいと思う」

「うん……そうだな、確かに変わってる。

 七沢もずいぶんと変わったよな。見た目もだけど、今は昔のおとなしいって感じじゃなさそうだ」

「そりゃあ、私だって10年経てば変わるよ。

 でも、瀬良くんの絵のファンはまだやめてないよ? そこは変わってないわ」


 そう言ってウインクされ、俺はどぎまぎしてしまった。同世代の女性にファンだなんて言われたせいもあるし――

 それよりも、絵のことに触れてほしくないというのが大きかった。

 画家を目指すきっかけをくれた七沢に、絵が描けないなんて言いたくない。


「七沢は、今どうしてるんだ? やっぱり大学生か」


 だから、俺は七沢のことを尋ねた。


「うん。県内の大学。無理かな~って思ってたけどなんとか入れたわ」

「やっぱあれか? 康太がぺらぺらしゃべってたみたいに、サークルとかなんとか、色々やってるのか」

「うん。サークルはね、天文サークル。私、星が好きだから」

「へぇ、知らなかったな」

「中学入ってから興味覚えたからね。中学でも天文部に入ってたし。高校には残念ながら天文部がなかったんだけど。今はサークルで、旅行行ったりして色んなところで星を見てるの。

 大学生になると行動範囲が広くなっていいよね」

「楽しそうだな」

「もちろん。すごく楽しいよ」


 七沢の笑顔に、俺は同じように笑いながらも実のところ心の中ではうつむいてしまった。

 康太たちが大学生活を満喫していることを話しているのを聞くよりも、なぜだか気持ちが沈んでしまう。

 順風満帆な大学生活を送っている七沢への嫉妬、だろうか……?


「瀬良くんはどうしてるの?」


 俺は自分の話題転換が間違っていたことに今更気づいた。七沢のことを聞いたら、次は俺のことを聞かれるに決まっているのに。


「大学生……じゃないのかな? さっきの言い方だと、そんなふうに聞こえたんだけど」


「ああ。大学には行ってない。美大に入ったんだけど、肌に合わなくてさ。辞めちまった」

「えっ……。絵は? もしかして絵もやめちゃったの?」

「絵は辞めてないさ」


 今は描けないけど。その言葉は、喉の奥にしまって出さない。


「まぁいわゆるフリーターってやつ。バイトしながら、絵を描いてる」

「コンクールとかに出したりもしてるんでしょう?」

「いちおう、な。まだ認めてもらえてないけど……」

「そうなんだ。また、瀬良くんの描いた絵を見てみたいな」

「うちに来たらいつでも見せてやるよ。それなりに数はあるからな」


 ただ、描いているところを見せてくれと言われたら困るけれど。


「本当? 約束ね、いつかまた、瀬良くんの絵を見せてもらいに行くから。やっぱりあの頃とは絵も全然違ってるのかな」

「そりゃそうだろ。今頃小学生の絵じゃ成長しなさすぎだろ、俺」


 描けないなんて、ある意味それ以下かもしれないが……


「ううん、そういうことじゃなくて、パッと見て、あー瀬良くんの絵だ、って思えるかなってこと」

「それって、独創性とか、そういうこと?」

「うーん、私は絵のことはよくわかんないけど、そうなるのかな」

「独創性か。あればいいんだけどな、そういうのが……」


 つい、小声で本音をもらしてしまった。ポツリと言っただけだったので七沢には聞こえなかったらしく、彼女は何も言わなかった。

 その代わりに投げかけられた質問。それに、俺は思わず顔がこわばるのを感じた。


「ねぇ、絵を描くのって楽しい?」


 楽しい?

 楽しくない?


 ……今、楽しいかと聞かれれば、答えはノーだ。いや、描けないのだから楽しいか楽しくないかなんて関係ないのかもしれないけれど……

 いや、やっぱり、ノーだ。楽しくないから描けないんだ。

 上手く描けないから楽しくない。

 楽しくないから描けない……


 その悪循環。

 良くないことだとはわかっているのに、描けない。楽しめない。

 こわばった顔を無理にゆるめるのは困難な作業だった。だけど、口は顔よりもずっと人間の体の中で操りやすい部位なのだろう。


「楽しいよ」


 その言葉はすんなりと舌の上に乗った。すると、顔でこごった分を相殺するように、さらに言葉が出てきた。


「子供の頃も楽しかったけど、今の方がもっと楽しいぜ。いろんな手法で描けるし、いろんなものも描ける。

 そう、スケッチするにしても、七沢が言ってたみたいに行動範囲が広くなったからいろんな所に行けるしな。辞めちまったけど、美大で習ったことも少しは生かせてるんだぜ。まぁ美術史やなんかは全然関係ないけど、実習関係でやったことは身には付いてるかな」

「そっか。ふふ、今の瀬良くんの絵を見るのが楽しみだな」

「ああ、七沢が見に来るまでにもっといい絵を描いとくよ」

「本当? ありがとう。楽しみにしてるね」

「まかせとけって」


 一気にしゃべり終えて、俺は深く息を吐き出したい気分だった。

 数ヶ月前までは実際に感じていたこと、でも今はまったく感じられないこと、それを口に出すのは簡単だけれどひどく俺を疲れさせた。


 口の中が乾いている。


 七沢に嘘をついたことも、口内をカラカラにする原因になっていた。俺はグラスに残っていたワインを一口で飲み干し、椅子を立った。


「さってと、そろそろ酔いも冷めてきたし、飲んでくるかな。七沢はどうする?」

「私は、少しここで座ってる。ずっと立ってたからかな、ちょっと疲れちゃった」

「そうか。それじゃ、また後でな」


 まるで七沢から逃げるように。

 俺はその場を移動した。


 さっきまであまり入りたくないと思っていた康太たちの輪の中。

 七沢に対するうしろめたさに比べると、そちらの方がいくらかマシなような気がして、俺は手近なテーブルにあったグラスを掴むと輪の中に入っていった。



     ◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 10年ぶりに級友達が顔をあわせた同窓会も会場の都合により3時間で終了し、俺達はほろ酔い気分で外に出た。

 あたりはもう暗く、赤や青のネオンが目にまぶしい。

 サラリーマンが居酒屋から出てくる時間にはまだまだ早いので、このへんで今酔っ払いの集団は俺達だけだろう。


「まだ話し足んねーよなぁ! 二次会行こうぜ、二次会!」


 歩道にたむろして全員が出てくるのを待っていると、康太がそう提案した。


「店の場所? んなもん飲み会マスターの俺にまかせとけ!」


 わけのわからないことを豪語する康太に、思わず苦笑する。

 ただ他の皆も物足りないとは思っていたらしく、康太の誘いに次々と頷いていった。


 二次会、か……

 俺は集団の輪から少し離れたところでガードレールに腰をかけ、テンションの上り道状態にある康太たちを眺め息を吐く。

 このまま帰るというやつは、どうやらいないようだった。


 正直、俺は行きたくない。

 が、どうもそうとは言いにくい雰囲気だ。何か適当な理由でもつけようかと考えていて、俺はふと七沢の姿が見当たらないことに気が付いた。

 会場からはもう全員出てきているはずだが……

 あたりを見回していると、康太がやってきて肩に手を回した。


「二次会、慎二も行くよな?」

「ん……あぁ、いや……」


 俺はあいまいに答え、ガードレールから腰を上げる。

 迷う素振りを見せてみたが、素振りだけだ。

 何かこのまま帰るいい理由はないかと考えながら、七沢のことを聞いてみた。


「なぁ康太、七沢が見あたらないんだけど、知らないか?」

「え? 七沢? ……あぁ、そういや、いねぇな。トイレじゃねぇの?」

「もう会場閉まってるぜ。次の客が来るんだろ」

「あ、そーいやそっか」

「泉美ちゃんだったら、一番に会場出てくの見たよぉ?」


 俺と康太が話していると、横から藤村が顔を寄せてきた。


「えっ、まじ? まさかもう帰っちまったんじゃねーだろうな。だとしたら七沢は二次会欠席かぁ~?」

「帰ってなくても来ないかもよー。だって泉美ちゃん、全然飲んでなかったもの。最初に置かれてたワインにも手つけてなかったみたいよ。苦手なんじゃない、お酒。

 それにさぁ……」

「それに?」

「なんか、具合悪そうにしてたんだよねぇ……出てくときも、なんかちょっとよろけてるみたいな」

「おいおい」


 俺は腰を浮かす。


「酒飲んでなくてふらついてた? そんな状態で放っとくなよ」

「だって、お酒飲んでなかったなーって思ったの、さっきだったんだもの。その時は酔って早く風に当たりたいんだなーくらいにしか思わなかったわ」

「ま、軽い貧血かなんかじゃねぇのか? そんなに心配することでもねーんじゃねぇか」

「いや、でもなぁ」


 まあ、きっと康太が言うようなことなんだろう。ただそれにしては、さっさと帰ってしまったというのが気になる。

 それに……


「俺、ちょっと探してくるわ」

「あぁ? 七沢をか?」

「他の誰を探すんだよ」

「つっても、お前二次会はどうすんだよ」

「後から行く。先行っててくれ」


 言うなり走り出した俺だったが、康太に腕をがしっと掴んで止められた。


「待てよ、後から来るって、どうやって連絡とる気だ。携帯教えとけって」


 あぁ、そういえば……

 本当のところ、七沢を見つけたらそのまま帰ってしまおうかと思っていたもんだから、そんなこと考えもしなかった。

 俺は「そういやそうだ」と笑いながら、康太の携帯に自分の番号を打ち込んだ。


「にしても、そんなに心配するこたねぇと思うけどな。……あ、もしかしてあれか?」

「ん?」

「泉美ちゃん、ラブ~」

「アホかっ」


 気持ち悪く体をくねらせて気持ち悪い声を出す康太を、俺は携帯電話の角で小突いた。

 だいたいなんで、俺側の立場で女声を出すんだ。

 顔をしかめながら、番号を打ちこんだ携帯を返す。


「じゃあ、会場に着いたら電話してくれ。こっちも七沢見つけたら電話するから」

「はいはい。早く愛しの泉美ちゃんのトコに行っといで~」

「……言ってろ」


 相手にするだけ無駄だ。康太は放っといて、俺はさっさと適当な方向に走り出した。



     ◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 と言っても、会場を出た七沢がどっちに行ったのかすらもわからない。

 会場で話したときに携帯の番号でも聞いていれば良かったと思いつつ、それじゃあの場で電話して済

んでしまうよなぁとも思った。


 とりあえず、見通しのいい大通りを通っていれば誰かの目に留まっただろうと考え、あまり人目につかない、それでいてちゃんと駅の方には通じる路地に入り込んでみた。

 七沢が会場を出てから5分は経ってるだろうから、さすがに見つからないか――しばらく探して、康太に二次会の断りの電話を入れよう、そう思っていたのだが。


 自分でも驚くほど、七沢はすぐに見つかった。

 単なる勘で入り込んだ路地から続く、会場の裏手にある公園のベンチに座り込んでいるのを発見したのだ。

 公園は周りをビルに囲まれ、今は表通りのネオンの光が入り込まず暗く、おそらく昼も太陽の光があたらずに薄暗そうなところだった。

 切れかけた街灯が一本だけ、入り口から少し離れたベンチの側に立って明滅している。


 七沢はそのベンチに座っていた。

 沈み込むように背中を曲げ、髪が垂れて顔を隠している。暗い中を遠目に見ても、その姿はひどく疲れているように見えた。


「七沢!!」


 具合が悪そうに見えたという藤村の言葉を聞いていたので、俺は慌てて駆け寄った。

 顔を覗き込もうとすると、七沢はゆっくりと顔を上げて目を丸くした。


「瀬良くん……どうしたの?」

「どうしたのって、そりゃこっちのセリフだ。七沢お前、大丈夫か? なんか具合悪そうじゃないか」


 実際、藤村の言っていたことは正しかった。

 七沢の顔はひどく蒼ざめていて、体にも力が入らなくてしかたなく座り込んでいるように見える。

 会場で見せた笑顔からは想像もできないくらい、今その表情は弱々しかった。


 俺は七沢の前にしゃがみこみ、じっと顔を見つめる。

 七沢は俺の目を見返して笑った。だけど、頼りない笑みだ。


「大丈夫だよ、瀬良くん。ちょっと疲れただけ」

「馬鹿、全然そんなふうに見えないっての。それにいきなりいなくなるなよ。心配するだろ」

「うん……ごめん」

「別に怒ってるわけじゃないからいいけどさ……。あぁいや、そんなことはどうでもいいんだ。それより本当に大丈夫なのか?」

「平気。少しこうやって休んでればよくなるから」


 とてもじゃないがそうは思えない。それくらい、七沢の顔色は悪かった。

 だけど、本人が大丈夫だと言い張っている以上、何度訊いてもそう答えるに決まっている。

 俺は「そうか」と頷き、彼女の横に座った。


「……瀬良くん?」

「少しの間ここで休むんだろ。こんな人気のない公園に女一人置いていけるかよ。まぁ、邪魔だってんならどっか行くけど」

「ううんっ、そんなことない!」


 いきなり七沢が大きな声を出したので、俺は驚いて見返した。七沢は慌てたように口をおさえ、顔をそむけた。


「ご、ごめん。でも、邪魔だなんて、そんな……ありがと、瀬良くん。だけど……」

「なんだよ? まだなんかあるのか?」

「みんなこれから、どっか行くんじゃないの? そんな雰囲気だった。待たせちゃ悪いよ。私は行かないつもりだから、置いていってくれていいよ」

「あー、確かに康太が仕切って二次会行くって言ってたけど……」


 俺は一瞬口ごもって、ため息をついた。

 二次会には俺も行くつもりはない。断る理由が思いつかなかったので、咄嗟に七沢を探すと言って抜けてきたくらいだ。


 が、七沢が本当に具合が悪そうなのを見ると気まずくなった。

 心配したのは本当だけど、本当はそんなに真剣に探す気なんてなかったからだ。

 少しの逡巡の後、俺は自分も行くつもりがないことを白状した。

 すると、七沢は「そっか」と言ってうつむいた。


「うん、たぶん、瀬良くんもそうなんじゃないかと思った」

「えっ?」

「瀬良くんも、あんまり長居はしたくないんじゃないかなぁ、って。なんだか居心地悪そうにしてたでしょう」


 うつむいたまま言われて、俺はかすかに動揺した。

 まいったな……見破られてたのか。

 余計気まずくなって、俺は七沢から顔をそむけてなるべくぶっきらぼうに聞こえるように言う。


「そういうお前こそ、終わったとたんにいなくなっちまって。楽しくなかったか?」

「ううん、楽しくなかったわけじゃないんだけど……」

「だけど、長居はしたくなかったわけか、お前も」

「うん」


 それきり、七沢は黙り込んでしまう。俺も話すべきことが思いつかず、ぼうっと公園の隅の暗闇を見つめていた。

 七沢は、今日の同窓会の何に居心地の悪さを感じたんだろう?

 俺と同じように、先のことに暗鬱としていないように見えるみんなに、自分だけが取り残されたように感じたのだとは思えない。


 それはむしろ、大学で楽しくやっていると話した七沢に、俺が感じた気持ちだ。

 ちらっと、隣に座る七沢の顔を窺う。

 顔色はさっきに比べれば気持ち程度良くなったようにも見えるが、いまだにうつむいたまましんどそうにしている。

 体調が悪くて、ただ早く帰りたいと思っただけだろうか、やはり。


 考えていると、上着のポケットで携帯電話が振動した。


『おーいっ、慎二ーっ! 二次会の会場、着いたぜ!』


 電話に出た途端、康太のハイテンションな声が耳朶を打った。

 もう二次会の会場についたらしい。

 予約もなしにあの人数が入れる店を見つけるにしては驚くべき早さだ。飲み会マスターと自称していたのはまんざらではないらしい。

 うしろから、賑やかな声がいくつも聞こえてきてうるさい。


「悪い、康太。俺、やっぱやめとくわ」


 早く来いと急かす康太に、俺は七沢を横目に見つつ断った。

 電話の向こう側で、康太の「なにぃ、来ないって!?」という大げさな声と、それに続く「えーっ」というブーイングが聞こえたが、もう一度断ると俺はすぐに電話を切った。


 きっと今頃、あちらでは舌打ちの一つでもしていることだろう。

 電話を切ってふと見ると、七沢がこちらを――というより、俺の手の中の携帯を見ていた。まだ行かないと決めたわけではなかったのか、という顔だ。


「元気だねぇ、あいつらも」


 ごまかすように、俺は軽く笑って見せた。

 七沢が薄く微笑む。

 少し休めばよくなるというのは本当だったのか、だいぶその顔色は良くなったように思える。

 その時肌寒い風が頬をなでていったので、俺は比較的薄着な七沢を見て言った。


「なあ七沢。こんなとこで休んでるよりも、帰って休んだ方がいいんじゃないか? まだたまに寒い夜があるからなぁ。外にずっといたら風邪ひいちまうぜ」

「うん、そうだね……」


 さっきから大丈夫と言っていた七沢も、意外とこれにはすぐに頷いてくれた。


「家、どこだ? 遠いんなら、タクシーでも呼んだ方がいいかな」

「あ、ううん。それは大丈夫。……ね、瀬良くん」

「うん?」

「私が今住んでるとこ、すぐそこなんだけど、よかったら送ってくれない?」

「あ、あぁ。そんなのお安い御用さ。でも……」


 俺は表通りに目をやり、続いて暗い他の路地に次々と視線を移した。


「このへんに住んでるのか? 小学校の時って確か、もっと駅の向こう側の住宅街に住んでたよな? このへん高層マンションしか見あたらないけど、引っ越したのか」

「マンション、か。ふふ、似たようなものかな」


 なにが可笑しいのか、七沢は小さく笑う。わけがわからず俺が首をひねっていると、先に立ち上がった七沢は「行けばわかるわ」とさらに笑った。



     ◇◆◇◆◇◆◇◆◇



「ねぇ、瀬良くん」


 暗い路地を並んで歩いていると、七沢が歩く速度を落として口を開いた。

 先ほどの公園から、数百メートルくらい歩いたろうか。くねくねと曲がりくねった路地を蛇のように進んできたので、直線距離にしてみればたいした移動はしていないはずだ。

 行く手に最近できたばかりのマンションが見えてきたので、おそらくそこが七沢の家なんだろう。


 七沢が歩行速度を落としたので少し前に行っていた俺は、振り向いてペースを合わせた。


「あのね、絵を描くのは楽しい?」

「……え……」


 いきなり聞かれて、俺は口を開けたまますぐには答えを発することができなかった。

 それでその代わりに、七沢の顔をまじまじと見つめてしまう。


 七沢の表情は真剣だった。

 あの後、会場で他のやつにも絵を描くのは楽しいかと聞かれたけれど、その時とは違う。特に違うのが、七沢がまっすぐ俺の目を見据えていることだ。


「た、楽しいさ」


 ようやく喉から搾り出せたのが、それだけだった。


「本当に?」

「本当さ! 俺がガキの頃から絵ばっか描いてたの、七沢だって知ってるだろ。絵を描くのは大好きだ」

「うん、でしょうね。瀬良くんは、絵を描くのがとても好きだった。それは私も覚えてる。

 でも、好きなのと楽しいのは違うわ。瀬良くんは今、絵を描いてて楽しい? 私はそれが聞きたいの」

「な、なんだよ、それ。楽しいに……決まってるじゃないか」


 滑舌が悪くなる。それはまるで、自分で自分に言い聞かせているようなものだった。


「……うそ」


 言われた途端、俺は顔が赤くなるのを感じた。

 自分の言葉を否定されたからじゃない。

 本当のことを言い当てられたからだ。それも、10年ぶりに会った七沢にそれを言い当てられて、俺の心に悔しさや恥ずかしさがないまぜになった感情が湧いてきた。

 だけどそれを、知られたくはなかった。


「嘘じゃないさ!」


 だから声を荒げて否定する。

 が、七沢は静かな声でさらに言い募ろうとする俺を遮った。


「うそよ。でなきゃ、あんなに自分は絵を描いてて楽しいなんて、わざわざ強調したりしないわ。そういう意地を張ったうそって、よくわかるの、私」

「……………………」


 言い返せなかった。

 確かに聞かれたとき、必要以上に俺は絵を描いてて楽しいんだと主張したのは、意地を張って、自分で自分に言い聞かせる作業だったから。

 描いてて楽しくない――いや、描けないだなんて、他人にこぼしたくなかった。


 口をつぐんで歩を進める俺を、七沢が見ているのがわかる。

 その視線から逃れるように前だけを見ていると、やがて七沢が唐突に別のことを話し出した。


「ねぇ、瀬良くん。今日、何の日かわかるよね?」

「……今日?」


 今日は4月1日……


「エイプリルフールよ」

「ああ……」

「一年の間で、たった一日だけうそをついてもいい日。

 だから、ね。別にうそをついてもいいと思うよ。私、瀬良くんがうそをついてることを責めたかったわけでも、決め付けたかったわけでもないの。ただ、あなたが会場で居心地悪そうにしていた理由を、確認したかっただけ。

 ……ごめんね。怒ったのなら、謝る」

「……いや、怒っちゃいないさ。本当のことだからな……」


 謝られた瞬間、俺の中で湧き上がっていた恥ずかしさや悔しさはなりを潜め、すぅっと頭が冷えていくのが感じられた。

 冷めると同時に、大きな声を出してしまったことが申し訳なくなって、俺はやっぱり七沢の顔を見れずにただ黙々と歩いた。

 今度も、先に口を開いたのは七沢だった。


「あのね、私もうそをついてた」

「えっ?」

「私、大学なんて行ってないの」


 なんだって?

 驚いて横を見ると、今度は七沢が正面を見据えて俺から視線を外している。が、彼女は俺が見つめていると、すぐにこちらへ視線をよこした。


「大学に行って、サークルに入って、友達と旅行して……さっき言ったこと、ぜーんぶ、うそ」


 冗談を言っているのだろうか?

 一瞬そう思ったが、七沢は真剣そのものだった。俺はわけがわからず、困惑をそのまま顔に出して尋ねた。


「どういうことだよ、それ? 大学に行ってないって……なんで、そんな嘘」


 そんな嘘をついてなんになる?

 七沢は俺の袖を引いて立ち止まった。


「ありがとう、送ってくれて」


 答えの代わりに七沢が言った言葉に、俺は目をしばたかせる。

 マンションはまだその上層部分が他のビルの上に突き出して見えているだけで、そこまで行くにはまだいくつか路地を回らなければいけないというのに、どうしてここで止まるのだろう?


「なんだよ、まだ着いてないだろ?」

「ううん、着いたよ。ここが、今私の住んでいるところ」


 そう言って、七沢はすぐ横の建物を指差した。あのマンションに住んでいるわけじゃないのか?

 ここいらに他に住めるようなところはなかったと思うのだが……


 俺は七沢の指を追って、横に顔を向けた。

 複数の街灯のあかりに照らし出され、大きな建物が広い敷地にどんと構えている。七沢が指差した建物には窓がいくつもあり、そのほとんどに電気がついていた。

 その建物を囲む壁に目を落とし、俺は眉をひそめた。


「……病院!?」

「うん」

「それって……お前まさか、入院してるのか!?」

「うん」


 こともなげに、七沢は頷いてみせる。

 俺は言葉を失い、彼女と病院を交互に眺めた。

 七沢の具合は悪そうに見えたが、まさか入院しているほどだなんて……


「病気なのか?」

「うん。ちょっと厄介な病気らしくって……高校まではよかったんだけど、受験後半くらいから急に悪くなったの。高校も卒業して、大学にもなんとか入学はしたんだけど、友達の一人もできる前に、サークルの見学すらしない間にあっさり休学。

 あ、何の病気かは聞かないでね。私も詳しくは説明できないから」

「あ、あぁ……だけど、それなら安静にしとかなくていいのかよ?」

「本当はそうなんだけど……今日だけ、先生にお願いして行かせてもらったの。場所がすごく近かったし、なんとかオーケーもらって。

 どっちにしろ、そろそろ手術しなきゃ助からないし、1日くらいどうってことないんだって」


 手術だって!?

 俺は面食らって七沢の言葉を反芻した。


「手術しないと助からない? そんな……そんな重い病気なのか?」


 だんだん、今七沢が話していることの方が嘘に思えてきた。生死に関わる病気にかかっているなんて、にわかには信じられない。

 その想いが顔に出ていたらしく、七沢は困ったように笑った。


「これは、本当なの。うそだったらいいのにって、思うこともあるけどね。エイプリルフールだからって、こんなうそはつかないよ」


 病気の本人が笑っているのに、俺はどう言っていいかわからず、どんな顔をしていいかもわからなかった。とてもじゃないが笑えない。

 たぶん、泣きそうな顔をしていたんだろう、七沢が困ったように言った。


「そんな顔しないで。大丈夫だよ、手術すれば助かるんだから」

「本当に?」

「ん……絶対とは、言えないらしいけどね。それに、日本じゃ例の少ない手術だとかで、アメリカに行くことになってるの。ニューヨークだよ、ニューヨーク。初めての海外が手術じゃ、なんだかもったいないよね。治ったら向こうで少し観光したいな」


 軽口、だろうか。

 それとも本当に不安を感じていないのだろうか。わからなかったけれど、やっぱり俺は笑うことが出来なかった。

 何か、励ましの言葉をかけるべきなんだろうか。そう思いはしたのだけれど、いざ何かを言おうとすると言葉が浮かんでこず、またあたりは沈黙に包まれてしまった。


 さっきから、黙ってしまっては七沢が話し始めてる。

 なんだかそれがもどかしくて、俺は必死に言葉を捜した。

 が、結局先に言葉をつむぎ出したのは、壁にもたれて空を見上げた七沢だった。


「ねぇ、瀬良くん。エイプリルフールって、どうしてできたか知ってる?」

「は? どうしてできたか? ……いや、知らないな。考えたこともないや」

「起源はね、いろんな説があって正確にはわからないんだって。でも、うそをついてもいい日、なんて、おかしいと思わない?」

「そりゃ、まあ」


 七沢は、妙に話が前後に飛ぶ癖があるみたいで、俺には何を言おうとしているのかさっぱりわからなかった。だから、あいまいに頷いて次の言葉を待つ。


「入院してるとね、すごく退屈なんだ。そりゃあ、最初は中学や高校の友達がお見舞いに来てくれたりもしたけど、それだって毎日じゃないし、だんだん少なくなってくし、ね。

 だから、役にも立たないことを、いろいろと考える癖がついちゃって」


 そう言ったときの七沢の顔が少しだけさみしそうだったから、俺は「だろうな」と控えめに相槌を打った。そうしたら、一転して七沢は笑顔を見せて、


「瀬良くんは平気よ。退屈になったら、絵を描くでしょ」

「はは、かもな」

「うん。でね、同窓会の通知がきて、4月1日だったから、エイプリルフールだなーって思って。そしたら、なんでそんな日ができたんだろうって方に思考がいっちゃって。

 結局確かなことはわかんなかったんだけどね。だけど、起源がわかんないなら、意味だって自分で考えていいってことでしょう」

「そう……か?」

「そうなの。少なくとも私にとってはね」


 おもしろい考え方をするもんだ。自信たっぷりに話す七沢を、俺はちょっと感心して見た。


「で、意味を考えたのか?」

「うん。私の中で、エイプリルフールにつくうそっていうのは、望みなの」

「望み?」

「そう。まだ達成していない目標とか、こうなったらいいなっていう望み。今はまだそれは実現していないから、実現してるよって言ったらうそになる。でも、エイプリルフールだからいいの。

 だけど、来年のこの日には、同じうそはつきたくない。同じように実現してるって言っても、それが本当になっているようにしたい」

「それで、望み……」

「うん。わざわざ口に出してうそをつくのは、そのうそが本当になるように頑張ろうって自分に言い聞かせるため。私にとってのエイプリルフールは、そういう日。

 大学に行って、サークル入って、旅行して……来年は、そう言ってもうそじゃないようにしたいの。今日ついたうそは、そのための自分なりの意思確認ってわけ」


 七沢の口から滔々と流れ出す言葉に、俺は圧倒された。

 自分が取り残されているような錯覚に抗おうと、ただの意地でついた俺の嘘とは全然違う。自分に言い聞かせる嘘であることは同じなのに、その意味はまるで異なっている。


「ね、瀬良くんのうそは、私といっしょ? それとも違う?」


 違う。全然違う。

 俺は首を横に振ろうとして、やめた。

 あの嘘は違ったけれど、今頷いて来年本当になっていれば、それは七沢と同じ嘘だ。

 嘘が本当になるように――


「同じさ。俺は絵を描くのが楽しい」


 俺の答えを予想していたんだろうか、七沢は満足そうに頷いた。


「じゃあ、来年、お互い確認しあおうね」

「ああ」


 ようやく、俺は少しだけど笑うことができた。



     ◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 なまぬるい風が吹き、まだらに落ちた木の影が揺れた。

 葉っぱの一枚一枚が落とすいくつものいびつな影が、いっせいに左へ、右へ、まるで生き物がざわめくように動いて、そのたびに俺の目に映る景色が変化する。

 その景色を捕らえようと、俺はキャンバスに筆を走らせる。


 足元の影から一転はるか遠くに目をやれば、整然と並んだ広葉樹の間を小さな子供が走り抜けていった。少し離れたベンチでは、子供達の親らしき大人達がその様子を微笑みながら見守っている。

 彼らを一枚の紙の上に閉じ込めようと、俺の目は遠景とキャンバスの間を何度も何度も往復する。


 視線を少し上げると、雲ひとつない青空がはるか地球のどこでも見渡せそうな広さで広がっていた。

 地平線に向かってグラデーションで薄くなっていくのは、彼方に雲が流れてきているからだろうか。

 その空をキャンバスに貼り付けようとして、俺は少し手をとめた。


 数日前に、同じようにこんな空を見上げたことを思い返して。


 その時も今も、別に何かが見えるわけでもなかった。

 澄み切った、雲のかけらもないような天気の中、太陽だけに彩られた空。

 数日前に空を見上げたのは、携帯にメールが届いたからだ。

 差出人は、七沢泉美。件名はなし。


『行ってきます』


 ただそれだけ、簡潔に書いてあった。

 どこへと聞かずとも、自然に七沢の行き先のある方角――東の空を見上げてしまったのは、見送りたかったという想いがあったからかもしれない。


 馬鹿げてると思われるだろうが、その時は本気であいつの乗った飛行機がどこかに見えやしないかと探していたんだ。考えてみたらメールが届いたんだから、まだ日本にいたんだろうに。

 なぜかもう七沢は飛び立ってしまった気がして、とっさに返信することを思いつかなかった。おかげで、見送りの機会を二度逃してしまったことになる。


 まったく、バカだ、俺は。


 ……今からでも返信すれば、届いたりはしないかな。最近は海外でも話せるという携帯もあることだし……

 俺は空を見上げたまま、携帯電話を取り出した。


 ますますもって馬鹿げてる。

 取り出してからそう思って、自分に苦笑い。


 だけど、例え七沢に届かなくても、電波に乗せてメッセージを飛ばしたい。

 そういう気分だったので、返信を打つためにあいつからのメールを開いた。

 打ちたいメッセージは、いくつかある。だけど、一番はきっと、「ありがとう」だ。


 今日のニューヨークの天気はどうなんだろう。七沢は今頃、その空の下にいる。そこで手術の日を待っている。

 あの日からもう3ヶ月。すでに季節は春から夏へと変わろうとしている。

 俺はなんとか、再びキャンバスに向かうようになった。

 悩んでいてもしかたない。とにかく描かなければ始まらない。そう思えるようになっただけ、俺にとっては前進だったと思う。


 そしてそう思えるようになったのは、七沢のおかげだ。

 だから、「ありがとう」。


 返信を書くためにメニューを開きかけ、俺はあることに気がついた。


 七沢からのメールに、続きがあるのだ。


 行ってきます、と書かれた1行目。その次も、次の次の行も空白で、画面にはその文字しか表示されていないのに、メールの終わりを表す「END」の文字が見えない。

 まだ、下に続きがあるということだ。


 ボタンを押し、画面をスクロールさせていく。

 やがて現れた一言に、たぶん横で見ていたら俺の頬はゆるんだように見えたろう。


 どうして最初に見たときに気づかなかったんだろう。

 気づいていれば、すぐにでも返信することを思いつけたに違いないのに。


 少しの間その言葉を見つめた後、俺はメニューを開き返信画面に切り替えた。

 七沢の打った内容が、そのまま本文にコピーされている。文字のボタンを一つも押さず、削除ボタンだけを操作して返信メールは完成した。


 ちゃんと見たぞ。

 そう伝えるにはこれが一番だと思う。

 「ありがとう」は、また次の機会に置いておくことにしよう。


 メールを送信する。


 届くかどうかはわからないが、俺の――そして七沢のでもあるメッセージは電波に乗って空を渡る。



 ――嘘が本当になるように――



     ~ 終 ~

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