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苦手な方はご注意ください。

Triangle Memory

短編の習作として書いた作品です。若干ミステリ要素を含んでいます。原稿用紙換算で大体100枚程度の分量です。

            I Know Nobody >>


「やぁ、おはよう。安須宮あずみやくん」


 元気な挨拶と一緒に肩を叩かれた。振り返るとセーラー服を着た女の子が立っていて、僕の肩を叩いた手のひらを上げて明るく微笑んでいた。

 無邪気な子犬の尻尾みたいに、ポニーテールの髪が揺れている。


「えっと……」


 僕は困る。全然彼女に見覚えがなかった。名前も出てこない。

 誰だっけ?


「キミ、僕の知ってる人?」


 変な質問だ、と自分でも思った。けれど、今の僕はそう聞くしかない。

 彼女は物珍しそうに、大きな瞳をくりくり動かして僕を見た。


「ホントに全部忘れちゃったんだ? あたしは桜井美香さくらいみか。あたしの事、覚えてない?」


 ちょっと期待のこもった目で、桜井さんは僕のことを見つめてくる。申し訳ない、と思う気持ちと、何か騙されているんじゃないか、と警戒する気持ちが、こんがらがったように湧いてきた。


「残念ながら」

「そっかぁ、それはホントに残念だよ」


 桜井さんは落ち込んだように俯いて、ローファーの丸まったつま先で小石でも蹴飛ばすように足を振った。実際地面には何もなかったけど。


「誰のことも覚えてないの?」

「うん、今日までに僕を知っているって人に何人もあったけど、誰のことも分からなかった。相手は僕のことをよく知っているのにね。変な感じだよ」


 それは不思議で――そして不気味な感覚だった。

 僕は記憶喪失だ。いくら記憶のページを手繰っても、白紙が続いているだけだ。昔を思い出そうと試みても、全てが重たい霧の中に沈んでいる。


「ユミちゃんのことも覚えてないの?」


 好奇心のいっぱい詰まった瞳で、桜井さんはまた僕のことを見つめてくる。その質問にも、やっぱり何か期待がこもっているように思えた。どういう期待なのかはよくわからないけれど。


「その子にも会ったけど、全然覚えてなかったよ」

「う~ん、そっかぁ。ユミちゃんのことも覚えて無いのかぁ。それはユミちゃんもショックだね。なら、あたしのこと覚えてないのも仕方ないや」


 一人納得したように、桜井さんはうんうんと頷いた。勝手に納得されても困るけど。

 彼女が言っているのは、たぶん朝野優美さんの事だろう。二つに結った髪が肩でさらさら揺れる可愛らしい女の子。僕が誰だっけ、って聞き返したら、とても悲しそうな顔をした女の子。


「じゃあさ、あたしが安須宮くんに告白したことも覚えてないんだ?」

「え? 告白? キミが、僕に?」


 いきなりの話しに、僕は桜井さんと自分を交互に指さしながら戸惑った。不可解にも程がある。


「やっぱり覚えてないんだね。そりゃそうかぁ」

「ごめん。全然覚えてない。――でも、それは意外だ」

「意外かな?」


 僕の小さな呟きに、桜井さんは小さく首を傾げた。

 僕はまじまじと桜井さんの姿を見つめる。目鼻立ちの整った綺麗な顔。短い制服のスカートから伸びる長い足。セーラー服の胸元の豊かな膨らみ。そんなところまで見てしまう。

 ポニーテールがよく似合う快活そうな美少女。それが桜井さんに対する僕の印象だ。

 そんな子が僕に告白?


「そりゃ意外だよ。キミみたいな子が、僕に告白したなんて」

「キミみたいな子、ってどういう意味?」


 桜井さんは腰を折って、覗き込むように僕の顔を見つめた。上目遣いの期待のこもった目。さっきから何度も向けられている視線だけれど、今度のは一際強く感じられた。


「えっと、キミみたいな――美少女」

「美少女!?」


 桜井さんが驚いたように瞳を丸くして、素っ頓狂な声を上げた。


「意外だな――」


 今度は桜井さんがそう呟いた。


「ねえ、僕はキミの告白になんて答えたの?」


 桜井さんは顎に人差し指を当てて考え込む。教えようか、どうしようか、それを迷っているみたいだった。


「どっちだと思う? 当ててみてよ」


 また期待のこもった瞳を僕に向けながら、尋ねてくる。この視線、なんかちょっと苦手だ。

 今の僕が桜井さんみたいな子に告白されたら、たぶんきっとOKすると思う。僕は早くも桜井さんの事が気に入り始めている。

 可愛いから。

 それも理由にある。でも、一番大きな理由は桜井さんが気軽だからだ。

 僕が目を覚ましてから話しかけてきた人たちは、みんな僕の反応に深刻な表情を浮かべていて、そして、なんだかとても重苦しい空気を発していた。だから僕もこの数日、ずっと不安な気持ちで過ごしてきた。

 なのに、桜井さんと来たら全然そんな雰囲気がない。忘れてるなら忘れてるで、別にまあいっか。そんな気軽な調子がある。むしろ面白がっているようにも見える。だから僕も、そうか、そんなもんか、なんて気軽な気分になれる。

 少なくとも「誰だっけ」と聞き返したら、いきなり泣き出してしまった朝野さんより、これからの僕には付き合い易い気がする。


「OKしたんじゃないかな?」


 僕はそう答えた。

 もちろんこの答えは間違いだ。それは僕もわかっている。だってそうでなければ、桜井さんは告白した事覚えてる? じゃなくて付き合ってたこと覚えてる? と聞いてくるはずだ。

 でも僕は、今の自分の気持ちで答えるのが正しいような気がした。


「え? そう思う?」


 僕が頷くと桜井さんが、また意外そうに目を丸くした。同時に、ちょっと嬉しそうに微笑んだ。不覚にも頬がゆるんでしまった。そんな感じで。

 ホントにこの子は僕のことが好きだったらしい。全然ピンと来ない。初めてあった女の子に、そんなに好意を持たれるなんて。

 もちろん、僕が忘れているだけで本当は初めて会ったわけじゃないんだけど。


「記憶をなくすって結構いいのかもね。全部リセット出来るって感じで。あたしもリセットできたらよかったのにな。あ~あぁ」


 実際記憶喪失になってしまった僕からすれば、ものすごく身勝手で無責任な事を言って、桜井さんはつまんなそうに伸びをした。

 その様子を見ていると気になってくる。僕はなんと言って桜井さんの告白を断ったんだろう。彼女にとって、僕は一体どういう人間だったんだろう。


「ねえ、以前の僕ってどんなだった?」

「え? う~ん。どうだろう。実はあたし、安須宮くんのことそんなによくは知らないんだ。高校入ってからの付き合いだから。正直に白状しちゃうとね――」


 桜井さんはぺろっと舌を出す。

 今の僕は高校二年らしい。今はまだ四月だから進級したてだ。だから、今の話しだと、桜井さんとは長くても一年程度の付き合いしかなかったってことになる。


「あ、でも。少なくとも安須宮くん、前は自分のこと『僕』とは言ってなかったかな。『俺』って言ってたよ」

「そうなんだ?」

「そういうの何か違和感あったりしないの?」

「どうだろう。よくわからない」

「そっかぁ」


 自分のことをどう呼んでいたか、なんて意識していなかった。そう言われてみれば、「僕」は何かしっくり来ないかも知れない。周りが知らない人ばかりだったから、少しかしこまって「僕」と言っていただけだ。なんとなく、「俺」よりは、「僕」の方が印象は良いような気がした。


「じゃあこれからは俺って言うようにしようかな」

「別に無理に直さなくてもいいんじゃない? せっかくリセット出来たんだし」


 今度は僕が驚いて桜井さんのことを見つめてしまった。そんなことを言う人は、それこそ初めてだ。目が覚めてから会った人たちはみんな、早く記憶が戻ると良いね、とか、これから記憶を取り戻すために頑張ろう、とかそんなことしか言ってこなかった。それは何だか今の自分を否定されているような気がして嫌だったし、とても不安になった。だから、桜井さんのスタンスは、今の僕を受け入れてくれている気がして嬉しくなった。


「ねえ、さっきの答えは?」

「え?」

「キミの告白に僕がなんて答えたか」

「ああ。だってホントはわかってるんでしょ? OKしてたらあたしたち今恋人だよ?」

「恋人なのかもしれない」


 僕のその言葉を桜井さんは鼻で笑った。それは、なーに言ってんだか、と笑っているようにも見えたし、なんだかとても儚い寂しげな笑いにも見えた。


「それよりほら、早く行こう。いくら記憶喪失でも、遅刻の言い訳にはならないでしょ?」


 そう言って桜井さんは取り出したケイタイの画面を僕に向けてきた。何かのアーティストのロゴらしい壁紙に映っているのは、八時二八分を示すデジタル時計だ。今の僕にはそれが、差し迫った時刻なのか、余裕のある時刻なのか判断できない。

 桜井さんは、やれやれと言うように肩をすくめて、少し早足で歩き出した。

 遠くの方で予鈴の鳴る音が聞こえた。



              The Blank World >


 僕が最初に目を覚ましたのは、白い部屋の白いベッドの上だった。白いというのはもちろん印象であって、本当に何もかもが白かったわけではない。一見してまず白いと感じる部屋。そこはどこかの病室だった。

 清潔感のある白い布団に僕は寝ていて、窓辺ではヴェールの様なカーテンが風に揺れていた。吹き込んでくる風は暖かくて、僅かに土と甘い花の香りがした。春なんだな、とぼんやり思った。


「ヒロ君? 目が覚めたの!」


 驚きと喜びの混じった、歓声みたいな声がした。見ると病室の扉の前に、白いセーラー服を着た女の子が立っていた。綺麗な花がたくさん挿された花瓶を胸に抱いて、嬉しそうに僕の方を見つめていた。二つに結った髪を肩の上でさらさら揺らして、おっとりした印象の瞳を大きく見開いて。

 差し込む日差しが彼女の服と肌で反射して、僕は眩しくて思わず目を細めた。

 可愛い子だな、と思った。


「あ、あの! 先生! 先生呼んでくるね」


 何だか慌てた様子で、女の子は部屋を出て行ってしまった。僕はぽかーんと彼女の出て行った扉を見つめていた。

 今のは誰だったんだろう? と考えて、そういえばここは何処なんだろう? と思い、それ以前になんでこんな所にいるんだろう? と思い出そうとして、そもそも自分が何処の誰なのかもわからないことに気が付いた。

 僕は焦った。いくら慎重に記憶を辿っても――いや辿ろうと試みても、何も出て来ないのだから。どこまで行っても、いつまで経っても僕の記憶は真っ白なままだった。

 やって来た白衣で眼鏡の男性は、僕の瞳にペンライトを当てたり、何か色々質問してきたりしたけれど、僕には何もわからなかった。混乱していた。まともな対応なんて出来なくて、上の空で僕は白衣の男性にされるがままになっていた。最後に彼は「記憶障害が見られます」と言っていた様な気がする。

 セーラー服の女の子が、白衣の男性を押しのけて、祈るように両手で僕の手を掴んだ。潤んだ瞳で僕のことを見つめながら彼女は尋ねた。


「わたし――わたしのことはわかるよね?」


 僕は彼女の顔をまじまじと眺めた。睫毛が長くて綺麗だな、とか、唇の形が色っぽい、とか、僕はどうでもいい馬鹿なことを考えた。でも、彼女の顔を見ても、そんな印象以外なにも浮かんではこなかった。僕は聞いた。


「えっと、キミは誰だっけ?」


 見る間に、彼女の瞳から涙が溢れ、零れ落ちた――。



               Road of Memory >>>


「突然記憶喪失なんて言われて、みんな戸惑ってるんだよ」


 桜井さんは両手でフェンスを掴んで、斜めにぶら下がりながらそう言った。それはクラスメイトたちのフォローらしい。今日一日、みんな腫れ物でも触るように僕を扱っていたから。


「うん、わかってる」


 知ってるはずのヤツから、誰ですか? って言われたら、きっと僕だって戸惑うはずだ。そういうものなんだと思う。知ってるヤツが一人もいない今の僕には、わからない感覚だけど。

 放課後、僕らは屋上にいた。日は軽く傾いていて、見覚えのない街並みにオレンジの光が斜めに差し込んでいる。知らない街だ。


「初めて見るみたいだ。景色に全然見覚えがない」


 緑が多くて、坂道や傾斜が多い。デコボコに並ぶ丘の間を縫うようにくねくねと道路が走っていて、丘の斜面には段々になって団地が乱立していた。丘のてっぺんには西日を浴びる鉄塔の黒いシルエットが立っている。視界の東側はどこまでも田んぼで、高圧線が遠くまで続いていた。やっぱり知らない景色だ。ただ、田舎だなと思った。


「へえ、そうなんだ? 住んでた町も覚えてないんだ」


 物珍しそうに、桜井さんは僕と町を見比べた。桜井さんは、今の僕の感覚を想像しようとしているのかも知れない。そんな桜井さんを見ていて、また気になって来た。


「ねえ。桜井さんは、僕の何が気に入ってたの?」

「え?」

「告白したんでしょ? 僕に」


 桜井さんはまだ引っぱるか、と言うように小さく息を吐いてから、ぐっと背を反って空を見上げた。


「実のところ、自分でもはっきりとはわかんないんだよね。でも、安須宮くんを気にし出した一番最初のきっかけは、バスケ部の新人戦のときだったな」

「バスケ部? 僕、ひょっとしてバスケやってたの?」

「そうだよ。ホント全然覚えてないんだね。今日一番最初に話しかけてきてた津軽くん。彼もバスケ部員だよ」


 ふーん、そう。と答えながら、僕はどれが津軽くんだったか思い出せない。津軽なんて言われても青森の地名としか思えない。


「ひょっとして試合で大活躍だったとか?」

「ぶっぶー、大はっずれ~。悪いけど試合中の安須宮くんは全然印象に残ってないんだ。あたしが覚えてるのは試合終わったアト。試合は結局負けだったんだけど、みんなうなだれてコート後にしてる中、安須宮くんだけあたしたちの方を向いてね、すっごい丁寧にお辞儀したの」

「あたしたちの方って?」

「ああ、あたしチアリーダーなんだよ」


 へえ、と何気なく流す振りをしながら、僕はじっと桜井さんの姿を眺めてしまった。ミニスカートのコスチュームで、ボンボンを振って踊っている桜井さんを想像してしまう。結構いいなあ、なんて思ってしまう。


「それからかな。なんか気になって、あんまり話したりしたことはなかったけど、気が付くと安須宮くん見てることが多くなってて、いつの間にか好きになってた」

「そんなもの?」

「そんなものだよ」


 どうも桜井さんは、本当に元々僕のことをよく知らない人みたいだ。だから、違和感がないのかも知れない。今の僕と話していても。


「でもそっか、バスケやってたのか、僕。何というか意外だ」

「意外なことばっかりだね」アハハと桜井さんが楽しそうに笑う。「でもそういうのってさ、なんか頭は覚えてなくて身体は覚えていたりしそうだよね」

「そういうものかな?」

「そういうものだよ。きっと」


 そこで桜井さんはフェンスから手を離して、ぴょんっと地面に立った。


「そうだ、体育館行ってみようか? ボールに触れば何か思い出すかも知れないよ?」

「やっぱり思い出した方がいいと思う? せっかくリセットしたのに」


 桜井さんは首を傾げた。わざとリセットと言ってみたんだけど、桜井さんは朝言ったことをそんなに意識していないらしい。確かにその方が桜井さんらしいって気はするけど。

 恣意的に言葉を選んで喋っていて、自分で言ったことなんてすぐに忘れてしまう。今日一日過ごしてみて、桜井さんはそんな子だって気がしている。でも悪い気はしない。だから気楽なんだって気もするし。


「無理することはないと思うけど、やっぱり何も思い出せないって寂しいよ」


 桜井さんはちょっと寂しそうに笑う。何かを迷っているような、躊躇っているような、その表情がなぜだかとても僕の胸に引っかかった。


「どうかした?」

「なんでもない!」


 聞き返した僕に、桜井さんは元気に笑うと、付いてきて、と歩き出した。

 今の僕には考える基盤が無い。無いから何をどうしたらいいのかわからない。桜井さんが今の僕をどう思っているのかだって、実際のところさっぱりわからない。自分が誰なのか? 記憶は無いままでも良いのか? 早く取り戻した方がいいのか? バスケットボールに触ることで、何か掴めるなら、それは良いであるような気がしてきた。


「でも、体育館とか部活で使ってるんじゃないの?」

「ウチはね、新学期初めの一週間は部活はやらないことになってるの。先ずは勉学に気を入れろって事らしいけど……まあ、金曜あたりになっちゃえばみんな勝手に始めちゃうけどね。とにかく、今日はまだ大丈夫だよ」


 知ってるはずなのに知らない部員と顔を合わせるのは気まずいと思った。けれど、それなら安心だ。僕と桜井さんは屋上を後にして体育館へ向かった。



 誰もいない体育館に床で跳ね返ったバスケットボールが、ダーンッと乾いた音を響かせた。弓形の天井で反響した音が、降り注いでくる。不思議と懐かしい感じがした。何がと言うわけでもないのだけど。

 跳ね返ったボールを再び床へと押し返す。ボールの感触がやけに手に馴染む気がした。

 ドリブルを続けながら軽く走ってみる。オレンジのバスケットゴールを目指して。キュキュッと床が鳴る。専用のシューズじゃなくてただの上履きだから、音の割りには足下が滑る。少し不自由に思いながら、ゴール下で大きくジャンプした。そっと置くように、ボールをゴールボードの黒い枠へ向けて放り投げた。ボールはボードで一回バウンドして、ゴールリングの外周をくるっと一周してから、リングをくぐらずに外側へ転がった。


「あぁ~ん、残念っ」


 両手の拳をブンと振りながら、桜井さんが悔しがっている。

 今のはボールを持ったら自然に身体が動いた――という感覚だったんだろうか? 僕にはよくわからなかった。身体が勝手に動いたというよりは、知っているバスケの動きを見よう見まねで再現しようとしてみた。それだけの様な気がする。


「本当に僕はバスケやっていたのかな?」

「やってたよ。上手いかどうかは別として」

「だとしたら、記憶を手繰るなんの参考にもならないかもなあ」


 僕にとってバスケはそれほど印象深い思い出ではなかったみたいだ。エースだったわけでもない様だし、朝から晩まで打ち込むほどの物でもなかったんだろう。ただ、やっていた。それだけのことなら、そんなもの日常にいくらだってある。

 でも、ゴールをくぐらず床に転がっているボールがやたら気になる。入らなかったことがなぜか悔しい。


「もう一度、やってみようかな」


 僕はボールを拾い上げて、コートの真ん中へ向かう。


「うんうん、良い傾向だよ」


 適当なこと言ってるなあ。僕は嬉しそうに頷く桜井さんを横目に眺めてから、ゴールを睨む。ゴールと自分を結ぶ空間だけに集中する。ゆっくりとボールをつく。再びあの音。懐かしいようなどうでも良いようなボールが床を弾む音。足の裏に響く振動。僕は床を蹴った。

 ぽすっと軽い音を立てて、今度はボールがネットをくぐった。入った。ちょっとした快感と達成感。でも、だから? という気もしてしまう。

 ぱちぱちぱち、と小さな拍手がした。でも、それは僕のすぐ横にいる桜井さんからじゃなかった。もっと離れたところ。僕のずっと背後、体育館の入り口からだった。

 体育館の入り口にセーラー服の女子生徒が立っていた。肩で揺れる髪。見覚えのある姿。でも今日はまだ見ていなかった姿。僕が目を覚まして初めて目にした女の子。


「ユミちゃん――」


 横で桜井さんが少し寂しそうに呟いた。ちょっと嫌そうに聞こえたのは、僕の気のせいかもしれない。朝野優美(あさのゆみ)。その子が小さく手を叩きながら僕を見ていた。朝野さんはまっすぐ僕らの方へ近づいてきて、でも僕らからたっぷり距離をあけて立ち止まった。


「ヒロ君、バスケ――思い出したの?」


 窺うような調子で朝野さんは僕と桜井さんを見比べてから、落ちているボールを指さした。不安そうな、でも何かを期待している目だ。なんだか、僕はそういう視線に敏感になっている。


「何か思い出すかな、と思ったけど、何も思い出せなかった。正直、本当に自分がバスケやってたのかもわからない」

「そうなんだ」


 がっかり、という程かっがりしているようには見えないけど、朝野さんは残念そうだ。


「ユミちゃん、今日学校来なかったでしょ」

「うん、サボっちゃった」


 桜井さんの指摘に、朝野さんは気まずそうな様子も、悪びれてる風もなく答えた。でも、朝野さんが学校に来なかったのは僕のせいなんだろう。そう思うとちょっと心が痛んだ。

 彼女にとって僕の記憶喪失はショックなことだったんだろう。僕のことを「ヒロ君」と呼ぶのだって、ずいぶん僕と親しかったんだということを感じさせる。


「でも、気持ちの整理がついたよ。記憶って忘れることはあっても無くならない物なんだって。だから――だから、私はヒロ君に全部思い出してもらうために頑張るよ。頑張るから」


 それは朝野さんにとって、かなり決意のいることだったらしい。身体の横でギュッと握りしめられた拳が、少し震えて見えた。僕の記憶は朝野さんにとって、そんなに大切なものなんだろうか? ――たぶんそうなんだろう。


「別に、無理して思い出さなくてもいいんじゃないかな。記憶がなくなっていても安須宮くんは安須宮くんだよ」


 また桜井さんはそう言った。今の僕にはとても安らげる言葉。でももしかしたら、桜井さんには僕に思い出して欲しくない記憶があるのかもしれない。それはたぶん告白のことで、僕が断った理由のことで――だからこんなことを言っているのかも知れない。


「桜井さんは、ヒロ君と付き合いが浅いからそう思うんだよ。わたしにはヒロ君が今までのこと全部忘れちゃって、それでいいなんて思えない。それでもヒロ君はヒロ君だなんて思えない」


 朝野さんは俯きがちで、とても辛そうだった。僕にとっては少しショックな台詞だ。

 一体どっちが正しいことを言っていて、どっちに従うことが僕のためになるんだろう?

 たぶん二人とも僕のことを考えてくれている。ただ、朝野さんは昔の僕のことを考えていて、桜井さんは今の僕のことを考えてくれている。そして二人とも、ちょっとだけ身勝手な思いが入っている。


「朝野さんは、記憶をなくす前の僕がどんなだったかよく知っているの?」

「知ってるよ。とってもよく知ってる。私とヒロ君は幼なじみだったんだよ。家も隣同士なんだから。わたしヒロ君のことなら大概わかるよ」


 朝野さんはちょっと冗談めかした言い方をしたけど、その表情は冗談を言っている様でもふざけている風でもなくて、むしろ何か誇っているみたいだった。




「この道、毎日一緒に通ってたんだよ」


 結局その日、僕は朝野さんと一緒に帰宅することになった。一日僕に付き添ってくれていた桜井さんには悪いけど、家も隣同士で、僕のことを良く知っているという朝野さんの「一緒に帰ろう」という誘いを、上手く断る理由は思いつかなかった。

 僕と朝野さんは、昔から一緒にこの道を歩いて小学校や中学校へ通っていて、高校も同じところに入学して、この通学路を毎日一緒に登校していたらしい。

 その道を一緒に歩きながら、朝野さんは何か見つける度に、一生懸命僕との思い出を語った。


「ほら、そこの木、小学校のころよく一緒に登って、わたしはあの四番目の枝までしか登れなかったのに、ヒロ君はてっぺんの枝までひょいひょい登ってっちゃって――」


 見覚えのない公園の背の高い木。朝野さんはそれを指さしてはしゃいでいる。


「そこの河原、昔わたしが帽子飛ばしちゃったとき、ヒロ君が川の中に飛び込んで拾ってきてくれて、せっかく帽子拾ってもらったのにわたしびっくりして大泣きしちゃって、帰ったらヒロ君おばさんにすごい怒られちゃうし――」


 浅い川にかかる橋の上で、朝野さんは照れたように頭を掻いて川を指さしている。


「あ、ほら、そこの駄菓子屋さん。そこは高校入った後も行ったよね。夏の帰り道にアイス買ったりして、ヒロ君いつも二本買って両手に持って食べるから、わたしがお行儀悪いって注意したら――」


 古びた駄菓子屋には、表に週刊誌や、やたらと古いゲームの筐体が置かれていて小学生が数人群れていた。店の奥の暗くかげった棚には色とりどりの駄菓子が並んでいるみたいだ。日焼けした縞々のビニールのひさしには、「かしわや」とひらがなで店名が書かれている。

 もちろん全てに見覚えがない。朝野さんが必死に僕の名前を出して思い出を語るのが、奇妙に思えてしかたない。この子は一体何の話しをしているんだろう? とか思ってしまう。

 低い唸りを上げて、すぐ脇をダンプカーが通り過ぎて行く。僕は思考を中断して朝野さんと道の端に避けた。さっきから何度もこんなトラックとすれ違っている。


「トラック、多いんだね」

「今、町の西側の丘を切り崩して分譲住宅地を造ってるから、それでダンプカーとか工事の車がたくさん通るんだよ」

「そうなんだ」

「見通し悪い道が多いから怖いよね。たまに凄く飛ばしてくるトラックもいるし」


 確かに、小学生も多いのに危ないなあと思う。排ガスに咳き込みながら、僕は走り去るトラックを睨んだ。

 気が付くと、横から朝野さんが難しい顔でじっと僕のことを見つめていた。


「な、なに?」

「う、ううん。なんでもない。ごめんね。行こうか」


 何故か朝野さんは少し慌てて、道を歩き出した。




               Love Addition >>>>


 次の日の放課後、真っ先に僕の席に駆け寄ってきた桜井さんは、一つの提案をした。


「ねえ、町を案内してあげる。初めての町を歩くみたいで面白そうでしょ? あたし、お勧めの喫茶店も教えてあげる! ケーキのおいしいトコ。おごりね!」


 ガイド料だよ、と桜井さんは付け足した。おごりなのかよ――と思いつつ、僕は桜井さんの誘いを受けることにした。朝野さんからも一緒に帰ろうと誘われたけど、今日は断った。

 確かに桜井さんと違って、朝野さんは僕のことを色々知っているから、一緒にいれば記憶を取り戻す手がかりも得やすいんだと思う。でも正直に言えば、僕は朝野さんといると自分の記憶が失われたことを、はっきり意識しなければいけない場面が増えてしまって結構疲れるのだ。

 一方の桜井さんは、記憶がない事を逆手にとって、生まれ育った町を初めて気分で観光しようなんて言っている。今の僕には、やっぱり桜井さんと一緒にいる方が楽しい。


「川のこっち側は田んぼと住宅街ばっかりで何も無いんだけど、川の向こう側には広い国道が通ってるからおっきいショッピングモールなんかも出来て結構発展してるんだよ」


 大きな川の堤防まで来たところで、桜井さんがそう言った。桜井さん曰く、この川は戦国時代にどっかの武将と武将が合戦をした場所らしい。確かに、川は合戦くらい出来そうな広さがある。


「ところでその武将って誰と誰?」

「え? えぇっと、タケダケンシンとか、ウエスギシンゲン――だっけ? そんなの」


 桜井さんはあまりお勉強は出来ない人らしい。

 川には四車線の広い道路と歩道の付いた大きな橋が架かっていた。対岸の方が標高が高いらしく、橋なのに結構急な坂道だ。この町は坂道が多い。

 橋の中央まで来ると歩道が半円形の広場になっていた。振り返ると学校の屋上みたいに町が一望できた。河原の方を除くと、点々と白い風力発電の風車が建っているのも見える。巨大な白い羽根が、ここまで響く低い唸りをあげて回っていた。


「ここの川、いつも強い風が吹いてるから市が試しに建てたんだって」


 言われてみれば、橋を登り始めてからずっと強い横風が吹いている。桜井さんもポニーテールの髪をバサバサなびかせて、鬱陶しそうに手で押さえていた。

 遠くの方には別の古ぼけた橋も見える。


「前まであっちの歩道の無い古い橋しかなかったから、あんまり川の向こうは行かなかったんだけど、これが出来てから向こうに行くのも余裕なんだよね。あ、そうそう、ケーキのおいしい喫茶店はこの橋の向こう側なんだ」


 嬉しそうに桜井さんが微笑んだ。そういえば、そんな話もしていたっけ。


「おごってくれるんだよね?」


 桜井さんは期待のこもった目を向けて来る。ここでその目線を使うのはずるい。

 そう思ったとき、突然風が強まって高い橋の上を吹き抜けた。


「きゃあっ」


 桜井さんの制服のスカートが派手に捲れ上がった。おヘソの方に小さなリボンの付いた白いパンツが見えた。桜井さんは慌ててスカートの裾を押さえると、バッと勢いよく顔を上げて僕を睨んだ。突然のことに桜井さんの顔は真っ赤になっていて、その目は、見たでしょ! と僕を責めていた。

 僕は上擦った声で答えた。


「お、おごるよ。ケーキ――」


 それで上手く誤魔化せたのかは、よくわからない。




 日が暮れ始めていた。桜井さんを家に送るため、僕は丘の斜面に立てられた団地群を横手に眺めながら、長い坂道を歩いていた。

 歩道と道路の間には桜の木が植えられていて、はらはらと大量の花びらが散っている。ひょっとしたらこの道は、桜坂なんてあだ名が付いているのかも知れない。僕の記憶には無いけれど。


「今日さ、ホントはユミちゃんと帰るはずだったんでしょ? あの、よかったのかな? あたしと一緒にいて。――その、まあ今さらだけど」


 桜井さんはとても言いづらそうにしながら、チラチラ僕を見た。


「ああー……まあ、朝野さんは昔の僕ばかり見ている感じがして、やりづらいって言うか。正直言うと、ちょっと一緒にいて息苦しくって。桜井さんと一緒の方が落ち着くんだ」

「え――?」


 小さく呟いて桜井さんが立ち止まった。数歩進んでからそれに気付いて、僕は振り返る。


「桜井さん?」

「ううん――なんでもない。ごめん」


 桜井さんは首を振って小走りに僕へ追いついて来た。俯きながら隣に並ぶ。ひらひら落ちてきた花びらが、そんな桜井さんの前髪に絡まるように乗っかった。それを目で追っていた僕は、何気なくその花びらをつまみ上げる。


「ひゃっ」


 桜井さんが驚いた声を上げて、前髪を押さえ飛び退いた。その反応に僕の方が驚く。


「あ、いや、ゴメン。花びらがくっついてたから」

「ああ、そうか。は、花びらか。うん、そっか、――あ、ありがと」


 桜井さんは慌てたように何度も頷きながら、また照れたように俯いた。何となく気まずくなってしまって、僕と桜井さんは少し距離を開けてしばらく歩いた。


「あ、あのっ」


 突然立ち止まって、桜井さんは勢い込んだ声をあげる。


「う、うん?」

「そ、その、えっと、そこ、あたしの家だから」


 勢いの割りに、急にしどろもどろになって、桜井さんは横手の団地を指さした。何を言うのかと身構えたから、ちょっと拍子抜けする。

 歩道のすぐ脇に緑のフェンスが立っていて、その内側に砂場や錆びたブランコの並んだ小さな遊戯場があった。夕日に滑り台が長い影を伸ばしている。その向こうに黄ばんだ外壁の古い団地が建ち並んでいた。四階建てで、どの部屋も狭いベランダを物置同然に散らかしていて、雑然と洗濯物が干されている。上の階のベランダには、鳥避けの黄色い目玉みたな風船が吊されていた。

 桜井さんの指は、脇にB―4と書かれた団地の四階を指していて、そこにはトリコロールのラインが入ったやけに派手なミニスカートとシャツが干されたベランダがあった。チアリーディング部のユニフォーム。そこが桜井さんの家なんだとわかったら、そこに干してある洗濯物にやけにドキドキしてしまった。


「へえ、ここが桜井さんの家なんだ。ごめん、全然覚えてないや」

「いや、安須宮くん、あたしの家来たこと無いから――」


 急に恥ずかしくなって顔が熱くなった。何を言っているんだ僕は。


「眺め、良さそうだよね」


 慌てて僕は話題を変える。


「あ、うん。そうだね。眺めはいいかも。さっきの橋まで見えるし」

「へえ、そうなんだ。結構遠かったのに――」


 なんだかぎこちない会話になってしまう。僕は雰囲気を紛らわすように、そうか、そうかと適当に何度も呟いた。


「あの、じゃ、じゃあね。もう行くね。バイバイ」


 桜井さんは、そんな微妙な空気を振り払うように小さく手を振ると、僕に背を向けて団地へ向けて走り出した。――けれど、すぐに立ち止まってしまう。僕に背を向ける桜井さんの、赤く夕日の当たる肩が小さく震えて見えた。


「桜井さん? さっきから変だよ? 一体どうしたの?」

「あたし、安須宮くんと一緒に帰るの、今日が初めてだったんだよ。こんな風におしゃべりするのも、一緒に喫茶店寄ってケーキ食べたりするのも、全部」


 それは気をつけていないと風にかき消されてしまうような、小さな小さな声だった。けれど僕の耳にその言葉はちゃんと聞こえた。だから僕は理解した。


 そうか、桜井さんはまだ、僕のことを――。


 それは僕にはちょっと感動するくらい嬉しいことだった。桜井さんは可愛い。一緒にいて楽しい。そして僕に好意を抱いてくれている。そんな女の子を放っておく理由なんて僕には無い。


「ねえ、桜井さん。桜井さんもリセットしたらいいよ」

「え?」


 僕は桜井さんの後ろに立って、想像以上に細い肩に手を置いた。くるっとこっちを向かせる。


「桜井さん。――僕と付き合ってもらえませんか?」


 以前の僕が、桜井さんの告白にどう答えたのかはわからない。でも、これが今の僕の素直な思いだ。記憶がないからだとか、そんなことはどうでもいい気がした。この先、手探りするように過去に気を遣って生きるなんて、まっぴらごめんだ。


「そんなこと、そんなこと出来ないよ。出来るわけ無いじゃない――」


 桜井さんが顔を上げる。その顔が涙でぐしょぐしょに濡れていて、僕はびっくりする。


「ずるいよ! 安須宮くん! なんで記憶なくしちゃったりしたの? あたしもう諦めようと思ってたのに。全部無かったことにして、安須宮くんへの思いは忘れようと思ってたのに。なのに――なのに、なんで今さらそんなこと、言うかなぁ……」


 両目の涙を必死で拭う桜井さんを目の前にして、僕はどうしたらいいのかわからなくなってしまった。僕は何か勘違いしていた。てっきり、僕は桜井さんにOKがもらえるものだと思い込んでいた。

 桜井さんが、こんなに取り乱すなんて――僕は一体、なんと言って桜井さんの告白を断ったんだろう?  僕の忘れている記憶の中で、一体何があったんだろう。


 桜井さんの家から、自分の家までの道筋がわからなくて、僕は何度も迷った。でもそれは、僕がぼーっとしていたせいもある。

 帰り道、僕の頭にずっと泣いている桜井さんの姿があった。

 家に帰り着く頃、空はもう宵闇に包まれていた。

 やっと辿り着いた家の門扉に手を掛けたとき、隣の家からサーっと水の音がしているのに気が付いた。ちょっと覗き込むと、道路にせり出すほど並べられたプランターに水を蒔いている朝野さんの姿が見えた。そうか。隣は朝野さんの家だった。

 朝野さんの家は塀の上にも、門に設置したアーチにも色とりどりの花が咲き乱れていた。


「あ、ヒロ君。お帰り。遅かったんだね」


 朝野さんは僕に気付いて、ホースの水を止めると、トトっと僕の方まで走り寄ってきた。


「うん。それよりすごいね。この花」

「あ、うん。ガーデニング、お母さんの趣味だから。肥料買うときなんかはヒロ君も手伝ってくれたんだよ。重くって大変だから」


 朝野さんは門の奥に置かれた肥料袋を指さした。半分くらい中身の入ったその袋は、かなり大きい。


「ひょっとして、それ、僕が一人で運んだの?」

「うん、ホームセンターから。二袋」

「二袋!? 僕って、けっこう力あったんだね」

「うんうん、ヒロ君はすごいんだよ。頼りになるんだから」


 朝野さんは胸の前で両手を握って、真剣な表情で頷いている。

 よく考えれば、そんなことわざわざ人から聞くようなことじゃない。自分のことだ。ガーデニングのことだって、お隣の幼なじみの家のことなんだから、きっと僕には常識だったはずだ。それを一々説明している朝野さんは、どんな気持ちなんだろう。そう思ったら何故かまた、さっきの桜井さんの泣き顔が頭に浮かんできた。記憶が無いというのは罪なことなのかも知れない。


「ヒロ君、今日桜井さんと帰ったんだよね」


 気が付くと、難しい顔で朝野さんが僕を見上げていた。


「あ、うん」

「桜井さんと一緒に帰って――楽しかった?」


 え? 何を言ってるの――と聞き返そうとして、でも朝野さんの切実そうな上目遣いの瞳に見つめられて、僕は黙り込んでしまった。

 朝野さんは急に大きく頭を振る。髪の房がパタパタ揺れた。


「わたし、やっぱダメだ。今話したら、きっとヒロ君困るだろうし、混乱させちゃうだけだと思って、黙ってようと思ったのに――やっぱりもう我慢できないよ。記憶なくしてからのヒロ君、桜井さんのことばっかり気にしてるもん」


 朝野さんがいきなり何を言い出したのか、僕にはさっぱりわからない。ぽかんと朝野さんを見つめてしまう。


「ヒロ君。ヒロ君は記憶を無くす一週間前に、わたしに告白したんだよ? わたしのこと、好きだって、一番大切だって言ってくれたんだよ?」


 自然な動作で、朝野さんは両腕を僕に伸ばした。そのまま僕の背中に、そっと手を回して抱きついて来る。


「ヒロ君。だから、わたしたち、恋人同士なんだよ。思い出して、ヒロ君。桜井さんのところに行かないで――」


 え――? 僕は朝野さんに抱きつかれたまま、呆然とただバカみたいに立ちつくしていた。西の空で金に輝く一番星をじっと見つめて、目がチカチカした。

 僕は桜井さんに告白されていて、僕は朝野さんに告白していた? いびつにねじれた疑問が、メビウスの輪みたいになって、僕の頭の中をぐるぐる回った。



             <<<< Declaration of Love


 初めはただの冗談か悪戯だと思った。今時、呼び出しのラブレター、それも下駄箱の中に入れておくなんて、一体どんな古風なヤツだ?

 それはピンクの封筒で、折口をハートのシールで留められていた。どんな鈍いヤツだって、一目でなんなのか理解できる。それが今朝、俺の下駄箱に入っていた。

 どうせ津軽たち辺りが仕掛けた悪戯だろう。そう思いつつも、思わず固まってしまった俺に、「どうしたの? ヒロ君」なんてユミが覗き込んで来たもんだから、俺は慌てて下駄箱を閉じてしまって、おもいっきり手を挟んでしまった。おかげでその日は、手が痛くて一度も授業をノートに取れず、仕方なしに寝て過ごしていたら数学の田辺にめちゃくちゃ怒られた挙げ句、特別課題まで出されてしまった。最悪だ……。

 だから、俺が手紙の指定通り放課後ノコノコ屋上へ行ったのは、この手紙の主に一言文句を言ってやらないと気が済まなかったからであって、ホントは本当に本物なんじゃないかって期待していたとか、そんなことでは決してない。いや、ホントに。


 でも、下駄箱のラブレターは悪い冗談であるかの如く、ホントに本当の本物だった。本物と書いてマジと読む。相手はマジだったらしい。

 屋上にいたのはよく知ってるヤツだった。大して話した記憶は無いけど、同じクラスの女子生徒。最近やけに目が合うな、なんて勝手に思っていた相手。あんな古風で乙女チックなラブレターを送ってくるとは想像もしなかった相手。屋上の扉を開けた俺に、いきなりあんな表情を向けてこなければ、絶対悪戯だ、と確信できた相手――。

 桜井美香。彼女はポニーテールの髪を風に揺らしながら、屋上の柵を後ろ手に掴んで立っていた。視線を微妙にずらしながら、赤い顔をして俺のことを見ていた。顔が赤いのは夕日のせいじゃない。そこまでまだ日は傾いてない。


「マジ?」

「マジ」


 アホな俺の呟きに、桜井は恥ずかしそうな顔をしながらも、ぶっきらぼうに返してきた。


「あたし、安須宮くんのことが好きなの。その、――好きに、なっちゃった……」


 桜井は耳まで真っ赤にして、恥ずかしそうに脇を向いて、まるで自分の悪さを白状でもするかの様に呟いた。でも横目はしっかりこっちを見ていて、俺は正直その仕草にかなりキた。


「あたしを、安須宮くんの――安須宮浩貴くんの彼女にしてくれませんか?」


 なんで敬語なんだよ! 桜井と言えば、俺の中ではいつも男女構わずあっけらかんとしたタメ口で話しているヤツで、そういう所しか記憶に無いようなヤツで、何というか全然キャラが違うというか、つまりはそのギャップもかなりキた。

 頷いてしまえ。はい、と言ってしまえ。yesと答えてしまえ。

 脳が俺にそう命令を下す瞬間、しかし俺の頭の中に、電光のように全然違う女の子の姿が駆け巡った。それはとても見慣れた顔で、いやむしろ見飽きたと思っていた顔で、正直ウザい、ぶっちゃけ煩わしい、と思っていた関係のヤツで、肩に掛かる髪をよく頭の両脇で結っていて、俺より頭一つ分ちっこい女の子で――ホント正直なんで今こいつの顔が出てくるのか、さっぱりわからない奴だった。


 俺の心臓が早鐘の様に鳴っていた。それは純粋に目の前の桜井にドキドキしているとか、そういうわかりやすい身体の反応ではなくて、何かを否定するためにとてつもない血流を脳が必要としているために起こった、極めて不可解な身体の反応だった。

 でも、どんなに酸素豊潤な血液を費やしても、気付いてしまったその思いを、俺の脳が否定し切ることは出来なくって、こんなにも魅力的な態度の桜井を前にしながら、俺は極めて不本意な――勿体ない――答えを言うしかなかった。


「ごめん。マジごめん。俺、桜井のその気持ちに応えるわけにはいかない」

「え……――? ダメ、なの……?」


 絶望的に桜井が呟いた。


「ごめん。ホンットごめん。俺、他に好きなヤツがいるんだ。いや、いることに気付いちゃったよ。たった今、桜井に告白されて。ずっと邪魔くさい幼なじみだと思ってたのに、そいつが俺にとって大切なヤツだったんだって、たった今気付いちまった。だから、桜井、ごめん。お前の思いには応えられない」


 みるみる桜井の瞳が潤んできて、ほろほろほろ、とその目から雫が溢れてきた。ヤバい、泣かせた。俺がそう思った瞬間、桜井がものすごい勢いで俺の方へ向かって来て、俺の身体にぶつかった。いや、違う。桜井は俺にぶつかる直前に、大きく拳を突き出して、それが俺の鳩尾に深く沈み込んでいた。


「う、ぉぉお」


 一瞬抱きつかれたのかと思った俺は、見事に不意を突かれ膝を折って屋上にうずくまった。


「バカーっ! もっと断り方とかあるでしょう!? あたしが告白したから自分の気持ちに気付いちゃったって、そんな、そんなの……それじゃまるで、あたしが道化みたいじゃなぁい! 馬鹿正直に全部言うこと無いのにぃ――」


 ぐしぐしと涙を――と、たぶん鼻水も――流しながら、桜井は美人顔を台無しにしながら涙声で叫んだ。最後はぐしゅぐしゅ言っているだけで、何を言っているのか聞き取れなかったが。


「バカーっ」


 最後にもう一度、力一杯俺を罵って、桜井は屋上を走り去った。マズった。と素直に俺は認めた。初めの一言で終えて良かったはずだ。変に気持ちが昂ぶってしまったために、今の自分の思いの丈を、ぶつけなくていい相手に全てぶつけてしまった。自業自得だ。


「くぁー」俺は屋上に大の字でひっくり返った。「空が赤いぜ」

 辺りはすっかり夕暮れだった。鳩尾がズキズキ重く痛んだ。



              The Odd Triad >>>>>


 一体何でそうなったのか、桜井さんと朝野さんの間には、奇妙な協定の様なものが出来上がってしまった。それは記憶を無くす前の僕と、記憶を無くした後の僕は、別々の人間として考える、と言うもので、要は記憶を無くす前の僕は確かに朝野さんの恋人だったけれど、記憶を無くした後の僕は恋人ではないから桜井さんの好きにしていいよ、というなんだか無茶苦茶なルールだった。

 いきなり朝野さんにそう言うことに決めたから、と宣言されたときは、僕も桜井さんも戸惑った。どういう意図で朝野さんが急にそんな事を言い出したのかわからないから、僕も桜井さんも遠慮したけれど、実際記憶のない僕との新しい関係について三人共悩んでいる状態だったから、結局そのまやかしのような提案に同意した。

 そもそも僕がそんな二人の女の子に取り合いされるような魅力のある人間なのかどうか、という問題は隅に置いておくとして、とりあえずこれで桜井さんに告白してしまった日以来、ぎこちない感じになっていた僕たち三人の仲は安定した。――まやかしなのだけれど。

 朝はお隣の朝野さんと登校して、帰りは桜井さんと帰る。と言うのが僕の高校生活のスタンスになった。朝野さんは朝の登校途中に色々思い出を語ったり、通院にはいつも同行したりして、なんとか僕に記憶を取り戻させようとしていたけど、今のところ僕の記憶に変化はない。桜井さんとは、毎日あの団地まで送り届けるか、たまに橋向こうの喫茶店までデートするというのが続いていた。




「なんかさ、おかしいよね」


 僕はまた桜井さんと、あの眺めの良い坂道になっている橋を渡っていた。喫茶店を目指して。田舎だから、出かける場所の選択肢が少ない。

 桜井さんは歩きながら、石でも蹴っ飛ばすように大きく足を振る。これは彼女の癖らしい。


「ユミちゃんがあたしたちの仲を認めてくれたのは、記憶を無くした浩貴くんが以前の浩貴くんとは違うからで、でもそれってつまり、今の浩貴くんはあたしが好きになった浩貴くんとも違うってことで、でもあたしは浩貴くんのことよく知らなかったから、それでも問題なくって。浩貴くんが記憶を無くしたおかげで、あたしはこうして浩貴くんと付き合えるの」


 変なの、と言って桜井さんはケラケラ笑う。でもそれは、ホントにおかしくて笑っているようには聞こえない。

 桜井さんは僕のことを浩貴くん、と名前で呼ぶようになった。でも朝野さんの前では気を遣っているのか、今まで通り安須宮くんと呼んでいる。やっぱりあまり健全な状態とは言えない。朝野さんにしても、僕と桜井さんの関係は、認めてはくれてもやはり不本意に違いないはずだ。

 みんな僕の記憶に振り回されている。――そして、僕自身も。

 僕たちは橋の中央に来ていた。眺めが良くて風の強い場所。


「ねえ、浩貴くん。ものすごくワガママなこと言ってもいいかな?」


 僕に背を向けて少し前を歩いていた桜井さんが、ピタッと足を止めた。表情が見えないから、どういう意図があるのかよくわからない。またケーキおごってって言われるのかな、と思って僕は気軽に答えた。


「いいよ」


 風が少し強まった。耳に当たる風の音がうるさくなって、風力発電の風を切る羽根の音が遠く聞こえてきた。


「記憶、取り戻さないでよ」

「え?」


 一瞬、風の音で聞き逃した。とでも言う様に、僕は思わず聞き返した。本当はちゃんと聞こえていた癖に……。

 桜井さんが振り返って、そのまますごい勢いで僕に抱きついてきた。戸惑って僕は棒立ちになったまま固まった。


「ユミちゃんにも悪いと思う。浩貴くんにだって悪いと思う。あたし、ものすごく身勝手で嫌なヤツだと思う。でも――でもお願い。お願い浩貴くん。記憶を取り戻さないで」


 ぎゅっと、僕の背に回された桜井さんの手に力がこもる。

 桜井さんだって、そんなことお願いしたからって、どうにかなる問題じゃ無い事くらいわかっているはずだ。

 だからこれは、お願い事じゃなくて、桜井さんの純粋な思いなんだろう。

 僕は記憶を取り戻したらどうなるんだろう? どうするのだろう? 桜井さんから離れて、朝野さんの元へ戻るんだろうか? 朝野さんときっちり別れて、今の桜井さんとの関係を継続しようとするんだろうか?

 今存在していない思いについて思案することは難しい――というか不可能だ。でも、今の僕は桜井さんが好きだ。それは確かなことだ。

 僕も桜井さんの背中に手を回した。きゅっと強く抱き返す。桜井さんの身体が小さく震えた。


「大丈夫だよ、桜井さん。僕も今のままがいい。朝野さんには悪いけど、こうして桜井さんといるのが楽しいし、心地いい。だから僕は、ずっとこのままでいるよ」


 僕だって、どうにか出来るものじゃないとわかっている。ただ素直な思いを口にした。


「ねえ、浩貴くん。じゃあ、もう一つワガママ言ってもいいかな?」

「なに?」


 今度こそケーキ?


「名前で呼んでよ。ユミちゃんの前にいるときは桜井さんでもいいから。二人だけのときは、名前で呼んで」


 抱きついたまま、桜井さんは上目遣いに僕を見上げる。久々に見る期待のこもった目。僕の苦手な、ローアングルから見つめてくる桜井さんの目。


「み、美香?」

「ぎこちないよ」


 不満そうに桜井さんが口を尖らせる。だけどそう言われても、僕にはどうしようもない。なんで、ただ呼び方が苗字から名前に変わっただけで、こんなに緊張してしまうんだろう。僕は大きく息を吸う。


「美香」


 今度は落ち着いて言えた。桜井さんが満足そうに微笑んだ。そして、僕の方を見上げたまま、瞳を閉じて、さっきの不満そうな態度とは別の意味で、口を尖らせた。唇をすぼめる。

 え――? 僕の思考は一瞬止まる。それは、えっと――。


「早く」

 瞳を閉じたまま、桜井さんが焦れたように呟く。

「え、でも、こんなところで――」

 僕はひっきりなしに車が走行する車道へ、ちらっと視線を向ける。

「今日、最後のワガママ」


 桜井さんのワガママは、聞いてあげるとキリが無い。そんな気がしてきた。でも――


 また風が強まる。桜井さんのポニーテールとスカートの裾が激しくなびいた。風の音がうるさい。遠く風車の音が響いている。なぜだか、このうるさい風の中でなら、小さな囁きがかき消されるように、何をやっても覆い隠してもらえるんじゃないか、と錯覚してしまう。

 僕は桜井さんに顔を寄せた。そっと唇が触れる。

 横では何台も車の通り過ぎる音が聞こえた。でも、少しも恥ずかしいと思わなかった。

 こういうワガママなら、いくら聞いてあげても良いかな、と思った。



             Lost Fragment >>>>>>


 耳の奥を引き裂くような、甲高い音が響いていた。横断歩道の白線が引かれたアスファルトと、赤く光る歩行者信号、白い雲の浮かんだ青空が、視界の中をグルグル回転している。その景色はまるで、シュールレアリズムの絵画みたいだ。

 回転する景色が止まったとき、僕の目の前に一人の全然知らない女の子が立っていた。赤いランドセルを背負って、黄色い通学帽を抱える様に握りしめている。小学生の女の子。不思議そうにこっちを見つめている。

 突然、目の前を大きな黒い影が覆った。女の子の姿もそれにかき消される。

 響く音はさらに高く、激しくなっている。うるさくて、とても不快に。


――そこで目が覚めた。

 僕はぼんやりとベッドに身を起こした。薄いカーテン越しに、黄色い朝日が差し込んでいる。ちゅんちゅんと雀の鳴き声が聞こえた。

 なんだったんだろう? 変な夢だった。夢ってものは、そもそもそういうものだけど。

 頭を振りながら、枕元の時計を見る。僕は慌てて飛び起きた。昨夜セットし忘れてたみたいだ。夢の記憶は一瞬で遠くへ消えてしまった。




 僕はまるで無意識に避けるようにして、一番気にすべき疑問をずっと無視していた。それは、つまり、僕はどうして記憶を失ったのか、ということだ。全てはそこからのはずだ。今まで何故そこが気にならなかったのか、今にして思えば不思議だ。

 僕には別に、記憶を取り戻そうという強い意志は無い。桜井さんのこともあるけど、今の僕には記憶が戻ると今の自分がどうなってしまうのだろう、という恐怖もある。

 でも、だからと言って、まったく自分の記憶や過去に興味がないわけではない。どうしてこうなったのかだって、当然気になるし、とりあえず知っておきたいと思う。

 今朝、あの変な夢を見てから、僕はそのことをはっきり意識するようになっていた。


「ヒロ君が記憶を失ったわけ?」


 朝野さんはちょっと首を傾げている。それは、話してなかったっけ? という疑問らしい。

 珍しく、僕は朝野さんと桜井さんと三人で帰っていた。僕と朝野さんが並んで歩いていて、桜井さんは遠慮しているのか、僕らの少し前を離れて歩いている。


「ヒロ君はトラックに轢かれそうになったわたしを助けてくれて、そのとき頭を打ったんだよ。すごかったんだよ。ハリウッド映画みたいだったんだから。わたしを抱いてコンクリートの道路をゴロゴロゴロ~って」


 ちょっと興奮したように両腕を広げてそう説明した後、朝野さんは急に俯いた。


「でも、そのせいで、ヒロ君記憶をなくしちゃったんだよね。これはわたしのせいだよね。ごめんね。わたし、わざとこの話題避けてたかも」

「急に落ち込まれても困るけど。どっちにしろ僕は覚えてないし、気にしなくていいよ。でもそうなんだ。僕が朝野さんを――」


 トラックの通行量が多いという話しは、前に朝野さんとした覚えがある。確か、町の西側に分譲住宅地を造っているとか。朝野さんはそんな開発工事のトラックに轢かれそうになったんだろう。そして僕がそれを身を挺して助けた。――ホントに以前の僕はワイルドだったんだな。


「それって場所はどの辺?」

「かしわやって駄菓子屋さんあったでしょ? あの少し手前にある大きな交差点。そこだよ」


 僕らはちょうどその交差点にさしかかっていた。ここは丘の中腹にあって、右手側の道路は急な坂道になっている。交差点を渡った先の坂道をさらに登っていけば、桜井さんの家である団地へ向かうし、左に折れれば僕の家がある住宅地へ向かう。ここは僕と桜井さんの帰宅路の分岐地点でもあった。

 三人並んで信号待ちをしながら、僕は交差点を眺めた。ここで僕は記憶を失った。そう思い浮かべてみても何の感慨もない。土を満載したダンプカーが一台、目の前を通過していった。それを何気なく目で追っていたら、交差点脇のガードレールの足に花束が括り付けられているのに気が付いた。よく事故で人が死んだ道路なんかに供えられているものだ。


「この交差点って事故が多いの?」

「え? そんなはずはないけど」

「でも、ほら、花が供えてある。誰か事故で亡くなったんじゃない?」


 よく見ると、お菓子や小さなぬいぐるみなんかも供えてある。無くなったのは子供なのかも知れない。それに割と新しい。最近のことなんだろうと思う。


「さあ? 最近ここで人が亡くなるような事故はなかったと思うけど。わたしが轢かれそうになったのをヒロ君が助けてくれたくらいで」


 少し思案するように朝野さんが視線を上げる。そんな朝野さんの様子を、脇で桜井さんが不思議そうに見つめていた。


「み、――桜井さんは何か知ってる?」

「え!? う、ううん。知らない知らない」


 桜井さんは慌てた様子でパタパタ両手を交差させた。僕が思わず美香って呼びそうになっちゃったから焦ったのかな?


「なんか怪しい。桜井さん。何か知ってるなら教えてよ」

「ユミちゃん……」


 好奇心満々の顔つきを向ける朝野さんに、桜井さんは何故か少し哀しそうに眉を寄せた。


「どうしたの? わたし何かおかしなこと言った?」


 朝野さんが今度は不審そうに眉を寄せる。桜井さんはなんでも無いよ、と慌ててぷるぷる首を振った。なんだろう? なんか変だ。

 朝野さんとはそこで別れて僕は桜井さんを団地まで送っていく。朝野さんはそれを前ほど気にしなくなった。もう割り切っているらしい。

 でもそれは単純な割り切りではないんだろう。僕が記憶を無くした原因を聞いて、やっと朝野さんが僕と桜井さんの仲を認めてくれた理由がわかった。朝野さんは、僕が記憶を無くした原因を、自分のせいだと思っている。だから、それで今の僕を自由にしてくれているんだろう。

 これは彼女にとっての罪滅ぼしなのかも知れない。

 そう考えると、やっぱり朝野さんが可哀想になってくる。

 ふと横の桜井さんを見ると、なんだかは難しい顔をして考え事をしているみたいだった。交差点の辺りからすっと様子が変だけど、どうしたんだろう?




 次の日の放課後、僕が掃除当番の仕事を終えて下駄箱へ行くと誰もいなかった。

 最近はいつも、僕と桜井さんどっちかの都合ですぐに帰れないときは、ここで待ち合わせをしていた。だから、誰もいないのはちょっとおかしい。微妙な状態ではあったけど、付き合うようになってから桜井さんが黙って勝手に帰ってしまうことは一度もなかった。だから、余計気になった。

 少し下駄箱をウロウロしながら待ってみたけれど、結局僕は学校の中を探してみることにした。先生に何か用を言いつけられた、と言うのも考えられるけど、僕はとりあえず屋上へ向かうことにした。なんとなく、放課後の桜井さんと言えば屋上というイメージが僕の中にあったからだ。なんでなのか、よくわからないけれど。


 屋上へ出る扉へ手を掛けたとき、何か言い合うような声が聞こえた。僕は恐る恐る、そっと扉を引いて屋上を覗き込む。そこには桜井さんと朝野さんが、向かい合うように立っていた。二人は僕にはまだ気付いていないようだ。僕は屋上の扉を少しだけ開いた状態で、二人の様子を伺うことにした。修羅場だったら嫌だな、という変な想像が働いてしまったせいだ。

 二人の声が微妙に聞こえてきた。


「ユミちゃんも事故の時の記憶だけが曖昧なんでしょ? 何となく、そんな気はしてたんだ。あんなに必死に安須宮くんの記憶を取り戻そうとするなんて、やっぱりおかしいもん。――あんなことがあったのに」


 何の話しだろう?

 桜井さんの口調が少しキツい。怒っているって感じでもないけれど、その声は朝野さんを責めている様に聞こえて、ちょっとドキリとしてしまう。


「どういうこと? わからないよ」


 対して朝野さんは戸惑っている様に見える。胸の前で両手をギュッと握って不安そうにしている。桜井さんの方が活発そうな女の子だから、下手したらイジメにも見えかねない。


「ユミちゃん、何で自分がトラックに轢かれそうになったのか、ちゃんと覚えてる? だってあの交差点は歩行者用の信号も付いてるんだよ。なんで安須宮くんと一緒に帰ってたユミちゃんが、赤信号なのに一人だけ道路に出て、轢かれそうになったりしたの? まるでちっちゃい子みたいに。おかしいじゃない」


 桜井さんの言葉を聞いていて、確かに、と僕も疑問に思う。高校生の朝野さんがいきなり飛び出してトラックに轢かれそうになる、なんて状況イメージしにくい。しかも僕が助けたと言うことは、そのとき僕は朝野さんのすぐそばにいたはずだ。だとしたら、轢かれそうになる前に、どうとでも対処出来た様に思う。


「桜井さん、何が言いたいの?」

「あのとき、あたしも近くにいたんだよ。だから、あたしはあの時あそこで何があったか知ってる。あそこに供えてあった花束がなんなのかも知ってる。ユミちゃんは思い出すべきだよ。そうすれば安須宮くんの記憶を取り戻そうとすることが、どれだけ残酷なことかわかるはずだもん」


「なにそれ……」不機嫌そうに朝野さんが呟いた。「つまり桜井さんは、私がヒロ君の記憶を取り戻させようとしてるのが気に入らないの? 自分に都合がいいからって、ヒロ君にずっと記憶喪失のままでいて欲しいなんて――そっちの方ずっと残酷で身勝手だよ!」


 それまで大人しかった朝野さんが、初めて感情を荒げた。普段の朝野さんとのギャップに僕は驚く。けれど、これこそがずっと彼女が押し殺していた本当の気持ちなんだ。朝野さんは僕と桜井さんの関係に納得していたわけじゃない。ずっとその事には苛立っていたはずなんだ。


「違う! だったら、安須宮くんに全部思い出して欲しいって言うのはユミちゃんの勝手じゃないの?」

「なんでそうなるの? 記憶を取り戻すのはヒロ君のためでしょ。ヒロ君だって記憶を全部取り戻したいと思ってるよ。記憶がないなんて状態がずっと続いて良いわけ無いじゃない!」


 何故か僕は、朝野さんのその言葉にドキリとしてしまった。確かに彼女の言うことは正論だ。なのに、なんで僕はこんなに緊張しているんだろう。


「それに、そんな事言うなら、なんであの日ヒロ君にバスケさせたの? おかしいよね。ヒロ君の記憶が戻らなくてもいいって言ってたクセに」

「それは――」


 桜井さんは言い淀んで視線を逸らしてしまった。その態度が、気に入らなかったのか、朝野さんはさらに不機嫌そうに表情を歪める。

 桜井さんは結局、僕をどうしたいんだろう? 僕もそこで初めてはっきり疑問に思った。桜井さんは僕に記憶を取り戻さなくてもいいと言う。でも、全部覚えてないのは寂しいと言う。何か思い出すかもと体育館まで連れていき、僕にバスケをさせて、でも朝野さんにはやっぱり僕の記憶は無くてもいいと言う。


「桜井さんはヒロ君の記憶喪失を利用して、ヒロ君を自分のものにしたいだけなんだよ! ヒロ君の事なんてちっとも考えてない! 」

「ち、違う! 確かに、バスケはあたしと浩貴くんのきっかけだったから、思い出して欲しいって思った。でも、あたしは……浩貴くんの記憶が無いことを利用して、ユミちゃんから浩貴くんを奪おうなんて考えてたんじゃないよ……違うんだよ……。そうじゃなくて――」


 桜井さんは、何か続けようとしたけれど、結局また俯いて黙ってしまった。

 あのとき桜井さんは、バスケの試合が僕を好きになったきっかけだと言っていた。だから、桜井さんは僕にバスケのことだけは思い出して欲しかったんだ。間抜けなことに、今頃になって、僕はあのときの桜井さんの行動の意味をを自覚した。

 けれど朝野さんは最初から気づいてた。何も知らなかったのに、あのときの桜井さんの行動に何か意味があると気づいていた。

 朝野さんも、それだけ僕と桜井さんの関係を最初からずっと気にしていたと言うことだろう。


「桜井さんやっぱり勝手だよ。記憶は取り戻して欲しくないけど、自分に都合の良いことだけは思い出して欲しいなんて……。勝手だよ……そんなの」


 朝野さんも、俯いて呟いた。そのまま二人は黙り込んでしまう。なんだか、感情をぶつけ合って、そのまま二人とも燃え尽きてしまったみたいだった。


 僕はなんて馬鹿で愚かだったんだろう。記憶がないことを利用していたのは僕だ。

 記憶が無くなったから一度は振ってしまった桜井さんと付き合う? 

 記憶が戻ったら朝野さんの所へ戻る?

 記憶があるかどうかなんて全然関係ない。僕はちゃんと事実と向き合うべきだったんだ。そして、その上でキチンと全てのことにケリを付けなくちゃいけなかったんだ。

 なのに僕は、記憶が無いことを言い訳にして、曖昧な態度で二人の女の子の間を中途半端に行ったり来たりして、結局二人とも傷つけてしまった。

 こんな、しなくていい罵り合いまで二人にさせてしまって、その上修羅場だったら面倒だなんて思って、隠れて二人の様子を窺っていた。


 最低だ……。

 僕は塔屋の扉から、屋上へ一歩踏み出した。そのとき、俯いたまま桜井さんがぽつりぽつりと、呟くようにまた話し始めた。


「あたし、浩貴くんが事故に遭った後、心配で浩貴くんの家に電話して聞いたんだ。浩貴くん、あの事故のとき、頭なんて打って無かったんだって。検査したけど、そんな外傷も記憶無くすような衝撃を受けた痕跡もなかったって。浩貴くんの記憶喪失は心因性の問題なんだって」

「え? 桜井さん何言ってるの?」


 思わず僕は足を止めた。朝野さんと同じく予想外な桜井さんの台詞に戸惑ってしまう。

 桜井さんは一体何を言っているんだ?

 僕の記憶喪失が心因性? それってどういうことだ? どういう――


「確かにあたしは、ユミちゃんの言う通りとっても勝手だと思う。今は本気で、浩貴くんの記憶、戻らなければいいと思ってるから。でも、違うの。最初から、そんな風に考えてたんじゃない。あたしにとって都合の良い記憶だけ、取り戻してもらおうとしてたワケじゃない。あたしは、ホントにわからなかったんだ。完全に記憶が戻ることが、浩貴くんにとって良いことなのか、悪いことなのか……。浩貴くんが記憶を無くした理由を知っちゃったから」

「ヒロ君が記憶を無くした理由?」


 朝野さんはひどく不安そうな表情で首を傾げた。


「あたしは、悪いことだと思った。浩貴くんはやっぱり記憶を取り戻さない方がいいと思った。その方が浩貴くんのためだと思った。まさかそれで、今さら浩貴くんがあたしのことを好きって言うなんて思わなかったけど」

「どういう事なの? 桜井さん。さっぱりわからないよ」


 朝野さんは最初の気弱な態度に戻っていた。桜井さんは顔を上げるとジッと、そんな朝野さんを見つめ返す。


「ユミちゃん思い出して。ユミちゃんは思い出すべきだよ。何でユミちゃんはあのとき道路に飛び出したの? ちょっと注意すればトラックが近づいてることなんてわかったはずなのに、それでもなんで道路に飛び出したりしたの?」

「し、知らない……」


 朝野さんが怯えたように後ずさって、額を押さえた。ちょっと苦しそうに。

 どうなってるんだ? 桜井さんは一体何の話しをしてるんだ? 僕の記憶――朝野さんが道路に飛び出した理由? 道路脇の花束?

 僕もすっかり混乱していた。二人の間へ踏み込んでいくタイミングは、完全に見失っていた。


「もう一人、あのとき、あの交差点に女の子がいたでしょ? 小学生の女の子が」


 女の子……小学生の女の子――。

 前に見た夢の光景がフラッシュバックして来た。グルグル回る横断歩道と信号機と空。

 こっちを不思議そうに見つめている小学生の女の子。甲高いブレーキの音。

 頭が痛くなってきた。気が付くと、僕は頭を押さえて屋上へ転がり出ていた。


「ひ、浩貴くん!?」

「ヒロ君?」


 桜井さんと朝野さんの驚く声が聞こえた。でも、もうそれ以上僕は何もわからなかった。

 頭の中がグルグルと回る気持ちの悪い感覚に捕らわれて、意識がどこか遠くへ落ちていく気がした。




                <<< Plank of Carneades


 まさかOKがもらえるとは思わなかった。告白したのはいわゆる桜井に、ああ言ってしまった手前、けじめを付けときたかったというか、ただの勢いというか――まあ、要はそれでユミとどうにかなることなんて、これっぽっちも期待してなんかいなかった。

 なのにユミのヤツは、俺の「一番大事に思っている女の子は実はお前なんだ」なんてアホな告白に両手で口元を押さえて、何だか泣きそうな顔をしながら「わたしもだよ。ヒロ君もそう思っててくれたなんて嬉しい」なんて答えて来た。

 で、いきなり俺たちは幼なじみの関係から、恋人関係にステップアップしてしまった。不思議なもんだ。昔からずっと一緒にいたヤツなのに、こうなると何だか急に照れくさい。


 そして俺は、やめればいいのに、何か黙っておくのがフェアじゃないような気がして、この結果をわざわざ桜井に報告した。そして、また桜井を泣かせてしまって、ついでにまた殴られた。ナイスパンチ。

 そしてそれ以来、桜井とは口をきいていない。――当然か。


 俺とユミは家が隣同士と言うこともあって、昔から朝はお互い遅刻しない様に、どっちかがどっちかを迎えに行って一緒に登校し、帰りは別々、と言うのが自然と出来た習慣だった。それも、中学以降はほとんど無くなっていたけれど、それが今は登校も下校も一緒にするようになってしまった。毎日一緒に学校へ行って、一緒に帰ってくる。放課後、どちらかに学校で用事があったりすると、下駄箱で待っていたりする。

 休日だって一緒に過ごすなんて事は、ほとんど無かったのに、今は休みの日も一緒にいる。

 そんな微妙な変化で俺はユミと恋仲になったんだなあ、なんて実感していた。


「ねえねえヒロ君。春休みどっか遠く行こうよ。二人で」


 明日から春休みだった。高校一年最後の帰り道で、ユミはなんだか楽しそうに俺の腕を引っ張った。


「家族旅行なら行くだろう。相変わらず二家族合同の」


 俺のウチとユミの家はやたらと仲がいい。一年に一度は両家族一緒に旅行に行くし、花見だって一緒に行く。


「だからぁ、それは家族で、でしょう? 違うよぉ。ふ・た・り、で!」


 ユミは握った拳を小さく振りながら、二人と言うところをやたら強調しまくった。

 ふと気を抜くと、俺はユミと恋仲になったことを忘れてしまう。それだけ今まで近すぎたってことなんだろうけど。


「どっか遠くって、どこ行きたいんだよ?」

「えー、そうだなぁ、北海道か沖縄かなぁ」

「どっちも春休みの旅行には半端なチョイスと言う気がするんだが。大体そこまで遠出する金が無いだろうよ」

「夢が無いよ、ヒロ君」


 ユミは口を尖らせて不満そうだ。


「なんかもっと手頃で近場のマジカルランドみたいなところにしとこうぜ」

「そんな適当な名前の遊園地聞いたことないよ。どこにあるの?」

「ごめん、今、雰囲気だけで適当に言った」


 やっぱりユミは不満そうだ。

 田舎のこの街は、近くに遊園地なんて上等なものはない。恋人同士が遊びに行く手頃な場所なんて、何もなかった。田舎に住む不便さをこんな風に実感するなんて。何というか、むずがゆい気分だ。

 それにしても、さっきから道路を何台もダンプカーが走っていて、歩道が排ガスで煙い。丘を崩して住宅地用に土地を造成してるんだとか聞いたけど、こんな田舎に誰が好きこのんで移り住んで来ると言うんだか。そんなことするよりも、むしろ田舎の空気を守って欲しい。

 横では特に気にした様子もなく、ユミが海の方に出来たポートピアに行きたい、とか相変わらず楽しそうに話している。そんな調子で、俺たちはやたらと赤信号の長い交差点まで来た。


「どうせ、こんな道大して車なんて通らないんだから無視しようぜ」


 一分くらい車の通らない道路で信号待ちをした後、未だ赤信号の横断歩道へ俺が踏み出そうとしたら、ユミがそんな俺の腕を掴んで引き留めた。


「ダメだよヒロ君。そういうの。ほら、そこに小学生の子がいるもん。ちゃんと信号は守らなきゃ」


 ユミはこういう変にきっちりしたところがある。というか、馬鹿正直。でも、ユミが指さした向かい側の歩道には、確かに信号待ちをしている黄色い帽子の小学生の女の子が立っていた。

 確かにこう言うときは待つべきかもしれない。にしても、かったるいなぁ。

 そう思ったとき、一陣の強い風が俺たちの間を吹き抜けた。夕方になるとこの街は川の方から強い風がよく吹いてくる。砂を孕んだ向かい風を鬱陶しく思いながら、俺は目元を片手で庇った。

 道路の向かいでも小学生が風を避けようと身を縮めていた。そのとき、少女の黄色い帽子がふわりと宙へ舞い上がった。少女は慌てた様子で手を伸ばす、けれど届かない。女の子はそのまま、飛んだ帽子を追い駆けるように道路へ踏み出した。「危ねえな」そう思って小学生を注視した瞬間、風への警戒が緩んだ目に砂が入った。


「いってぇ、ちくしょう」


 俺は目を擦りながら、薄目で車が来ていないか慌てて左右を確認する。

「あ」とユミの声が聞こえた。気が付くとユミも道路に踏み出していて、「危ないよぉ」と小学生に呼びかけながら、道路の真ん中へ走り出ていた。

 馬鹿! 俺は焦る。アイツはいつもどこか抜けている。危ないよ、なんて言いながら、自分は全然左右を確認していない。そのとき既に、一台のダンプカーが坂道へ進入してきたことに、俺は気付いていた。


 この交差点は一方の道が急な坂道に繋がっている。ここを登ってくる自動車は坂道を登りきらないと交差点の様子が分からない。坂道を登った勢いのまま走ってくると、簡単に交差点内へ突っ込んでいってしまう。地元の人達はわかっているから気をつけているけれど、最近よく行き交っているダンプカーの運転手がそんな土地鑑を持っているかはわからない。

 ここからは見えていない道路の下り坂から、ダンプカーの走行音が近づいてきているのがわかる。


「なにやってんだよ! バカ野郎!」


 ユミに遅れて俺も道路に飛び出していた。二人の元に辿り着くときには、坂道を登り切ったダンプカーの巨大なフロントが俺のすぐ真横にあった。俺の目の前にはユミと帽子を握りしめた小学生の少女。二人の間には微妙に距離があった。二人いっぺんに道路の外へ突き飛ばすつもりで飛び出した俺は一瞬迷った。その微妙に空いた距離で理解したからだ。――二人同時は無理だ、ということを。


 周囲から音が消えていた。全てがスローモーションの様に感じた。まるで水の中を掻き進むような思いで、俺はゆっくりとユミに飛びついていた。ユミの肩を抱き、ぶつかったままの勢いで対向車線へ二人一緒に転がった。ユミの頭を庇うように、胸の中へ抱きかかえて、俺はアスファルトの上を転がる。空が、赤く光る信号が、黒いアスファルトに引かれた白線が、視界の中をグルグル回る。その中心で、不思議そうにこっちを見つめる女の子の姿が視界に映った。その姿が、横から高速で現れた影の中にかき消えた。


 世界に突然音が戻った。甲高いブレーキ音が耳をつんざいた。何か、とても生々しい厭な音を聞いたような気がする。地面を転がった俺の目の前に、ぼとりと白い赤い何かが降ってきた。

 それは小さな手のひらだった。

 真っ赤な血が、地面を這うように俺の元まで広がって来た。

 意識が遠のいていくのを感じた。


 俺は――俺は……




               >>>> Inner Would <<<<<<


 人は、耐え難い辛すぎる経験に対して、別の人格を自分の中に立てて、精神を守ることがあるらしい。嫌な経験をその人格へ押しつけたり、代わりに面倒ごとの始末を押しつけたりするために。


「そういうことなんだね」


 僕の目の前には、鏡のようにもう一人の僕が立っていた。ワックスで髪を整えたような、僕とはちょっと印象が異なる、快活そうな姿の僕。俺、と言うべきなのかもしれない。


「我ながら情けない。自分でも俺が、そんなに心の弱い奴だとは思ってなかったんだけどな」


 目の前の僕はそう言って、気まずそうに鼻の脇を掻いている。


「君はあの事故のとき、朝野さんと小学生の女の子、どちらか一人しか助けられないと判断して、それで女の子を犠牲にして朝野さんを助けたんだね」


 それで女の子は僕の目の前で轢かれて死んだ。あの道路脇に手向けられた花は、その子のために供えられた物だったんだ。


「俺は罪の意識から逃れるために、何も知らない人格を作って自分の記憶を封印した。それで自分は心の奥深くにこもってた」

「僕は記憶喪失だったんじゃない。あの事故の後に生まれた存在だったから、何も知らなかっただけなんだね。初めから僕は記憶なんて物を持ってはいなかったんだ」


 そういうことなんだ。

 僕は自分の心が逃げた後の空白を埋めるために生まれた仮初めの存在。だから僕は、過去の自分の存在に恐れを抱いていたんだ。元の存在へ戻そうとする朝野さんのことを避け、僕を受け入れてくれる桜井さんを好いていたんだ。


「で、君はどうするの? 僕も君も全てを理解した今、これからどうするの? 全てを忘れてこのまま心の奥深くにこもっている? これから先もずっと僕として生きていく?」


 目の前の僕はゆっくりと首を振った。


「いーや、そんなわけにはいかないだろ。俺はユミのためにあんなことしたんだ。なのに辛い記憶のために、ユミとの思い出も全部まとめて忘れてしまう、ってんじゃ筋が通らないだろ」


 朝野さんのために辛い記憶も受け入れるのか。僕は、本当に朝野さんのことを愛していたんだな。でも、そうなると――


「僕と君は別の存在だ。君が戻ったら僕は消えてしまうのかな?」

「わからない。でもそうなるのかな。申し訳ないけど」

「いいよ、別に。なんとなく覚悟はしていたから」


 嘘だ。よくなんて無い。でも主人格の決断には逆らえない。何となく僕はそれを自覚している。僕が消えると言うことは、僕が僕として存在していた間の記憶も消えてしまうことになるんだろう。そうなると、心残りは――


「君が戻る前に少しだけ時間をくれないかな? 一人だけお別れを言いたい人がいるんだ」


 目の前のは僕は静かに頷いた。




                Parting Kiss >>>>>>>


 目を開くとそこは夕暮れに染まる白い部屋だった。僕が初めて目を覚ましたのと良く似た部屋。でもここは保健室みたいだ。


「浩貴くん!」

「ヒロ君!」


 二つの声が同時に叫んで、僕の顔を覗き込んだ。視界の右側に桜井さん、左側に朝野さん。どちらも心配そうな、ちょっと涙ぐんだような顔をしていた。


「大丈夫だよ」


 僕はベッドに身を起こす。二人の顔が同時にホッと緩んだ。


「あ、あのヒロ君? ひょっとして記憶が戻ったりとか?」


 朝野さんは僕が頭を押さえて倒れたから、それを期待していたみたいだ。


「もうすぐ戻るよ。だから安心して、朝野さん」


 朝野さんと僕が呼んだ瞬間、朝野さんの顔に落胆したような表情が浮かんだ。けど僕の言い回しが気になったのか、少し眉根を寄せる。


「どういうこと?」


 桜井さんの方が聞いてきた。桜井さんの表情はどこか不安そうに、寂しそうに見える。僕の胸が痛くなる。でも、もう時間は無い。


「朝野さん、ちょっと桜井さんと二人きりにしてくれるかな」

「え――?」

「お願い」


 朝野さんはちょっと不満そうだったけど、少しは真剣さが伝わったのか、渋々という感じに頷いて、保健室を出て行った。西日の差し込む保健室に僕と桜井さんだけが残された。


「浩貴くん? 一体どうしたの? ――もうすぐ戻るって?」


 桜井さんは不安そうに眉尻を下げて、胸の前で手を握っている。夕日の中でシルエットになったポニーテールの桜井さんは、何だかとても魅力的に見えた。


「美香。もうすぐ僕の記憶は戻る。もうすぐ僕はいなくなる。そうなったらきっと、僕が記憶を無くしていた間の思い出も、消えて無くなってしまう。きっと美香とのことも忘れてしまう」

「え?」


 桜井さんはよくわからない、と言う顔をする。


「僕は記憶を無くしている間だけ存在する、仮初めの存在だったんだ」

「どういうこと?」

「二重人格みたいなものかな? もうすぐ今の僕の人格は消えて、元に戻る」


 やっぱりよく分からないみたいで、桜井さんは難しい顔をしている。そりゃ仕方ない。


「ごめんね。美香のワガママ聞いてあげられなさそうだ」

 桜井さんがはっとしたように目を見開いた。その言葉で、感覚的に理解できたみたいだった。

「お別れ――なの?」

「うん。ごめんね。でも、僕は美香が一番好きだったよ」


 後ろの窓から差し込む西日が強まった。桜井さんの姿は黒い影になってしまう。もうどんな表情なのかよく見えない。僕は、そんな桜井さんのシルエットに手を伸ばして、そっと顔を寄せた。そのまま、そっとその唇に口づけする。

 最後に交わしたそのキスは、桜井さんの頬を伝ってくる雫でなんだかとてもしょっぱかった。



              Return to Days >>>>>>>>


「ヒロ君、おはよう」


 玄関から出ると、既に制服姿のユミが門のところで待っていた。


「ふぁ~あぁ」

「でっかいアクビ」


 挨拶代わりに出た欠伸に、ユミはちょっと不満そうな顔を浮かべている。


「しょうがないだろう。眠いんだから」

「だらしないよ」


 ユミのヤツは、いかにも低血圧で朝は弱いんです、って感じの女の子顔をしてる癖に、実際はとっても朝元気なのだ。


「なに? わたしの顔何かついてるかな?」


 じっと見つめていると、ユミはぐしぐしと手の甲で頬を擦った。無意味なことを……。

 通学路の桜はすっかり散っている。桜の木にはもうちらほらと葉が付いていた。


「お花見、行けなかったね」

「そうだなあ」

「旅行も」

「そうだなあ」

「ねえ? ちゃんと聞いてる?」

「そうだなあ」


 横から呆れたような溜息が聞こえた。

 なんだろう、この一ヶ月近い間、俺はどうなっていたんだろう。正直よくわからない。記憶も意識も曖昧だ。何か、あったらしいのはわかるんだけど。

 俺は結構ショックな事故を経験して、しばらく意識不明で入院していた。けど、三週間前には、目を覚ましていて普通に生活していたらしい。でも、俺にはここ数日の記憶しかない。

 医者曰く、俺は心因性の問題で目覚めた直後は記憶を失っていたのだけれど、その問題が解決されて記憶を取り戻せた、ということらしい。でもその後遺症と呼ぶべきか、記憶が戻ったら今度は引き替えに記憶を失っていた間の記憶が失われてしまったらしい。

 なんだかごちゃごちゃした話しで結局のところよく分からないけど、まあ、とりあえず今の俺は正常に戻ったから問題はないらしい。

 じゃあ、そのあまり正常じゃなかった俺は、起きてから何してたんだ? 気になって仕方がない。でも、そのことは誰に聞いても、誰もちゃんと教えてはくれない。よっぽど変なことばかりしてたのかな? だったら相当やべーなぁ……。


 最近は遠回りして学校に通っている。だからちょっと、いつもより早く家を出る必要が出来てしまった。理由は通りたくない交差点があるからだ。俺が嫌な事故を経験した場所だ。

 一応その交差点の事故で俺が取った行為は罪にならないらしい。でも、そういうことは関係ない。気持ちにはやっぱり整理がつかない。しばらくはこうやってモヤモヤ生きていくしかないんだろう。

 大体医者の言う問題が解決したっていうのもあまりピンと来ない。事故の記憶は未だ心に重くのし掛かっている。一体何がきっかけで俺は正常に戻ったんだ? ――何か、不思議な夢を見た様な感覚が残っているけれど、俺自身何かが解決されたという気分はまったくない。


「やぁ! おはよう、安須宮くん」


 学校に近い通りまで来たとき、モヤモヤとした俺の思考を遮る様に、元気よく背中を叩かれた。びっくりして振り返ると、そこには桜井が立っていて、ヤッ、と俺の背中を叩いた手を挙げながら、無邪気な笑みを浮かべていた。


「あ、ああ。おはよう」


 俺は軽く戸惑って挨拶を返す。


「ひゅうひゅう! 朝からお熱いね、お二人さん。仲良くね~」


 桜井は軽く俺とユミを茶化して笑うと、軽い足取りで学校の方へと走り出した。ポニーテールの頭が、ホントに駆ける馬の尻尾みたいに揺れていた。あいつも朝から元気なヤツだ。

 それにしても――と、俺は桜井の背中を見送りながら、首を傾げる。


「珍しいな、桜井がわざわざ俺たちに挨拶してくるなんて。なんかいいことでもあったんかな」


 ユミの方へ首を傾ける。ユミは何故だか、ものすごく微妙そうな顔つきで俺を見返した。

 視線を戻したとき、ちらりと道の向こうで桜井がこちらを振り返った。さっきの態度とは裏腹な、なんだかとても寂しそうな表情で。

 俺が疑問に思った瞬間、桜井はすぐに前へ向き直ってまた走り出した。そんな桜井の目元で、何かがキラキラと朝日を反射させた気がした。


「あれ!? ヒロ君?!」


 突然、優美が戸惑った声を上げた。ビックリして見返すと、優美は困ったように眉を寄せて、俺の顔を指さしている。


「涙、出てるよ」

「え?」


 慌てて目元を擦ると手の甲が暖かな雫で濡れた。全く自覚なく泣いていたらしい。


 ――なんで?


 疑問と共に、俺は目を細めて再び道の先を見つめた。

 滲む視界の中に、もう桜井の姿はなかった。


読んでくださった方ありがとうございます。

この作品がネットへは初投稿になります。

短編を書いてみたい、と思って挑戦してみた作品です。恋愛メインで進みながら最終的にはミステリちっくな要素が混ざってくるという感じを目指してみました。

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