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飛鳥の蹴鞠

作者: まがりまめ

抜けるような青空に、ややほこりをかぶった鞠が、ぽーんぽーんとその身を揺らした。

時の権力者、蘇我馬子の建立の飛鳥寺での出来事である。


「それ!」


数人の男が円を組み、蹴鞠に興じていた。

庭で、数人が靴をはき、鞠を懸の木の下枝より高く蹴り上げる。

それを誰かが受け、地に落とさぬようにする貴人の遊戯だ。

普通、蹴鞠を行う場所を鞠壺または鞠庭と言い、七間半四方(約14M四方)が本式で、東北の隅には桜、東南に柳、西南に楓、西北に松を植えた。

平安末期以後盛んに行われたが、時は飛鳥、大化の改新の一年前の事である。

もう四半時は続けているだろうか、鞠を蹴り上げる面々の額にはうっすらと汗がにじんでいた。

参加者の年齢はまちまちであったが、その中でもひときわ熱心に鞠の行方を目で追っている青年がいた。

中大兄皇子、のちに社会に大きな波紋を投げかける彼はこの時齢十八。

一年後の自らの大業などもちろん知る由もなく、ただ漠然と世間の蘇我氏に対する畏怖と倦厭を感じ取り、どうにかしなければ、と思っていた。

しかし、今この青空の下で、そのような考えはみじんも頭にない。

うっすらと頬を上気させ、あちらこちらと気まぐれを起こす鞠の相手で手いっぱいなのだ。


「桜へいったぞ」


誰かが蹴った鞠が、勢いよく庭の片隅へと飛んでいく。

一番近いのは中大兄皇子で、もちろん彼はまるで子犬かなにかのように鞠を追っていった。

程よく鍛えられたしなやかな身体は、地面すれすれのところで鞠に追いつき、何度か足の上で泳がせると、彼は思い切り庭の隅、反対の楓の木の方向へと鞠を蹴った。

若者らしい、余力を感じさせる動きに、一同からざわめきがおこる。

鞠も見事にほかの男の足元に落ちて行ったので、一同はさらに皇子に感心の眼をむけた。

そんな周囲の視線を、皇子は時に誇らしげに、時に疎ましく感じるのである。

誇らしく感じるときは、良い。他人の視線が心地よい。心拍数が上がり、にわかに顔面が熱くなる。

が、疎ましく感じるときは、まるで他人の視線が肌にまとわりついて、全身をくまなく探索された気分になる。

自分だけ、その正体をあばかれたようで、腹立たしくなるのだ。

皇子がどちらの気分になるかは、まさに皇子のきまぐれで決定する。

たとえ同じ条件下でも、絶対に彼は同じ結論を繰り返さないであろう。

それほど、周囲の状況に依存せぬ体で、皇子の気分はころころと変化する。

しかし、一貫して烈しい性情の持ち主ではあった。

ひとたび熱中すると、なかなか冷めない。しかも、周囲を顧みることなく、進む。

そしてなかなか止まらない。革命者の性情なのだ。

鞠は再び落ち着きをとりもどし、各人の足先から空へとその身を遊ばせた。

まるで、整えられたかのように、おだやかにはねる、鞠。


「(つまらない)」


桜の木より中央へ戻った皇子はふと、そう思った。

綺麗に飛んでいく鞠、磨き上げられた技。

まるで事なかれ、と烈しいものを拒むかのような、整った呼吸。

なにもかもが、つまらない。

身体も温まってきた頃である。皇子の若い力は烈しさを求めていた。

今ならどんなに遠く、高く飛んで行った鞠でも、受け止められる。

いや、その倍の高みまで、蹴り上げて見せる。

穏やかなものなど許せない。いや、認めない。

体内で血がふつふつとわきあがるのを感じる。力が、全身からあふれ出る。

汗が、額からだらだらながれた。

ふいにざわり、と風が吹き、皇子のもとへと鞠がその身を投じてきた。

もし鞠に意思があったとするならば、着地地点の皇子のぎらつく目を見て、方向を急いで転換しただろう。


「(もっと烈しく!)」


鈍い音があたりに響き、鞠ははるかかなた、青空の中へと吸い込まれていった。


「あっ!」


思わず、皆が声をあげる。はたして、鞠はどこへ行ったか。

そんな中、一人青空を見上げずに、そそくさと柳の木の下にその身をかがめた男がいた。

彼は何やら黒いものを拾い、ついている埃をうやうやしくはらう。

そうして、それを持ったまま皇子の立っている眼前まで歩み寄り、片膝をついて捧げ持った。


「中大兄皇子、お靴が」


烈しく鞠を蹴り上げたと同時に、一緒になって靴も飛んで行ってしまったのだ。

あまりに鞠が高く飛んでいったのと、その前からの興奮で、皇子自身も気づいていなかった。

見れば男は今にも皇子の足をとり、靴の中に自らの手でおさめようとしている。

その手つきが本当に、尊いものに触れるかのような素振りだったので、思わず皇子はかがみこんでしまった。

とたん、視線が合う。

優しげな目だった。

あの手の動きと同様、皇子をまるで神聖なものでも見るかのように、やんわりと目を細めて見つめるのだ。

思わずはっとして、皇子は自然に、


「名は」


と聞いていた。


「中臣鎌子です。皇子様、お目にかかれて本当に光栄です」


皇子は

あるいは直感的なものを感じたのかもしれない。

その日のうちに、皇子と鎌子は深く語り合い、そして数ヵ月後にはお互いの胸の内をすべて吐露しあう仲にまで発展する。

二人はともに策を練り、ついに645年6月12日、乙巳の変をおこしてのさばっていた蘇我氏一族を滅亡においやるのである。

中大兄皇子と中臣鎌子が、出会ってわずか一年後の出来事であった。







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